障害者に関するお話です。不快に感じられる方はご注意ください。
障害者とひとくちに言っても多種多様ですが、ここでは身体や脳、精神などのものには限定しない事とします。
こんな内容の記事をエントリーしておいてなんですが、僕には一切障害がありません。
後ほど書きますが、障害があるのではと疑いをかけられたため様々な検査を受け、テストなども行った結果、一切障害はなく、発達障害などのものも無い、という結果でした。
なぜ結果を受ける必要があったか。端的に言えば『障害者ではないか』という疑いをかけられたためです。というより、それしかないですね。
事は小学生の頃、僕は周囲の人と行動を合わせるのがとても苦手でした。周りのすることと自分のしたいことが違うのだから、他人と行動が変わるのは当然のことだと考えていました。
そして、僕は笑うのが好きでした。周囲の人が笑っているのも好きでした。お笑い芸人になりたいと考えていたこともありました。
そして笑いを取りたいがため、様々な奇行に走ることもありましたし、自分で面白いと思うこともたくさんやってみました。
結果として僕と父は学校の校長室に呼ばれ、校長直々に『お宅の子は頭がおかしいので障害者クラスに入りましょう』とお達しをいただきました。
なんの障害なのかわかるまで検査をし、その間の1カ月ほどを障害者クラスで過ごしました。
僕自身は、障害者クラスであたらしい友達もできたし、時々検査に行けば面白いテストや見たことない機械にかけられ、変にワクワクしてたのを覚えています。
家族はそうではありませんでした。校長を相手にさまざまな話が進んで、危うく出るところまで出そうとしていた、とまで聞きました。
そして様々な検査を重ねた結果、僕には一切病名のつく障害は無く、単にそういう性格の子供だということがわかりました。
中学生になってもほとんどそれは変わらず、そんな自分のまま多感な時期を迎え、そんな自分のまま青臭い思いも甘酸っぱい思いも経験しました。
僕と仲良くしてくれる人ばかりではありませんでした。学校ではやはり、クソ障害者なんて呼ばれたこともありました。
でも仲良くしてくれる友達も数多くいたし、何よりそんな事を言ってくる子と仲良くする気は初めからなかったので、特に気にはなりませんでした。
高校生になり、そして大学へ行き、この時期でだんだんと、社会の姿が見えてきました。
そして知ったのは、社会というものが僕のようなタイプの人間に対してそれほど寛容ではない、ということでした。
小学生の時の校長先生のような人が大半を占めているんだと、知りました。
突然ですが、パラリンピックの水泳選手、一ノ瀬メイ選手という人がいます。
彼女は、障害の『害』の字をひらがなにするのが嫌いだと語っていた。
『私からしたら腕がないのが障害なんじゃなくて、それを持って生きていく社会が害』
『私からしたら障害は本人じゃなく社会やから、ひらがなに直して勝手に消さんといてほしい』
この話を初めて聞いた時の衝撃は忘れられません。
日本のスイミングクラブに入ろうとしても、腕がない人は困ると断られ、海外のスイミングクラブでは、ただタイムだけを聞かれOKをもらえた。
バリアフリーという概念が生まれたとはいえ、それは建築の話に限ってしまい、人の中にある社会というものは、いまだ障害者を障害者のままにしている。
社会というものに障害がある。その部分に生きている人を障害者と呼ぶ。
そしてそれらの障害に、病名がつけられることで初めて障害者だと認定される。
では、病名がつかなかった僕はどうなるのでしょうか。社会人になり、様々な新しい病気を知り、自分を知るためにそれら全ての検査を受け、結果健康体だと診断された僕は、なぜ社会から障害者だと認定されてしまうのでしょう。
僕には、社会が明確な障害を抱えているのにそれを認識せず、病名もつけられず、誰の助けも借りられない、理解者もいない、そんな部分がポッカリと開いている気がします。
そしてそれは、社会の障害なのに障害と認めてもらえない、『透明な障害者』と言えるのではないでしょうか。
そんな『透明な障害者』は、社会がどうしても生きづらくて、苦しかったりしんどかったりしても誰も頼れず、理解も得られず、今でも苦しんでいると思います。
そしてそれは、その人個人の問題とは言えず、やはり障害を抱えてそれを見ようとしない社会の問題だと思うのです。
少なくとも、僕は今でもそれを感じる時があります。心無い言葉をかけられることも、冷たい目を向けられることもあります。
どうか、もしあなたがこれから先の人生で、自分の常識的価値観から逸れた行動をする人が現れ、その人が障害者だろうと頭の中でレッテルを貼りそうになった時、どうかそんな『透明な障害者』のことを思い出してください。