はてなキーワード: 杉並区とは
俺杉並区に住んでるけど、車の必要性を感じることなんて全く無いぞ。
通勤は地下鉄使ってdoor to doorで40分くらい。そのうち徒歩時間が20分くらいかな。
むしろどういう状況で車が必要だと感じるのかが理解できない。
細かいことが昔から大の苦手で、細かいチェック項目を埋めていく作業とか整理整頓とか段取りとかが苦痛で仕方が無かった。
最近、細かいチェック的な仕事が凄く多くて、ケアレスミスを頻発してる。何度見直しても大体何かしら見落とす。
そもそも細かい見直し自体が苦痛で仕方が無いし、一字一句正確な仕様書を作る作業とか、思わず発狂しそうになる。
人の話を聞いた傍から忘れたりするし、メモってもメモそのものを無くしたりするのが日常茶飯事。
思えば昔から空気の読めない子供で色々問題があったらしいし、計算ドリルとかをまともにやりきった試しがなかった。
(面倒臭すぎて途中で投げ出してしまう)
細かい書類を用意するような事務手続き系も発狂しそうなほど苦手だ。
そういうわけでどうもADなんじゃないかと疑い始めたんだけど、診断ってかなり面倒なもんなのかな。
ttp://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20100212-00000001-voice-pol
まず、私自身が経験したことをお話ししたいと思う。2005年、杉並区が扶桑社の歴史教科書を採択したときのことである。
いずれの国であれ、自国の国民の子弟の教育内容は、その国の国民が責任をもって決めるのが当然である。どの教科書を選ぶかも国民の重要なテーマで、小中学校の場合、それは市町村の教育委員会の権限になっている。その権限に基づいて、杉並区の教育委員会が扶桑社の歴史教科書を採択するのではないかとマスコミで報じられるや、全国の民団(在日本大韓民国民団)から抗議の手紙が殺到した。全国各地の民団の各支部から続々と舞い込んできたのである。どの歴史教科書を採択するかは民団が強く関心をもってきたテーマであり、彼らの主張する歴史認識に反する教科書を採択しないよう強く求めてきたのだ。
そればかりではなく、杉並区議会でこの教科書採択のことが質問に上ると、民団の関係者と思しき人びとが大挙して傍聴に訪れて傍聴席に陣取り、大きな声で野次を続けた。議会の傍聴席でそのような行為は禁じられており、議長も注意をするのだが、どんなに注意されようとも意に介さない。さらに、区長室の前にも多人数で押し掛け、シュプレヒコールを繰り返したのであった。
もし、外国人参政権が付与されていたらどうなっただろうか。外国人が区長や区議会議員に対する選挙権をもつようになり、そのうえであのような激しい抗議活動が行なわれたとすれば、与野党を問わず、彼らの顔色を窺おうとする議員が出てきただろう。また、たとえばルール違反の抗議活動を排除しようとした場合、これまでならば、「日本人が責任をもつべき教育の内容について、このような干渉をするのは失礼ではないですか」と主張することもできたが、外国人参政権が認められていれば「同じ有権者なのに、われわれを日本人と差別するのか」という話にもなりかねない。
私は、大阪ー東京間を頻繁に移動する大阪出身者だ。そんな私も、東京と大阪には都会と地方を実感する。
都会でないところと東京を行き来している方の格差感ってのは本当にどんなもんなんだろうな、と私も頻繁に感じる。
偏見を恐れずに言うと、東京の大きさに一番驚いているのは実は大阪府民なのである。
特に大阪のターミナル駅などから20分圏内の都会出身者、と言った方がいいだろう。
そもそも、田舎から出てきてる人というのは、あらかじめ東京を想像して東京に出てくる(人が多いのではないだろうか。)
高い建物、たくさんの人。自分たちには想像のできないぐらい都会なんだろうと想像してから上京する。
自分たちが見たこともない規模の高層ビルや雑踏も、すべては想定内なのである。
大阪出身者にとって、”東京とは大阪より少しばかりでかいもの”程度の想像で東京に来るのである。
しかしながら、去年の4月から実際に住み始めてみて、こんなに東京と大阪は違うものかと実感させられることの、なんと多いこと多いこと。
大阪の実家が、環状線沿線に住んでいた私は大阪でも常に自転車で移動していた。
東京でも杉並区に住んでいる。東京に来てからも都心の移動はなるべく自転車で移動するようにしている。
特に地下鉄では、乗った駅と降りた駅でしか、街の様子を感じ取ることはできない。
すなわち、私は東京を、点でしか捉えていなかったのである。
実際に東京に住み始め、自転車に乗り始めると、これが点から線に変わる。
駅間の連続性を自転車の移動から感じ取ることができるようになるのである。
点ではない。
”点”で考えると、梅田や難波は東京でも大きな街の部類に入るだろう。
だから、私にとって、観光した際に感じた新宿や池袋の人の多さや街の大きさは想定圏内だったと言える。
東京駅から見える丸の内の景色も、まあビルが高いなー程度だった。
繰り返す。
特に東京駅、新橋駅などを中心としたいわいる都心と言われているエリア、
また新宿や池袋、渋谷を中心とした副都心と言われているエリア。
ここらの密集度が違うのである。
それは駅前だけではない。
もちろん、「東京はずーっと都会です。しかし大阪で栄えているのは都心でも駅前だけです。」
なんてことを言いたいわけではない。
とくに梅田や堂島、中之島から本町といった大阪の都心部は高層ビルが立ち並ぶ。
何度も繰り返すが、その濃度が違うのである。
駅間の街のエネルギーが違うのである。
それは簡単にいうと、街と街の間の人の多さであったり、お金をかけられてそうなビルの高さや数であったり、走ってる車の多さであったりする。
新宿や渋谷の”間”のエネルギッシュさに驚嘆するのが大阪人なのである。
また、ひとつひとつの街の中心部の大きさでは驚くことは少なくてとも、街が広範に連続性を保っていることに驚く。
例えば、中野、高円寺や吉祥寺、下北沢と言った都心から離れたエリアにまで文化性を持った街があり、そこに若者が集まっていること。
これは(人が集まりそこにも文化が栄える)都市としての範囲が山手線の内側だけにとどまっていないことを証明する。
そして大阪を支えるものたちは大阪の郊外や京都神戸で学び、社会人となってから大阪の都心部を支える。
つまり、大学とは郊外にあるものだ、というステレオタイプを持った大阪人から見ると、
東京には東大や早稲田や慶応をはじめ、エリートが集まる大学が都心部にも大きな面積を有してそびえ立っている。
これらの若者のパワーも東京のパワーの源としての連続性を保つことに役立っていることは間違いない。
ここで断言する。
”1番”になることでしか幸せになれないという人以外は大阪にいる方がしあわせになる可能性が高いのかもしれない。
大阪なら異常とも言える通勤ラッシュに巻き込まれることもなく、都心のそばに住むことができて、余暇の時間を増やすことができる。
なにも不便を感じることはないだろう。
だいたいのブランドが大阪に出店しているし、欲しい本が買えないということも少ないだろう。
都心に近い部分に住みやすいため、すぐに都心に出て好きな本を買い、そしてすぐに帰ることができる。
上場企業なら本社が東京にあろうが大阪にあろうが給料は業績次第であろう。
同じ6000万円のマイホームなら、東京よりも大阪に立てた方が、より広く、より都心に近く、よりリッチ差を味わえることは間違いない。
なら私はなぜ東京に?
大阪出身というだけで、よく聞かれるのは上京した理由である。
私は、東京がどんなものか、知りたかったのである。
それが一体どのぐらいの規模なのか。どんな人が集まっているのか。どんな文化を有するのか。
それについての理解を納得させ次第、大阪に帰ろうかな、なんて思っている。
永住権を認めるかどうかは法相の裁量だけど、住民として認めるかどうかに行政庁の裁量はない。
転入届不受理は許されず オウム住民票で最高裁判決
東京都杉並区と名古屋市中区に転入届の受理を拒まれたオウム真理教(アーレフに改称)の信者計6人が処分の取り消しなどを求めた2件の訴訟の上告審判決で、最高裁第1小法廷は26日、不受理を違法とした1、2審判決を支持、自治体側の上告を棄却した。自治体の敗訴が確定した。 オウム信者の転入届を不受理とした処分についての最高裁判断は初めて。 二つの訴訟の判決理由で第1小法廷は、住民基本台帳について「居住関係と合致した正確な記録をすることで、選挙人名簿の登録など住民に関する事務の処理の基礎とするもの」と指摘。 「市区町村長は、転入届をした者が新たに住所を定めた事実があれば、転入届を不受理とすることは許されない」とし「住民票を作成しなければならない」と述べた。
オウム信者ですら認められる。
況や、退去強制事由のない外国人においてをや。
「特急代が出ない。その分が自費というのはおかしい」という意見があった。
「裁判所まで片道1,000円以内の普通運賃で行けるのが当たり前」
「朝9時の呼び出し時刻に間に合うように行く」のには、
本数が少ないJR普通では間に合わず、特急に乗車しないと間に合わない、という
というか、この交通費は「事後請求」である。
これもよくよく考えるとおかしい制度であり、
例えば小笠原から東京地裁に強制出頭させられる場合の交通費が「一旦建替える」というのは、
あまりに経済的に負担が大きいのではないか?
自分も仕事の関係で、日帰り交通費とか小口費用とかを立替ることがあるが、
「支払いが少し遅れますが、いいでしょうか?」と申し訳なさそうにしている。
また、金額が大きい出張代などは、原則として会社が支払い、立替は発生しない。
本来、このような交通費は、立替でなく事前精算が筋であり、
ましてや国権で以って徴用するのなら、なおさらそうである。
「出頭交通費の立替えすらままならない」ということも、充分にありえる。
その場合、「経済的に出頭できないから、過料で罰する」という
本来なら、候補者全員に、国会議員のような「JRパス」を支給するのが「スジ」じゃないのか?
逆に言えば、
「出頭交通費すら立て替えられません、所持金は1,000円しかありませんので、
往復3,000円を支払えません」というのは、
立派な「辞退理由」になりえる。
地裁から徒歩圏内に住んでいるのなら兎も角、公共交通機関を使わないと地裁にたどり着けない人であれば、
この「抗弁」が裁判員辞退事由として有効ではないか?
7月12日の都議会選挙で、幸福実現党が当選していたかもしれない方法を考えてみた。
●幸福実現党候補の実際の得票数
選挙区 票数
港区 717
新宿区 689
品川区 1725
杉並 1218
豊島 1647
練馬 1486
足立 2115
江戸川 1856
八王子 1552
武蔵野 396
合計 13401
島部選挙区 12520
なので、今回、幸福実現の方々が一斉に住民票を千代田区に移していたら(これを仮に「ハム方式」と呼ぶことにする)政治家が一名生まれていた計算になります。
あくまで計算上。実際には信者以外の人の票もあるだろうし、信者で入れてない人もいるだろうし、信者がみんなハムるわけじゃないし。
ただ、千代田区の当選必要数は毎回こんなものみたいなので、あえてやらなかった、とも言える。
そもそも宗教団体が政治をやりたがるのって、それが真の信者数を第三者に露骨に把握させてしまうというデメリットがありつつも、下記のようなメリットがあるからじゃないかと。
1)強烈な自己顕示欲を満たしたい。
3)組織に共通の敵を持たせたい。
今回だと、マスコミとかハムが仮想敵だと思われます。
当選しなくても、マスコミのせいにできればいいし、みんなよく頑張ったよね、来世できっと報われるよ、的な、仮想大賞残念会みたいな展開がみられるのかと。
そういうわけで、国政ではハムらないでいただきたいものです。泡沫候補なのに面白みに欠けるんだよ。
(国政にはあんまり効果ないみたいだけど。>ハム方式)
今回の東京都議会議員選挙において、極右民族派の日本会議地方議員連盟に所属する現職都議のうち、35名+αの都議が議席を維持した。新人を含めると38名が議席を得たことになる。これにより、極右民族派は今後も都議会において一定の発言力を確保するものとみられる。
しかし、極右民族派は、大物の野村有信、田代ひろし、内田茂都議、立石晴康らが落選した。
地方議員連盟会長である野村有信の落選に象徴されるように、極右日本会議地方議員連盟は、その勢力を大きく後退させたといえよう。
野村は東京オリンピック招致の旗振り役でもあったため、今後、オリンピック招致活動にもなんらかの影響があるものとみられる。
民族派都議は、これまで都教委に対し絶大な発言力を持ち、日の丸君が代教育、反性教育、反男女同権、出版物流通規制などの国粋的政策を推進してきたが、反性教育の旗振り役だった田代ひろしらが落選したことにより、都議会・都教委での影響力が縮小する可能性がありそうだ。
内田茂 [落選]千代田区(自民 都連幹事長) 176票差で落選。50年ぶりの自民議席喪失。
備邦彦 [落選]府中市(民社系無所属/国民新党推薦)通算5期の古参都議が落選
田代博嗣[落選]世田谷区(自民党)日本会議地方議員連盟幹部・教育再生地方議員百人と市民の会
立石晴康[落選]中央区(自民党/公明推薦)7期現職8選ならず
野村有信[落選]青梅市(自民党/公明推薦)日本会議地方議員連盟会長・オリンピック招致特別委員長・神道議員連盟会長
佐藤裕彦[不出馬]品川区(自民党)後継候補の石田秀男(自民党)は落選
新藤義彦[不出馬]昭島市(自民党)後継候補の杉崎源三郎(自民党/公明推薦)は落選
三田敏哉[不出馬]北多摩2(自民党元議長)後継候補の高椙健一(自民党)は落選
米沢正和[不出馬]江東区(自民党)後継候補=次男の米沢和裕(自民党)は落選
倉林辰雄[不出馬]北多摩1(自民党)後継候補の野田数(自民党民族派)は当選
桜井武[不出馬]墨田区(自民党)後継候補の桜井雅之(自民党)は当選(民族派政策を継承するかは不明)
秋田一郎[落選]新宿区(自民党)自民党新人候補の吉住健一候補が当選しているため新宿区の会派構成に変動無し。(民族派政策を継承するかは不明)
http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-537.html
地方議員連盟
http://0901plala.blog81.fc2.com/
転載自由
「志なきものは去れ」
の前提があったからだと私は考える。
したがって、私塾は公教育とは相容れないものであると考えている。
当初、私が考えていたのは、1980年頃には既に言われていた産業転換にさしあたって、
「教育=子供が受けるもの」という発想からの脱却が不可避だと考えていた。
それは、生涯学習などという生ぬるいものではない。
例えば、正規労働者の基準的な週休を3日にし、休日の3日のうち、2日を語学学習にあてるといった、
例えばITエンジニアは週休を3日にし、
増えた休日を新技術の習得といった能力の最適化に使ったほうが、
全体の生産性があがると考えている。
これを社会主義的というかどうかは、自分でもよくわからないのだが、
こうした機能を、国が用意するか、民間が用意するか、悩むところではある。
国が用意すれば予算の面で心配はなくても、速度が遅い。
民間が用意すれば速度は速くとも、利益がでなければ消滅する。
では、三セクか?と問われれば、
という経験則がある。お互いの良さを打ち消すだけである。
以上を踏まえて、子供の教育に関していえば、私塾の運営母体となる企業をアカポス志望者で立ち上げて、
学校の場所を借りて(賃料は学校の収入となる)私塾を開くといった杉並区方式が一番現実的ではないかと思う。
(後述)
一晩置いてみたが、アカポス志望者でドイツの職人ギルドのようなものを作って、
理研や民間研究所を相手に派遣会社のような請負業務(テクニシャンなど)をやると良いのではないか。
あくまでアイデアに過ぎないが。
(おまけ)
ところで、こういう話を知っているか。
講演を聞くことができるのは、年間ウン十万円の会費を納めている人だけだ。
ところが、そのコンサルタントのお弟子さんの講演は一見さんでも1回1000円で聞ける。
これはイベントビジネスと同じで、「チケット売上 - (ルーム代 + 師匠への上納) = お弟子さんの取り分」だ。
で、それだけじゃない。
このお試しセミナーを通じて、有名コンサルタントの年会費ウン十万の会員になったら、
お弟子さんにフィーが支払われる。
大学時代の思い出を語ってくださいなんて言われても、僕には何も浮かばないだろうし、言い訳じみた生き方だなあってことを実感せざるを得ないので、なるべくなら避けたいことの一つだ。
それでも語るとすると、読書をしていたってことになると思う。それでも何百冊も読んだなんてことはなくて、ただ読んだ思い出しかないんだってことだ。
僕の卒業した大学は付属の私立高校からエスカレータ式で入学してくる奴らが大勢いて、彼らは入学当初からひとつの集団で、施設についても高校時代に来たことがあるのか、先輩が教えてくれたのかわからないが詳しいので、なんだか半年先輩面していた。友達が多いことが力になるんだとすれば、彼らは間違いなく権力者であった。
彼らと仲良くできればもっと楽しい、有意義な大学生活が送れていたんだろうと思うんだけど、僕にはそれをよしとすることができなかった。なんだか気持ち悪いんだよやつら。
おそらく付属校からのエスカレータ式入学者の中にも気の合う仲良くなれた奴もいただろうに、僕は一絡げに「付属校で入学して、しかも大学にはいってまで五人十人で徒党を組んでいる奴は馬鹿」なんて頭から決めつけていた。
人を勝手に蔑んでいる自分の中の弱さを知ることもできた。知り合いが居ないと僕はなにもできないんだってことを知った。友達を作るどころか、授業に参加する意識も希薄になってきた。勉強はすべからく自分のためにするのだというのは真実であろうけど、僕にはそんなことはどうでもよくて、ただこの非常識な仲間内とのやりとりを授業中に大声で喋りつづけるエスカレータの乗客と、その乗客とすでに顔見知りである、デパートの従業員のなあなあなやりとりをただ黙って聞いているなんて無価値な時間を僕はもう二度と味わいたくないと思った。何かを変えてやるなんてことは微塵も感じず、ただ席を立った。
これは私立に入学した貧乏人のコンプレックスのなせる業なんだと思う。高校時代には部活動ばかりに明け暮れて、勉強なんて一切しなかった僕が、二ヶ月勉強しただけで入学できたことがとてつもないひがみ根性を生み出したのだった。
僕の通った高校の偏差値は40中頃で、学区で言えば下から二番目。三年生の進路は就職、専門学校が二割、大学が一割(うち四分の三が短大やら指定校推薦やら。一般受験は四分の一程度)、残りの七割が進路なしという有様。そんな学校に通っていた僕が、二ヶ月ちょっとだけ勉強すれば大学に入れたことで当初の志望校であったこの大学に失望し、入学当初から大学に付随するすべてを嫌悪しながら図書館に通学するというなんとも不健全な学生となった。そしていつのまにか大学は卒業していた。
早々に実家を出て杉並区に居を移し、バイト先は池袋のとあるぼろビルで出会い系サイトから客を引っこ抜いて別のサイトに振るという、悪から見ても悪というだれから見ても害虫的な仕事を選んだ。
池袋には巨大なデパートが西口と東口にあって、海のものとも山のものともわからないものが流入してくる土地で、僕もまたその一人で、その僕の目指す東口はいつだって人混みにまみれていて、声のでかい男が目つきの悪い女と後ろ髪の長い子供を連れて徒党を組んで歩く後ろをついていかなければ、バイト先に着かないのかと思うとこれはもう恐怖なんだ。そんなときトイレの中にホームレスが居着いている、池袋始発でゆっくり座れる、適度にお日様を浴びながらも地下鉄と言い張る、あの電車に乗りたいと思うんだろうよ。
丸ノ内線はいつもお祭り屋台のヨーヨーつりの仕掛けのような形をして、山手線をひっかけようとするんだけれど、いっしょに成増なんてついてこられたら困るから、交差することだけで満足しているように思うんだ。そのうちにこよりに水がしみてあんなにひねくれたんだと思う。だれかのように。
ああ、そうか。
穴だらけの論理で無茶な主張をすべきではない。自分の主張の根拠を挙げることができないならば主張を取り下げるべきだ。
新卒採用が機会の平等を阻害していると言うならまだわかるが、中途採用も活発だと聞く。
つまり十分とはいえないまでも、機会の平等は以前より改善されつつあるとは言えるのだろう。
全人類にすばらしい教育を施せたらいいけど、それは難しい。根本的に解決することも難しい。
そこで出てくるのが次善の策となるのだが、それは君が主張する「理論上の手段」よりも理論上劣ることは
やむを得ないのではないか。「他に方法がない」とはそういう意味である。
ところで機会を平等といっても、どこまで平等に与えればいいのだろう。
政府がどうにかする段階のことではなくて、現場において、具体的に何がどのように
改善されるか見えてこない。もう少し具体的に論じてみてはどうだろう。いわば君の理想郷だな。
そのような政治的判断は別問題だと述べただろうが。そもそも、君は「自己責任」の名のもとに問題自体を否定したわけで、その君が問題解決の手法について論じるのは自己矛盾もよいところだ。
情報の偏在については問題があるといっているので、否定はしていない。
金銭的な問題についても、東大でも博士課程は無料になるなど地道な改革は進んでいるが、
昔のように私財をなげうつような人が出てこないか、上を伸ばすのもいいけど、
底上げしたほうがもっといいのではないか、と夢想はする。
何が言いたいのかさっぱりわからん。君は俺の話を理解できているのか?
具体的には、情報のフィルタリング(君は東大にいけない、女は勉強しても無駄という偏見)などの意識改革と、
金銭面での改善が必要と言うことだろう。
未成年に情報を与えるのは、教師か親であって、彼らが情報弱者でなくすことが先決ではあるが、
親教師の意識改革だけでなく、子供が親や教師以外の別チャンネルからも情報を得られる環境を整える。
例えば、郷土で成功した人をモデルとして使って公演などをすることも一つだろうし、
君自身が成功も失敗も含めて有益な情報を提供すると、提案に説得力が増すので是非おすすめする。
「○○は問題だ」と主張したことについて「じゃあお前が問題を解決すればいいじゃないか」なんて馬鹿なこといったら中学生でもぶっ飛ばされるぞ
機会を与えてくれといっても、どういう機会をどのように与えればイメージが湧かない。
そもそも情報が少ないのか、情報へのアクセス権がないことなのか、
情報へのアクセス権は確保されているが、それが子供の行動へ繋がっていかないのか。
親と子個別に論じてみてはどうだろう。
勉強という抽象的なことではわかりにくいから、13歳のハローワークという試みがある。
これも立派な試みだろうとは思うが、仕事の実像を見せることと、そこへどうやってたどり着くかの間には
まだまだギャップがあるように見える。
また杉並区の和田中学校で行われていることも、昔の寺子屋に近いものであるのだろう。
現状で行われていることを私の知っている範囲で二例あげてみたが、これについてはどう考えているのか聞きたい。
だったら他の種類のものを挙げるか、せめて他の可能性が存在する傍証を示せと言っているだろう。
「ないのであれば」と主張しているのは君であるが、なぜ「ない」と考えるに到ったかを示されていない。
例えば学歴に男女差があると言われるが、脳の仕組みとして男女差がある、という内在的な理由も考えられるが、
君のように外在していると考えることも出来る。しかしそのためには追加で証拠を示さないと意味がない。
ローコストにというのは、配分を考慮しての意ではなく、こと情報提供に関しては
現実にローコスで可能なのだから、君の余力の範囲内でできはしないだろうかということである。
機会の平等というのは、言うは易く、行なうは難しである。どこから計って平等であるか、
それは本当に機会の平等に寄与するのか、機会の平等と思って与えたものが、逆に不平等を生まないかなど、
議論は困難を極めるだろう。
ただそれだけの熱意があるのなら、機会の平等のために現状で、何がどれだけ行われており、
それらの効果について調査結果を出してみてはどうだろう。そうすることで、君の主張する
機会の平等がどういうものかもはっきりしてくるように見えるし、理解もされやすくなるだろう。
それはともかくとして、海外へ留学する権利を格安でとるために、とりあえず官僚になり、
帰国後転職し、さっと留学費用を国庫に返納し、数年働いて後は美女をとっかえひっかえしながら
海を見ながら余生をおくる。
これも自分に与えられるであろう機会の平等を見極めて、逆算したすばらしい人生設計ではあるのだろうが
一方でなぜか批判も多い。