私は、人生をどれだけ効率的に生きれるかを試してる人種かも知れない。
男女差別に憤るステージはもう終わって、逆にこの不平等な中でどれだけ効率的に生きれるかみたいな諦めのステージに移行している。
顔面が可愛いとか可愛くないとかいう感性が、人より鈍いと思う。
私にとってその人の顔はその人の顔ってところで終わっていて、可愛いとか可愛くないとか考えるところまでいっていない。
あと、Kulakova Sonyaさんとかはめちゃくちゃ顔面がかわいいと思ったりもする。
インスタで唯一フォローしている。
でも、世間一般の顔面が可愛いの基準がわからない。いっそ比率とかがあったら楽だと思った。
私にとっては友達はみんな存在が可愛いし、みんな違った良さを持ってる。価値のある人間だと思う。
AKBの子たちも、みんな明るそうで、笑顔が似合う存在に見える。
そして、顔に黄金比があるというのを最近知った。比率あるじゃん!
私には世の中がわからない。
男か女かなんて、毛根の数が奇数か偶数かぐらいどうでもいいことじゃない?
毛根の数が奇数だからかわいくあれ!とか、礼儀正しく偶数を立てろ! とか、偶数は辛いことも耐えろ耐えろ耐えろそれが偶数らしいということだ! とか言ってる人がいたら正気を疑うよな。私は疑う。
確かに性機能(身長や筋肉のつき方なども含む)は違うからそこに差異はあるし、そこは尊重し合わなければならないけど、それ以上でも以下でもない。
だから、健康診断で男女で分けるのはわかるけど、テストで男女別の平均出すのとかそういう分け方は意味がわからないよな。
同性同士だろうが異性同士だろうが、本人たちが幸せならなんの問題もない。むしろ幸せバッチグー!! じゃん。笑顔で拍手する。
他の人にそれをジャッジされて何か言われる筋合いはないし、外様は本人たちの幸せを侵害する権利がないことに気付こうよ。
あと、たまに同性同士だと子供が生まれないから人類が滅亡するとかいう人がいるけど、そんな程度で滅亡するような種なら滅びたほうがいいと私は思う。
無理矢理異性と結婚して、子供を作って、その無理した個人は、人類のための歯車としてしか生きられていない。
そんな悲しい生き方を強制する権利を持つものはこの世界にはない。
高二の時に、授業の雑談の一環として、ゲスの極み乙女の川谷絵音さんとベッキーとの不倫騒動について誰が悪いのか話題に出た時の違和感を覚えている。
それは本人たちの問題じゃないのか?
不義理なことをした芸能人が謝っているのはなぜカメラに向かってなのか?
当事者間で謝ればいい。
けじめをつけるために。今回の騒動で心を乱してしまったファンのために謝る。
まあわかる。
でも、なんだか世間は、自分に裁判官の権利があると誤解してしまっているようにも感じる。
今までその人たちに興味もなかった人たちが、事件が起こると集まって、裁判官のように振る舞う。
そういった自分に気づいているんだろうか。
なぜ女はいつも女くさい文章で男女に差などないと主張したがるのか