はてなキーワード: 歌集とは
「どうして勉強なんてしなければならないの?」と親に聞くような子供だった。親も勉強が好きな人ではなかったから「勉強しなきゃ高校行けないわよ」と叱られて、私は漫画家になりたかったから「いい高校に進学する意味」もわからなかった。
いや、違う。私はただ勉強が苦痛で仕方なかっただけだろう。辛すぎて週に一度くらい泣いていた。学校も大嫌いで授業中も落書きばかりして過ごした。
だけど読書は好きだった。親が沢山買い与えてくれていたし、小説を読むのはとても楽しい。だからか国語の成績もまずまずで頭のいい友人に「〇〇に負けたー悔しい」なんて言われたりもした。そう言われるくらいには馬鹿で勉強もできなかった。
読書以外にも新聞を読んだりニュースを見ることが日課で、家族で私だけが見ていた。母はニュースが嫌いなのですぐにチャンネルを変えたがる。どうして嫌いなのか疑問に思った「〇〇ちゃんはニュースばかりみて偉いね」と褒められた。好きだから見ているだけなのに。
歌集を読んでいたら親戚に頭が良い扱いされて驚いたこともある。だって私はテストで五十点しか取れないんだよ? 頭が良いわけないじゃん。と言い返すと「頭の良さはそれだけじゃない」と「〇〇ちゃんは頭がいいし将来が楽しみね」なんて言われた。
やっぱり今も勉強は大嫌いだ。「やっぱり進学するべきだよ。君は馬鹿じゃないし」と親しい人にいわれることがある。もうあんな勉強したくないんだ。こりごりだ。
今でも思い出すたびに泣き出しそうになってしまう、どんなにやっても点数が伸びなくて、頑張って100点を取ってもクラスメイトに馬鹿にされたあの頃を思い出すと。
今は毎日好きな放送大学の講義を見て、週一で図書館に通い好きな本を好きなだけ読んでいる。最近は専門的な本をよく読む。この生活は学校に通っていた時より何倍も楽しい。
大学へ行けば何かが変わるのかもしれないけど、奨学金を借りていくには遅すぎるし、私の知能レベルならこれで十分に思う。大学へ進学したところできっと講義を理解できないだろう、私は勉強ができないから。
北海道帯広市の野江呉服店の娘として生まれたふみ子は、左乳房の切除手術を受けたが、
がんは転移しており放射線治療を受けるも1954年になくなった。
中城ふみ子が育った野江呉服店は、開拓地の都市のなかでではあるがかなり裕福で、
ふみ子を帯広高等女学校から東京家政学園に学ばせる余裕があった。
ふみ子の写真は多く残されているが、どこか気取っていて、
しなを作ったりポーズをとったりするものがほとんどだ。若いころは特にそうだ。
彼女は「プチブル」なのだ。「私はあなたたちとは違うのよ」とでも言いたげな、言い方が悪いが、
いかにも「成金」的な姿勢が写真からにじみ出ているようで、私はひどく嫌だった。
彼女の容姿はかなり整っている方で、それが彼女の「気取り」に拍車をかけているようにも感じた。
ほどなくして彼女は結婚し母となる。結婚は恵まれたものではなかった。
写真で「気取り」を見せることは少なくなったが、
「罪と罰」と捉える論者も多いが今回の話では割とどうでもいい。
この一緒に写っている女性は顔も体もでかくて(お笑い芸人のバービーに似ている)、
ふみ子と一緒に写ると自分のボリュームが強調されてしまうから少し下がって写りたい!と訴え出たそうだ。
今に残る写真では、この女性とふみ子の顔の大きさは同じくらいで、
病に侵され余命いくばくもないふみ子も、
この写真を取る際のやりとりには僅かにだが笑顔を見せたという。
この、弱ってボロボロになってたたずんでいるふみ子が一番好きだ。
彼女の可憐な学生時代も性の奔放さも、実は「プチブル」に担保された性質のように思う。
病は「プチブル」的なものをごっそりそぎ落とし、何かが残り写真に写っている。
歌人としての才はギリギリそぎ落とされずふみ子の手元に残った。
ブルジョアジーというものを、革命でも何でもなく、がんというこの時代の不治の病が打破したのだ、と私は思う。
一つの身体においての事例だが、近代の克服を自分の身体を削ることで成し遂げたのだ、と本当に勝手だけど思う。
冬の皺(しわ) 寄せゐる海よ 今少し 生きて己の 無残を見むか