生きていたいわけでも今すぐ死にたいわけでもない。ホリー・ゴライトリーもそんな風に歌っていなかったっけ。
人生が緩慢に詰んでいく。それを感じながら生きている。ずっと待っているけれど、なかなか詰みきらない。
どう考えても今の仕事に自分が向いているとは思えない、といって他の何なら満足にこなせるのか、そうなれるように努力できるのかなんて想像もつかない(ただ生きているだけでもうクタクタで、そんな想像をする気にもならない。だから駄目なんだろう)。
仕事に限ったことではなくて、家族の構成員だとか社会の一員だとか、とにかく何についても満足に役割を果たせる気がしない。
職がどうとかの問題ではなく、そもそも生きること自体への適性が低いのだと思う。こういう非常にざっくりした悲観的な思い込みに陥ってしまうのは、たぶん自分が何についても真剣に向き合っていないからなんだろう。
とにかくただ生きているだけで毎日クタクタで、生理的なレベルで縛られていることやどうしても頭から離れないこと以外に心のコストを割くことができない。
きっと、他人に対する自分はおそろしく共感性を欠いた身勝手な存在で、関わらなければならないような関係の他人からすれば迷惑極まりないだろう。自分が色々なことに希望を見出だせないからといって、他人までぞんざいに扱うことが許されるわけはないのだ。自覚があれば許されるものでもない。弁解のしようもない。
別に自殺がしたいわけじゃない。自殺に失敗した場合は今以上に生きるのが苦しくなる可能性が高いし、自分の家族や元家族や職場に社会的なマイナスイメージが付与されてしまうのは気の毒だし(言いたい奴には言わせておけばいいじゃないか、とはさすがに言いたくない)。
そういう生ぬるい気持ちを吹っ飛ばすような原動力……例えば何かへの抗議や攻撃のために遺書を残して特別な場所で首を括るとか自分を燃やすとか、誰かの死に殉じるとか、そういう積極的に自殺というアクションを起こすための動機もない。
想像力が貧困な自分の思い描ける死後の世界のイメージは、やり残した仕事だとか遺品だとか自分の人生の後始末に迷惑させられている人々の顔ばかり。そんなことが気になるということは、要するに現世にまだまだ未練があるということなんだろう。本当に自殺を遂げる人は、きっと他人や死後の現世の諸々なんて飛び越えてしまうのだと思う。そういう意味では、積極的に死ぬことにも自分は適性が低いんだろう。
自分の想像できる範囲の世界が全ておしまいになってしまえば死後の憂いもなくなる? 妄想の中のこととは言え、他人を巻き込むのは気が進まない。無気力に生き続けることで間接的にたくさんの他人を害しているだろうに何を今更、とは思うけど。
生きていることの主観的な苦しさが飽和点に達すると、泡がはじけるようにこの世から消滅できればいいのにね。そんなことをよく考える。自分が消滅した後は自動的に他の泡がそれぞれ僅かに膨らんで、何事もなく世の中が回っていけばいいのにね。
自分の主観的な苦しさがなくなって、自分が存在することで他人に与えている迷惑もなくなって、自分がいなくなることで誰かを困らせるということもなく、そういう都合の良いことにならないかな……ならないだろうな。
やはり今の状況と自分自身をどうにか良い方向性に持っていくための前向きな努力をするべきなんだろう。他にできることというと、自分の意識のほうをどうにかするくらいなんじゃないだろうか。
生きていることの苦しさだとか自己嫌悪だとか、全て意識の表層に上がってこないように感覚を麻痺させて、死んだように生きる。自分(もしかすると他人も)の肉体を傷付けてしまいたくならないように、精神を部分的に殺して自意識のスイッチを擬似的にオフにして、余生をどうにかやり過ごす。
いずれにしても、いつかはおしまいになることなのだ。森茉莉も書いていた。どんな苦しい病気も死ぬことで終わる。
そうして怠惰な自分は、かれこれ15年くらいを半ば死んだようにして生きている。死ぬ理由はまだ見つからず、現世への未練は絶ちきれず、自分を変えることもできないままで。
残りの人生は数秒なのか数十年なのか。こんな風にゾンビみたいに無為に生を浪費していることを自分が本気で後悔する日はやがて来るのかもしれないし、来ないのかもしれない。
これで良いんだろうか、これで良かったんだろうか。昨日死んでおけばこんな今日を過ごすことはなかったし、今日死ねば明日は来ないだろうにね。
答えはまだ、出せないまま。