2008-08-01

集合知って泥臭い?

集合知」と聞くと、なんだか「人類の叡智を結集した(何か)スバラシイ物」って感じる事がある。

そこで、いわゆるWeb2,0(笑)における「知」の一つひとつをウェブログが担うとすれば、日本サイバースペースにおける集合知の中心は、国内最大規模のソーシャルブックマークサービスを「はてなブックマーク」誇るはてな村だとしよう。なんだか長ったらしい単語ばかりだが気にしないで欲しい。

いま、ディスプレイの向こう側にあるものが前述の「人類(ry の通りに感じるか、と聞かれれば、そうは感じない。

少し前まではモテ非モテがどうこうとか彼女に勧めるビデオがどうこうとか(テンプレ的に文章が繰り返し使われてるのが、連歌的というかMADアニメ的というか)、誰がどう言った何はこうだ、一言文句を言ってみたり逆に自己批判してみたりと、なんとも人間くさいというか泥臭いというか、新書を読んで素晴らしい世界を夢見ちゃった高校生が描く理想像とはずれているかもしれない。

それでも、今目の前で起こっていることは、いい意味でも悪い意味でもとんでもないことなんだと思う。

なぜか。

いろんなところでいろんな人が言ってることだけど、これほど多くの、様々なジャンルの人々が、非同期的ではあるけれどリアルタイムに論じていることなんて、今までなかったからだ。

たとえば、没落エリートの出現―ビジネス社会から疎外される高学歴就職難民たちー - 女。京大生の日記。から湧き起こったエリートエスタブリッシュメント?)とか学歴の論争について。

極端な話、私達が何か思ってこうして書き込んでみたり、反論してみたりすることで何かがすぐに変わらないかもしれない。「ああ、あの方々はとてもマッチョだからとてもついていけないや」とか考えるのも結構だ。

でも「今」、私達はそういった議論の場に非常に(非情にも)低コストで参加することができるのだ。テレビニュースバラエティを観て一言もの申したい、そんなことが「ここ」なら、「今」なら可能なのだ。

また、ウェブログが優秀な点は「批判される」ことだと個人的に思っている。本や雑誌を読んで、そこに自分の意見を書き込み(物理的にはできるけどさぁ)一般に広めることなんてできないが、「今」「ここ」なら可能なんだ。読み手としては、違った角度から物事を判断できて、思考する範囲が広がるのだと思う。頭使って情報処理能力を鍛えよう。

大事なのは想像力か、創造力か。例え借り物の議論だとしても、思考することは悪くない。マッチョな、または自分と同じような境遇の人の意見を聞いて、それとは同じ、正反対、ちょっと違った角度からの意見を参考にして、自分なりの意見を持つことはライフハック集を100回ブクマすることよりも創造的だし、それを書き込むことは泥臭い集合知をもっと泥臭く、いや豊穣な物とするんじゃないだろうか。野菜だって泥臭いた畑から採れるんだ。

たとえ今はディベートの様に洗練されていないとしても、それがきっと私達の行動を(少しは)より良くする物だと信じて。

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