高校生のときに先生に言われた言葉をはっきり思い出せなくなった。
それは私がこれまでの人生で言われた中で、一番心に傷として残っていた言葉だった。
シチュエーションは今でも覚えている。
高3の夏休み、午前中から始まる夏期講習を前に早く登校し、私はいつも早朝から自習室で勉強をしていた。
早く来すぎると昇降口が空いていないので、偶然外にいる先生を呼んでくるか、昇降口前で待つことになる。
校庭にも先生は見当たらないので、私は待つことを選んだ。
先生は、鍵を開けると私に対してぶつぶつ言い始めた。
まず、呼びに来ればいいのに、と。
それから、私がずっとクラスに馴染めずにいることを、靴を履き替える私を背に話し続ける。
そして、私の将来について、人格否定のようなことを言われたと記憶している。
そのあと私は、誰もいない自習室で悔しくて小さく声を上げながら号泣したのを覚えている。
そりゃ10年もすれば忘れるかという思いと、10年もしないと忘れられなかったのかという思い。
はっきりとした言葉を思い出せなくなった。
それだけで私は心が軽くなり、ツイッターにも書きなぐれないこの思いを、勢いだけではてなにしたためることにした。
私が場面緘黙症かもしれないと思ったのは、今から5年ほど前だろうか。
自分が喋れないことはずっと引っかかっていたが、学生時代は、私は人見知りだ、社会不適合者なんだと単純な言葉で片付けていた。
自分と見つめ合うことが多くなった社会人数年目で、病気じゃないんだろうかと検索した先に、やっと見つけた答えだった。
正確に診断されたわけじゃない。
しかも、今となっては周囲との人間関係の築き方が学生時代とは異なるのもあって、うまく社内でやっていけている。
ただ、私は場面緘黙症のような症状に追加して、自己肯定感が低いという特徴もある。
自分が発する言葉は必ず誰かに否定される。自分の発した何かは周囲に受け入れられるはずがない。
自分の声が、体が嫌い。自分は周りより劣っている。自分の行動は相手にとって不快でしかない。
声を発する怖さ、体を動かす怖さ、学生時代は常にこうした劣等感と恐怖感が渦巻いていた。
その症状がいつからかと聞かれると、物覚えついたときからが答えになるかもしれない。
内弁慶ともいうかもしれない。
ただ、周りがいう、人見知り、恥ずかしがり屋、そんな言葉で片付けられるレベルではなかった。
とくに幼稚園、小学1,2年生のときは、先生とは首を縦か横にふるか、傾げるかのコミュニケーションしかとらなかった。
Whatで聞かれたときのみ、答えを言った。
人見知りの次元を超えていた、と思う。
小学6年生のときの担任に言われた「この中には、まだ殻を破れない人がいる」という言葉に対して、
あ、私かと思ったと同時に、殻をかぶっているつもりなんて毛頭ないのにと感じていた。
数人の友達がいることもあったが、高校までの学生時代の大半は1人で過ごしていた。
1人のほうが楽だったし、喋れない自分を否定する気分にならなくてすむから。
でも、症状が改善することはなかった。
それを一度も言われることはなかったし、真面目、大人しいの一言で、親にも伝えられていたと思う。
ただ、緘黙症状は、兄にも弟にもあったのを私は知っている。
兄は小学生のときはいつも1人だったし、クラスでも馴染めていないのを私は知っていた。
私と帰りが同じになっても、絶対に話さないのが暗黙のルールのようだった。
弟は友達ができることもあったようだが、学校から持ち帰ってきた紙には、「なんで喋らないの?」と書かれていた(クラスのみんなから言葉をもらう何かだったと思う)。
母親が数年前に正式にADHDであることが診断されたが、うちの血筋はどうやら精神疾患になりやすいらしい。
統失の話はまた別として、家庭内の環境が問題か、遺伝要因から緘黙症状が引き起こされたのかもしれない。
インスタグラムで、自分の子供が緘黙症であることを公表しているアカウントを見つけたが、
どうやら「普通」の家庭なようなので、もしかしたら要因はまた違うのかもしれないけれど。
幸い私は、大学生、社会人と成功体験を積み、周囲に自分の性格を理解してもらえる機会が増えたのもあって、
普通の「人見知り」くらいになったし、コミュニケーションも以前と比較してとれるようになった。
ネットでは普通にやり取りができていたし、中学生以降はネットを通じて日々の思いを発信していたので、その影響も大きいかもしれない。
緘黙症状は人によって違うし、その人それぞれで改善方法やきっかけも違うんだと思う。
子供を産む年頃になった今は、子供が場面緘黙症になったらと考えることもある。
でも、親や周囲が気づけなかったことを私は気付けるかもしれない。
それだけでよしとしよう。