2024-10-05

また歩く

久しぶりに故郷に帰った。

就職を機に東京へ移り住んでから、色々な理由をつけて帰省を避け続けていた。政令指定都市の中心駅から数駅離れた、どこにでもあるような住宅街をしばらく歩いてみた。昔の実家は跡形もなく、土地の半分は道路に変わっていた。

新しくできた建物には違和感を覚え、昔からあるもの自分と同じように歳を重ね、朽ちていた。自分が生まれた頃から建っていたマンションが、今も建て替えられることなく当時のままの姿で残っているのには驚き、思わず近づいてみた。しかし、1階にあったスーパーは何年も前に撤退し、代わりのテナントも入らず、まるでゾンビ映画に出てくる廃墟のように荒れ果てていた。

自分が通った小学校中学校も訪ねてみたが、よく修繕されていて、記憶の中と変わらなかった。それがかえって面白みを感じさせなかったが、中学校の裏手にある海へ続く小道を歩いている時だけは、少し感傷的な気分になった。あの頃、一緒にこの道を歩き、放課後に海で遊んだ同級生たちは、今どうしているのだろう。

しかしたら、今も彼らはこの町に住んでいるのかもしれない。そういえば、あの家も同級生の家だった。もし彼らに子どもがいれば、もう中学生くらいになっているのだろうか。そんなことを思いながら、しばらく周囲を歩き回った。

歩きながら、ふと周辺の物件の値段を調べてみた。帰りたいわけではないが、ここに戻る選択肢があり得るのか?そんなことが頭をよぎる。しかし、その考えを具体的に描こうとすればするほど、現実味を失っていくのを感じた。

自分東京に住み、できるだけ栄えている場所に居を構えること。常に変化し続け、新しく生まれ変わる町から刺激を受け、自分も変わり続けること。そんな生活の意義が、まだ自分の中では強く感じられる。

自分必要なのは、新しい情報、変化、刺激だ。文字にすると子どもじみていて恥ずかしいが、どうやら自分はそういったものを求め続けているらしい。

WebSNSが普及し、昔よりも情報格差が少なくなったのは確かだ。しかし、その土地やそこに集う人々の精神性や将来性、そこからまれ選択肢の違いは、簡単に埋まらない。

いつまでも馬鹿みたいに、家を出たら目の前に広がる町を歩いて、何かに出会いたい。

そんな愚かさが、今回の帰郷での結論だ。

  • 東京に行くと東京で流行っているものに誘われて、それで日本で売れるものを作る。で、逆にそれをすることで、日本でしか売れないものを作っていることにわりと気づかないのではな...

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