身体的な格差には健康面・容姿・運動能力・体格などの4種類が考えられる。
環境などの要因も考えられるが、努力によってある程度改善することができると考えられる。
練習を全くしなかったスポーツ選手の子供よりは練習をした凡人の方が能力が高くなるだろう。
しかし、同じ時間練習をした場合を考えると、スポーツ選手の子供のほうが環境的にも遺伝的にも有利ではないかと考えられる。
したがって、多少不利ではあるが克服可能な場合もある格差である。
経済力はどのような能力をもち、そしてどのような職業に就くかによってのみ決まるものであるので、個人の能力・努力による部分が多いと考えられる。
しかし、こちらも環境要因(親の経済力など)を考えると、親が裕福であるほうが有利であるのは明白である。
先天的な病気や障害などは努力によって克服することは出来ない。
健常者よりも努力をすることによってようやく同じライン、もしくは近くに立つことができる。
整形という裏技的克服も可能であるが、努力によって克服することは不可能であると考えられる。
筋力という面ではトレーニングによって格差を克服することは可能であるが、身長などは努力によって克服することができるものではない。
自身の努力でどうにかするには親を教育するなどの方法が考えられるが現実的ではない。
まとめてみると、自身の努力によって克服することが難しい格差が多いように思える。
しかし、良く世間的に取り上げられるのは「後天的な経済格差」についてではないかと筆者は考える。
もう少し克服が困難な格差についても考えるべきではないかと考えられる。
こちらは親に寄生(仕送りや実家住まい)しているフリーターやニートなどでが該当する。
「彼らが就職できないのは社会が悪い」というような論調で語られる場合が多いがそれは間違いである。
なぜなら、親の経済力が子供(成人)を養えるほどにもかかわらず、自身の能力を高めなかった、もしくは人生を正しく設計しなかったことによる後天的な経済格差であるからだ。
こちらは後天的な経済格差でもあるが、先天的な経済格差も抱えている。
こちらは努力をしなかったために後天的に経済的格差が生じていると単純に考えることは難しい。
では 親世代から受け継いだ格差を克服するということはどういうことか考えてみる。
健康面・容姿・体格・親の経済力などの先天的なものを努力によって克服することが不可能であることは前述した通りである。
では自身の努力によって克服する可能な「後天的な経済力」について考えてみる。
劣っている環境(道具やサポートなど)において、周りよりも努力をすることで克服することができる場合がある。
しかし、努力すれば努力するほど周りのライバルたちは優秀(勉強ができるという意味で)になる。
優秀な人間の親は裕福である場合のほうが多いのは、経済力と学歴の関係などからも明らかである。
したがって、努力すればするほど周りとの経済格差・環境格差は大きくなるのである。
これは、単にライバルの能力が高くなるだけではなく、その境遇・待遇・環境の差も大きくなるので、精神的に辛いものがある。
また、努力の結果収入の多い職業に就けたとしても、新人の給料は非常に低く設定されている(国内)ため、若いうちは同世代とも大した差は生じない。
若いうちは、努力をしてこなかったが、親の経済力がしっかりしているフリーターやニートなどのほうが経済力が上なのである。
介護や老後の蓄えが無いなどの状況により、親のための出費がかかると考えられるためだ。
したがって、後天的な経済格差を克服するためには、努力によって収入の多い職業につき、親の老後のお金もだしたうえで、経済力のある親の子供に勝利しなければならない。
これは非常に難しい。
なぜなら1世代のみの勝負ではなく、少なくとも2世代以上続く経済的な勝負であるためだ。
以上が求められている。
自分のために使われたお金の金額と、他人のために使った金額と努力の量で考える。
貧乏な親のもとで生まれ、努力の結果収入の多い職に就いた人間は、自分のために使われた金額は少なく、他人のために使ったお金と努力の量は多いのである。
しかし、裕福な親のもとで生まれ、努力をせずに収入の低い職に就いた人間は、自分のために使われた金額は多く、他人のために使った金額も少なく、努力の量も少ないのである。
したがって、自分のために使える金額というのは努力の量には比例しないのである。
いくら格差があろうと、不公平感があろうと機械のように努力しないければならないのである。
努力した結果、周りが裕福な家庭に生まれていようが、環境の差があろうと努力しなければならないのである。
努力した結果が普通な生活だとしても努力しなければならないのである。
実際は努力するだけではだめだ。
たとえ勝てる見込みが限りなく0に近くとも努力しなければならないのである。