はてなキーワード: 非情とは
「あれ、生暖かい」
時刻は深夜2時をまわっているというのに、さすがに真夏の熱気がまだレールに残っていた。
僕は線路に仰向けになった。
あたりはシンと静まりかえり、雲でぼんやりとした星空があった。
僕は自殺するつもりなのだ。
本当は綺麗な星空を最後に目に焼き付けて、そのまま眠りにつくはずだった。いつもこうだ、最後まで僕の人生は。
なにもない時間がながれる。
しだいに目がギンギンにさえてきた。
このまま、目が覚めたまま朝を迎えてしまうかも・・・と、不安が頭をよぎる。
「そういえば、もうすぐオリンピックだったよなあ」
実は、ひそかにサッカー日本代表に期待していたのだ。今回はけっこういいとこまでいくんじゃないかと。
僕はむくっと立ち上がった。
自殺はやめだ。
「集合知」と聞くと、なんだか「人類の叡智を結集した(何か)スバラシイ物」って感じる事がある。
そこで、いわゆるWeb2,0(笑)における「知」の一つひとつをウェブログが担うとすれば、日本のサイバースペースにおける集合知の中心は、国内最大規模のソーシャルブックマークサービスを「はてなブックマーク」誇るはてな村だとしよう。なんだか長ったらしい単語ばかりだが気にしないで欲しい。
いま、ディスプレイの向こう側にあるものが前述の「人類の(ry の通りに感じるか、と聞かれれば、そうは感じない。
少し前まではモテ非モテがどうこうとか彼女に勧めるビデオがどうこうとか(テンプレ的に文章が繰り返し使われてるのが、連歌的というかMADアニメ的というか)、誰がどう言った何はこうだ、一言文句を言ってみたり逆に自己批判してみたりと、なんとも人間くさいというか泥臭いというか、新書を読んで素晴らしい世界を夢見ちゃった高校生が描く理想像とはずれているかもしれない。
それでも、今目の前で起こっていることは、いい意味でも悪い意味でもとんでもないことなんだと思う。
なぜか。
いろんなところでいろんな人が言ってることだけど、これほど多くの、様々なジャンルの人々が、非同期的ではあるけれどリアルタイムに論じていることなんて、今までなかったからだ。
たとえば、没落エリートの出現―ビジネス社会から疎外される高学歴就職難民たちー - 女。京大生の日記。から湧き起こったエリート(エスタブリッシュメント?)とか学歴の論争について。
極端な話、私達が何か思ってこうして書き込んでみたり、反論してみたりすることで何かがすぐに変わらないかもしれない。「ああ、あの方々はとてもマッチョだからとてもついていけないや」とか考えるのも結構だ。
でも「今」、私達はそういった議論の場に非常に(非情にも)低コストで参加することができるのだ。テレビのニュースやバラエティを観て一言もの申したい、そんなことが「ここ」なら、「今」なら可能なのだ。
また、ウェブログが優秀な点は「批判される」ことだと個人的に思っている。本や雑誌を読んで、そこに自分の意見を書き込み(物理的にはできるけどさぁ)一般に広めることなんてできないが、「今」「ここ」なら可能なんだ。読み手としては、違った角度から物事を判断できて、思考する範囲が広がるのだと思う。頭使って情報処理能力を鍛えよう。
大事なのは想像力か、創造力か。例え借り物の議論だとしても、思考することは悪くない。マッチョな、または自分と同じような境遇の人の意見を聞いて、それとは同じ、正反対、ちょっと違った角度からの意見を参考にして、自分なりの意見を持つことはライフハック集を100回ブクマすることよりも創造的だし、それを書き込むことは泥臭い集合知をもっと泥臭く、いや豊穣な物とするんじゃないだろうか。野菜だって泥臭いた畑から採れるんだ。
たとえ今はディベートの様に洗練されていないとしても、それがきっと私達の行動を(少しは)より良くする物だと信じて。
散髪という名のギロチン台を書いたものですが、今回は喪男のまとめ切れない事。―障害者がどうしようもなく怖いの詳細表示とまぁ、気持ちは分かるんだけどさ…。を読んで思ったことを書きます。はじめに障碍の優劣で優越感に浸っているわけではないので。勘違いしないで下さい。
うーん。。ここで言われているのは知的障碍者の方々のことなのですが、僕も先天的な障碍(ショウガイ)をもっているので考えさせられる話ですね。でも同じ立場かというとそうではないわけで。障碍者って大きく分けると知性・理性の有無で区別することができると思います。僕も電車やバスで知的障碍者を見ることがあります。「ぞうさん ぞうさん ○ンコが ながいのね ○ンコー! ○ンコー!」と大声で歌っている方がおられましたが、僕は障碍者だけどそんなことを120%しないし言わないわけで、正直恐怖を覚えました。同じく障碍をもつ人間だけど何か違う!と正直に感じました。僕は時々何故障碍があるのだろうと答えを求めたりするけど(変な宗教は入ってないよ)、知的障碍者はそういうことも考えられないわけです。自分の置かれている状況(先天的、後天的な要素を含め)を冷静に考えられるかが重要なんだよね。
ここからは僕の考えです。知性・理性のある障害者は普通の学校に行ってもいいと思う。そうでない人間はやっぱり特定の施設・学校の方がいいと思うんだ。親のエゴや周りの同情に甘えて判断するべきことではないと思う。ただ知性・理性があるといっても障害者なので普通の学校でもちろん苦労するしイジメられることもあるだろう(実際僕がそうだった)。話それるけど、小学校の時って道徳の授業みたいなのがあって障碍者とはみたいな項目があったと思うんだけど、その時ほんと息を止めるぐらいひっそりとしてた。45分の授業があれほど長いと思ったことはないよ。辛かったなぁ。僕はここにいていいんだろうかと小学生が自問自答するんだぜ?こんな悲しいことってないよね。。ま、自分というものが嫌というほどわかるし学習もする。一般社会での自分の生き方みたいなものを見つけられるんだ。そんなヒトばっかじゃないだろうけどタフにはなれるんだよ。
なんで知的障碍者(上記の電車の話で挙げたようなヒト)は特定の施設・学校がいいのかっていうと、就職がむずかしい(ここでいうむずかしいは努力云々で解決できないこと)と思うし気軽にバイトでなんてもっとできないと思う。だから社会での生き方を普通の学校で学ぶ必要性がないし特定の施設・学校のほうが問題も起こりにくい。一般社会とは違った彼らなりの社会の常識を身につけていく必要があると思う。施設から出れば別世界だということを認識させないとね。その辺に中途半端な権利を求めるから怖いんじゃないかな。最近、知的障碍者が陸橋からヒトを投げて落とすなんて事件もありましたよね。
ただ、どこまでも非情になればいいのかというとそういうことでもないよね。人間じゃないと差別するのは間違っている。けど障碍があるヒトとして(僕も含めて)区別はしないといけないと思う。権利もあればそれに伴う義務(ルール)そして罪もあるということですね。重度の障碍者は何をやっても罪にはならないってのはおかしい。ま、あとは軽い気持ちで子供をつくらないこったね。親の方が問題あることも多々ある。障碍をもった子を責任もつ覚悟がないとダメージ大きいよ。親の精神ダメージ = 普通の子の場合 < 先天的な障碍を持った子の場合 < 後で学習障碍なの障碍がわかった子の場合
でも僕はコメント欄にもあったけどDQNの方が怖いです。だって知性・理性が大きく欠如しているんだもの。。やたら威嚇するし人間以外の動物だね。
長くてすみません。
『どんなに頑張っても何が「勘違い」で何が「笑い話」なのかわからない。http://anond.hatelabo.jp/20080713132425 』
へのお返事エントリ。
"manage"は「世話する・上手に扱う」というニュアンスの言葉です。
ですから「牛をmanageする」と言えば、これは牛さんが気持ちよく暮らせるように「上手に世話する」人、という意味になります。「わんぱく坊主をmanageする」と言えば、これは「上手にあしらう」ニュアンスが大きいですね。芸人さんをmanageするとか、野球部の選手をmanageする、というのもこれと同じ。
ですが、組織をmanageする、というと話はまた違ってきます。現場の人間を見るのでなく組織という巨大な獣の世話をするためには、場合によっては小を切り大を生かす非情の決断をせねばならない場合もでてくるわけです。事業をmanageする、というのもそうですし、野球「部」をmanegeする、というのも同じ。もちろん「野球部のmanageをする人」というのは、この場合野球部の『部長(生徒のcaptainではなく顧問教師や、場合によっては監督兼任の場合もある人のことですね)』になるわけですが。あなたが会社でmanagerなのだとしたら、あなたの本当の仕事はこちらなのではありませんか。もちろんその組織managementの一環として「現場の人間が働きやすくする」ことも必要かもしれませんが、それは「それがトータルで組織全体に有益である限りにおいて」という制限つきの話。
(例)たとえば、野球部選手のmanagerであるみなみちゃんは柏木監督(という名の野球部のmanager)に練習環境の改善を申し出ることもあり得るかもしれません。たとえば選手が疲れており今日これ以上の練習を続けることは選手のパフォーマンス的にプラスとは言えない、的な。それに対して柏木監督は、多少パフォーマンスが下がって次の試合に苦戦しても、野球部が勝ち抜いて最終的な勝利を得るためには今のこの練習が必要だと考えて結局鬼のような練習を課すかもしれません。両者(二人の異なるmanager)の立場の違いがもたらす指示結果の違いです。
というわけで、「みなみ」ちゃんの勘違いはいくつか有りますが、まず第一は俗に言う「野球部のマネージャー」が、本当は野球部に所属する選手のmanage役(すなわち選手のお世話人)なのに、「野球部のmanage役(野球部の部長職)」と勘違いしてる所です。もちろん書き手はその差を分かっていて書いてる(つまりそこは笑わせる所である)わけなのですが、両者の名前が同じで時に職分が重なるように見えるところが笑いどころでもあるのでしょう。もっとも、元の書き手も笑い話を通じて「managementとは何か」を真面目に分かりやすく書こうとしている(仮にあのエントリの主人公がとある田舎の野球部の部長先生であれば、ある程度正しいエントリでもあるわけで)わけなので、そのあたり誤解を与える微妙なジョークではあるわけなのですが。
次にもう一つ勘違いがあるのですが、それは彼女が野球部の「顧客」を「高校野球を応援する全国の皆さん」と定義してしまった所ですかね。もし本当に彼女が野球部のmanegementを担当する役職の人間なら、「高等学校の野球部」の顧客が学校の運営者と生徒の保護者であることは自明であり、もっと生々ドロドロとしたmanegement planに足を突っ込まなければいけないこともまた自明なわけだったはずなのです。
(例)実は、学校は予算的に逼迫しておりそろそろ理由をつけて野球部を潰したいと考えている、あるいはmanagerにそう指示しているかもしれません。あるいは保護者の間に「本当は進学に専念して欲しいので『悔いの残らないあたりまで勝って、良い感じで負けてくれたらいいな』的な空気」があるかも。その場合、managerは表面上熱心にmanageしつつも実は野球部が必ずしも勝ってしまわないように、間違っても甲子園に行ったりしないようにたとえば肝心の試合で主力が全力を発揮出来なくなるような練習や選手起用を選択しなくてはならないかもしれません。
まあそうするとあのエントリ自体が醸し出すお花畑的な雰囲気は成立しないし、みなみちゃんが柏木監督のようなどす黒いキャラにならざるを得ません。というわけで、みなみちゃんのその「勘違い」もまた書き手によって仕掛けられた第二のジョークであると考えるのが適切でしょう。
以上、ジョークの解説を横から勝手にやる、なんていう、自分のブログではとてもできそうにないことをやるために増田の場所借りてみました。失礼。
※友人がオタクについて語った文章が面白かったので、許可を得て増田へ転載。
以下、友人の弁。
オタクが現実の問題について考えるとき・語るときに陥らないよう注意すべき点として、オタクのなかに強く見られる論理と心理の問題を以下に例示する。
これはべつにオタクじゃなくても当てはまるだろうという指摘があるとすればそれはその通りだが、ここで対象をオタクに限定したのは、筆者自身がいわゆるオタクであり、オタクのなかに見られる論理と心理について、ほかの集団のそれについてよりもよく見知っているという理由による。したがってここで例示したものは、あくまでそれがオタクにおいて比較的傾向的に強く見られるという筆者の観察に基づいている。
カッコイイズム
「カッコイイ」ものに対する素朴なあこがれと肯定の心理。ここで言う「カッコイイ」ものとは、たとえば、強さ、正義、純粋さなど、ヒーローものやロボットアニメなどに典型的に表されている価値観。こうした「カッコイイ」という観念は、具体的な作品を通して、実体的なものと結びついている場合が少なくない。典型的には武器・兵器との結びつき。強さへのあこがれと肯定が武器・兵器へのあこがれと肯定になって表れる。とくに男性オタクの場合、幼少期の経験によって、こうした素朴な心理がほとんど所与のものとなっている場合が多い。
こうした心理が現実の問題に適用された場合、非妥協的で一方的な強硬論の主張として表現されることになる(ヒーローはその純粋さと強さでもって有無を言わさず正義を実現する!)。たとえば、オタクが対北朝鮮問題について一方的な強硬論を唱えたり、日本の安全保障について軍拡論(さらには核武装論)を唱えたりする場合、その中には素朴なカッコイイズムの心理(しかも軍事力と結びついた軍事カッコイイズム)が混入していることが少なくない。もっと穏やかな形では、「あんなヤツやっつけちゃえよ」といった言説。自分だけの単純・素朴な心理(しかもしばしば暴力と結びついている)だけでもって複雑な現実を捉え解決しようとする点で非常に問題。
善悪二元論……敵の悪魔化と味方の無謬化
正義と悪の戦いというものの見方。典型的なヒーローものの論理。
敵=悪玉の論理。相手が何か一つでも悪事をはたらけば、事の大小も問わず、責任の限界も取り払って、相手を邪知暴虐な悪の枢軸にしてしまう。相手のすべての行動が邪悪な行動とされ、相手は邪悪なことなら何でも企みうるし、なし得るとされる。敵の悪魔化・万能化。行動が悪なのは人格が悪だからという論理、悪の人格からは悪の行動しか出てこないという論理。さらには、その悪に関係する人、組織、集団や、悪を擁護するものも一律に悪とされる。悪の肥大化。
これと対照的な形で善玉の論理が出てくる。上記のような巨悪を批判・非難する側はつねに正義であり、悪を殲滅するまで徹底的に攻撃を加えるべきだとする論理。結果として、邪知暴虐な悪との対決にはあらゆる手段が用いられ、往々にして敵よりも残酷で非道な手段を用いることも少なくないが、そうした手段は目的の「正しさ」によって正当化される。敵が悪魔化されたのとは対照的に、味方は無謬化される。宗教戦争に典型的に見られる正戦論の論理。
こうした論理が現実に適用されている例は枚挙にいとまがない。犯罪者バッシング、不祥事バッシングのほとんどがこうした論理によって展開されている。
現実はもっと複雑であり、善悪二元論で割り切れるものではないということ。善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるわけではなく、しばしばその逆であるということ。仮に犯罪や不祥事があったとしても、その事実をありのままに観察して論じること。特定の人格、集団、組織にすべての悪を引き受けさせるのは現実的なものの見方ではない。悪をなした側には悪をなした側なりの論理や心理がありうる(一応、オタク文化にもそうした側面に配慮した例外的な作品はある。『逆シャア』など)。単に人格的なレヴェルの問題だけでなく、構造的なレヴェルでの問題を見ること。そうした現実の複雑さに耐えきれず、問題を最初からすべて善悪二元論の鋳型に流し込んでしまうのは、宗教家かデマゴーグの方法。
問題の人格化
肯定・否定問わず、あらゆる対象を大小さまざまに人格化・キャラ化する論理。
これが現実に適用されると、典型的には民族や国家を人格化するようなことが起こる。さいきんでは『ヘタリア』の例。人格化された対象はある一定の本質を持っているように描かれ、ステレオタイプが促進される。
さらに、人格化された対象が実在の特定人格と結びつく傾向もある。たとえば、日韓関係が小泉vs盧武鉉のような形で著しく人格化されて語られた。これを歴史観に反映すると特定の人物に歴史を仮託した英雄史観になり、現実政治に適用された場合には指導者待望論につながる。
感情移入と過度の思い入れ
対象へ感情的・感傷的に没入する。対象と一体化した共感・同情。惚れた状態。マイナス面が見えなくなる。あばたもえくぼ。
現実に適用された例としては、拉致被害者家族会に対する感情移入。「被害者家族はこんなにかわいそうなのに、どうして北朝鮮に譲歩するのだ」という主張。共感・同情・思い入れが唯一の原理になる。没入対象が民族や国家などの場合は排外的ナショナリズムになる。
主観主義・心情主義
主観的心情と客観的現実とを同一視。あるいは、客観的現実を無視。
典型的な形態としては精神論。あきらめず努力すれば必ず夢は叶うという心情(ジャンプ的な少年マンガにも、少女マンガにも共通した心理)。
観念的空想
観念的な空想をもとに話をしてしまう傾向。「あれは??に違いない」「これは??なのではないか」という、根拠の薄い空想や概念操作を前提として議論を展開する。
オタク的な想像力の源泉とも言えるが、現実の問題に適用された場合、「どうせ??だろう」といった非現実的な憶測・陰謀論や、「もしかしたら??かもしれない」といった希望的観測にしかならない。
拗ね者意識、ルサンチマン
オタクがなお社会的弱者であるという現実から引き起こされる心理。潜在的にせよ顕在的にせよ、自分が疎外されているという意識。
こうした疎外感や拗ね者意識はオタク文化が閉鎖的土壌のもとで独自に発展する要因ともなったが、関心が外の現実に向けられた場合、マジョリティ・メインストリーム・既得権益、さらにはほかの社会的弱者に対する引きずり降ろしの心理がはたらく。
また、社会的弱者であることを一種の免罪符としてあらゆる粗暴が肯定され(被抑圧状態の復讐)、ひとしきり気分よく暴れることで欲求不満を一時的に解消しようとする。
「正しさ」信仰による偏向
どこまでも「正しい事実」を追求する態度。オタク文化の創作物のなかには「正しい公式設定」が存在しうるし、作品解釈をめぐってはそうした(しばしば枝葉末節に渡るほどの)「正しさ」が重要な論点となる場合がある。オタクのパラノイア的側面。
しかし、現実世界においては「正しい公式設定」は存在しない。正しい見方、正しい歴史、正しい勢力は存在しない。あらゆることが論争の対象。「正しさ」だけをもって現実を語ることはできない。政府の「公式見解」が時として「正しい事実」に反することには異議を唱えなければならないが、一方でそれが時として「事実上」(de facto)通用するという現実の意味も認めなければならない。現実の複雑で多様な側面に目を配る必要。一方だけの「正しい」主張しか知らないのはいかにも中途半端で偏向している。
中道、無関心への逃避
積極的な主張をするのではなく、むしろ中道や無関心を言うことで、現実の多様性とそこから要請される態度決定を忌避しようとする心理。「人それぞれ」という底なしの相対主義もこの系列。
しかし中道や無関心も歴然とした1つの立場である。これを認識することが肝要。むしろこうした無自覚な中道派や無関心派は、普段から積極的に態度決定する訓練をしていないだけに、イザというとき冷静な判断ができないおそれがある。
議論ずらしと無責任
「ネタ」「ベタ」「メタ」という形で議論のレヴェルをずらす傾向。オタクのスキゾ的側面。
空想や観念の世界に思いをめぐらす議論ならともかく、現実について考える・論じるときにこれをやると、とんでもない無責任な方言、責任回避になる。
とくにネットのような場所では、万人が非常に気軽に意見表明できると同時に、その影響範囲はきわめて広範囲に及ぶ可能性があり、責任は思いのほか重大。他者に責任を転嫁したり、「ネタだから」などとごまかすくらいならば、意見表明などしないほうがよい。
※投稿者としてはこの主張全てに同意するわけではないのだけど(例えば、一口に「オタク」と言っても、北朝鮮への一方的な強硬論や核武装を訴えるような軍オタにはそうそうお目に掛かれない)、こういう傾向は確かにあるかもしれないと感じる。これを見ているオタクの増田諸兄はどう思われるでしょうか。
負け犬ブームの影響で、10代後半??20代前半の若い女の子たちが早婚志向になっている。その結果、結婚市場に20代前半の若い娘たちが大量流入という現実。
結婚適齢期の男性達は、20女と30女を同じテーブルに並べて吟味。当然、若い子の方が結婚相手としては人気である。出産等々の点でも有利。そして若い子から売れていく。若さを武器に素敵な男性をゲットする。
残った30女たち、焦って、なりふり構わず良さそうな独身男性へ突撃。しかし素敵な独身男性は、やっぱり若い子を結婚対象に選ぶ。
「恋愛対象としてなら30女でもいいけど」という素敵な独身男性も、結婚相手となると非情にも20代の若い女性を選択してしまう。
残った“イマイチな独身男性”の中から、日々抱かれる伴侶を選ばなければならない30女たち。
しかしその“イマイチな独身男性”たちは、身の程もわきまえずに「俺も若い子がいいな」とのたまふ。恋愛素人ゆえ、AVや萌え系で若い子の肉体に憧れているため、伴侶にも若い肉体の持ち主を求めるのだ。
“イマイチな独身男性”たちにまで敬遠されてしまう30女。しかし、ごく稀に“イマイチな独身男性”の中にも「ま、30女でもいいかな」という、人間のデキた控えめな輩もいたりする。
しかし、素人童貞の彼らは伴侶にも「新品」を求めるため「でも、処女でなきゃイヤダね」とのたまふ。
どうする?30女!
特定の女を落とすためのアドバイスを「全ての女に」対してやれと言われたと解釈して反発していたわけなのか。端から見ていて、なんでそこまで反発するのか、何故そんなことが女尊男卑になるのか不思議だったけど、謎が解けた気がする。
逆に非モテにとってみれば、それが一番難しいところなんだよ。特に「わけへだてのない男はいい男」なんてことも言われてるわけで、「私だけ特別扱い」ってのはむしろ嫌われる最悪手にしか見えないんだから。惚れた弱みというやつで、「俺の惚れた女が、そんな小手先の小細工に引っかかってたまるか」と相手を崇拝しすぎてるのも一つの原因だね。
だから例えば非モテは、たとえば合コンの場で全ての女性と均等に話そうとして誰の興味も惹くことができないという自滅を繰り返す。
そんな極端なと言われるかも知れないけど、合コンじゃなくて学生のサークルだったらそういう奴はいくらでもいるでしょ。新歓なんかで、チヤホヤされてるかわいい女の子をあえて放置して、場の中心に入れない人に孤軍奮闘で頑張って話しかける。でも、そういう人はたいてい入部しないから、その努力は労多くして益なし。むしろ、本人が新入生を含めた人間関係の中からハブられてしまうだけ、大損なのに。自分が非コミュだけに非コミュに同情して情を寄せてしまうわけだけど、実際は非コミュな新入生もコミュな先輩の方になつくから、非モテは非コミュな後輩からも敬遠されてしまうわけだ。ちなみにこの場合、相手は男女関係ないよ。
この話は実は全部俺のことだ。そして、「コミュニケーション能力とは、非コミュを華麗にスルーして勝ち馬に乗る能力である」という非情な世間の法則を俺がようやく学習した頃には俺はもう卒業で、男ばっかりの業界に就職が決まってからのことだったのですよ。
TRACK8(INSTRUMENTAL)
トゥルルル、ガチャ。
「はい、もしもし。----ですけど」
「あたし、分かる?」
「うん。どうしたの?突然に」
「別にどうもしてないんだけど、忙しい?」
「いーや。何もしてないよ。暇だったけど」
「…あのね、さっきテレビで怖いドラマ見ちゃってそしたら電話して言いたくなっちゃった」
「どんなの?」
↓
「別にそんだけ。用はないんだ、じゃぁね」
ガチャ。
TRACK9
待ち合わせ。と、いう行為は非常に楽しいことであると同時にとてつもない苦行でもある。その日は僕は極小Tシャツにデッドストックのブーツカットジーンズ、エナメルのビルケンのサンダルという出で立ちでひたすら彼女を待っていた。風のない日でおまけに正午、じりじりと僕を責めたてるものが太陽でなかったら一体なんだろう。焦燥、字面からしてもう、焦がれている。遅れること20分彼女はやってきた。いつもパンツルックの彼女がスカートを履いている。吉兆と緊張。
昼食はでたらめに飛び込んだ店でとった。その割にはまぁ、美味しかったので、良い気分で店を出て電車に乗って移動する。ガタンゴトン。語っとこう、肩の力抜こう、と聞こえる。従い、彼女と語る。
彼女の話は長いので省略。
「へー。そうなんだ」
とりあえずのところそんな風にあいずちを打っておけば問題ない。一応、カタルシス。
「いつもはね、汚れちゃうからパンツなんだけど。足太いからあんまし履きたくないんだけどさ、今日はね。あたし、デートのときしかスカート履かないんだよ。どう?」
「いいね」
色々いい。色も良いし、もっと履いたらいい。
様々な店がひっきりなしという感で立ち並ぶ雑多な、滅多に歩かない、街の通りを見て歩く。それはもう本当に様々で、古着屋、雑貨屋などをはじめに目に入った順に立ち寄った。僕も彼女も何も買わないし、何か目あての物があったわけではないのだが非常に楽な気分になれた。肩の力が抜けたという感じか、顔を合わせるのが3度目とは思えないほど僕達はリラックスし、それ以上に親近感が2人の周りの空間を包み込んでいた。呑み込んでいた。淀みが飛んでいた。
夕方になると幾分風が、心地良く吹き始め、人々の頭髪を、柔らかく揺らす。僕の崩れた頭髪も、あっちも、こっちも。いつもおろしっぱなしの髪をバレッタで巻いて揚げた隣の彼女をも。もう。
「はぁー。疲れたね」
「うん、生き返った」
喚き、歩き疲れた僕達はファーストフードの店に入りその体に飲み物をひとしきり流し込んで、そう交す。まるで仕事後のサラリーマンが居酒屋でやってるみたいにだ。彼女の話を聞いていた。彼女はとてもおしゃべりな子で、そうそう黙り込むことはなかった。ハンバーガーを食べていた僕の口の周りはもはや壊滅的状況といった装いで、その被害情況は両手、トレイにまで及んだ。僕はハンバーガーだのがうまく食べられたためしがない。だったら食べるのよすのが良いんだけど。
「もう。汚いなぁ、あたしが食べちゃおうかな」
と言って大きく口を開けてかじりつくふりをする。ライオンみたい。
やっとのことで食べ終えた僕は、
「そういや、何か用事があるんじゃなかったっけか。何時に何処?もうすぐでしょ?」
と尋ねた。外れない。
「そうなんだよねー。あーあ、どうしよう」
「すっぽかすのはまずいでしょ」
「うん…」
力なくそう答えてからいつも元気な彼女は次の瞬間しゅんとなって
「…もっと一緒に居たいな」
ぽつり。
ここは駅付近、駅構内へ向かう人出て来る人どちらの人も皆せわしなく歩いている。足音だけが彼等の存在証明、そして僕等も、その存在を立証すべくお互いに優しく注意深く手を振る。彼女はもうすっかり笑ってそのたてがみの様な頭髪をゆさゆさと差し込む陽光で金色に光らせて今もう一度手を振った。もう1度揺すった。
僕達は一体どうなるんだろう。願望だけが宙に浮いて。振り向いて。
真夏のライオンキング。
TRACK10
僕と彼との一旦。
暑い暑い気が触れる寸前の夜、俗にいう熱帯夜。基本的には気が滅入ってヤダ。でも、ちょっと素敵じゃない?
「いらないね。酒を飲むときは何もいらないんだ。しいていえばピスタチオくらいあれば申し分ない」
「そうだった。じゃ、ピスタチオも」
ウェイターにそう告げると快くカウンターに入っていった。無音で「いい」って言った。えらく少ないオーダーに嫌な顔をする店というのは結構世の中にはたくさんあるものだ。そんな中にあって稀少といってもいい店。だからよく行くお店。
「最近さ、どうしてんのさ」
「別に。どうもしないさ」
「でも呼び出したからには何かあったんでしょ。少なくとも」
「ただの世話話だよ」
世話話というのは世間話のことだ。
少し遡ろう。ちょっと盗聴っぽく。
「はい?」
電話に出た僕の耳に聞こえてくるのは紛れもない彼の声だ。
「あのさ、ちょっと出れない?」
「いいけどオールとか無理だぜ。君と違って明日も学校があるんだから」
「あるのは知ってるさ。毎日ある。さらに言うなら君が行かないことも知ってる」
「わぁったよ」
「場所は分かってるだろ。何時に来れる?」
「8時」と、僕。
「ということは9時だな」
彼の失礼な言葉で電話を終わらせ部屋に戻り飲みかけのコーラを飲んでしまうとそのあとでゆっくりとマールボロを吸う。ゆっくりと支度をした。
「ごめん、遅れた」
時計は8時45分を指している。
「いいや時間通りだよ」
こういうことを分かっている存在だ。ぞんざいか?
「また夏が終わるよ。1人者の夏が」彼。
「そうかい。嘆くことでもないと思うけどね」と、僕。
「まーね、君は顔がいいからね」
といつも言う口癖を言って5杯目のカクテルを飲み干す。とはいっても彼の飲んでいるのは全てショートカクテルの強いものばかりだ。僕だったらもうストップなのに彼はまだ飲むつもりらしい。積もることでもあるらしい。
「オーダーいいすか?チャーリーチャップリンとスレッジ・ハンマー」
「ああ、俺、結構キいてきたよ」
「でも飲めるだろ?」
「俺何か食おうかな。あ、これ頼んで。ナスとミートのオープンオムレツ、これ食いたい」
「オーケー」
僕は吸いかけの煙草を灰皿で揉み消し、新しい煙草に火を付ける。僕も彼もはっきりいってチェーン・スモーキングに近いのだ。そして料理を食べる。僕達は当初の予定通り身のない話を山ほどした。見ない未来の話や、なにか、そういう意味では今日のノルマはクリアしている、現実的にも比喩的にもお腹一杯だ。だけどどんなに話し合っても分からないことだらけだったし、どんなに飲んでも食べても飢えも渇きも消えなかった。僕はそろそろ答えを欲している。そして、バックグラウンドはレゲェミュージック。ワン・ラブ。笑う。
「どうだい?」
「どうだろう?」
夜はまだまだ終わらない。
僕たちはまだまだ笑い終えない。
TRACK11(INSTRUMENTAL)
僕は今まで数多くのものを憎んだけれど、このときのベスト1は美術予備校の講師だ。僕は天秤にかけられ、結果彼女に拒まれた。それだけだ。だけど秤に乗せられる気持ちなんて秤に乗ったことがある人間にしか分からない。僕は偉大なる日々から日常へと帰っていく。
あるいは僕が憎んだのはこの僕自身だったかもしれない。もう忘れた。
TRACK12
僕ともうちょっとマシなものとの会話。
『ほら、言わんこっちゃない』
「何が?」
僕は怒っている。
『分かったろ?』
「だから何が?」
『僕が話したいのはそんな君じゃないんだけどな』
「いいよ、あきらめついたから」
『そう?』
「拒絶したい奴はすればいいさ。僕はそれほど何もかもに関心があるわけじゃないんだから」
『ただの負け惜しみにしか聞こえないけど。未練たっぷり。直視出来ない、まともに見れん』
「それも1つの見解でしかない」
『まだ他人がうらやましい?忘れた?あの日、君は道標を見つけたんじゃなかった?なら進めよ。君が今嘆いているのは大前提の事実だぜ、うかれて足元すくわれただけだろ。だいたい何をうかれてんだよ。君は何も知らなかった、それだけだろ。大きな勘違い』
「裏切られた気持ちを知らないからだ」
『なら言ってやる。求めればあたえられるっていうのはナメてんだよ。子供か?何でも向こうからやって来るのを待ってんのか?耳かっぽじれ。求めよ!渇望せよ!そして進め。これが本当だ。この先はない。与えられん』
「…」
『泣いたってだめだよ』
「どうしたらいい?」
『大丈夫、きっとうまくいくさ』
その夜、誰も見てないのを確認してから泣いた。
TRACK13(INSTRUMENTAL)
そらで言える電話番号を押して彼女に電話をかける。時の流れと一緒にプレッシャーも流動しているのだ。なぜならもう合格発表の時期だからだ。
「どうだった?」
僕と彼女では専攻が違うのでこの聞き方はおかしい。まるで一緒に受けたみたいだ。
「そっか、俺の方もだめだったよ。今度のはいつ発表?何処?そんときにまたかけるよ。じゃぁね」
別に彼女の恋人でなくともできることはたくさんある。あるいはただ未練がましいだけかも知れない。それはそれでかまわないのだ、僕に重要なことは正しいベクトルであること。これだ。
××美大の発表の日、僕はすぐには電話をかけることができず少々ごたついてしまい結局かけることができたのはその何日か後になってしまった。胸を早く打ちながら、受話器があがるところを想像したが電話に出たのは彼女ではなかった。
後にも先にもこれほど途方に暮れたのはこれっきりである。
TRACK14
時の流れはきっと冷たいんじゃないかと思う。非情という意味ではなくて体感温度として、ちょっとした心象表現だ。下らないことを言ってみたかっただけ。そして、今だ僕の体もその流れの中にある。聞き流して。
いや、溶かして。
ハイ・シエラの谷でとれた水の冷たさで僕の右手はもはや麻痺し、何も描けない。はっきり言って逃げ出したかったけれど一体僕は何処へ逃げたらいいんだ?そんなわけで僕は日常の中で小さな現実逃避を繰り返しては、ぶりかえしては、熱病に執拗に、連れ戻されていた。
僕には浪人という立場があり、やるべきことがきちんとあったがその答えをまるで別の方向で弾きだそうとするみたいに足掻いた。足掻いて、足掻いて、その跡で凍傷で焼けた赤い手を見て、そして、そのことからまた逃げるように他のことで代償行為としたのだ。言ってみればこの時にひょんなことで出会った娘と何度も、映画を見るための2時間限りのデートを繰り返したのだってその一環でしかなかったかも知れない。
良く晴れた平日の昼間に近場の公園で文庫本を読みながら、溜め息をついた。いまだ、僕の右手はかじかんだままである。
あがけばあがくほどより深い溝にはまってゆく、それが僕に限った話かどうかは知らないけれど。アリジゴクっていうのがあるけどとても悲惨なネーミングだ。もう、本当に。誰がつけたか興味ないけれど、そんな名前をつける奴こそが深い溝の底で未曾有の苦しみを味わうがいい。
僕は予備校にまた通い出した。大好きなマイナーなクソ映画もあらかた漁りつくし、しまいには見るものなくてフェリーニまで見た。夜な夜な飲み歩き、好きでもない酒を知らない人間と飲むのももううんざりした。近所の公園なんて僕の縄張りみたいなもんだ。やるべきことをやる時期、そう判断したのだ。ゆらゆら、ゆらゆら、クラゲのように気楽に海水と愛の巣をつくる話は破談した。求愛する相手も無くし、色んな居場所を追われたけれどラッキーなことに僕にはまだやらなければいけないことが残っていた。僕はついてる。
相変わらず判で押した様に定時に行くことは無理だったけどそれでも少しは救われた。
ピリピリという擬音が聞こえてきそうなほど押し差し迫った空気の中、僕は浪人2度目の受験を迎える。そんな中に在っても僕はふっきれないまままるでコンクリートのプールで泳ぐ気分だった。
具合が悪くなるくらい考え事をして僕は生まれ変わる夢ばかり見た。1度だけ大学生に生まれ変わる夢を見た。勿論、笑い話だぜ。
TRACK15(INSTRUMENTAL)
いよいよ試験の日程も押し差し迫るといった最後の前日、友達がお守りをくれた。実際に彼が身につけ、数々の合格をむしりとったラッキーお守りだからといって僕にくれたのだ。
そして、僕は合格した。拍子抜けした。
TRACK16
僕は大学生になり、あくせくと大学生をまっとうし、わだかまりとアクセスしたけれどそれが何だっていうのだろう?僕は考えられないほど学校に通い恋をすることもなかった、何事もなかった、暇がなかったわけでもないし余裕がなかったわけでもない。浪人中に比べればさほどの欝没も感じない。歳をとったせいか、はたまたそんな時代なのか知んないけどな。
ただ僕は絵を描いていた。派手に遊ぶこともなく前から付き合いのある友人と付き合い、本を読み、そして絵を。辛かったことを忘れないように、嬉しかったことをかみしめるように、恥ずかしい自分を戒めるように、何よりも自分自身の僕という存在の力を知りたくて。
そして、まだ、在りたかった僕になりたくて。
TRACK17
蟻はただ働き、そしてそういう自らを肯定した。そのおかげでかつての僕を知る人などは変貌ぶりに驚嘆の声など挙げてみたり、またある人は近づき難しと距離をおいた。何も考えない、蟻は死など恐れない。死への行進、日付だけが更新。そんなの怖くなかった。ただ、そのシステムが変わるのが恐ろしかった。何かが変わるのが恐ろしかった。でも、案の定何かが変わる。
僕はある女の子と出会った。それは特別にマーキングしておかなければとても目立たないような特徴のない毎日に降ってきた、だから僕はその娘が特別だとは少しも思わなかったのだ。
電話が鳴る。その内容はとても事務的に終始しつつ意図の分からないものだった。予想外の人物、ただの1度以前に引き合わされただけの人物が電話の主とはいえ、特徴のない平穏な毎日の中にある僕はこの出来事の持つある種の特殊性に気付かずにいたのだ。
そして2度目の電話も鳴る。
「もしもし 覚えてますか?」
消え入りそうな声。
「ええ、覚えてますよ」
遥か、遥か遠くから語りかける言葉。
そう。堯倖に等しい毎日はとても当たり前の顔をして始まったのだ。キングダム。
実際に会った彼女の中の王国は、かつて様々な人の中に垣間見たような理解の範疇を超えるような代物ではなかったし、逆もまたしかりだったのではないだろうか。
なんとなく信じられないのは、今こんなふうに生きていること。ただその喜びは宙に浮かんで輪郭もはっきりとすぐ鼻先にあるみたいなのだけれど、蜃気楼みたいに決して届くことはないのかもしれない。物事は現実的であればあるほどそのリアリティを失っていく。誠実であろうと思えば思うほどそれが叶わないようにだ。
世はなべて。僕は儚む。
そして、一筋の光明。
TRACK18(INSTRUMENTAL)
最初に体を重ねてから数ケ月経ったある日、僕達は共同作業を終えた。それは本当に思い掛けないぐらい突然にやってきた。僕はこの時やっと誰しもが容易に掴み取ったであろうリアルを手中に収めたのだ。
彼女は笑った。
僕も笑った。
何かが起こりそうな予感がする時は必ず何かが起こる。僕の得た貴重な経験則のひとつだ。
TRACK19
人は忘れる生き物だから、人は忘れる生き物だから、人は忘れる生き物だから。
------
男は言った。
「信じているか?絶対の、完全無欠の、無制限の、無条件の」
TRACK20
夕方4時頃目が覚めた。
頬をつたう涙の正体は一向に分からなかったが、多分コンタクトを外さずに寝たせいだろうと解釈した。大学は夏休みに入っていて特にすることがないのだが埒のあかないことにいつまでもかかずらっていることはあまり好みではないからだ。さてどうしようと考えて外食しにいく事にした。
身支度をして部屋のドアを閉める。
僕は随分と長い間喋り続けた後のような疲労感と、倦怠感、凄絶とも言えるかつてない空腹に襲われていた。そしてあまりに腹が空いて相当笑えてもいた。炎天下の下、こんな体を引きながら繁華街まで出るのはどう考えても億劫だった。駅に行くまでには定食屋だってあったし、それこそラーメン屋や各種飲食店の類は数え上げたら切りがないほど存在したのだけれど、何故か僕の足は駅に辿り着き、そして疲弊しきった体はというと、駅のホームに立ち、新宿行の電車を待とうとしていたのだ。辟易とした。
平気?いや、平気じゃない。今何故か僕の体は睡眠から覚めたばかりだというのに随分と疲弊していて、風邪をひいたのか何か分からないけれど異常な倦怠感があったのだ。喫煙所でバカスカ煙草を吸いながら、僕は癇癪を起こしそうだった。どんな解釈も無用だった、もう、電車がホームに入ったからだ。どうも僕は乗る気らしいし。
新宿の街で食べたものはといえば、それが果たして自分の住む近所で食べたこととそうも結果が変わるとも思えないようなメニューを選択してしまったし、それでなくとも、まともに考えればわざわざ新宿に電車に乗って飯を食いに来る意味は何なのかと、自分に問うていた。腹が朽ちるとそれも馬鹿馬鹿しくて良い方向に笑えてくる。満腹になった今でいえば、そんなわけの分からない自分が、少し気に入ってきつつもあったのだ。
大学が夏休みに入ってからというもの、怠惰な生活に、対話なき生活に、僕はすっかり馴れてしかも親しんでしまっていた。基本的に自炊で食事を賄う僕としては外出することもなかなかなくなっていた。まぁ、念願叶うといってはおおげさだが、いい機会でもあった。
ファッション・ビルの1番上から順に眺める。店舗に入る服屋を物色する。僕は必要に迫られない、狭められない、そんな買い物が好きだった。もう、若い者ではない僕には最先端の流行は必要ではない。購い者でもない。
ひとしきり人ごみを満喫し、ポケットから煙草を取り出して、目的もなく歩く。人の流れにうまく乗り、集団の中手に、苦なく波に乗り、咥えた煙草に火をつけた。映画の巨大な看板を目にして、胸に何か去来する。僕には何も、分からない。
信号の青い点灯を待たずに、跨がずに、すぐ手前の白線を踏む。人の織り成す濁流が交差して、甲翳して、ふたつの流れの交わるところで僕は前方から歩いてくる若い女性の姿が目に止まる。歳の頃も同じぐらいで、髪が肩よりも短く、白い開襟のシャツを着ていた女だった。堪らない程多くの人間といっぺんに交錯するようにすれ違う。目を覆うようにして翳した手の甲の影から、急に涙が込み上げて、歩きながら振り返ると個と解けた濁流は散り散りになっていずこへと消えた。
僕は吸いかけの煙草をもう1度大きく吸ってから、迷うことをやめた。
書き始めたら、やたら長くなったので二分割。
自炊生活をはじめて結構経つが、今まで自分でお弁当を作ったことがなかった。
と、いうのも、朝に「朝食作り??昼の弁当作り」というパラレルな作業が
とてつもなく困難なものに思えたからだ。
もっとも朝食作りといっても大抵はパンかシリアルかの米無しの朝だが、
それ故になおさら「昼のためだけに米を炊く」という作業が苦痛でしかたなかった。
何?「別に弁当に米無くてもいいじゃん」?
馬鹿野朗。米の入ってない弁当なんざパンの国の人が食うもんだ。ランチボックスとよぶもんだ。
しかし、まぁ、ふりかけが余って余って仕方なかったので
AM5:30。早起きして米を炊く。その脇では、バナナ味のポーリッジが電子レンジの中でうなりをあげて踊っている。
片方は数分後に自分の腹におさまるのに、もう片方は1/4日もお預けをくらう。
今まで経験したことのなかったもどかしさだ。
しばらくの間だけとはいえ、自分が料理したものを食えない、というのはたまらない苦痛だなぁ。
そう考えるとコックさんたちの我慢強さはすごい。偉い。うちの犬やその飼い主とは大違いだ。
でも、絶対になりたくはない。
フライパンをふかしつつ、冷凍庫からベジタリアン・バーガーを取り出す。
ようするに、洋風がんもどきだ。もちろん本来の用途がお弁当用ではないので、かなりデカイ。
8等分くらいにして、二段弁当箱(弁当箱は二段でなくてはらない)の上の方につっこむと、
もうなんかこれは、なんだろう。肉だ。肉塊だ。いや、野菜なんだけど。
それでも8切れのうちに2切れがおさまりきらなくて、プー太郎状態になってしまった。
どうしよう。今、食おうか?しかし、ポーリッジのお陰で舌がバナナになってるのに、それはキツイ。
次に熱気の冷めやらぬフライパンに容赦なく溶き卵をぶちまける。味付けはひとつまみの塩のみ。
またたくまにぷつぷつが表面にうきあがる卵。
ひっくり返しながら巻き巻きする俺。抗う卵。粘る俺。
そして、完成する卵・・・卵・・・これは、卵、なんだろう?
疑問は卵と一緒に弁当箱上段に閉じ込める。
と、ここで米がたける。
弁当箱下段の指定席に詰めると少しだけスペースが余ってしまった。
否、意識的に余らせた。
密着する蓋をよごさないために、詰めたプー太郎どもの上に生のレタスで栓をする。
苦し紛れの応急措置というか、緊急避難だ。レタスには弁当のおかずとしては、他に何の役割も期待もしていない。
非情ともいえる決断だが、これも弁当箱の調和を保つためには仕方の無いことなんであるよ。
そうやって完成した弁当をアツアツのうちにポーチにいれ、鞄に詰め、いざ出陣。
決戦はアフタヌーン。
トニー・バイオレット | 自称知的なプログラマ。得意分野はプログラミング、議論、政治、ライフハック |
ワット・トマホーク | 感情が荒く、すぐにつっかかる。得意分野は煽り、叩き、誹謗中傷。 |
ボルタ・サンダース | 冷酷で非情。冷静に相手を叩く。得意分野は煽り、叩き、誹謗中傷。 |
サム・グリーンイエロー | セクシーボーイ。得意分野はセクシーな話題。 |
キャサリン・ドレイク | セクシーガール。得意分野はセクシャルな話題。 |
増田 たろう | くいしんぼ、詩人、あまえんぼ |
増田 ますみ | 仕事に疲れたサラリーマン |
増川 じろう | ストーリーテラー、近況報告 |
ぽち | ひたすらに吼える |
たま | 増田はメモ帳代わり。 |
名無し | インベーダー |
えっと、これとこれ書いた30代中盤の増田(既婚)です。なんだか2本目にいっぱいトラバ付いちゃって今見たらびっくり。入れない性生活はありなのかと悩んでいる元増田とは別人です。元増田の悩みの続きだと思ってトラバくれた方、すいませんでした。
ついでなんで、ちょっと書きます。
むかし、まだ問題が自分にとって切実だった頃、2chに相談を書いたことがあって(なんで2chなのかって、そんな露骨な相談を真面目なところでする気にはならなかったから)、そんときは、夫が気の毒だから慰謝料払って離婚しろって意見が殆どでした。増田ではそういう意見が出ないので不思議でした。今でも離婚を言い出されたらすぐ応じる覚悟でいます。
一方で、他の人と比べて自分が特別おかしいのかと疑う気持ちもあって(婦人科でも問題ないと言われたし)、トラバにあったように最初はみんな痛いのを無理するんだと思うんです。単にそこを一度も突破してないだけじゃないかと、そう思いたい気持ちもありました。変な話ですが、痛がっても(痛がらないように努力はしてますが)先に進める非情さが欲しかった。
結局古臭い男女観にとらわれていて夫婦でこんなことを話したり出来ていないし(夫は女が性的な事柄に積極的なのを嫌がるタイプです)、何か試みるようなことも出来なくて10年近くそのままで来てしまいました。夫婦仲は傍目からはすごくよく見えるようです。男と女になっていないから逆にそういう関係を続けられるかもしれません。何を言いたいのか自分でも分かりませんが、こんな例があることを知って欲しかったのかもしれません。ちょっとだけと思って書き始めたんですが、長くなって失礼しました。
こういう態度はあまりにも閉じていて非情報系の人に通じないのではないかという危惧があります。
僕には元増田さんは「理系の知識がない文系が技術を語ってはいけない」というメッセージを文系の人に送っているように見えたのですが、そのメッセージは理系の人にしか共感してもらえず、文系の人(原丈人とか)には届かない可能性が高いのではないかと思ったのです。
つまり元増田さんは誰かにメッセージを発しているように見えて、実は内輪向けに愚痴っているだけではないかと。そしてそれは自覚されいるのかなあと思ったわけです。
人間というのは、何かを信じることしかできません。
正しさを確認してから、宗教を信じているわけではありません。
何か情報があれば、それはなんらかの変化をもたらします。
1次情報、2次情報、3次情報・・・情報というのは拡散していきます。
数学は難しいかもしれませんが、そこには完全な情報があります。
ですが、完全な情報があることと、それを理解できることは、全然違います。
そういう意味でも、増田なんだから、肩肘はらずに書けばいいと思います。
そうすれば、情報は形を変えて拡散していきます。
絶対的に意味がある文章なんて作れませんが、
絶対的に無意味な文章というのも、インターネット上では作ることは難しいです。
そんなわけで、あなたの危惧はたぶん杞憂じゃないですかね?
対話するつもりはいくらでもあるので、質問にはいくらでも答えますよ。
今回は情報系にはあまりにも自明なことに対して、
「あー、おまえ間違ってんだろ、理由出せよ」
みたいな勢いだから、厨房臭くなってるんだと思う。
こういう態度はあまりにも閉じていて非情報系の人に通じないのではないかという危惧があります。
僕には元増田さんは「理系の知識がない文系が技術を語ってはいけない」というメッセージを文系の人に送っているように見えたのですが、そのメッセージは理系の人にしか共感してもらえず、文系の人(原丈人とか)には届かない可能性が高いのではないかと思ったのです。
つまり元増田さんは誰かにメッセージを発しているように見えて、実は内輪向けに愚痴っているだけではないかと。そしてそれは自覚されいるのかなあと思ったわけです。
まず、久しく手紙を送らなかったことを謝らせてくれ。俺は今、軍を除隊してニューオーリンズの陸軍病院にいる。
俺がビリー軍曹と戦った7日間。たった7日間だ。しかし、そこから帰ってくると、もう俺たちの居場所はなかった。俺たちは、自分がいかに苦しい思いをしたか、汚らしく肥え太った腹周りを締め上げるために、どれだけ非情な手段を使ったかを、誰かに話したかった。ひとりで抱え込むなんてできなかったんだ。しかし、入隊者の烙印を押された俺には、それさえも許されなかった。彼らのほとんどが型どおり大仰に驚いて見せた後、こう言うんだ。『DVD貸して』。奴らは俺たちがどう戦ったかなんてまるで無関心なのさ。
知ってるか? 戦闘の後、無抵抗な全身の筋肉を傷めつけた俺たちは、全員で輪になって「ビクトリー!」なんて叫ぶんだぜ。狂ってると思うだろ? 俺だってそう思ったさ。でも、それが「生きて明日を迎えられる」って確認する唯一の手段だったんだ。
端末を起動すれば、連日のように友軍の戦果報告が行われていた。そりゃ華々しいものだったよ。「腹部の脂肪を排除!」「腹筋を確認!」「ウエスト5cm減!」俺達は沸き立った。基本プログラム・応用プログラム・腹筋プログラム…敵は強かった、しかし俺達はそれを上回った。激しい戦闘中、地面に這いつくばる俺にビリー軍曹が言った「休憩してもいい。でも、戻ってこい。とにかく、あきらめないことだ」。彼の言葉には随分助けられたが、 今思えば、あれは俺へ向けた言葉じゃなかったように感じるんだ。なんというか、うまく説明できないんだけれど。「ビリー軍曹、俺はあんたのように強くはなれない!」俺たちが汗まみれになって叫んでも、画面の中の彼は「苦しいが、結果はついてくる」、「自分に負けるな」なんて俺たちを鼓舞する言葉を繰り返すだけだった。その一方通行っぷりは、まるで代ゼミのサテライト授業。言うなればビリー軍曹は、地獄の黒ピカ先生さ。
孤独な行軍、激しい戦闘、渇きと疲労。そして入隊者へ向けられる好奇の視線。ビリーズブートキャンプに入隊した7日間に、心の休まる時なんてなかった。はけ口のない思いは、澱のように心の底に積もり、重なっていくだけだった。信じられないだろうが、俺たちを公平に扱ってくれるのは、自分自身の体重とウエストサイズだけだったのさ。
そして7日間の戦いをを終え、俺は体重1kg減、ウエスト3cm減という戦果を挙げ、除隊することを選択した。
今日も深夜TVで、ビリー軍曹が「君も変われるんだ」と呼びかけている。その言葉に触発され、多くの若者達が、自ら戦地に赴いている。若者だけじゃない、俺のように妻や娘の居る兵士も珍しくないだろう。けれど、俺は思うんだよ。実際のところ、俺たちにはダイエットが必要だったのだろうかって。
退屈な一日の終わりにベッドで目を閉じる時、「もしキャンプインしていなかったら」とよく考える。それ自体がナンセンスなことは分かっている。キャンプインした事実は、その記憶とともに俺を縛り続けるだろう。1kgの脂肪と引換えに俺が得たものは、贅肉との終わりなき戦いなんだ。
確かに、俺は変わった。ビリーズブートキャンプによって。しかし、毎食俺を苦しめるメタボリックな誘惑と、あの地獄の7日間との折り合いを付けるには、もう少し時間がかかりそうだ。
母さんによろしく伝えてくれ。
当たり前の事すぎて伏せてますが、「遅くなってすみません。今からでも大丈夫ですか?」と言いましたよ。
二人目の方も同じような事を言っていたと思います。
(同じ事を言っていたからこそ「あーこの人も怒られるな」と思ったので)
それでも違う対応。この差は何?やっぱ顔かぁ?と思ったわけで。
世の中非情ですよ…。
本に書いてあることを何気なく音読したり、ふと思い付いたことを口に出したりする。
自分の発音が気に入らなければ何度も何度も繰り返し音読する。
この前は「うぃとげんしゅたいんのゆめ」と6回ぐらい音読していた。
「と」がきっちり発音できないと舌の辺りがむずがゆくなってしまうのが主な原因である。
ちなみに、本を読んでいるときは常に誰かに語りかけている感じで独り言を言う。
「そうじゃない」とか「こう考えても面白い」とかetc.
多分そういう思考回路が俺に染み付いてしまったわけで、同じようなことをやっている人間もそう少なくはないだろう。
まあでも、こういうのはひょっとしたらチック症の一種みたいなものかもしれない。
俺はチック症の主な症状と見なされている行動をほとんど我が身でもって体験してきたので、
必ず一日に三回は襲ってくる「やっちゃ駄目なのに無性にやりたい」という感覚に凄く敏感になっている。
そして、その感覚に自分で気が付いてしまったが最後、一分も耐えられずに俺の舌は勝手に動き出しているわけである。
独り言を言う癖はもはや完治を諦めているというか、別に誰の迷惑にもならないのであれば勝手にしようと思っている。
しかし、問題はその独り言の内容である。
「これを言ったらさすがにまずいだろう」という言葉を何度も何度も音読してしまう、ということがたびたびある。
卑近な例を挙げれば「○○のおまんこ」とかそんな言葉である。
この言葉は凄く迷惑だ。
何故かと言えば、○○の部分を色々いじくるだけでも無限の可能性が生まれるからだ。
石原慎太郎のおまんこ、なんて逆説的でなかなか破壊力のあるフレーズである。
○○の内容が自分の知っている人間であるとさらにひどい。
肉親だと最悪。
もうこれ以上は例を挙げるべくもないが(各人色々と○○の中身をいじくって、それを口に出すことの恥ずかしさを思い浮かべてもらいたい)、
とにかく、自分でより恥ずかしいと思えるフレーズが想起されればされるほど、逆にそれを口に出す圧力は高まっていく。
そしてそれを五回ほど口に出す。
まるでその言葉に対する世界の耐久力を確かめているかのように、入念に、丹念に、口に出す。
それを音読しながらまた別のフレーズが想起されれば、今度はそちらを口に出す。
もうやめたい、という思いで泣きそうになっている俺を尻目に、深夜五時の俺の部屋には無数の言霊fromおまんこが浮遊している。
何よりも耐え難いのは、恥ずかしいフレーズの雛形が思い浮かんでしまうたびに、それらが知識として俺に吸収されてしまうことだ。
それらは俺の口から発せられることを期待して、今も喉の奥のどこかに眠っている。
そして、そのことを認識するときに俺は、自殺するのもいいかもしれないな、と思ったりする。
それらのフレーズとこれから30年も40年も付き合っていくのかと言うと、もはや絶望以外に思い浮かぶことはない。
ウィトゲンシュタインが言語・ゲーム・形式について思索していた年齢にもなって、俺はおまんこおまんこと独り言を言っているのである。救われない。
母親に顔を見るだけでいらいらすると言われたときも、同級生にうんこの臭いがすると言われたときも、
そしたら本当に学校でうんこを漏らしてしまったときも、自殺するまでは考えたことはなかった。
その一瞬だけの圧倒的な不名誉よりも、人生にどろりと付着した個人的な不名誉のほうが、強く訴えかけてくるものがある。
どちらかと言えば、絶望というのは刹那よりもむしろ安定を好むのだろう。
その証拠に、今こうして文章を書いているときだけは、不思議と独り言を言いたいという欲望は襲ってこない。
これは文章を書いているときぐらいは許してやろうという絶望様の心遣いかもしれない。
ただ単に、文章を書いているときは俺の知能レベルが低下して、独り言を言う暇がないだけかもしれない。
いずれにせよ、ブログの文章を練りながらキーボードを叩いているときは、平静な気持ちでいられる。
これだけでも、ブログが俺に与えてくれたものは大きい(これがチャットや掲示板だと、うまくいかないらしい)。
書きたいことがなくなった。
「この内容を登録する」ボタンを押せばたちまち、俺はまた放り出されることになる。
いつ独り言を言いたい欲望が襲ってくるのか分からない、不安定な世界に。
まあ絶望様もそこまで非情ではないようなので、三時間ぐらいは落ち着いた時間を俺にプレゼントしてくれるだろう。
次に絶望様がその姿を見せたら、そのときは大人しくベッドに入ろう。
さすがに、希望も絶望もウィトゲンシュタインも、睡眠には勝てないようだ。
勢いだけで生硬な、到底面白いとは思えないネタ文章が100も200もブクマを稼ぐ。それに引き替え練りに練った自分の文章は誰にも見向きもされず野晒しになったまま数ヶ月、やがて自己憐憫から書くのに二週間も費やしたそれを消去した。ローカルからもすべて。ためらいはなかった。わかっているよ。自分に創作能力がないなんてことは。
とくに興味深いところのない有名ブロガーが思いつきのようなフレーズを適当に呟いて40も50もブクマを稼ぐ。皆が何をありがたがっているのか自分には少しも理解できなかったが、自分もそれを真似て呟いてみた。毎日欠かさず呟いていた。しかし反応はなかった。わかっているよ。自分には適性がなかった。読み返してみたらまるで狂人の呻き声みたいではないか。そこには面白がることが困難なほど真に迫った、真性の異常者が確かにいた。
ブログをはじめてから二年ほど経つ。訪問客は検索エンジンに騙されて連れてこられるようなやつらばかりで、ブクマされることもなければコメントもつかなかった。ブログ上には独り相撲の痕跡だけが地層のように淡淡と積み重なって、むなしさばかりが募るのだ。わかっているよ。自分のハンドルネームに時間をかけて人格を宿したところで誰も自分に興味を持たないのだから無意味だということは。ブログを投げ出して遺跡になっても誰ひとりとして掘りかえしてくれないだろうことも。
藁にも縋る思いでブックマークを使い始めた。他人の嗜好が理解できれば自分を認識させることができるに違いないなどと白白しい夢を見たのだった。これまで他人の書いたものにはまったく注意も敬意も払ってこなかったが、このときばかりはひたすら読んだ。意味を解体し、舐めるように読んだ。千や二千ではきかないくらい、とにかく読んだ。しかし、自分のブックマークページに誰かの文章が陳列されることはなかった。きっと自分は、素直に他人の意見を受け入れられない、自分にしか愛情を注ぐことができない人格破綻者なのだと自己分析してからセルフブックマークに挑戦してみたが、それでもページは白いままだった。わかっているよ。他人を認めることができない質で、そんな自分が好きになれないということは。
何の因果か増田に流れつき、ここで駄文を書きはじめた。様様なことを書いた。長大で退屈なネタ文章。同情を誘おうとするみっともない、頭の悪い文章。意味ありげなほのめかし、呟き。それらすべてにもやはり反応はなく、つまらないと嘲弄されることすらなかった。一方でブックマーカーを揶揄する本当に意味のない、つまらない文章には続続と反応があるのだった。一度だけ魔が差して、それを模倣したことがあったが、それさえも放置されてしまうという非情な現実。
わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。わかっている。
自分は世間の隙間にある誤差みたいな人間だ。そんなの今更だ。わかっている。ネット上だけのことじゃない。慣れたものだ。でも。でも、ショックだった。だから、しばらく増田からも離れていた。
そして今日、久しぶりに増田にログインして自己記事一覧を確かめてみたら直近の文章の末尾に1userとあの赤字があって言葉もなく凍りついてしまった。辛うじて動くひとさし指でマウスホイールをおそるおそる撫でてみると、
1user
1user
1user……
今までに書いたすべての文章にそれぞれひとつだけブクマがついていた。呆気にとられながら赤字をクリックしていく。次々と。たちまちタブが増殖して、壊れ物を扱うようにそれをクリックしては読んでいった。最初は緊張していたが、それもすぐに消えた。そこにあったのは他愛もない可愛らしい感想か、あるいはやさしいタグだった。ほっとした。しかしひとつだけ意外なことがあった。自分の文章をブクマしていたのはすべて同一人物だったのだ。まるで狙い打ちしたかのようにことごとくブクマしている。
呼吸が止まった。鼻の奥がツンとする。世界が輝いてみえた。どうしてこんなことになったのだろう。あのidがまぶたの裏に残ったまま消えてくれない。誰かの名前を憶えたのは、気にかけたのは、これがはじめてだった。
恋をした。
質素にくらしても限界がある。
日本で経済的理由で自殺者がでるのは、どんなに質素にくらしてもミニマムのキャシュアウトが大きいことにかなりのウエイトがあるからなんじゃないかと思う。
商店街の世界に入って思ったんだ。これは無理だなって。
やっぱり無理。
例えば昔ながらの商売をしてきた人に才能と努力をもちあわせてたとしても成功はおぼつかないと思うんだ。同じだけの才能と努力をほんの少し違う場所で生かせればもっと簡単に稼げるのは事実だと少なくとも自分は知ってしまっている。
だけどまじめな人ほど今までやってきた事を辞められないよね。
むかしながらの取引先をやめるとか、納入先を辞めるとか、個人のお得意を切り捨てるとか。
もっといえば店を閉めて百貨店のブースに切り替えるなんて判断をとれるわけながい。
それを合理性判断とするか、非情な行為とするかで心の重みが違うと思う。