2024-10-27

こうして2024年を生きている

毎週土曜日は、昼過ぎに車で出掛け19時頃に帰宅するのが、ここ数年のルーティンになっている。

今日は途中で夕食をとったため少し遅く、19時半ごろに環状七号線を南下していた。いつもなら大原交差点左折して甲州街道に入るところだが、今日はそのまま直進し三軒茶屋まで行くことにした。

最近村上春樹小説1Q84』を読み返した。正確には、オーディオブックで聴いたので、聞き直したというべきか。

初めに読んだのは、それがまだ発売されて間もなくだったはずだから、15年近くも前の話だ。それなりに面白く読んだ記憶はあるが、特段の深い感動が残っているわけではない。

改めて読んでみて、随分こってりとしたセカイ系の話だったことに少し面食らった。あなたと私の関係でこの世界の理が動く。今にしてみるとやや閉口してしまう設定に感じてしまったのだが、出版された当時はもっと新鮮で心惹かれる魅力があったのだろうか。そうかもしれない

三軒茶屋といえば、読んだ人ならピンとくると思うが、物語の序盤で主人公の青豆が首都高速道路3号線から非常階段を使って降りてきた場所だ。

その非常階段モデルではないかと思われる階段が、三軒茶屋付近国道246号上にある。それが本当に小説に登場する非常階段モデルとなったのかどうかはよく分からないが、近辺に存在するのはその一つだけだ。

そして、私はそこを15年前に訪れていた。

今も当時も、三軒茶屋には特に縁があるわけではなく、よく行く場所ではなかった。だからきっと、イベントか何かで行ったのだろう。そしてそのついでに、青豆が降りてきた非常階段を探してみようということになったのだろう。

その頃仲の良かった男女四人で、夜の三軒茶屋を歩いて回ることにしたのだ。非常階段を求めて。

その探索を共にしたうちの一人の女性と、当時私は付き合っていた。

彼女は可愛らしく、とても純朴だった。かといって天真爛漫というわけではなく、自分の思いを率直に言動に出すことが苦手だった。孤独劣等感を黙って内に抱え込み、時折それらが溢れ出して動けなくなってしまう人だった。不器用だった。手先も心も。

彼女とは数年付き合った後に別れた。同棲もしていて、お互いの親にも紹介していた。別れて間もなく二度ほど一緒に食事をしただけで、それ以降もう12年近く会っていない。

彼女は今どこで何をしているだろうか。正直なところ、彼女のことを思い出すことはあまり多くない。

でも今日はあの非常階段を探しながら、彼女のことを思い出していた。何しろ15年も前のことだ。あれが、三軒茶屋のどのあたりにあったのか、さっぱり覚えていなかった。

駅近くの適当駐車場に車を停めた後、とりあえず駅方向に歩き出したのだが、実はこれが逆方向だった。

週末の三軒茶屋割合に混み合っていた。友人たちと賑やかな時間を過ごしている人々の間をすり抜けながら、高速道路の高架を目で探っていると自分けが別の時空を生きているような気がした。

覚醒した後のネオが、かつて暮らしていた街を訪れたみたいに。

駅を越えて渋谷方面に歩いて行くと、明らかに何かのイベントの帰りだろうと思われる人の列が駅に向かって流れていた。

おそらく昭和女子大学で行われたのだろう。私もかつて好きだったバンドライブで行ったことがある会場だ。

この会場ではないが、彼女を誘って一緒にライブに行ったことを思い出した。

そのバンドも、彼女と別れてから間もなく解散してしまった。

方向を間違えたようだと思い、引き返して駒沢方面に歩くことにした。

歩きながらまた思う。あれから自分は何を得ただろうか。生計を立てる手段を得て、幾許かの金銭は得た。車も買った。家は買っていない。大きな怪我病気はしていない。結婚した。妻とはそれなりにうまくいっている。だが、子どもはいない。もともと私は子どもを望んでいなかった。結果として子どもを授かることはなく、それで良かったのだと思う。時々地元へ帰って、甥や姪と遊べばもうそれで十分だ。

彼女はどうしているだろうか。

私が子どもを望まないと言った時、彼女自分子どもを産んで家族が欲しいと静かに言った。このことについて、それ以上深く話し合うことはなかった。私は逃げてしまっていたのだ、逃げ道など本当はないというのに。

彼女はどうしているだろうか。一人っ子だったから、甥も姪もいないはずだ。

ようやく見つけた。あの非常階段だ。小説で描かれているものとは随分印象が違うが、15年前に見たものに間違いない。

高速道路の高架下、国道中央分離帯に置かれたその入り口は、狭くしっかり施錠されていた。そして、無骨で詩情のようなものは全くない。

かつて訪れた記念にと、私たちは埃と排気ガスで汚れた鉄骨に指を擦り付け「1Q84」と落書きしたのだが、そんなものはどこにも見当たらなかった。鉄骨にはペンキが塗り直されたようだったが、そうでなくても汚れを拭っただけの落書きが残っているとはとても思えなかった。

信号が変わるのをやりすごしてその場に佇んでみたが、特に大した感慨は湧かなかった。

ここは1Q84世界ではない。2024年東京だ。

空を見上げたが、生憎と月は出ていなかった。たとえ出ていたとしても、その月はたった一つで、何も従えてはいないことを私は知っている。

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