なぜ日本でFPSが流行らなかったかといえば、制作されるのがチーム対戦ゲームばかりだったからである。
チームで勝つためのセオリー・規範の確立は、参加者を隷属させ、そこには「労働」が現出した。
普段から臆面もなく雑に働く欧州人にとっては「労働」がレジャーたりえるのであって、
日本人はさような「労働」に無賃休日出勤するほど殊勝ではなかっただけである。
かつて唯一の希望があったとすれば、ArenaFPSが1on1路線の重大さに気づいていればよかったのである。
しかし、数ある対戦モードの一つ、余興の一つという扱いを辞めるべきで、
覚悟と決意をもって、FPSにおける個人対戦ゲームの道のりを進むべきだった。
個人参加なら「デスマッチ」でも「バトルロイヤル」でも良いというわけではない。
数ある群像の中の一人では、観戦コンテンツとして弱いのである。
無論、「チームデスマッチ」だの「キャプチャーザフラッグ」だの「サドンデス」だの「ドミネーション」だの「エスコート」だの、
「デュエル」にしても、遮蔽物ごしの駆け引きという消極的なシーンが多々見られる点はいただけない。
観客にしてもプレイヤーにしても、壁や景色を監視し続けるために、わざわざ休日を割いているわけではない。
格闘ゲームのように、対戦プレイヤーの位置は常に表示しても構わなかったのだ。
FPSにおいては、位置情報秘匿も駆け引きの内と、信じて疑わなかったところが限界だった。
防御を軸にした格闘の駆け引きと、回避を軸にした銃器の駆け引き、題材の根本的差異が生み出す限界であった。
マップ上に点在する武器やリソースを拾い集めるというArenaFPSのコンセプトは、それに付随するものだ。
そうでもしなければ、有利なポジションで銃を構え続けるだけなのだから。
怠惰なFPSプレイヤーたちを動かすために、ゲームデザイナーはエサをバラまいて釣らなければならなかった。
だが、その涙ぐましい工夫でさえ、リソース差をつけて、まだ何も拾っていない丸腰に等しい相手を蹂躙し続けるという、
観戦に堪えないシーンを産み出し、それがテクニックや力量の証であるという開き直りに至る始末であったが、
もちろん内輪の人間以外に通るわけもなく、順調に衰退コンテンツたる現状に至っているわけである。
だが、日本の世間一般では格闘ゲームがesports・プロゲーマー第一号とされているとおり、その試みは歴史の闇に潰えたと見るのが客観的に妥当であろう。
その観戦のつまらなさと敷居の高さは内輪志向を加速させ、限界集落と揶揄される衰退コンテンツとなった。
私としては、個人対戦FPSが、プロスポーツのように、生計を立てる手段の一つとして勃興していてほしかった。
野球のダルビッシュ選手は「自分は価値がある人間じゃない、1番最初に野球のルールを作ってくれた人がいて、そこに自分達が生まれてきて、その才能がたまたまあっただけ」という。
FPS以外になんの取り柄もない私が生計を立てるには、FPSを通じて身を立てるのが自他共に最も幸福だろう。
しかし、そうはならなかった。
数少ない上位プレイヤーたちは、内輪の馴れ合いとゲーミングデバイス実演販売業で満足してしまった。
後からFPSにきた若者たちも、チーム対戦ゲームの限界に気づき、今ではゲーム配信者として、揃いも揃って格ゲーを嗜む有様である。
芽は、私が来る前に、とうに枯れていたのである。
スプラトゥーンめちゃ流行ってんじゃん
お前がFPS苦手だからFPSやってるやつが憎い、って書けば済む話だよね。こんなに文字数いる?
なんか凄い的はずれで一般的に日本人プレイヤーは世界的に見ても稀なレベルで義務・奉仕プレイするといわれている ヒーラーやタンクなんかの補助役をやる側の気質だよ