はてなキーワード: 共通語とは
音楽に歴史を求めることが見られなくなっているので全文引用.http://d.hatena.ne.jp/taninen/20070203/p1
- 「音大生なら聴いておきたい100曲」が話題になっていることについて書いたエントリ(id:taninen:20070201:p2)に思いがけず反応があったので、乗りかかった船でもう少し整理しておこうと思う。
- 先に断っておくと、僕自身も音楽学部で学んできた身で、音楽について論じたり大学で教えたりもしているけれど、西洋音楽史の専門ではないし、研究や教育についてもかなり異なるスタンスを持っている。件のリストの前口上に対しても結構異論がある*1。しかしここでは僕個人の意見は脇に置いて、あれが一種の教養として求められていることを汲んだ上で、それがどういうものなのかを考えたい。
- まず、例のリストは「名曲百選」のようなものではない。それならそれでもっと吟味のしようもあるだろう(僕は関わりたいと思わないが)。そうではなくて、挙げられた曲は音楽的リテラシーを培うための、言わば「例文集」として集められていると考えられる。
- テクスト自体をきちんと読解することは大事に違いないが、その作品を「読めている」と言えるためには、それよりずっと多くの知識が必要となる。それが書かれた時代や社会の言葉の使われ方やものの考え方を抜きに、その文章が何を表現するために書かれ、またどうしてそのような文章になったのかを云々することはできない。
- 楽譜として残っている作品が演奏される際の表現のあり方については、考慮すべきことがあまりにたくさんある*2のでここでは踏み込まない。しかし作品(に今触れられること)が歴史の産物である以上、歴史的想像力は多かれ少なかれそこに介在している。そういうことに無頓着であること自体、ある種の特異なスタイルをなしてしまう。
- 音大で音楽史を教えるということは、以上のような歴史的な想像力を育ませるということを使命の一つとして負っている。そのための楽曲リストが作成されたのは、学生にそういう意識が足りないという危機感を物語っている。しかし、それは単に「音楽家たるもの名曲をたくさん知らなくてはいけない」というのとは別の話だ。(その是非はともかくとして)クラシック演奏家のエートスとして歴史主義を維持していくこと、それがあのリストには込められている。
- 端的に「音楽を楽しむ」という時、その楽しみ方の内実についてはあまり意識されない。特にこんにちでは、音楽はそれ自体でオートマティックに楽しませてくれるものとみなされるか、あるいは好みの問題で片付けられることが多いように思う。
- それに対して、もっと教養主義的な価値観のもとには「音楽はより良く理解されるべきものである」という理念がある。クラシック音楽は長らくそのような教養の対象として扱われてきた。歴史的コンテクストの中でこそ音楽が理解できるとする立場は、もちろん教養主義的な性格を持っている。
- しかしながら、音楽に歴史的想像力を求めることは、かならずしも後者のイデオロギーに回収されてしまうわけではないかもしれない。つまり、「端的に楽しむ」と思われている現象にも、ある種の歴史性が関わっていると考える余地絵は充分にある。
*1:クラシック音楽の用語や概念が万国共通語としての地位を確立しているという認識は、パラダイムとしてはすでに過去のものになりつつある。むしろ、その思い込みを押し付けることで見えなくなっていた概念の複数性・ローカル性をどうやって掬い取っていくかというところにこそ、近年の問題関心がある。すでにクラシック音楽の語法を身に付けた音大生の意識を高めるための方便としてなら、そのアナクロさも理解できなくはないけど。
*2:楽譜のエディションの問題、演奏家の系譜の問題、解釈スタンスの問題、演奏スタイル自体が持つ歴史性の問題、レコード化の影響などなど。演奏論は音楽学の中でも後手に回ってきた領域だけど、多分これから盛り上がる。
http://anond.hatelabo.jp/20081205045304
前のをかいたらBrittyさんが実践編として文法書と辞書を紹介しておられたのをブクマで知った。Collinsは、別の国語を勉強する時に初学用の教材として使ったことがある。見やすくて、なにより非常に実用的で、編集方針としてとても感心した。辞書でグローバルを勧めておられて、コロケーションが豊富とのことに、それをもっと早く教えてくれよと(たまたま別の英和を買ってしまっていたので(笑))。
でも、はてなのブクマのつき方を見ると、かなり初歩というか、諦めが全然足りない人が多すぎる(笑)。僕は外国語学習者としてはもちろん素人で外国語は苦手だけど、いろんな本を自分なりに読んで勉強して、気がついいたら3つ4つ外国語を知っている。そういう人間としてなんか言えそうに思う。
欧米の人が外国語を勉強する時、たいてい小さなメモ帳に単語や表現を書きつけている。これはいい方法だと思う。
ポイントは、いかにも単語帳然としたのじゃなくて、メモ帳を使うこと。というのも、単語や表現というのは、使われる場面や文脈にそって覚えられるべきで、かつそういうふうにしか覚えられない。いかにもな単語帳ノートは、そういうものをきれいに削ぎ落してしまう。メモ帳なら、あとで見なおすと書きつけた時の場面を想起しやすい。
たとえばハックルベリーさんのあの記事(http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081111/1226409288)。あれを鵜呑みにしてはいけないのはBrittyさんが指摘された通り。ああいう表現はハックルベリーさんの知人が言うからこそ味があったり面白がられたりするのであって、そのままぱくっても意味がない。
なら、自分なりにお決まり表現を作ってやればいい。時間稼ぎのための一言とか、しょっちゅう口に出てくる便利な表現とか。なんでもいい。自分なりのものを作れば、それが自然に味にもなり面白さにもなるだろう。どんなに初歩でも、言葉を使った瞬間に人柄が反映するものだ。
誤解されたくないのだが、これでも辞書の序文を読んで編者の熱い思いを受け止めるのが好きだ。ただ辞書には使い方がそれぞれあると思う。僕の場合は、まずパッと訳語をみて大体の意味を知るだけで鵜呑みしないことにしている。適当に自分なりに訳語を変えてこんな意味だなと受け取った方が、案外スンナリいく。あと、訳語そのものより、ちょっとした記号とかのほうがはるかに重要な場合がある。どこそこの方言だ、とか。
もちろん、熟語や凝った言い回しなどなど、ちゃんと探さなきゃいけない時は辞書をちゃんと読む。でも学者や難しい仕事ならともかく、普通に読んだり会話したりする分には、辞書はだいたいの意味しか教えてくれないものと割り切った方がいい。
上のと関連するが、共通語をつかうより、自分の方言で考えた方が外国語は理解しやすい。
身内にロンドンに長いこといて英語が完璧な人間がいる。この人が物語るとイギリス人の言ったことが全部方言になってしまう。コックニーだからというより、直訳ではない、こんなことを言いたいのだという感じまで伝えようとすると方言に変換されてしまうらしい。
指揮者の佐渡裕と朝比奈隆の対談で、佐渡いわく、オーケストラの練習で自分のイメージと違う音楽が出てきた時、外国ではオケにNO、NO!!と言えばいいが、日本語にいい言葉がないと嘆いたのに対し、江戸ッ子の朝比奈翁は、君は京都の人なんだから、上方言葉で、ちゃうちゃうってのでいいじゃないかと答えていた。
ヨーロッパ諸国語に関する限り、日本人は非常に有利。なによりラテン語のようにして勉強した英文法は、結構どの国の言葉にも応用ができる。しばらく英語から離れてみて、そして再び舞い戻った時、意外に語彙が増えていて理解が深まっているもので、これを活用しない手はない。
ヨーロッパの人がヨーロッパの言葉を勉強するのは、もちろん有利でもあるが同時に不利がある。というのも、似すぎていて混乱することが非常に多い。ヨーロッパのある語学学校の若い女の先生が、ねえ、受動態を理解してくれないのと泣きそうな顔をしていた。え、だって英語と一緒じゃないの?難しくないよというと、そりゃあんただけで普通はそうじゃないと返された。欧米人のレベルだってこんなものなのだ。
ただ、これには副作用があって、別の言葉を勉強している間、英語が出てこなくなる。たとえばドイツ語を勉強していると、1965年とパッと出されてもドイツ語は出てくるが英語が出てこない。ナインティーン、えーえーえー、フンダート(がっくり)という経験は誰でもあって、それは頭が悪いからではなく、ごくごく普通の現象だ。だけど、こんな副作用をこえる効果があるのだから、英語にこだわり過ぎるのも考えもの。
たしかモンテーニュだったかな。彼はラテン語の英才教育を受けていたが、にもかかわらずラテン語を読んで分からない部分にぶつかると、五分考えて分からなければ諦めて前に進むと随想録にあったと思う。この男前な潔さを見習いたい。所詮僕は外国人で、外国人として英語なりなんなりを使わざるを得ない。どんなに勉強したって限界はある。それに目的だって人それぞれ。ダメなものはダメと潔く諦める姿勢は、ときに必要だ。
ただそれでも、外国語をやる以上、それなりの好奇心あり、また向上心もあるわけだ。Kamikazeは自爆テロを意味するものとして日常語になっている国がある。戦争もテロもいけないが、外国語では人は死なない。敢闘精神と勇気を持って敵陣に突っ込み派手に自爆する心意気こそ、外国語学習の醍醐味だろう。
諦めつつ、大和魂をもって無限に突撃を繰り返しながら、最後は気長に成長を待たなければならない。それにはユーモアが必要だ。退屈な文法も、伝えたいことが伝わらないイライラも、ユーモア一つで救われる。日本人は静かでまじめとむやみに思われている。これはよくない。もちろんふざけたりおちゃらけたりすることはないが、真剣に冗談をいえばなんともいえないユーモアとなって、なんか知らないが笑えあえる。外国語学習の究極の秘訣は、実は笑いにあるのではないか。
(番外編)
何が正しくて何が間違いかってのは、僕らが日本語を使う時と同じように、外国語でも最終的にはあまり重要な問題でないんじゃないか。というかそんなことに臆していてはいけない。向こうの人だって外国語となれば、良くいえばそれぞれに特徴的な、悪くいえばてんでバラバラ無茶苦茶でも、健気にこなしている。だいたい方言のことまで考えたら、発音一つとったって基準がない。天才バカボンは偉かった。これでいいのだ。
あと男性諸氏は女とポルノは絶対に活用すべきだ。たとえ初学者でも、ポルノ小説だけは不思議に読めてしまう、これが。もちろん細かい部分や動詞の変化などは全く分からないが、それでも、ああこれはこーなってああなって、へへえ、と進んでいるうちに(もちろんまじめに文法も勉強しながら)、結構なじめてしまった自分がいたりする。
年寄りの昔話では、旧制高校時代から伝承されたというボロボロのエロ小説を回し読みし、それで英語の妙な表現や口語まで覚えたそうな。つまらない言い回しをネットでぱくるくらいなら、こういう努力の方を真似したい。
http://anond.hatelabo.jp/20081101122534
あの人の文を見て思うのは、独自語が多いと感じてしまう事。
実際は、彼の世界世代での共通語だとは思うけれど、はてな主流には通じない語を、時おり出してくるんだよな。
それで、誤解が生まれる。理解が阻害される。
思うに、下手に若いのだよね。
最終弁当のことだよね。
全く、そうなんだけどさ。あれはわざとやってるんだと思うよ。
ほとんど本能的に。コミュニケーションが苦手な人がやりがちな。防衛線はってるのよ。
理解されない、通じない、とか言いながら、一方で理解しづらい語を入れて
あらかじめ防衛線を貼っておくのよ。
だって全部が全部分かりやすい言葉で書いてしまったら
「通じてない」っていう逃げ道が作れなくなっちゃうもの。
適度に暗号化しないと、議論の逃げ場がなくなる。
まああんなん、バカしかひっかからないけどね。
問題は、弁当の暗号を理解できる人は、そもそも議論に参加しないという不毛さにあるんだけど、
弁当は「通じない人」相手じゃないと議論できない(しない)というパラドックスがある。
いや、別に弁当があの議論で言い負けてるとは思わないし、基本的には弁当の言う通りだとも思う。
しかし結論的に言うと、五十過ぎてブクマとかを論じるのはどうだかなとは思う。
あの人の文を見て思うのは、独自語が多いと感じてしまう事。
実際は、彼の世界世代での共通語だとは思うけれど、はてな主流には通じない語を、時おり出してくるんだよな。
それで、誤解が生まれる。理解が阻害される。
思うに、下手に若いのだよね。
隔世なら隔世で、見えないところで分からない語が飛び交うのは良い。
しかし、下手にはてな的で下手に近く見えるから、時おりの語を誤解する。
つまり、隔世がワンストップだから混乱する。各自CGIで辞書引きするなら問題が起こらないのに。
※ワンストップ:集約ページ。全自動化されたページによる集約や見える化と、それを使用した大々的な広告、集客。
※CGI:自前。自分で行なう事。また、個人での利用しか行なえないようにする事。
表記が発音とかけ離れてることが問題なのかなあ。それはフランス語も同じだけど、フランス語の発音が難しいという話は余り聞かないけどね。
要は、日本語の音と英語の音があまりにもかけ離れてることが原因なんじゃないの。そういう意味だったら、アメリカ英語からイギリス英語に移ると多少改善されます。
そもそも、あまりにも特殊な音韻体系と複雑なを持っている英語という言語が世界的に広く用いられていることがまず問題なんだけどね。音韻体系でいうなら日本語によっぽど近い言語の方が多数派なのに。イタリア語とかスペイン語とか。スペイン語が世界共通語ならだいぶ楽だったと思うんだけどなあ。
ネルソンのバーカ!
こちらの記事の作者です。結局、叩く人だけが残った。いつものパターンですね。そこで「書くんじゃなかった」と後悔するのもいつものパターン。ただ、この方のご意見に救われた気分になりました。
「はてな」とか「文章」とか、何かがおかしいのでは無いですよ。人間ならば「冷静に読まれていたものが、ある段階から斜めからしか読まれなくなって、何を書いても悪いようにしか取ってもらえなくなる。」というのは良くある事です。何かがおかしいのではないです。
それで苦しむ事もままあります。それが普通です。
どうもありがとうございます。あそこまで憎しみを集中的にぶつけられると、さすがに落ち込みかけてきたところだったので、もう一度考え直してみる気分になりました。
なので、もう少しだけ続けてみます。
ご丁寧な回答を頂けたことに感謝します。相手に一度腹を立てた後でもう一度冷静になることは私はなかなかできないことなので、見習いたいと思います。
そうした差別を前提として話を進められるのは「大阪人から見た埼玉県民の抑圧されたイメージ」の押し付けに感じられてげんなりするわけです。ましてそれを材料に東京人批判をするのは「可哀想な埼玉県民」のイメージを都合良く切り取って使われているようでなお一層気分が悪い。
後半について、他人を勝手に引き合いに出したところは確かに不快と言われても仕方ないかとは思います。その点は申し訳ありませんでした。
ただ、全体として「抑圧されたイメージ」とまで言われてしまうと、そのあたりは正直なところよくわかりません。東京人が埼玉人を抑圧できるほどの力を持っているわけはないからです。といいますか、私があの記事を書いたときに念頭に置いていたのは「大阪は民度が低い」というようなことを平気で口にするような程度の低い人たちであって、たとえば「地方を抑圧する支配者としての東京人」なんてことを書きたかったわけではなかったので。
どうして地域による限定のない『我々は、自ら「東京人」と呼ばれたがる卑屈な人間ではない』ではなく、何で埼玉ってピンポイントに限定したの?という話をしたのです。
正直なところ、特定の知人(複数)が念頭にあったことは否定できません。もちろん、その人たちが知っている埼玉人の全てではありませんよ。ただ、「東京は中央、地方は周縁」という図式を内面化している人はどこの地方にも一部にはいるわけでして、そういう屈折がどういう風に現れるかというとこれは地域の事情が関わってくると思うのです。関西だったらそれこそボケツッコミを強要したり、とかですね。
で、そういう「悪い例」は確かにどこにでもいます。ですが、「東京に対して卑屈、他地方に対して東京の威を借りる」ような輩いえば、やはり自然と東京近郊に多くなるわけですよ。その時点で埼玉と千葉と神奈川に絞られますが、神奈川の人は横浜や川崎に通勤・通学する人も多いので、例示としては千葉と埼玉の二択となってしまうわけです。
そういうわけで、誤解を避けるとなれば、この箇所は「その手の卑屈な連中はどこにでもいるものだが、そういう連中が埼玉や千葉あたりに来たりすると、他地方を馬鹿にする割には自分が『東京人』と呼ばれたがったりするものだ。世の中には『ダサイタマ』などという心ない言葉もあるが、自分までがその言葉と一緒になって自分の街を貶めていったいどうするのだ」とでも書けばよかったのかもしれません。これほど話題を呼ぶことになると知っていれば、もう少し書き方を考えたかもしれないのですが。
さて、次はこのお方。さらに邪推を深めてくださったようで、やれやれです。
そんな迷信を信じている人を「私は知らない」のです。
知らないとなればあなたが鈍感だと言っておきましょう。前にも挙げた例を再度繰り返しますが、テレビで何の断りもなく「アルタ」なんて言葉が出てきたりすること、あるいはネットで「じゃん」や「じゃね?」といった言葉を書き込みに使う人、こういう人たちがそのあたりの迷信に無自覚にとらわれているのでないとしたらいったい何なのでしょうか。
それから、テレビドラマでも漫画でも小説でもなんでもそうですが、方言をしゃべるキャラクターというのがどういう役柄を割り振られているか考えてみるといい。関西弁はがめつくて間抜け、東北弁は素朴、広島弁は不良、九州弁は武骨、ステレオタイプそのものではないですか。このような「方言は特殊なもの」という思考は、「標準語は普遍」という原理を無邪気に信じ込んでいなければ決して出てこないはずです。
言っておきますが、そういう輩はネットやテレビの中だけじゃないですよ。「訛ってる」云々というような言葉は私が実際に何度も言われてうんざりした言葉だから挙げているわけです。前回記事であなたは私のことを「狭い半径から得たネガティブな印象を積み上げた結果でしかないものを「東京」になすり付けている」と批判なさいましたが、それはあなたにも当てはまるようですよ。
あなたは京都・大阪・神戸・奈良を東京・横浜・千葉・埼玉と比較して「よほど個性が強い」と言っている。
「文化や言語に優劣などありはしない」のが発言論旨なら、上記の言説と矛盾していると気づくべきなんだよ。
京都・大阪・神戸・奈良をいっしょくたにするなと言いながら東京・横浜・千葉・埼玉をいっしょくたにしているのは何処のどいつだ。
「個性が強い」と書かなかったら「無個性だ」ということになるという理屈が理解できません。だいたい「個性が強い」というのはこの文脈の場合「文化的差異が大きい」という意味であって、関西の四都市の文化的差異は地理的環境がそれぞれ全然違うのだから当然生じるものですよ。だって、「関西」を「大阪」で勝手に代表させるな、と言っているのだからね。「東京・横浜・千葉・埼玉が一緒くたにできるわけがないのに、どうして京都・大阪・神戸・奈良がいっしょくたにできるのだ」という話ですよ。なんでこんなことまで、「リテラシー」を云々するのが持ち味の人に説明しないといけないのだか。
それと「関西人の傲慢さ」は実は自虐ネタだったりするって書いてるけど、それって「自分の文化を持ち込みしている」って事に気づいておこう。
わざわざ「蛇足」と断っている話を、無理に元の話とこじつけて語る姿勢が理解できません。だいたい、それが「自分の文化を持ち込み」といって非難されることだとしたら、誰も自文化について語ってはいけないことになりはしませんか。だとすればそれこそ、「中心」とされている文化への無条件的屈服を要求するものではないですか。
ついでに蛇足ついでに蛇足を重ねときますが、日本人は国際舞台で日本語で話すことを通常の場合許容されないのに、英語文化圏の慣習に合わせることを強要されるとしたら(アメリカンジョークで笑えとか)それは暴力的ですよね。共通語として英語を用いる場合は、日本的な話し方も許容されて然るべきです。同様に、日本語の共通語で話すからといって「突っ込み待ち」のジョークを言ってはいけないだとか、ジョークを言うならば関東風のジョークにしなければいけない理由だってどこにもないんですよ。通じないリスクは背負わなければならないけど、それを文化の強要とまで言うのなら、言う方が強要ですよ。
ま、ここはあなたにとっても本筋じゃないでしょうから、ここでこれ以上あなたを追及するのはやめておきますが。自分まで相手と同じことをしてちゃどうしようもないからね。
b:id:feather_angel うはwwwどっちがテラ被害妄想wwwあと、都市名書いてますって「東京」はどうなんのwww/感情こめて草一杯生やしてみました。関西いじめんなうわーんな記事なら援護もついたろうに他を貶す方向に出るからですよw
誰が誰をいつ貶めたんや、言うてみい。
だいたいお前どこまでアホやねん。「東京」のどこが都市名やないんや。まさか行政単位が東京は「市」やないとかそんな屁理屈捏ねるんと違うやろな。首都が特殊な行政構造になってんのは普通のことやろが。お前にとって「日本最大の都市」は「東京」やなくて「横浜」やったんか。「ワシントンD.C.」は都市とちごたんか。初耳やわ。
ブックマークとトラックバック、一通り読ませていただきました。あまりの反響の多さに驚いています。好意的な反応も悪態も含めて、ひとまずはどうもありがとうございました。
しかしそこで敢えて憎まれ口を聞くと、結局は半分ぐらいの方にしか理解して頂けなかったのだなあ、と思います。あの話を、東京やら関西やらが好きか嫌いか、とか、そういう話だと思ってしまった方がかなり多かったのは相当がっかりしました。そういう風に誤解されないように気をつけて書いたつもりなのに。
個別に返事をすると量が爆発するので、まとめてお返事することにします。ただし、論拠を示さず「関西弁は下品」だの「大阪は民度が実際に低い」だのと繰り返すだけの発言にはコメントしませんのでご理解ください。
まず、親関西(東京)の人にも反関西(東京)の人にもこれはあらかじめご理解頂きたいのですが、私が元記事を書いた前提には、
「東京であれ、関西であれ、その他の地域であれ、文化や言語に優劣などありはしないのだ」
という認識があります。元記事の趣旨はもっぱら、「東京こそが中心である」という思いこみへの批判でしたが、当然「関西は東京より優越している」という命題も全く同様の理屈で論破できることがおわかりでしょう。すなわち、「東京(関東)のローカル文化を特別視して押しつけるな」と言うからには当然、「私も関西の文化を押し売りする気はない」ということも表明しているつもりです。
そういうわけで、私に対して好意的な反応の中には「関西弁で書けばよかったのに」という意見もありましたが、これは私の立場に反するということをご理解いただきたいと思います。元記事でも述べているとおり、私が「じゃん」や「じゃね?」が嫌いなのと同様、関西弁を嫌う人もいることは想像に難くない訳で、それを押し売りするのでは全く筋が通らないでしょう。だから私はここでは共通語(元記事では「標準語」と書いたけれど、「共通語」が適切でしたね)で書いた。それが、日本語文化圏で公共の場でものを言うときの作法だと思うからです。同様に、私は自然科学の論文なら英語で書くでしょうし、無理に日本語で書こうとは思いません。そういう世の現状に対して言いたいことは山ほどあるけれども、です。ルールが気にくわないからと言ってルールを無視するという態度は私は取りません。
同様のことは、関西以外の一切の地域について言えます。私が「東京に対抗意識を燃やしている関西人」だと思った方がいらっしゃるようですが、そう思われるのは私としては不思議であり、不本意でもあります。関西弁が関東弁に劣るものでないのと同様、東北弁に優越するわけでもない。関西文化が九州文化に劣るわけでもないし、琉球文化に優越するものでもない。それはあまりにも当たり前のことです。
誰しも、自分の言語や文化を卑下する必要はありません。標準語との距離がどれほど離れていようと、それは僻地の方言などではありません。同様に、郊外の文化は大都市の文化に従属するものではありません。
こうしたことがよく理解されていないとしたら、その責任は別に東京だけにはありません。早い話、関西人にも傲慢な輩はいるでしょう。しかし私はそれにとどまらず、地方人の屈折した態度全体に問題があると言いたい。
たとえば今回の私の元記事に「関西人はよその土地でも平気で関西弁をしゃべる」という文句を言われた方がいますが、では、外国人があなたの地元で外国語をしゃべっていたら腹が立ちますか?それに腹が立たないとすれば、関西人があなたの地元で関西弁をしゃべろうとも、あなたが世界のどこの土地であなたの地元言葉でしゃべろうとも、誰も文句を言われるいわれはありません。それだけのことです。
こういうと「方言と外国語は違う」と言われそうですが、それは事実に反しています、とだけ述べておきましょう。詳しくは、たとえばロシア語とウクライナ語の関係、ドイツ語とオランダ語の関係などを調べてみられればそのあたりの事情がおわかり頂けるかと思います。
そういうわけで、皆さん、変な奴隷根性や、その裏返しの傲慢さはやめませんか。あなたの言語の価値は、「標準語」からの距離にあるわけではない。実用上は、日本語の共通語だとかあるいは英語その他の外国語だとか、そういった言語を話さざるを得ない状況ももちろん出てくるでしょう。しかし、それはあなたの言語が劣っているせいではないのです。
だから、お互いに意思疎通が負担なく可能な状況であれば、あなたがあなたの言語を話すことに何のはばかる必要もないはずです。逆に、東京で関西人同士が関西弁でしゃべっていようと、中国人同士が中国語同士でしゃべっていようと、それに文句を付けるのは、あなたが何者であれ、了見が狭いことではないでしょうか。
最後に、どうでもいいんですが、「関西人は傲慢だ」と言われる原因についてちょっと自覚があるので書いておきます。
これは大阪に限らないと思うのですが(私も大阪人ではありません)、関西では「負け惜しみ」を自虐ネタとして言うことがあります。一番わかりやすいのは、阪神の低迷期の阪神ファンの言動で、たまに巨人に勝とうものなら「勝った、勝った、また勝った、弱い巨人にまた勝った、勝たんでもええのにまた勝った!」とお祭り騒ぎをしていました。言うまでもなく、このセリフの真意は言葉の表面とは全く反対のところにあります。阪神ファンは「強い」巨人に勝ったから喜んでいたのであり、「勝たんでもええ」どころかどうしても勝ってほしかったから喜んでいたのです。つまり、このセリフは巨人を侮辱しているどころか、憎らしいほどの強敵として賞賛するための屈折したセリフなのです。その証拠に、阪神が強豪と呼ばれるにふさわしくなった昨今、このセリフは余りはやらなくなりました。
ただ、こういう言葉の表裏というのは案外通じにくいものらしいということは、私も最近実感しつつあります。ごく稀に、自虐ネタを言ったつもりが気まずい空気が流れてしまってとまどうことがあるのですが、「暗黙の突っ込み待ち」という文化が関西ローカルであるということを最近ようやく理解して、原因がわかってきたように思えます。私見ですが、関西で一番受けている部類の芸人が全国放送でまるではやらないという理由はこのあたりにあるのではないでしょうかね。
ともあれ、関西人(というか特に大阪人)が「東京なんて所詮あずまえびすじゃボケがぁ、わしらがほんまもんの西側先進国やぞ」とか言っていたとしたら、それは上記の通り、半分以上は負け惜しみの自虐ネタですので、あまり真に受けて怒らないでやっていただけると幸いです。
こんなことぐだぐだ書かずに「マイ・フェア・レディでも観たら?」とでも言えばよかったかな。標準語と首都方言の違いとか(もっともドイツ語なんかだとベルリン方言と標準語は全然違うんだが)、言語で優劣を付けることのばからしさとか、「民度」なんて概念のむなしさとか、あの映画を観れば一目瞭然なんだけれどね。
約一名、普段「リテラシー」が云々とかおっしゃってる方がこの記事にひどくお怒りのようで、言いたいことをちょっと書きかけたのですが、この人だけに反発するのも不公平な気がするのでやっぱりやめときます。元記事もこの記事も、真意は題名その他で強調している通りなので、それ以上に邪推をされる方と話をしても生産的とは思いにくいですし。
>確かに関西人も、関東出身者が「じゃん」とか「じゃね?」とかを関西で使うと一斉につっこみを入れるが、
>それは「標準語」を嫌っているからではなく、「関東弁」を標準語と勘違いして無邪気に使っていることに
>つっこみを入れているにすぎないのだが。
何人か指摘しているが、元増田の思う標準語(関東弁を標準語と勘違い)について。
元増田、何をもって標準語と関東弁の違いを判断しているのだろうか。疑問だ。
自分は東京者だが、東京以外の人と話すと「なまっている」といわれることがある。
これは自分の下町ナマリを指摘されての事なのですが、
下町で暮らしている者以外には判別が難しいようです。
そんな私から見ると「じゃん」「じゃね」あたりは標準語ですよ。というか共通語。
今は変化して??弁では無いと思いますよ。
それは言語としての特殊性じゃないよな。
経済的要因だろ。歴史的に東北アジアでは経済的にも政治的にも中国の存在が圧倒的で共通語は中国語だったし、現在は日本の近辺に経済的に均衡した国がない。つまり、日本語を積極的に学ぶ動機が少ないんだよ。これがドイツとフランスだったりすると、お互いの衛星放送なんかでお互いの言葉をちょっとずつ覚えてしまえば後々商売で役に立つことも多かったりするんだが。ま、今後の日中・日韓関係に期待するんだね。
たとえば他のいままで使った事のないような言語の国にいったとしても、
一週間ぐらいいればほんとうにちょっとした会話ぐらいはできるようになる。
でも日本にきてる外人さんはもちろんのこと、海外の人に日本語教えてくれっていわれてさ、
その教えることの困難なこと困難なこと。
おかしいと思わないか。君が相手の言語を学ぶのと、向こうが日本語を学ぶのとでそこまで致命的な落差があるわけないだろう。
要するにそれは学習意欲の問題じゃないのか。例えば君は「現地語で最低限の会話はできなきゃ恥ずかしい」と思っているが、大抵の人間はもっとずぼらで「いざとなりゃ英語で押し切ればいいだろ」と思っているとか。
それは全然そんなことないぞ。中国人からすれば日本語の方がだいぶ簡単だ。なにしろ語彙がかなり重なるんだからな。そして、アラビア語は印欧語とも日本語ともかけ離れた言葉だからどっちにしても難しい。
とりあえずあなた、頭の中のノイズが多すぎるしセグメントエラー起こしすぎ。
俺が「AについてはBだ。また別の話だがCについてはDだ」というと君は「AについてはDだと、ばかじゃねーの。そんなことを言ってるお前はEとかFなんだろ。Eなんて奴は馬鹿だしFに至っては最低だよお前は」とかそういう反応されてもまともに応答できないんだが。
とうとうAとかBとか言い出した。問いに対する直接な返答のない、君のプライドを取り繕うだけの形式議論には付き合いたくないんだけど。
もう、単に何とかの一つ覚えに根負けしただけであって
いや、相手が出した問いには答えようよ。クリティカルな問いを全部無視して、見た目新しい論点を次々展開し続ければそれで勝利ですか?
それ以上君は何を望んでるんだ?
簡単な話なんだけど。日本の古典が何か有用だというのなら、具体的にどう有用なのか示してみろ、と。で、その挙げた例が不適切だと思えば反論するし、それがただの一例で他にもあるんだというのなら他を挙げてみろというだけだ。
例えば、近代以前の知識人の書いたものを元々の形で読もうと思ったら古語の知識がいるだろう。その中には、例えば宗教的に価値のあるものもあるから、一般人レベルでも有用になることもあるだろう。そんな感じで攻めることは出来るんじゃない?
ラテン語とかエスペラントって知ってる?誰にとっても平等ってわけではないが、どう考えても英語より公平だよね?君にわかりやすい例で言うと、英語を強要ってのは全員にCOBOLを強要するようなもんだ。
別に何語でもいいけど、今はデファクトスタンダードで英語ってだけだろ? エスペラントにはエスペラントで批判があるわけだが、それはおいといて。
全プログラマが共通語としてCを話せれば便利だなと俺は思うよ。別に他の言語を使うなというわけじゃないし。あと、あちこちのプログラマがそれぞれの母語でしかドキュメントを書かなかったら結構困るよなあとか。
君こそ読んでない。「それに対して持ち出してきたのが、自分はドイツ語や中国語よりも英語の方が理解できるなんてチンプンカンプンな理屈だし。大英帝国やアメリカの経済支配がなければあんたは英語を教え込まれる機会もなかったということをもう少し想像した方がいい」。
いや、ちんぷんかんぷんなのはお前だって。そんな経緯なんぞ関係ないの。「ひとつの共通語があるということの価値」を俺は指摘してるんだから。
とうとう文体にケチ付け出した。投げやりな口調になってるのはお互い様だと思うがな。もちろん俺の意見だが?
植民地支配と侵略戦争をたかだか五十年でやめた日本人は、五百年続けてきた西欧人の十倍賢いのかね。それとも、西欧に学ぶためにあと四百五十年虐殺しろっていうのかね。
うひゃひゃ、バカだバカだ。ごめん、その方面は相手し切れんわw
俺の学歴なんか関係ない。単に、東大のレベルを君は理解してないといってるんだよ。知らないものをなんでそんなにエラそうに切り捨てられるのだ、と俺はさっきから聞いている。
俺の専門分野で、(ダメな)東大生に勝る仕事をしてるからなあ。優秀な東大生には負けるかもしれんが、優秀な高卒にも負けるからあんまり関係ないし。
これはひどいセグメントエラーですね。東大の話と古典の話をいつ俺が繋げたんだよ。あんたが、「東大をはじめ日本の大学でレベルの高い教育を行うのは金の無駄だからやめて欧米先進国様の本物のエリート(笑)大学に丸投げしろ」と言ったことについて俺は言っているのだ。
ぶれぶれなのはお前の頭だw自分がどれだけ分裂した論じ方をしてきたのか自覚してないのか。
あのさ、別になんの工夫もしなくても、日本に一杯ある大学のどこかは日本トップなんだよ? だから、東大レベルの教育ってのは、いつでも東大レベルなんだよ。
日本に世界最高峰の教育機関を作る必要はないといってるだけで、日本最高峰の大学があるのは別に構わないんじゃない?w
これも頭の中がひどすぎる混線ですね。どこをどう読めばそう読めるんだか。一番自然な解釈は、あなたはFortranを語ることこそが情報工学を語ることであると考えている、というものだがw
はあ。FORTRANを知らないっつーから、ちょっとくらいやっとけとアドバイスしてやっただけでなんで逆ギレしてんの。
で、どうあっても答えたくないんだろうけど、CとC++に具体的にどんだけのパフォーマンス差があると思ってんのお前? 都合の悪い質問を無視しすぎ。お前が最初に想定していた「低水準な処理も出来る数値計算に適した言語」って具体的になんなんだよ?
とりあえずあなた、頭の中のノイズが多すぎるしセグメントエラー起こしすぎ。
俺が「AについてはBだ。また別の話だがCについてはDだ」というと君は「AについてはDだと、ばかじゃねーの。そんなことを言ってるお前はEとかFなんだろ。Eなんて奴は馬鹿だしFに至っては最低だよお前は」とかそういう反応されてもまともに応答できないんだが。
そう思いたければどうぞご勝手に。もう、単に何とかの一つ覚えに根負けしただけであって、負けたわけではもないがね。経済効果の話をしたら君は道義性という全然関係ない反論をしてきたわけだし俺の意見は根拠なしに否定したわけだし。君は論拠があることとないことの区別がついてないみたいだからめんどくなってやめただけ。
まあ、議論は勝ち負けじゃないし、「文化の価値は経済的有用性でない」っていう命題(こっちの方がよっぽど主張するのが困難だと思うんだがね)を同意してくれるのなら、そっちの方がよっぽど俺の個人的信念に叶うのだからそれでいいよ、と何度も言ってるはずだが。おしまい。
それで、「文化の価値は経済的有用性でない」っていう、おそらく君が一番主張したい命題については俺は同意してるんだが、それ以上君は何を望んでるんだ?主張を通すことか?俺を馬鹿にすることなのか?
何語が共通語になろうがその理不尽はどこかで発生するだろ。
ラテン語とかエスペラントって知ってる?誰にとっても平等ってわけではないが、どう考えても英語より公平だよね?君にわかりやすい例で言うと、英語を強要ってのは全員にCOBOLを強要するようなもんだ。
お前が綺麗に読んでないフレーズをもっかい書くが、「たくさんあると大変だってのは、俺の英語習熟度とは関係ない議論だと思うがね」
君こそ読んでない。「それに対して持ち出してきたのが、自分はドイツ語や中国語よりも英語の方が理解できるなんてチンプンカンプンな理屈だし。大英帝国やアメリカの経済支配がなければあんたは英語を教え込まれる機会もなかったということをもう少し想像した方がいい」。
いや、ナマの問題に直面し試行錯誤して整えてきた軌跡が思想に結実してるということなんだろうが
「だろうが」って何だよ。君自身の考えじゃなかったのか。西洋思想が役に立つというのは。
あと、日本人も相当なことやってるわなあ。
植民地支配と侵略戦争をたかだか五十年でやめた日本人は、五百年続けてきた西欧人の十倍賢いのかね。それとも、西欧に学ぶためにあと四百五十年虐殺しろっていうのかね。
俺の学歴なんか関係ない。単に、東大のレベルを君は理解してないといってるんだよ。知らないものをなんでそんなにエラそうに切り捨てられるのだ、と俺はさっきから聞いている。
誰がやめろなんて話をしてるんだ? これ多分3回目くらいの指摘だけど。あと東大レベルの古典教育を一般化して語る意義がどこにあるのか。
これはひどいセグメントエラーですね。東大の話と古典の話をいつ俺が繋げたんだよ。あんたが、「東大をはじめ日本の大学でレベルの高い教育を行うのは金の無駄だからやめて欧米先進国様の本物のエリート(笑)大学に丸投げしろ」と言ったことについて俺は言っているのだ。
これも頭の中がひどすぎる混線ですね。どこをどう読めばそう読めるんだか。一番自然な解釈は、あなたはFortranを語ることこそが情報工学を語ることであると考えている、というものだがw
いやいや、一生懸命皮肉で遊んでる口調を作ってるのはわかってるよ。
君のことを「俺に理解できないものは役に立たないから止めてしまえ」厨だと思ったからからかってやろうと思っただけ。
撤回しなきゃいけないようなことを言って、こういいつくろうのが君の知識と知恵の使い方なわけか。
俺が遊んでるだけだってまだわかんないの君?
本論で負けたから関係ない方向に脱線して遊びを演出し始めた、のかな?
そこまでアホなんだとしたら、買いかぶりすぎてたかね君のこと。
習得を強要される他言語話者、特に非印欧語話者だけが多大な負担を強いられるのが理不尽なのは余りにも自明じゃないか。
何語が共通語になろうがその理不尽はどこかで発生するだろ。お前が綺麗に読んでないフレーズをもっかい書くが、「たくさんあると大変だってのは、俺の英語習熟度とは関係ない議論だと思うがね」
馬鹿ですか?欧米の「思想」が問題を克服したわけではない。問題に最初に直面した当事者である欧米人が問題を克服しただけだ。で、その仮定で欧米人はどれだけの数の植民地人を虐殺してきたことだろうか?それだけ悪いことすりゃそりゃ誰でも自分の過ちに気付くでしょうさ。
いや、ナマの問題に直面し試行錯誤して整えてきた軌跡が思想に結実してるということなんだろうがそれはいいとして。
で、もう一度書くが「日本の古典に何が出来るよ?」あと、日本人も相当なことやってるわなあ。
脳内一流大学はもうそれぐらいにしときな。こういう言い方は好きじゃないが、そんな言い方は東大出てからにしろ。線型代数も理解できない奴が日本の大学のレベルを客観的に捉えられる訳がない。
なんだ、結局学歴くんだったわけ? でも、たかが東大くんごときで偉そうにいわれてもねえ。毎年何百人も出るんだから、そりゃ優秀なのもいるだろうが、別にどってことないのもいっぱいいるわな。
誰がやめろなんて話をしてるんだ? これ多分3回目くらいの指摘だけど。あと東大レベルの古典教育を一般化して語る意義がどこにあるのか。自分が最初に主張してたこと完全に忘却してねえ?
へえ、今FORTRANを語る意義ってオタク的なものでしかないんだー。メモメモ。
で、お前はC++とCのパフォーマンス差が重要になるような数値計算仕事をしとるのか? というかどっちでも低水準処理は大差なく書ける訳だが(今のCはおおまかにいってC++の一部だしな)。
間違った部分を素直につくろうことも出来ないようじゃ、どんなに頭よくてもほころんだとこからビリビリ破かれるだけだぞ。多分地の頭じゃお前さんのほうが上なんだろうがな。
忠告しとくが、芸術に対して過剰な幻想抱きすぎるのも大概にしとけよ。どうも君が自分自身で絵や小説を描いたり音楽を演奏したりする種の人間とは思いにくいからね。自分の趣味がどれほど受けいれられにくいかということを知っている人間は、芸術に関して理想論を人に敢えて説くことには慎重になるのが常なんだが、君はその辺が実に甘い。
なにこの子。こんなんでも出れるんじゃ、日本の大学たいしたことねーなやっぱ(これは冗談)。
一つの例が一つの例以上のものではないということを理解できない相手であるということを見抜けなかった私の不徳の致すところでございます。
いつでも撤回できる一例に過ぎなかったのであれば、なんでさっさと撤回しなかったの? ていうか撤回しておいて何を食い下がってんだか訳分からんのだけど。
何度も申し上げておりますように、あなた様が金以外に価値を認めないネオリベだと誤って想像したためでございますよ。むしろあなた様は万国の労働者団結せよの方でございましたか。
ていうか、俺がどういう思想の持ち主であるかとお前の主張が正しいかどうかは単に無関係だろ。
(英語云々について、脱線していることに気づいてないようなので指摘しておく)
英語が世界共通語になることの意義は、英語が機能的にその地位にもっともふさわしいか、とは別の議論だ。いや、俺は別に他の言語でもいいと思うけど。
というか、お前は英語が機能的でないから英語帝国主義に反対しているのか? 違うよな?
つまりあなた様は、一歩前進するためには欧米先進国様との間を正確に一歩保ったまま、三歩進んで二歩下がる必要があるとお考えですので?
50歩くらいあけられてるから、下がる必要ないよねw
奴隷制度や人種差別を容認していた欧米先進国様の偉大な思想家はいくらでもいたように愚考いたしますが錯覚でございましょうか。
それを少しづつでも克服してきたのも、欧米の思想だわな。日本の古典に何が出来るよ。
そりゃ、お前さんみたいに天下りに反動思想を通したい奴は欧米にもいるだろうけど、抵抗する思想も欧米にはあるねえ。
即ち、外国にある本物のエリート養成大学からは本物のエリートが量産され、ジョージ・ウォーカー・ブッシュ閣下もその一人という理解で間違いございませんね?
だれが外国の大学を出れば全員エリートになるとかいったのかな?
そりゃいいとこの大学を出ても(出たのかな?)君のようにボンクラな奴はいるだろう。
俺は、優秀な奴が外国の一流の教育を受けてくれば、一流の成果が得られるだろうといってるだけだが?
私の知る限り、超一流大学でも超一流企業でもFortranを使わずに数値計算をしている人たちなどいくらでも多くございますし
数値計算に低水準処理が云々という寝言はどこへ行きましたか。レガシーな意味合いでFORTRANはきわめて重要な位置にあり、今でも環境によっては大いに現役で標準語だ、って事くらいは知ってるよな? 俺でさえ大学で一度は触ったぞFORTRAN。
数値計算の実習はFortranではなくCを用いましたが、これは恐らく私の幻覚だったということでございましょう、恐れ入りましてございます。
もしかしてFORTRANに触ったことない? そりゃモグリだわ。一度はやっときな。
で、Cも高級言語なんですが? つーか、C++とCのパフォーマンス差が問題になるような仕事をお前はしてるのか? いまどきその主張はちょっと時代遅れなんですが。
いや、そうじゃなくて。低水準な処理の意義を論じたいのならそういう舞台設定整えなきゃだめでしょうといってる。
総論賛成、各論反対、かな。たぶんあなたとは考えの根本は似てると思うんだ。でも結論が違う。
現在使われている言語(つまり、英語、国語、数学、あるいは今後は中国語なども)を習得することは、それ以外の学科を学ぶ基礎になるでしょ。だから、優先的に学ぶ必要がある。まず、国語の読み書き能力が無ければ、数学や理科社会も理解できない。
えーとね、俺はむしろ古文や漢文が「現在使われている言語」の特殊な一部分、あるいはその基礎を形成すると思うんだよね。数学や理科と似たような意味で、ね。
で、どういう分野かというと文学とか歴史とか古典芸能。というと、そんなの一部の人の趣味だろって言われるかも知れない。そこが俺は違うと思うんだ。この手の文化は観光資源というか国のPR材料だと思うのね。だから、どこの国も古典を国民に教え込もうとしてるんだと思うし、それは戦略として正しいと思う。
たとえばイギリスはシェイクスピア、オーストリアはモーツァルトでどんだけ金を儲けてると思う?世界中からファンが集まってくるし、関連製品を輸出することもできるし、専門家を派遣して国に対する好感度を高めることができる。勿論、イギリスのその辺のオッサンはサッカーに夢中なんであってシェイクスピアなんてのは学校で一部分を抜粋で教えられた退屈な作品の作者にすぎないはず。でも、シェイクスピアの名前すら知らないってことはないはずだろ。俺たちが誰でも源氏物語の存在を知ってたり、そこから「あさきゆめみし」なんて派生作品が現代でも生まれたりするように。そうすれば、シェイクスピアのファンはみんなイギリスシンパになるし、イギリス旅行をしたいと思うだろう。
というわけで、古典文化を学校で教えることは、商売のネタになると思うんだよね。少なくとも、「この国は伝統ある文化国家だ」と思ってくれれば、勘違いして敬意を払ってくれる人が増えるでしょ。それだけでも現在の商売に有利になるわけだしね。
ところで話は逸れるけど、国語や数学を教えれば理科や社会が独学でなんとかなるってのには賛成できないな。早い話、理科の実験は学校で絶対やらないといけないことだと思う。科学が机上の空論でないことは体で覚えてもらわないとね。
「選ばれた人」は、ある特定の価値基準で「選ばれた人」なわけだ。ある特定の価値観で競争したピラミッドの頂点にいる人が「エリート」。そういう人を生み出すための公教育なんて、くそ食らえだとおれは思ってる。
感情的には賛成。だけど、公教育も含めて国ってのは結局商売なわけで、国民に飯を食わせて安全を守る義務があるよね。特に日本みたいに資源もなく農業が弱体化した国は、外国にものを売って資源と飯を買ってこないといけないわけだし、国民を商売人として教育せざるを得ないのは仕方ないんじゃない?実際、日本を含めたアジア諸国で数学や理科を頑張って教えてるのは、それが商売のネタだからでしょ。
もっといえば、俺は英語なんて大嫌いだから本当は勉強したくないんだけどさ。言語学的にも英語というのは世界の言語の平均像と乖離した部分が大きいし外来語が多くて語彙体系が一貫してないしで、共通語としては日本語と同レベルに不適格だと思う。本当はラテン語(せめてイタリア語かスペイン語)あたりを共通語にするのが一番合理的だと思うけど、そんなこといったって世の中はおさまらないでしょ。だから俺は仕方なく英語を勉強するしTOEICの点数を上げようともするし、イギリス人の子供はシェイクスピアだのラテン語だのに苦しめられる。しゃあないんですよ。商売なんだから。
うーん、理屈ではあるんだけど、あなた自身が「英語や中国語を教えろ」って言ってたことと衝突しないかな。実際、英語とか中国語とか、それから高校レベル以上の数学とか理科とか、あとは歴史とか倫理とかでもそうだけど、学校で学んでも実社会で使ってる人なんてそんなにいないでしょ。
だからてっきりあなたは「世界で通用するエリートを養成するための基礎となる教育を」って言いたいんだと思ってたんだけど、違ったのかな。
「学校で教えられる文章なんて『古典』のなかのごくごく一部なんだ」とすれば、諸外国で知的権威として扱われるほどの『古典を読み書きできる能力』の習得は、今の学校教育に期待できてないってことだよね?
個人が知的権威として扱われる、とは言っていない。古典が知的権威であるって言ってるの。つまり、古典を知っているかいないかってのが、「教養があるかないかの踏み絵になっている」ってことね。そういう考え方がいいかどうかは賛否両論あるだろうけど、そんなことを言い出せば英語が世界共通語としてのファーストチョイスになってしまっているのはもっと問題があるわけで。
で、高校の古典を真面目にやってれば、日本の古典を原文で読むことは大した苦もなくできると思うけどな。少なくとも最低限の注釈があれば。
共通語に執着しているというより、共通語以外のスタンスが存在することを理解できない、という方が近い。言葉に執着する気持ちってのは、少なくとも生まれついての共通語ユーザには想像の外なんだよ。関西人の主張は、もしかしたら津軽弁ユーザや沖縄弁ユーザには共感されるものなのかもしれない、けど、共通弁ユーザには理解されない。いや、考え方を理解する以前に、そういう考え方が存在すること自体が理解されない。
理解できない、気持ちを想像すらできない考え方の存在を認める、というのは、異文化理解としてはなかなかレベルが高い。不干渉を貫くのは簡単だけどな。
のが理由なわけではない(少なくとも私に関しては)。関東の人が標準語だと称するその言葉には、明らかに東京弁が混入しているからだ。彼らは自分が標準語を話していると信じているが、実際には関東弁、東京弁でしかない。方言なのだ。標準語をきちんと話すことができている人間など、NHKのアナウンサーくらいではないか、と思う。自分も方言を話しながら方言を否定するその姿勢を見ていると、少し面白く思ったりもする。
気づいた。関西人って、共通語のことを「東京弁」って表現するね。
よく言われるように、元々共通語をしゃべっている人って、さほど多くないんだよ。東京生まれの東京育ち、あるいは一度東京圏で過ごし共通語を使うようになった両親を持つ子ども、この辺だけ。東京のことばというよりは、自分たちだけのことばを持たない人がとりあえず使う言語、という感じ。共通語イコール東京というイメージを持っているのは、それこそ大阪圏の人だけだと思う。
共通語を使う人は、とりあえず周囲で使われていた言語を使ってるだけだから、あまり言語に対する執着というものがない。関西弁を含む方言を否定するのも、「みんなで共通のことばを話した方が分かりやすくて便利なのに」という素朴な発想から出ていて、そこに押し付けって気持ちは存在しない。何せ、自分の話していることばも借り物だからな。わざわざ「押し付け」ようなんてモチベーションはそもそも湧かない。
で、自分(たち)にことばに対する執着が薄いから、特定の方言を話したがる気持ちと言うのが理解できない。「共通語を話せよ」と命令形で考えている人ってのはあまりいないで、「なんで共通語を話さないの?」という疑問系の気持ちを持っている人が多いのだと思う。
(アンチ関西弁の人も、共通語が好きなのではなく、単に関西弁が嫌いなだけな事が多い。一方、アンチ共通語な関西弁ユーザの主張を見ると、共通語への嫌悪よりも関西弁への愛着の方が強いように思える)
もしかすると、ことばに対してそこまで熱くなれる、というのは、方言を持たない共通語ユーザにとっては羨やむべき事なのかもしれない。まあ、そもそも「言語に執着する」という概念自体理解できないから、羨ましいと感じる事もないのだけれど。
TBSラジオ 月曜JUNK伊集院光深夜の馬鹿力 9/17放送分より
伊集院がオープニングからSONYのRollyについて20分近く語ったところをテキストに起こしてみた。
・抜けてるところも有るかも。
・括弧は筆者が補完した部分。
・一般人にむけて喋ってるのでもう知ってる話ばかりかも。
・伊集院はガジェットオタだけれども、Appleの社名変更やAppleTV,iPhoneのように発表後間を置いての発売事例は知らないっぽい。
・かなり長文ですがどうぞ。
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今週気づいたこと。
「ソニーが、ソニーが・・・時代の100歩先を行ってしまって、見失った。俺は。」
<<タイトルコール>>
Rolly見た・・・?
あのー、ソニーが、ひと月まで前じゃないか?何週間か前にソニーのホームページに、「Rollyっていうすげえの作ったからお前ら覚悟しろよ!」っつって、ね?アレなんつうのかな、何広告っていうのかな。いわゆる広告業界ではああいうやり方あると思うんですけど、「すごいの出る」っつって、そのフォルムみたいのを見せないわけ。
だから、ホームページには、「ソニーが音楽関連の新しい機械ですごいのを出す」っつってモザイクになってたから、俺は相当すごいのが、「すんげえ機能満載でモザイクなしでみせちゃうと他所に真似されちゃうのが嫌」なのか、「完全に女性器の形をしているか」のどっちかだと思ってたわけ。そういう機械が出るんだと思って期待してた訳です。まあ女性器の方を。
あんま見たことないんで。見たい!と思って。
んで、その後にちょっとソニーが不幸だったなと思うのが、「iPodキラーだ」って話が出たんだよね。ものすごい勢いで。これはついにソニーが、一番得意だった携帯音楽プレーヤーっていう、ウォークマンというジャンルはソニーが作ったわけで、それがどんどん進化して今のシリコンオーディオになってる中で、ね?
あれ、俺なんかかっこいいこと言ってね?DIMEに連載持てそうな感じの?でも連載の話が来たときには女性器そっくりの所しか、女性器そっくりのプレーヤー出ねえかな、ってので埋め尽くしてやりますけど。
ま、ソニーからしてみたら、iPodが世界を席巻してるのは、ソニーが作った「音楽を持ち歩こう」、「音楽を聴きながら仕事をしよう、町を行こう」みたいな、お家芸の部分を。それを、ずーっとこうアップルコンピュータにでかい顔をされてると。苦渋を、辛酸を舐めさせられてきた。そこでついにソニーがiPodを打ち負かせるようなものを出すんじゃないか、まあソニーは出すとは言ってないんだけどね、やっぱみんなソニーを期待してんだよね。
実際iPodで出遅れたけども、その後ソニーが作ってきたメモリーオーディオのやつ、メモリーウォークマンて名前なのかな?あれ。結構ソニーも追いついてきて、電池の保ちとかはソニーの方が全然抜いてない?とか、それから大きさ小さいのにビデオも表示できて、さらにはiPodのメモリー版が8GB出してきたらすぐにソニーが(容量で)追いついて、しかも再生時間がすごい長いとか、かなり追いついてきた感があるところに、ついにシークレット広告を出したから。
これ多分だけど、アップルコンピュータ(原文ママ)もびびったと思うんだよね。ていうのも今CMばんばん打ってるけど、アップルもiPodのラインアップを変えたんだよね。で、今まであったiPod nanoを形変えて、今まではビデオは再生できなかったんだけど、再生できるようにしたりとか。さらに、「あせったんだな」と思ったのが、Appleって基本的に「こういう画期的な商品が出ます」って言った日から買えるっていう、
今までAppleの親方が「おう、これだ馬鹿野郎、びっくりして座り小便して馬鹿んなっても知らねえぞこの野郎」っつって、「おう、みんな派手に餅を撒け、そういうとこケチるとゲンが悪いんだよお前よォ」っつって「建前じゃ建前じゃ!」っつってさあ、びっくりするぐらいババアしか食わねえような飴をガキにバンバン投げつけたりしてさ、「最後は三本締めで」なんつって最後は不審火で現場燃えちゃってっていう、そのずっこけ頭領の、あれ?おれ頭領の話してないよな?
そう、アップルコンピュータは発表があると、その直後からインターネットのAppleストアで買い物ができるわけ。今回も新型のiPod nanoに関してはすぐに注文受付になったんだけど、iPod touchっつったかな。アメリカで売ってるiPhoneの電話はつかないんだけど、ビデオは再生できるわ、今までの倍の容量あるわ、みたいなバージョンは発表したけど一ヶ月後の発売なのね。9/28ごろ出荷みたいな。今までのアップルは割とそういうやり方しかしなかったのに前倒しで発表したっていうのは、俺はRollyが怖かったんじゃないかと勘ぐっちゃうわけ。
少なくとも、Appleはそう思ってなくても、俺はそのニュースを見たときに、これは新しいiPodを、touchを注文を待とうと思ったの。なぜなら、このソニーのRollyについて、Appleはなにかしらの情報をつかんでて、相当警戒して今まではやらなかったフライング気味の発表をしてんじゃねえか?「Rollyが発表されたらうちのもの売れないんじゃねえか」くらいの危機感を持ってるんじゃないか?と思って、そうするとそのRollyってどんなんだ?と思って、俺はチラシの上に想像上のRollyを、もちろん女性器ですよ。で、かみさんに「あんた何描いてんのっ!?」って言われて「ローリーだよ!コレは!」なんつって、待っててさ。
で、ついに発表されるわけよ。
ホームページで。
そのRollyが!
で、・・・何アレ???
あのー、「買ったやつを指差して笑えるやつ」が出てさ。
いや、あのね、なんて説明していいかわかんない。
あの、今までさ、みなさんいろんなメーカーのそういう音楽をパソコンから落とし込んで聴けるメカを買ってきたと思うんですけど、だいたいさ、ポケットに一つ、肛門の中に一つくらいは入れてると思うんですけど。
今まで自分たちがそれに対して次の機種に望むものっていうのはさ、
いっぱい曲が入ったらいいなとか、
音質が良くなればいいなとか、
すごくコンパクトになればいいな、電池がもっと持てばいいな、とか
女性器そっくりだといいなとか、
明日の帰り道いきなり目の前に痴女が現れて俺の股間をすっごいもみほぐせばいいなとか、
お父さんが帰ってくればいいなとか、
いろいろ思う訳じゃないですか。
だけどソニーの考え方では、なんつうか、
(メーカーは)こうお客さんの思っていることを、こうキャッチするわけじゃないですか。
だからiPod陣営は小さいままビデオが見れたらいいなと思ったから新型iPod nanoでビデオ再生機能をつけたと思うんですけど、
ソニーはこう、「両サイドのフタがパカパカ自動的に開いたり閉まったりすればいいな」って思っちゃったんだろうね。
なんかね。ちょっと大きめのゆで卵みたいな形で、ラグビーボールみたいな形で、両サイドのところがフタみたいになってて、そこが音楽にあわせてパカって開いてそこがスピーカーになってたり、卵の中にジャイロというか重心を移動する装置が入ってるらしくて、音楽にあわせて勝手にころころ転がったりくるくる回ったりするって言う機能がすごい充実した代わりに、前のメモリーオーディオでは8GBあった容量を1GBに戻して、電池の保ちをすこぶる悪くするっていう、そういうものになったんですよ。
で、今考えるとソニーもちょっと弁護しなきゃなんないんで、言っときますけど、ソニーは元々iPodとかWalkmanとかとおんなじジャンルの商品として出すつもりは全然なくて。何か新しい、その、新しいけど、誰にもニーズが無いのは変わらないと思うけど、ジャンルとして持ち歩くもんじゃなくて。なんかプロモーションビデオが流れてるんだけど、ヤンエグの休日みたいのが、ソファーベッドに横たわりながらサイドテーブルでそいつがくるくる回ってるっていう、非常にうっとおしい感じのVTRがあんだけど。
なんだろあれ?で、なんかさ、いろいろみていると「狭い机の上は落っこちっからやめろ」みたいなことも書いてあるし。だからセンサーで、まあセンサーついて机から落っこちないようになったところで何だって話だけど、あのさ、今まであの音楽の、僕は音楽についてはLUNA SEA辞めてからノータッチなんですけど、音楽を聴いてて、「オーディオが踊ってくれたらどんなにいいか」って思ったこと・・・ある?
なんだろう、なんなんだろうか?あ、でもソニーで、一番最初にWalkmanが出たときみんなは、録音機能もない、ラジオもついてない、ちっちゃいかもしれないけどスピーカーもついてない、そんなラジカセっつうかカセットを何に使うんだ?って。それに対してWalkmanを作った男たちは、「そうじゃないんだ。外で音楽を聴く時代がくるんだ」と。で、それが世界を席巻したわけじゃないですか。
だから、そのときに、頭の固い、当時の俺たちみたいなやつが売れる訳ないよっつったけど、世界の共通語になったわけじゃないですか。だから何年か後の世界では「パカパカくるくるコロコロ」してることが、あり得るわけじゃないですか。何年か後には、あれを肛門に挿入してる人ばっかりの世界になって、大腸の中で今パカパカしてるってことになる可能性はあると思うんですけど。だけどなー。うーん。
ちょっと思うんですけど、PSP今度薄くなるじゃん。あれさ、PSP薄くなってほしいって思ってた?俺はさ、PSPの電池がもつようになれば無敵だと思ってたの。ていうか今も思ってる。だけど、今度のやつって省電力にした代わりに電池の容量減らしてそれで前と同じ時間ゲームができますってんだよね。俺はえー?って思うわけ。そこのニーズじゃないでしょ?
で、極めつけはさ、VAIOのさ、ゴーフルの缶みたいなのあんじゃん。丸いやつ。あれさ、あのスペース、余ってた?家に。あれを置くスペースが。なんかさ、みんなの家でパソコンを置くスペースって考えるわけじゃん。例えばさ、薄型テレビになって、テレビの上っていうスペースがなくなったから、例えば「薄型テレビの裏に張る、フックをつけてぶらさげる」とかなら、一番下の台のところは結局要るんだから、「あそこ空いてるじゃん、なるほど」って思うんだけど、今まであの円柱状のモノを置くスペースが空いてることってないよね?で、あの円柱を置くと、俺の性格的には、うめくくらい無駄なスペースが多かったりすんだけど。
今後Walkmanのときみたいに俺が「負けました」って言わされんのかな。「そんな常識的に考えたらわかるだろ、売れる訳ないよ」っていってて、後でみんなが「ころころかぱかぱ」してるところに俺だけiPod持っちゃってる日が来んのかな。ねえ気がすんだけどな。どうなんだろうな。
(Rollyを)買う予定の人に、なぜ買う予定なのかすげえ聴いてみたいなあ。
そんなこといいながら俺ソニー製品が嫌いなわけじゃなくて、やっぱり一時代有ったと思うのね。過去形じゃいけないのか。だから推測するに、もともとRollyは4万円くらいで出る予定なんだけど、もともとは30万くらいで、カパカパだけじゃねえものすごいいろんな機能を盛り込んだ機能を作るプロジェクトがあって、あのー、アメリカ人のCEOのときに採算のとれないものは撤退するっつって、アイボとかを止めたりしてたでしょう。だからそういうのことでもっと巨大なプロジェクトだったのに無くされるよりマシだとかで縮小してああなったんだとすると、あの延長線上に、手をかざすと音楽が鳴るとか、部屋の温度を感知して、その日の天気によってかけるBGMを変えるとか、もっとHDDを増設とかメモリーカードを入替えられるスロットが拡張できるとかってのがあって、それを削って削ってああなったんなら、まあいらねえけど、ソニーインサイドストーリーとしては合点が行かなくもないんだけど、そうだとしても決して明るい話じゃないよね。そうなったら終わりっていうか。
あのー、ぱっと見たときの俺の印象は、「タカラから3,980円で出るんだったらすげー買う」感じってわかる?エレクトリックおもちゃとして、「あー、すごいな。子供のおもちゃもこんなとこまでハイテクきたんだ。」ってそれで、タカラかセガトイズから出てさ、ハロのバージョンも有りますってんなら俺もびっくりしたね。まあ、高くて4,980円かな。それならすごいなって思うけど。
あれさ、すっごい楽しみにしてんのが、もっと発売が近づいてくるでしょ。そうするとmonoマガジンとか、DIMEとか、日経トレンディとかデジモノステーションとかあの辺に、出てくると思うのよ。インプレッションが。
その担当になったライターさんたちはがんばって褒めると思うのよ。だってさ、そういうグッズが好きでしょうがない人がやってるけど、そこは嘘はかけないし、かといって過度に悪くもかけないじゃん。その微妙な線をすごいがんばって、この業界用語でいうところの「血涙振り絞ってやっつけてくる」と思うのよ。で、そうすると、「僕が昔、箱根に行ったときに温泉卵を食べて・・・」とかっていう話が、全部で半ページの記事の前半が「地獄谷で食べた温泉卵があまりにおいしくて6個食べたところでさすがに気持ち悪くなった。そういう話があるんですが、ところで卵と言えばソニーのRollyが、」みたいな記事で、Rollyのところ4行くらいで、「欲しい人にはたまらない」で締めてあったり。「ソニーファンは検討に値する」とかね。「担当Y」とか、お前名前書かないのか!みたいな。その辺はまあ見物だよね。
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http://anond.hatelabo.jp/20070822014328
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E4%BA%BA%E7%A7%B0
ドイツ語では、一般的な"Sie"(敬称)と、特に親しい時(親称)の"du"の区別があり、スペイン語にも一般的な"Ud.(Vd.)"(敬称)と、特に親しい時(親称)の"tu"がある。フランス語その他のヨーロッパ系の言語でも同じような使い分けがある。
おそらく、各々の言葉の背景に隠れている『人間関係のあり方』といったものが劇的に変わらない限り、僕たちは「相手を呼ぶのに最もふさわしい呼び方」を、いちいち考え続ける羽目になるのだろう。
つまり、日本語で思考するということは、「相手と自分との相対的な関係を、つねに考慮に入れる」という思考形態に囚われ続ける、ということでもある。
そしてそれは、いわゆる「お役所言葉」の大半が、『「主語・主体」が何なのかが曖昧』な文章だらけになるのはなぜか、という事にもつながってくる。