12.5話の総集編見た。
https://www.youtube.com/watch?v=lAqqua14Kq8
テレビ放送の1話見て震えて毎回期待して盛り上がっていたが、9話以降でずっこけて、なかった事にしたかった者としては、ひとまずうまいまとめ方にした総集編でそれなりに納得できた。
しかし、これ観て改めて自分の中でこんな風な話ならよかったのに、という妄想が再度沸き上がったのでここに書きなぐっておく。
エネルギー問題の解決で世界が大きく変貌した事を見せてほしかったなー。
テクノロジーの進化と、生活の変化、人々の価値観の変化を群像劇として見せたら面白い描写山ほどできそう、
逆にワムに頼らないアーミッシュ的な団体の反対運動派がいるとか、でもその運動も下火になりつつあるとかね。
で、サンサは正直この作品にはいらない気もするけど、あれを出すなら、多次元の自分が無限に選択や行動を変えてひたすら人生が分岐していくシチュエーションを受け入れる世界を描写して欲しかったなぁ。
カドの話の結論として、真道やザシュニナの存在や沙羅花がこの宇宙のファンであるというテーマである。「自分という存在やこの宇宙は唯一無二のもので複製や代理が利かない」という描写をするなら、サンサっていらないと思うんだよなー。
この辺の描き方のルールを厳密に決めないまま唯一無二の自分とサンサの両方を出すのはSFの食べ合わせとしては良くない気がする。
サンサを出すならば、いっそタイムリープものでよくある、無限の選択肢を個人が選べてしかも併存させられるって描写をやってほしかった。
そうしたら、人間自体の基本的な心理概念とかもすんごい所に行きそうだし、異方への転換を受け入れる人間も無限の可能性で出てくるので、話の描写としては難しくなるかもしれないけど、
やりようはあった気がする。
たとえば、物語を描写する軸としての世界では、サンサに懐疑的で進展に戸惑う世界を描写すれば良いし、他の自分の可能性がおぼろげにしか見えない選択肢の世界としても描写すれば良い。
で、明確に多次元の自分を感じ取れる人間は、ワムを作れる位レアケースとして描写すれば、話を追う側には納得感もある、例えば品輪博士は多次元の自分を感じられずに憤るけど、もともとのスペックが高いので、別の手段で何とかしちゃうとか、彼女が多次元を感じる事すら再度一般化させちゃうとか色々描きようはある。
総集編は「唯一無二の自分」をテーマに再編集されたけど、個人的にはこの概念すら覆してくれるSFをテレビアニメで見たかった。
いくらでも替えが利いて選択肢は無限に広がって行く可能性をサンサで示されたら、人類はどう行動するか?
で、宇宙の外まで自らの意思で広がって行く世界と並行して、今と変わらない世界を選択する世界を同時進行で進めて行く様な描写を見たかったよなぁ。
で、その辺の葛藤もある物語の世界では、極めつけとしてナノミスハインが登場して、物理的な運搬や移動の制限がなくなって、これが決め手になって、結果、人類が数年で宇宙に広がって行き、テクノロジーも指数関数的に進化する。
でも、唯一無二の自分を大事にする徭沙羅花はカドの到来する世界を嫌い、カドの影響が最も少ない宇宙に移動して、カドの登場しない世界でのんきに生活するとか、そんなんで良いとおもってる。
ましてや、子供が出てきてデウスエクスマキナで終わらせるなんてもってのほか
それをやるなら物語の中の一人でも、人類全員でもいいでので無限の彼方まで行ってしまう事を描写して物語を締めた方がなんぼかよかった気がする。
人類が絹糸として収穫されるかと思ったら、その蚕に養蚕工場どころか、異方のさらに外の異方の世界まで人類に連れて行かれてしまったザシュニナが最後に悔しがるとか寂しがるとか
そういうの観たかった。
あと、個という存在も超越して欲しかった。この辺は幼年期の終わりとおんなじだけど、取り残された人類が個を超越してどっかにいってしまう人類を観測して欲しかったなぁ。