「物理学者は客観的現実が存在しないことを示した。これは量子力学から導き出された洞察だと言われている。実験的にも確認されている。」といった言葉に聞き覚えは?「もし、森の中で木が倒れ、それを聞く人が誰もいなかったら、それは音を立てるのだろうか?」
何を言っているのだろうか? ウィグナーの時代にも、量子力学で「測る」とはどういうことなのか、理解できないでいた。
量子力学の仕組みは、すべてのものが波動関数で記述されるというもの。波動関数の時間変化は、シュレーディンガー方程式で与えられる。しかし、波動関数そのものは測定できない。その代わり、波動関数から測定結果の確率を計算する。
ある粒子がスクリーンの左側と右側に50%ずつの確率でぶつかるとする。粒子がスクリーンにぶつかる前は、この2つの状態の「重ね合わせ」の状態にある。しかし一度粒子を測定すれば、100パーセントの確率でその位置がわかる。つまり測定後は波動関数が更新され、波動関数の「崩壊」とも呼ばれる。この「測定」とは一体何か?それが問題である。
ウィグナーはこの問題を、 "ウィグナーの友人 "として知られる思考実験によって説明した。友人のアリスが実験室にいて実験をする。ウィグナーはドアの外で待っている。実験室の中で、粒子は50%の確率でスクリーンに左か右にぶつかる。アリスが粒子を測定すると、波動関数が崩壊し、左か右のどちらかになる。彼女はドアを開けて、自分が測ったことをウィグナーに伝える。
ウィグナーは、友人が教えてくれたときに初めて、粒子が左に行ったのか右に行ったのかが分かる。つまり量子力学によれば、ウィグナーが何が起こったかを知る前に、アリスは二つの状態の重ね合わせの中にいると考えなければならない。
問題は、アリスによれば、彼女の測定の結果は決して重ね合わせ状態ではなかったが、ウィグナーにとっては重ね合わせ状態だったということである。だから彼らは何が起こったかについて同意しない。現実は主観的である。
どのような物理過程が測定を構成するのかを特定する必要があり、そうでなければ予測は当然曖昧になる。そして何が客観なのかについて判断できない。
なぜウィグナーはそれを心配したのか?なぜなら、量子力学の標準的な解釈では、波動関数の崩壊は物理的なプロセスではないからである。それはシステムに関して何か新しいことを学んだ後に行う、知識の数学的な更新に過ぎない。それは物理的な変化を伴うものではない。もしアリスが物理的に何も変えていないのなら、ウィグナーによれば、アリス自身は確かに重ね合わせの中にいたことになる。
2016年にFrauchingerとRennerが別の思考実験を提案し、物理学者が実験的な検証に近づいた。これは、"拡張ウィグナーの友人シナリオ "と名付けられた。FrauchingerとRennerは,2人のAliceが2人のWignersと測定結果について合意できない測定の組み合わせがあることを示した。論文は、他人の知識についてどんな知識を持てるかについて、いろいろと述べているので、やや哲学的になってしまっている。2018年、Caslav Bruknerがやや異なる視点からこの問題に目を向け、"観測者に依存しない事実に対するNo go定理 "を導き出した。
この定式化によって、測定結果におけるある相関の測定を利用して、拡張ウィグナーの友人シナリオにおける観測者が、実際には互いに不一致の測定結果を持っていることを証明することができる。もしそうであれば、ある場合には「観測者に依存しない事実」は存在しないことになる。
これが、「客観的現実が存在しない」という話の元になっている。難しい話ではなく、単なる線形代数の話であり、微分方程式すらない。「この定理を実証した」と言う人もいるが、独自の「測定」の定義を持ち出しているので眉唾である。
量子力学では、測定プロセスが何であるかについて矛盾した仮定をすることができ、そこからさらに矛盾が生じる。「測定」がなんであるかわからない以上、誰も「現実が存在しない」ことを証明していないし、実験でも確認されていない。量子力学は内部矛盾を抱えており、「測定」において物理的に何が起こるかを記述する理論に置き換えなければならないことを理解するようになったということである。