2019-05-10

大津事故から見る「マスゴミ批判の風潮

先日、大津市散歩中の保育園児の列に自動車が突っ込む事故が発生した。この保育園記者会見のようすから報道への批判が高まっている。

事件と会見の詳しい内容はもう各自ニュース記事を見ていただきたい。

このような被害者への過熱報道や無遠慮な態度をめぐってマスメディアが「マスゴミ」と揶揄される事態は頻繁に起きている。少し前にはジャニーズグループ嵐の活動休止会見でも、記者が「無責任ではないか」と質問を投げかけたことに怒りの声が集まった。

SNS上でみられる批判の内容のほとんどは、現場にいる記者に対して「良いニュース写真を得たいあまり良心を失っている」と指摘するものだ。しかし、記者はいったい何のためにこのような人道に反しているとも思える行動をするのだろうか? 「お金になるから」と多くの人は答えるだろう。ではどうして被害者の悲しむ姿がお金になるのか。

それは「閲覧数が増えるから」に他ならない。マスコミ情報を売る仕事であるのだから、当然、たくさんの人が見たがる情報積極的記事にする。過熱報道批判する声はもう何年も何十年も前から絶えることがないにもかかわらず、彼らは被害者被害者遺族への取材を一向に辞めない。誰にも求められていないのに、人々のニーズ無視してまでこのような記事を書き続けるほどマスコミも愚かではないだろう。ということはやはり、これらの記事は「求められている」のだ。

おそらくきちんと考えれば、説明するまでもなく誰でも分かる理屈だろう。しか最近マスゴミマスゴミと騒ぎ立てる人々を見ているとどうもこのことを忘れているように思えてならない。もちろん、「いくら稼げるからって良心に反していいわけがない」という主張は尤もである。ただ、SNS上でみられる批判の多くからはまるで記者自身被害者の悲しみを見たがっている、とでも言うようなニュアンスが感じられる。先の嵐の会見の場合でも、記者自身が「無責任だ」と感じているためにそう発言したわけではないと個人的には思う。(ファンを除く)一般大衆が薄ぼんやりと抱くであろう疑問。彼らは直接話ができる立場としてそれを代弁しているに過ぎないのではないだろうか?

一番最初にあるのは大衆需要であり、マスコミは望まれるとおり供給を与える。どちらが悪かという問題でもない。ただそういう形でうまく歯車がかみ合った結果、今回の園長先生のように泣かなければならない人が生まれしまう。これはシステムだ。「極悪非道記者」や「極悪非道編集長」というドラマのように分かりやすい巨悪が存在するわけではない(だいたい最近ドラマにすらそんな明確な悪はいない)。

きっと多くの人は、その事実をはっきり意識しないにしろなんとなくは理解しているはずだ。だがそれを認める前に、心のどこかが声を上げる。

「じゃあこの怒りをいったい誰にぶつければいいんだ」。

需要がなくなればこんな痛ましい過熱取材報道もなくなるかもしれない。だがその需要とは? 「ついついセンセーショナル記事を読んでしまう」程度の人々は本当に弾劾されなければならないほどの悪なのか。私は被害者の苦しみを糧として制作された記事を読むのが好きですなんて主張する人はいないはずだし、そもそもそれ程の自覚もないだろう。

から誰に怒ればいいのか分からない。なんとなくこんな報道が間違っているということだけはわかっても、その正体までは考えつかない。

そういうとき、ぱっと目について直接的に悪を為しているように見えるのは現場記者なのである

繰り返すが、彼らにまったく罪がないとは言わない。この文章を書いたのはマスコミ擁護するためではない。しかし、考えてほしいのだ。ものごとの本質とは何なのかを。

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