二重国籍の問題自体は、まだ決着がついたわけではないが、現時点で振りかえって、ネットと既存のメディアとの対立について感じたこと。
いわゆるリベラルなメディアは、当初、二重国籍に関する指摘があった際、これを無視する。そのあと問題が大きくなると、党首の要件として「二重国籍は、大した障害にはならない」という主旨の記事を出してきた。とくに典型的なものは以下の記事。
「二重国籍は、大した障害にはならない」のであれば、指摘があった時点で民進党がわに事実を公表するよう促すべきだった。そして、蓮舫議員の二重国籍の事実が公表されたのち、自社の見解として、それは大した障害にはならない、と述べればいい。なのにそうしなかった。
民進代表選で蓮舫陣営に入っている一人は「日本で育ち、日本語をしゃべり、日本人として生きてきた。人を差別するような見方をしないでほしい」と話す。
将来的に外交に携わる可能性のある人物の選挙なのに、プライバシーの問題にすりかえることや議員自身の経歴詐称への批判はすでに出つくしているし、ここでは触れない。ここで注意したいことは、この時点では「二重国籍」であることはまだ公表されていはなかったこと。「二重国籍ではないか?」との詮索自体が差別で、やっていはいけないこととされていることだ。
いままで、伝えなかった事実について、それについて伝えたところで問題になるようなことか、と言っている。
いままで事実を知らせようともせず、伝えたところで問題になるのかと言い、他人の口を借りて、そのようなことを詮索するのは差別だ、と述べている。朝日新聞の記者は、こういっているのだ。「きみらに二重国籍かどうか、判断の材料は与えない。二重国籍だとしたら、差別主義的な判断をする恐れがあるからだ」と。われわれの正しい判断に従いさえすればよい、と。
「二重国籍」に対しては、外国でも見解は一致していないところが多いし、そのことを批判するのが、この文書の目的ではない。問題は、事実の公表により、聞いたものが自発的に判断し、開かれた議論が起こり、多様な意見が生まれることくらいは誰でわかるし、事実そうなったのに、この記事がそれに水をさす内容であったことだ。
「(二重国籍による)多様性を認めないのか」ということばで意見の多様性を抑圧し、「差別するな」といいながら、ネットで発言する人間の判断力を自分たちより劣ったものとみなしている、そう思われても仕方がない。
普通選挙で一部の人のみに許された政治的な判断をし投票する権利が全国民にいきわたったように、ネット・メディアの登場により、事実を探しだし、それによって政治的な判断を行ない、表明することが一部の限られたメディア以外でもできるようになった。
そして今、ネットと既存のメディアとの対立の本質。それはネトウヨ(右翼)とリベラル(左翼)といったイデオロギーの問題ではない。それ以前に、人々の自由についての問題だ。人々がマスコミや政党による限定された情報によって意見を誘導されることなく、自発的に情報を収集し、政治的な判断し、表明する自由だ。
たしかにネット上での現状では、ネトウヨに代表される危なっかしい議論も多い。さすがによく読まれている署名付き文書はまともなものも多いだろうが、この増田のような文書も含めると、九割近くはゴミクズだろう。いたずらに人を傷つける書きこみも多い。だからと言って鳥越俊太郎のように、これを否定していいのか?といったことだ。