ある程度遊んで、おいしいもの食べて、家族にも友人にも恵まれて、そこそこ楽しかった。
何も考えなさすぎて職にあぶれてるけど。まあこれは仕方ない。自業自得ってやつだ。
面接の志望動機で「この会社なら自分のやりたいことを叶えられそうだと思ったからです」とか言われてもざっくりしすぎて向こうだって困るだろうな。実際に言ったことはないけれども、それぐらいぼんやりとした輪郭で縁取られた毎日は味気ない。何となく過ぎていく24時間。
エージェントの人に「10年後どうなっていたいか」と聞かれて咄嗟に答えられなかったことを思い出す。
「溶けていたいです」なんて言ったらあの人はどんな顔をしただろう。名前は忘れたけどたまにドラマで見かける俳優にどことなく似た顔をしている人だ。お元気ですか。しばらく連絡しなくてごめんなさい。ちょっと、いえ、だいぶ落ち込んでいるんです。私って本当に何の取り柄もないんだなあと思ったらもうダメでした。自尊心ばっかり高くてバカみたいです。紛れもなくバカです。宛先のないメール画面を開いて、そう打とうとしてやめた。
BSをつけていたらドキュメンタリーが始まった。アラフォー女性の人工授精について取り上げていた。
2人の女性が登場した。ひとりは『男なんて』という気持ちだけど子どもは欲しい、と思っている女性だった。
彼女と同じような思いを持っているから痛いほどわかってしまった。男はいらない、子どもは欲しい。
毎日が何となく過ぎていく私のつまらない人生における暇つぶしのために子どもが欲しい。
夢は広がる。
育ててもらったように手をかけてやりたいし、自分と同じだけの教育を受けさせてやりたい。
私にしてもらったように育てるには、めちゃくちゃ稼ぎのいい旦那を捕まえて専業主婦になるか、一念発起してバリバリ働きまくって旦那に専業主夫になってもらうか、どっちかだ。既に後者は望み薄だから選択肢は実質前者のみ。
男はいらないと思ってるからそもそも結婚にはたどり着かないだろうし、シングルで私と同様の育て方・同等の教育を受けさせるなんて到底無理だし、何より暇つぶしのために子どもを持つとか動機が不純すぎて子どもが不憫だ。
暇つぶしのために生んだのよ、だなんていつかうっかり口を滑らせてしまいそうで怖い。
文学にありそうな言い回しだと我ながら思う。ちょっと気が触れてる感じの女の人のセリフ。でも私は文学の登場人物になる気はさらさら無く、現実のひとりの人間の心を枯らしてしまうなんてそんな畏れ多いことはできない。
人はひとりでは生きていけないという。
実際そうだろうと思う。誰かに頼らなくても生きていけると信じてた無知な私、カワイソウ。保証人ひとつ取っても結局誰かに頼らないと生きていけない。
先日、生まれたばかりの甥のまんまるい頬を見つめながら、せめてこの子が自立するまではしっかりしていたいと気持ちを新たにした。そのためにはどうにかして職を見つけなければいけない。
けれども、自分で人生のシャットダウンボタンが押せたらいいのにな、と思うのもまた事実なのだ。
誰かに迷惑をかけるようなことがしたいんじゃない。ただ、ある日突然、ふっと跡形もなく無くなりたいだけ。
贅沢病なのかもしれない。
まだ若い、まだ若いと思ってきた。しかし、25歳という年齢はもう若くないのだとどこかで感じている。体力が急激に衰えたというか、生に対する気力が少しずつ減っている気がする。
これが老いだろうか。認めたくないけどきっとそうだ。認めたくないけど。
もしトントントンとうまくいってしまったら恐らくあと45年ぐらいは呼吸を繰り返すのだろう。それも老いを受け入れきれないまま。
何だかゾッとする話だ。
毎晩、目を瞑る前に『明日の朝、目が開かなければ…』と淡く期待している自分がいる。
まぶたを閉じて襲ってくるのは黒い思考の波だ。それに身を委ねて私は考えることを放棄する。
やがて体全体がぐにゃりと柔らかくなり、布団を通じて床に染み込んでいく感覚にとらわれる。もちろんそれは錯覚だ。だから目覚めた瞬間にものすごくがっかりする。今日も叶わなかった、と。
空が白んできた。
特別予定のない、いつものつまらない1日が始まろうとしている。
本格的に街が起きた時には私という人間を構築するすべてが終わっているといい。
でもすべてが終わってなかったらエージェントの人に送るメールを考えよう。もしかしたらほんの少しだけでも心配してくれているかもしれない。
“お久しぶりです。”の後に続ける文章を書きながら溶けなくてよかったと思っておこう。
おやすみなさい。