ここ数週間、杉田議員の発言をめぐるTwitterの反応を見ていて感じたことだけど。もちろん、ごく狭い観測範囲なので妥当性は低いだろうが、それをふまえて感じたことを書いてみる。
この増田を書いている私自身も「ゲイの成人男性」だが、もし「日常的に差別を受けていると感じるか?」と訊かれたら「いや、別に……」と答えるだろう。実際、ゲイであることで不快な思いをすることは少ないし、特に不自由なく暮らせている。しかし、それは私が「ゲイの成人男性」で、まだ20代と若いからこそ言えるのだろうな、と思っている。
どういうことかというと、第一に、ゲイはLGBTという面ではマイノリティに属するが、男性という面ではむしろ「強者」側に属するからだ。ほとんどのゲイ男性は「普通の異性愛者の男性」として日常生活を送っているだろうし、私自身もそうしている。なぜそうするかと言えば、「普通の異性愛者の男性」の仮面を被ったほうが生きやすいからだろう(この時点で、すでに「ゲイは差別されている」と認めているようなものだが)。
もちろん、レズビアンの女性にも「普通の異性愛者の女性」として生活しているひとはいるのだろうが、ゲイと異なるのは「女性である」という点だ。一概に決めつけることは避けたいが、日本社会において、女性は男性よりも不当な扱いをされやすかったり、ハラスメント行為を受けやすい立場にあると言える。であれば、レズビアン女性の場合、女性として受ける差別的言動に加え、LGBTとして受ける差別的言動という「二重の差別を受けやすい立場」にあると考えられる。
一方で、ゲイ男性の場合は「普通の異性愛者の男性」の仮面を被ってしまえば「強者」のふりをして生活できるわけで、そりゃあ「日常的に差別を受けている」なんて感じないだろう。
第二の視点として、若いうちは「ゲイであるがゆえの苦労・障害」に直面しないで済む、という点が挙げられる。たとえば、20代の男性ふたりが「ルームシェア」という名目で賃貸を契約することはそこまで難しくないだろうが、30代、40代、50代……と年をとるにつれ契約の難易度も上がるだろう。また、若くて健康なうちはよくても、法的な婚姻関係がない以上、どちらかが病気や事故に遭っても「身内」として関与することは難しく、病室に入ることすら許されないケースもある。最愛の人の死に目に会う権利すらないというのは、とても悲しいことだと思うのだが、若いうちは「若い」というだけでどうにかなってしまうので、これらの障害に気づきにくく、直面して初めて気づくことが多いのではないだろうか。
第三に、「成人」という点である。あえて「成人」という言葉を盛り込んだのには「経済的に自立できる年齢」という意味があってのことだ。経済的に自立できていれば、周囲から差別的言動を受けていても逃げられるが、成人前の小中高校生だと逃げることは難しいだろう。そう考えてみると「差別されてない」と言っている人は(本人が差別的言動を受けていたかはさておき)「環境を選べるだけの経済力がある」ケースが多いのではないだろうか。「いざとなれば逃げられる」という経済的余裕は精神的余裕にもつながり、心の防御力を高めてくれる作用があると思う。
以上、さしたるエビデンスもなく長々と書いてしまったが、個人的には差別解消のため、できることをしていきたいと思っている。自分自身の将来のため、という動機はもちろんあるが、大人として選挙権を持ったからには「まだ選挙権を持っていない下の世代」のためにも動くべきだと思っているからだ。