まあ人生(の勝ち組や負け組)や地頭をダニング=クルーガーで語るべきではないは言い過ぎなのかなあ
人生勝ち組だろうが負け組だろうが、運を実力と勘違いしてる輩はダニング=クルーガーみたいなものなのかもしれないけど
でも地頭でググって曖昧な定義の次に東洋経済wが出てくる時点で、あー、痛い人の使う単語としか思えない
オカルトっぽいというか
地頭の定義も「学校では習わない論理的思考とコミュニケーション能力」って、もっと定義が曖昧になっていくw
(というか、学歴コンプレックスにも似た、こういう学問をバカにして悦に入る人がビジネスの世界は多いの何なの?
多分、社会的な成功と学歴とか学術的頭の良さは関係ないから、そう思いがちなのだと推測はするけど
そりゃ、関係ないわなwと自分でも思うわけだが、それを攻撃的な話に持ち込むのが解せない
勉強なんてするより地頭とコミュニケーション能力、というのは要は、上司や老人を敬えとか大衆に迎合しろとかの言い換えに過ぎないし、
まあ、大衆に迎合しろとか、上司や老人は敬えとか、世渡り上手になれというのは理解はできる
だったら、そう言えばいい
まわりくどいんだよ
というか、まわりくどく言わないとならない後ろめたさがあるんだろ?)
論理的思考は知能検査でも繰り返せばいいのかもしれんが、コミュニケーション能力はどう探求すればいいんだ?
「おまえのコミュニケーション能力の探求や理解は浅はかだな。ダニング=クルーガー現象に陥ってないか?」
とか語るべきものなのか?
正解がないものに、さも正解があるかのように語るとか、
何か変なことが多すぎる
正解はないのだけど、探求し続ける、という姿勢ならまあ正しい
本当に、地頭だのコミュニケーション能力というものを探求し続けるという人がいるならそれはそれで素晴らしいんでないの?
俺はまったく興味ないけど
地頭だのコミュニケーション能力だの語りだす輩とイケハヤの親和性は高くて、
イケハヤ@仮想通貨大好き on Twitter: "「科学的とはどういうことか」を考えさせられますね~。ぼくは「外から流れてくる数字や言説を信じず、まずは自分の体で試して、確認すること」が科学的だと思うかな。そこから探求が始まるわけですから。自分のことばで語れるようになります。"
科学的である、というのは疑い続けることだし、そのためには仮説を立てて検証する、を永遠に繰り返すことだと自分は考えている
つまり、科学的であるというのは「永遠の知的好奇心による探求の旅」である
地頭だのコミュニケーション能力だの人間力だの老人力だの、いい加減にしろ
まあ、内心思うだけで言わんけどな
意味が曖昧な言葉を作って、何かを語った気になるって、江戸しぐさと似てるよなあ
ウソでも悪いことは言ってないからいいだろ、って、そりゃ駄目だろ
言葉遊びで、俺うまいこと言うなあ、うん、みたいなノリで聴衆を納得させるみたいなのってどこから来たんだろう
元々は富裕層向けのサロンだったわけだし、あれ登壇するために発表する側が大金払ってたりするわけで、
TEDは英語の勉強になるし、比較的まともな人はいい話することもあるけど、
時代はまったく違うんだけど、大衆が求めてるものとしての結論がそこに向かってる気がする
はー、ほんと不愉快だ
まず、幸福とはなんぞや? という話から始めることになるわけだが これはこれで正解がない問題に思える ブコメには当然、 「市民、幸福は義務です ZAP! ZAP!」 みたいな文字列が並ぶ...
コントロールできないものを、さもコントロールできるかの様に語る 正解がないものに正解があると言って大衆を飛びつかせる 不安感を逆手に取った商売の時代なんだろう 宗教はたし...
まあ人生(の勝ち組や負け組)や地頭をダニング=クルーガーで語るべきではないは言い過ぎなのかなあ 人生勝ち組だろうが負け組だろうが、運を実力と勘違いしてる輩はダニング=ク...
無いように思えるのは増田に論文読む習慣がないからやろ
真の科学者は煽るような用語を使わない。 (とは限らないが、例外的だ) イケハヤというかわいそうな人をイジメるはやめてあげて 影響力もないんだし、温かい眼差しで見守って。
『日立のAV』
パンティー
結論がクソ