はてなキーワード: 童心とは
忙しくて家に帰れないけど優しい夫と、生まれたばかりの子供とずっと三人で暮らしてた。親元から離れて、知り合いが余りいないところで、私は出産と育児で仕事は退職した。子供が大きくなったら復職しよう、保育園に預けて復職しようと思ってた。
一歳二歳のころは、気が狂いそうに辛かった。同時にすごく子供は可愛くて可愛くて寝ているところを見ると胸がキュンキュンしたんだけど、毎日毎日育児だけで話す人も居なくて、インターネットで日記を書いたとしても、むなしくてだめだった。
夫は時間を見つけていっしょに買い物行ったり生協を利用を進めてくれたり、仕事の帰りには買い物してくれたりした。でも帰りはとにかく遅くて、夜の九時とか十時とかで、朝は七時に出ていく。その間私は子供と一緒に過ごしてた。散歩したり図書館行ったり、お話したり、公園行ったり、思いつく限り、色々した。楽しかったと思う。今、当時の子供のビデオをみると、キャーキャー笑っててすごくかわいい。すごく明るい。私も笑ってた。でもすごく辛かった。
何が辛いかっていうと、社会から取り残されて、とかそういうんじゃなくて、単純に、誰とも全然しゃべらないことと誰もこの辛さが全く解ってくれないことだった。子育てで家に入れてシアワセだねと言われるし、確かにそうなんだろうと思うけど、子供とだけ過ごす毎日が、子供に毎日気を配る毎日が、ちょっとスーパーに行って目を離した隙にどこか行ってしまう子供を非難するようにつれてくるおばさんが、公園で遊んでいる子供に仲良くしてくれるけど時々目を話していると意地悪をする近所の小学生が(その小学生は家にあったゲームを盗んでかえっていったみたいだった)引っ越してきたばかりの誰か解らない人に対するやさしいし何でも言ってねって言ってくれるけど実際は何もしてくれない近所の人が、公園出会う仲良いようでよそよそしいようでがんばって仲良くならないといけない必死だったりするか逆に輪には入れていて既に横柄なお母さんが嫌だった。人間関係がいやだった。子供のために人間関係を作ってその人間関係で人間扱いしてもらわないといけない。仕方ないとおもっていたけれど、どうしたらいいか解らなかった。公園では子供がそれなりに遊んでくれたし、近所のお母さんも気を使ってくれたと思う。子育ての話もしてくれた。でも、すごく時々だった。仕事があって保育園に言っているお母さんは忙しい。仕方がない。母親神話とか児童心理学の本とか虐待についての本も色々と読んだ。子供の虐待ホットラインとか市民の相談とかも知っていたけど、何が一番自分が不満なのか辛いのか良く解らなかったから、相談はしなかった。ただ、時々酷く一人にはなりたかった。考えが全くまとまらない。子供の寝顔は毎日見ていた、みるようにしていた。寝顔はすごくかわいい。寝顔でなくてもかわいいんだけど、寝顔は気楽にかわいいからだ。寝顔を見ないと、いつか、子供にひどいことを繰り返すんではないかと思っていた。子供に何でそんなことするの、と怒る時、怒った時、すごく嫌だった。子供が危ないことや怒るべき事は怒るべきだけど、何、お茶碗をひっくり返したぐらいで怒らなくていいのに。でも怒ってしまっていた。些細なことで。それに自分で気付いてから、夫に私はおかしいか、怒りすぎてると思うと話した。虐待とかしてしまったらどうしよう。夫は日曜、土曜と、子供と実家に帰ってくれたり、子供を見ていてくれたので私は図書館にいったり買い物にいったり友達にあったりした。でも月曜日からはまた一人だ。子育て支援もすこし利用したけど、そんなに便利と言う訳ではなく、一時保育も余裕があるわけでない家計からは捻出しづらかった。
でも保育園は全然空いていなくて、待機児童だらけで、入所にはすごく時間がかかるだろうと言われた。私立の保育園は月に7万かかると言われた。何のために働いているんだから解らない金額だ。そして子供と一緒にいれるわけでもない。無認可の施設もそうだ。一体どうなっているんだろう。仕事には出れなかった。子供と毎日過ごす。化粧も全然しない。夫は元々化粧が好きじゃなかったからそれがいいって言っていたけど、久しぶりに化粧したら、目元にしわが出来ていた。ぞっとした。自分の顔が解らない。
ある日の昼、買い物の帰りにうどんを子供と一緒に食べに行った。安いうどん屋さんでうどんを食べようとしていた。店でつまづいて転んだ子供が泣いた。しばらくあやしていたら、隣の席にいたおじさんが「しつけがなってないから泣くんだ」と喚いた。私は、うどんを残して席を立って子供を鞄をかかえて外に出た。涙がボロボロでた。こんな小さい子供のしつけが出来るわけ無い。でも店に入った自分が悪いのかもしれない。なんでこんな目に会うんだろう。しつけが出来ていないっていうことは親失格だってことだろうか。子供に怒ってしまう。もう死にたい。やめたい。でもそう言う訳にも行かない。自転車に乗って帰ろうと思っていたら、店から出てきたさっきの人とは違う、知らないおじさんが「気にするなよ」と言って笑いかけてくれた。「ありがとうございます」と言って泣きながら頭を下げたら「子供が泣くのは当たり前だから!がんばれよー!」と言って、おじさんはニコニコ手を振って車に乗って帰っていった。
今は子供は当時よりは大きくなっている。店で騒いだりもしない。保育園はずっと待っていたら入れた。仕事もはじめた。子供は友達が出来た。夫は仕事を変えた。一緒にいてくれる。二人目もほしい、って言っている。
あの時、「気にするな」って言ってくれた人のことは何となく覚えている。あの時、そのまま家に帰っていたらどうしていただろう。オオゲサだ、とは思う。何もなかったかもしれない。でも。
こないだ、電車で泣いている小さい子がいて困っているお母さんがいたので、持っていたサクマ式ドロップをお母さんに良かったら、と言って渡した。困っていたお母さんと過去の自分の姿がダブって見えた。私の隣にいた、子供が、ちいさいねーかわいいねーと言っていた。子供と手を繋いで家に帰った。
一人が間違ったことを言った時に、2〜3人がそれを諌めたら、4人目は出てこないことが多い気がする。
4人目が出てくると、さすがにもういいだろ、みたいな感じで、かえって4人目が諌められることがある。
4人目が1〜3人目と同じ指摘を繰返してる場合に限らず、たとえ新たな視点からであっても、美しくない物として諌められる。
(心ない4人目が諌められなかった場合、堰を切ったように、残った人々も寄ってたかって諌め始めることが多い気がする。小学生の「帰りの会」で一人の悪童を吊るし上げる時の、アレ。)
「論理的な指摘・反論は善である」という思想は、弁証法を前提にしている。
複数の正義(仮)が対峙している時に一方の正義(仮)を相手に叩き付けて良いのは、叩き付けられた相手が(再)反論することによる公正な競争から、よりもっともらしい正義に近付くことができるからだ。
もし相手に自分の正義(仮)を一方的に押し付けられる状況があれば、その時はこの弁証法の前提を欠き、「論理的な指摘・反論」(=正義(仮))は悪となる。
ところが、(再)反論には労力がかかる。
敵の正義の量がキャパシティを超えると、敵の正義それぞれが各個撃破可能であっても、物量に負けて敵の正義を打ち砕くことができなくなる。
逆に言えば、すでにキャパシティを超える我らが正義に晒された敵正義に対しては、ノーリスクで自正義をぶつけることができる。
(吊るし上げによって、生意気なクラスメートを泣かせることができる。男子も含めクラス全体で一致して、頭が良くて強気なヤツを泣き崩れさせるのは、実に気持ちいい。)
であれば、キャパを超えるだけの量の正義に晒された敵にさらに自正義を主張することは、相手に自分の正義(仮)を一方的に押し付ける行為であり、悪である。
だから、「4人目」は悪として諌められる。
しかし「4人目」の閾値を突破して吊るし上げ状況になれば、圧倒的多数は故に自分達が悪であることは顕在化しないから、快楽をほしいままにできる。
で、まぁそれはいいんだけど。
文章として、おもしろかったです。
惚気に聞こえる方もおられるかと思いますが、
個人的に思う事を書かせていただきます。
10代で処女を捨てましたが、感動は全くありませんでした。
初めてできた彼氏でした。
やる事をついにやったけど他の奴らは10年以上前に当たり前のように体験していたんだよな。
はい、他の人達すべてがではありませんが、そういう方もいらっしゃったと思います。
10年以上も待てばそりゃ感動も糞もないわ
これ以下、こう来ましたか。
誰もが一度は食べたい超高級料理(女)を順番待ちしてたら理不尽にイケメンに横入りされてしまい
長者の列の最果てで待ちに待ってやっと自分の順番が来たが既に冷めて腐っている高級料理(女)を食べても当時の味がするわけない
仮にこれからタレントクラス何百人とセックスしても一時的な快感だけで心の中は孤独なままだな
やるべき期間にやらないと意味がない
「当時の味」とは過去の味ですよね?
なぜ、「今の味」を楽しめないのでしょう。
なぜ、今この時を堪能しないのでしょう。
「やるべき期間にやらないと意味がない」という事もあると思います。
しかし、その時期を逃している訳ですから、次にその時期を逃さぬ様努めた方が・・・と個人的には思ってしまいます。
過去に未練があるのでしょうか。
私は過去を思って後悔するより、過去の出来事を「経験」として受け止めています。
良い経験からも、芳しくない経験からも、学ぶ事は沢山あると思います。
童貞捨てて気付いた
俺はセックスしたかったんじゃない
青春がしたかったんだーー
今からでも出来ますよ。
2人で叶えたい夢について語り合ったり、
本の話や、ニュース、お笑い、旅行、音楽、食事、映画等について、お互いの思いを語り合ったりします。
悲しいケンカもします。
その時々で「青春」の内容は変わって来ると思います。
過去の自分に思い描く「青春」は、この方には出来ないという前提の文章でしたが、
どこかで、今まさに過去に描いた様な「青春」をしている方が全くいないとは限りません。
だとしても、自分には出来ないと思うのであれば、
取り戻せない過去よりも、今を楽しんでみてはいかがでしょうか?
回ってみました
ふらふらします
思いのほか気分が悪くなってしまいました……
でも、ぐるぐるするのはなかなか面白かったです
童心に帰ったみたい
一緒にぐるぐるしませんか
http://anond.hatelabo.jp/20081123023437
> 「少なくとも体罰で傷つくことは防ごう!」
怪我をさせないってこと?それなら、傷害罪としてコンセンサスは取れてるからいいんじゃない?傷付かないレベルの体罰はOKと。
と言う事になる。これじゃあ、オリンピックレベルのエリート教師でもなきゃ、とても教育なんて出来ない。(まあ、はてサは教師と児童の非対称性に反発してるんだろうから、これを受け入れない理由はないはずだけど)
「言葉の力」なんて言ってる奴も居るけど、そう言う奴は懲戒的要素を含まずに、純粋に説諭だけ(もちろん長時間だと苦痛だから短時間で)で指導が出来ると思ってるの?結局、懲戒して子供に苦痛を与える事で指導してるのだから、目糞鼻糞。説教にしろ体罰にしろ、所詮はどっちも「自分がこの人をこの程度怒らせる事をした」という信号であり記号であって、生身の生き物として受信が容易なのは体罰でしょう。
どうすればいいって、一時的な苦痛ではなく、心身いずれかに怪我をさせたらだめ、でいいような。
喘息が酷くなって先週末から入院している私は売店へ行く許可がやっと降りて
売店について仲良さそうな60歳ぐらいの老夫婦がいて
その会話が、とても可愛らしいと思ってしまったので今、走り書きをしている。
後悔はしていない。
どうやら旦那さんのお見舞いに奥さんが来たとゆう感じだった。
奥さん『あなた、もうこんな一杯買ったんだから、また明日一緒に来ましょうよ』
旦那さん『バナナ食べたい。こおてくれ』
奥さん『(呆れ顔で)はいはい。あなたどんだけ食べるんですか。』
その間も旦那さんは、何か買ってもらおうと店内をうろうろしている。
と言いながらアイスを2個カゴに入れる。
奥さんは私たちに苦笑しながらペコっと頭を下げた。
奥さんも、旦那さんも凄く楽しそうだった。
年いっても、こんな風に仲良く病院でデートできるって良いよね。
私の両親と言えば、娘が大変だと言うのに世話は兄貴に任せたままで
東京都心のホテルが提供する男性向けの宿泊プランが、好調な売れ行きを見せている。客の中心は30??40代のビジネスマン。非日常の空間で健康や美容を重視した特典サービスを受け、自分磨きをしているようだ。
全国に先駆けメンズシングルプランを始めたのは、京王プラザホテル(新宿区)。2003年から「俺(おれ)の時間」を販売。「仕事も家庭も忘れて1人になれる」と好評を得ている。昨年からは、乗馬感覚で楽しむ健康器具「ジョーバ」を室内に導入。童心に帰ってもらおうとミニカー「チョロQ」も置いた。「男性は女性よりも、室内でゆっくり過ごすのを好まれます。独身の方も多いようです」と同ホテル。月に10??20室稼働するという。1泊2万500円から。
ホテルニューオータニ(千代田区)も、04年からメンズプラン「おとこの革命」を始めた。「着こなしで磨く」「ダンディにくつろぐ」など6つの特典コースを用意。宿泊者が目的別に過ごし方を決める。アメニティーの海外ブランド化粧品を使ったり、館内の理容室でひげをそったりと、重要な会議や記念日といった大切な日のための準備を提案する。1泊3万6000円から。
一方、グランドプリンスホテル新高輪(港区)は4月から、炭の脱臭や空気浄化作用による癒やしを特徴にしたプラン「MEN’S STAY」をスタート。炭綿を使った作務衣(さむえ)と寝具で、ワンランク上の眠りを目指す。羽田空港や新幹線にアクセスがよく、東京出張時に自腹で料金をプラスして、スパマッサージなどを受けるビジネスマンもいるという。1泊2万4200円から。
これを全部読んでいない人間は「猿」です。
ちなみに猿に人権はありません。ネットで表現をする権利も自由もありません。よく覚えておくように。
レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫
ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫
ヴァレリー『精神の危機』
ハイデッガー『存在と時間』ちくま文庫, 岩波文庫, 中公クラシックス
ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』複製技術時代の芸術, 晶文社クラシックス
ウィトゲンシュタイン『哲学探求』大修館書店
デリダ『グラマトロジーいについて』
ベイトソン『精神と自然』新思策社
海外文学
『唐詩選』岩波文庫
シェイクスピア『ハムレット』角川文庫、新潮文庫、岩波文庫、ちくま文庫
ゴーゴル『外套』
ポー『盗まれた手紙』
エミリー・ブロンテ『嵐が丘』
フローベール『ボヴァリー夫人』
ドストエフスキー『悪霊』
カフカ『審判』
魯迅『阿Q正伝』
トーマス・マン『魔の山』
ザミャーミン『われら』
ムージル『特性のない男』
セリーヌ『夜の果ての旅』
フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』
サルトル『嘔吐』
ジュネ『泥棒日記』
ロブ=グリエ『嫉妬』
レム『ソラリスの陽のもとに』
エリオット『荒地』
二葉亭四迷『浮雲』
樋口一葉『にごりえ』
島崎藤村『破戒』
田山花袋『蒲団』
有島武郎『或る女』
内田百〓『冥途・旅順入城式』
江戸川乱歩『押絵と旅する男』
谷崎潤一郎『春琴抄』
大岡昇平『俘虜記』
埴谷雄高『死霊』
安部公房『砂の女』
野坂昭如『エロ事師たち』
島尾敏雄『死の棘』
古井由吉『円陣を組む女たち』
後藤明生『挟み撃ち』
円地文子『食卓のない家』
中上健次『枯木灘』
斎藤茂吉『赤光』
萩原朔太郎『月に吠える』
北村透谷『人生に相渉るとは何の謂ぞ』
正岡子規『歌よみに与ふる書』
石川啄木『時代閉塞の現状』
小林秀雄『様々なる意匠』
花田清輝『復興期の精神』
江藤淳『成熟と喪失』
by 柄谷行人、他
追記
ネットにはほとんど「猿」しかいないんじゃないかと思うことも多いので、是非、脱「猿」してみて下さい。2chは「猿」の巣窟でもかまわないのですが、はてなが「猿」の巣窟であってはインフラ、リソースの損失だと思っています。実のありげな議論が起こっているなと思いきや、はてな「猿」が集団でやってきて議論を潰しているケースがほとんどなので。
http://anond.hatelabo.jp/20080224002737
選択肢として自らを滅することを選んだAさんは、
本人が打ち明ける以前からなんとなく察しは付いていた。
その原因は……本人申告談だが、父親にあったという
あの子の「私の苦しみを分かって」というとりとめのなかった話を
僕なりにまとめてみると、
ということになる。
なんだか児童心理だか小児精神病だかしつけのABCという本だかに出てきそうなエピソードばかりだ。
あまりにもありすぎな話なんだが、考えてみると、人生、二十年も三十年も生きていると、
この手の話の一つや二つは見聞きしたことがあるはず。
両親への恨みは深かった。
自分がこのようになったのは彼と彼女のせいだというのだ。
彼女の死の一因が彼らにあったのは否定できないが、それだけではないはず。
でも、そう思わないとやっていけなかったのだろう
高校時代の知人からは「性的暴力を受けていないならまだマシじゃないの」と慰められたらしいが、
そうではない。自分は深く傷ついてきた。あんなにイイ娘でいたのに……と繰り返した。
宴会の席上でもそうしたことを平気で吐く。その聞き役はいつも僕だった。
僕との肉体関係を何度も求めてきた。
でも、子どもは欲しくない。子どもは見たくない。声も聞きたくない。
子どもなんか分からない。分かりたくもない。
子どもを手にかける親の気持ちが分かる。
その言葉に呆然としている僕の顔を見ると、
「でも、●▲さんの子どもなら産めるよ」と呟いた。
そうやって親の顔色を盗むことばかり考えてきたのだろう。
彼女は大人びた発言や態度をみせる一方で、
その発想や考え方は幼稚園生のままで止まっていた。
それを要約するなら、ただ一つ
「私だけをただ見つめて」ということだった。
カウンセラーから「機能不全家族」「アダルトチルドレン」というキーワードを投げられた俺はありったけのアダチルに関する知識を掘り起こしたわけだ。
これまで鬱病だとか、不安障害だとか、いろいろ言われたけどさあ、思い切ってこじ開けてみたら家庭での心的トラウマの宝庫よ。
機能不全家族って言葉を初めて知った。教育学勉強してるくせに。
アダチルも思ってたイメージとは違ってた(家帰ってウィキペった)。
児童心理学で勉強した「ヤングアダルト」が思い浮かんで「アダルトチルドレン」とごっちゃになってやがんの。
おいおい人格障害の一種かよ。症例がほぼマッチングよ。まいっちんぐマスダ先生よ。
いかれた家庭のいかれたエピソードを延々と話すカウンセリングの60分。
家族病理だと!?俺はあんな家族と関わりたくないんだ!あ、それがだめなのか!
抑うつ状態から急に快活になった。霧が晴れ始めたんだと思う。
自分の状態が掴めるってなんと素晴らしきかな。
なーんだ、だから少しの失敗でびっくりするほど気分が鬱屈するのね。
ほんでもって、対人不安が人一倍高いのも納得だわ。
はははははははは。俺はアダルトチルドレン。今日もお薬飲みましょう。
ごっくんごっくんごっくんと。
「ヱヴァンゲリヲン新劇場版」を観に行った。2007/9/7金曜日歌舞伎町ミラノ1。仕事帰りだった。18:00に劇場に到着してチケットを購入し、そのままホワイエに通された。カウンターでパンフレットを購入してその後、モスでモスバーガーセットを購入。オレンジジュースを飲みながら時間を潰した。17:00の公演を逃して、次は19:15。公開時間まではあと1時間近くある。買ったパンフレットを眺めながら、まだ残暑の厳しい外に比べてエアコンディショニングされた劇場のホワイエで、ふと周りを見渡してみる。
そこに居たのは全く自分と同じ人々。年齢は20代後半から30代にかけて。それ程多くない。男女比率は同率程度。
10年前、僕は同じ劇場でエヴァ劇場版のAirを観た。それは高校時代後半の全てだったエヴァの最後を見届ける為、同時代のグルーヴ感を感じる為だったと思う。深夜、TV局が行列に並んでいる人に取材している姿を横目に見て僕は「お前らには絶対にわからねぇよ」なんて悪態をついていた。
あれから10年が経ち、僕はまた「ヱヴァ」を観に来ている。庵野秀明が全身全霊をかけて、僕達に叫んだ「お前ら、こんなもの観てるんじゃねぇ!」という叫びも虚しく僕は今、ここにいる。それは自分が選んだ道だけど、それでもスーツを着てここに並んでいる自分の姿は、傍から見て、とても滑稽だろう。
僕は携帯を取り出してさっき彼女から貰ったメールの返信を打つ。「大好きなのに・・・」と始まる彼女のメールを見て、お昼過ぎの痴話喧嘩を思い出す。二人はとても仲が良くてお互いがお互いの事を最も大切に思っているから、ちょっとした事で喧嘩をする。それは自分の気持ちが相手に上手く伝わらないジレンマのようなものだ。メールには友人と飲みに行くと書いてある。僕は「さっきはごめん。今日はゆっくり楽しんできてね」と携帯の単語予測から選択して手早くメールを作成し、彼女に送信した。
携帯の電源を落として改めてさっき並び始めた列の後ろを眺める。長蛇の列は劇場脇にある入口からホワイエまで続いている。優に40m近くはある。それが劇場両脇にあると思えば大した人数である事が予想される。
「何故僕は今、ヱヴァを観るのか。」
この問いはここに来る前からずっと僕の頭の中でループしている。その答えはきっと庵野秀明によってフィルムで示される筈である。でもそれ程多くは期待していない。何より僕は当時に比べて歳を取ったし人生経験も積んだ。離婚も経験した。それは僕の心に大きく影響して、僕の中から少しづつ童心の純粋さは失われていった。それを肌で感じていた。僕は十分に大人だ。それも随分腐った大人になっていた。当時とは違う。そんな事を考えながら立ち続ける。
凡そ40分後、劇場のドアは開けられた。中は比較的広く清潔だ。多分リニューアルしたのだろう。10年前とは違っていた。僕は中央付近の良い席を取る事ができた。席に荷物を置いてビールとポップコーンを買いに行く。ビールを飲む辺りに親父臭さを感じる。
席に戻ってポップコーンを摘みながらビールを飲む。果してどんな作品を観る事ができるのか。僕はとても楽しみに、少しの絶望を抱えながら、それでも楽しみにしていた。GAINAXの「トップをねらえ!2」に絶望し、「グレンラガン」に次世代性を読取った僕が、庵野秀明の最先端に触れられる瞬間である。時代を築いた映像作家の最新作。否が応にも期待が膨らむ。僕の前に「ヱヴァ」はどんな姿で現れるのか。ネット等で事前知識を何も仕込まずに観に来たのは、それが一番純粋に作品に触れられる方法と考えたからだ。僕はやっぱり何かが変わる事を期待していた。庵野秀明が何かを変えてくれることを期待していた。
映画は静かに始まって、劇的に幕を閉じた。
興奮する観客の中で一人僕はうっすらと涙を浮かべていた。それは感動の涙である。「ヱヴァ」は「エヴァ」ではなかった。それは全く同じキャラクターと世界観で描かれた純粋な二次創作物だった。「エヴァ」で面白かったと思われるエピソードを凝縮し、解像度を上げ、劇場作品として耐えられるクオリティにまでベースアップして新しく作られた「エヴァ」だった。「ヱヴァ」は「エヴァ」ではない。それは様々なガジェットで示されている。「エヴァ」が「ヱヴァ」としてリメイクされた理由、それは庵野秀明が「閉塞した時代」に風穴を空けようとした、という一点に収束する。「エヴァ」が批評的であり、文学的であり、映像芸術的であったことに比べて「ヱヴァ」は極めてアニメ的だった。それは「時をかける少女」が極めてアニメ的手法によってそれまでのアニメーション作品には無い全く新しい映像表現を目指した事とシンクロしつつも少しずれた感性である。
アニメ外の人間だった庵野秀明がアニメ内に入りエヴァで再びアニメ外に出て行ってしまった、しかし10年の時を経て再びアニメ内に戻ってきた。この波は彼が「ナディア」から「エヴァ」に到る際に経た道程と同じではないか?「ナディア」を撮って、もうアニメは撮れないと言っていた庵野が再びフィルムを撮ろうとした、あの「エヴァ」に到る道程と酷似してはいないか。
表現者・庵野秀明の本気は恐ろしい。彼の本気は時代を動かす。「ヱヴァ」は庵野秀明の憂さ晴らしでは終わらない。彼は再びアニメーションという表現を信じる事ができた。彼は再び物語が持つ強度を信じた。その事が僕にはとても嬉しかった。彼が10年前に三行半を突きつけたアニメーションを、どんなに蔑まれてもずっと追い駆けてきた僕は、そこに一筋の光明を見る事ができた。庵野秀明が再び信じたアニメーションという表現手法。それは日本が世界と鎖国し独自の文化として大切に育ててきた集団芸術、総合芸術である。宗教に並びうる文化的発明と言い切ってしまっても構わない。
アニメーションには未来がある。SFは子供たちに夢を届ける。ぼくらはそのファンクションを十分に生かして自らの人生を豊かにしなければならない。次世代へ繋ぐ夢を語り続けなければならない。素晴らしい芸術作品を創作し続けなければならない。素晴らしい芸術作品の下僕として作品に仕えなければならない。
ピラミッドが何故素晴らしいのか?万里の長城が何故人々に感動を与えるのか、東大寺の大仏や金剛力士像が何故現代でも価値を持ち続けているのか。その事について僕達は自覚的にならなければならない。ゴシックの大聖堂が持つ光と影が作り出すドレープの豊かさ、そういった表現が何故我々の心に届くのか。全てはたった一つの事に気づく事で理解できる。芸術とはそういうものだ。
「ヱヴァ」はその意味で十分に芸術作品足りうる。つまり「エヴァ」とは違った芸術的価値を持つ作品である。
「ヱヴァ」を観て涙を流した僕が思った事。それは「庵野秀明の帰還」と、「エヴァ」ではない全く素晴らしい作品の誕生の瞬間に立ち会えた事である。世界はまだまだ素晴らしい出来事で溢れている。
私「おう、どうリッチなんだ」
友「100円なんだ」
私「それはなかなかリッチじゃないかー」
友「いや、100円だぜ? 小学生ぐらいの子が、『リッチなんだよ??』とかいってんの見てよ。でも100円だぜ?」
私「ンだとこの野郎ォ??!」
おまえだって、ガキの時代があっただろう。
あの当時、手のひらで鈍く光る100円の輝き。そして100円を握りしめて駄菓子屋に走る、あの心のキラメキを忘れたのか?
ガリガリ君は昔50円だった、ああそうだった。
だが、50円と100円では穴のある、なしだけじゃない、そこにはもっともっっと大きく違う何かがあったじゃねえか。
俺らは仕事して、
あの当時に得られなかった何かを「大人買い」などという代償行為で埋めようとしたって、ダメなんだ。
モノじゃねえ...そんなんじゃねえんだ。
100円硬貨一枚、これで今日は何を買おう!!
その無限の選択肢は、若さ故の特権、将来が無限の可能性と同一であったあの時代だったからこそ思い描くことができた夢だったのかもしれない。
俺らは年を食うと「でもよ」「しょせん」なんて言葉ですぐあきらめちまう。
だが、手が届かない何かに対するあこがれ、期待にワクワクと胸を膨らませる、そういった”心”を俺達はもう一度取り戻すべきなんじゃないのか。それこそが、童心に帰るっていう言葉の本当の意味なんじゃねえのか。
ぇエ!? てめえは、そういう気持ちを馬鹿にするってのかぁ!!
私は泣きながら友人の顔をグーで、ぼかり、ぼかりと殴り続けていたという。
ここで言うゲームってのはPCゲームではなくて家庭用ゲーム機の事を指すわけで、
王者ってことで調子乗ってたPS3が惨敗しているとか、負け組みだった任天堂がWIIでがんばってるってことで語るのもちょっと違う。
いや、違いはないんだけど、じゃ、ゲームってどうなの?って話。
そもそもの始まりはファミコンからまあ、他にもいろいろあったが、まあ、とりあえず家庭用ゲーム機という語り部としてふさわしいのはこいつだ。
当時ファミコンが店頭に並んでいた時代、ゲーム製作は金山堀りとおんなじだった、
ちっともうだつのあがらなかったどうしようもない大学生や専門学校生がはじき出されるように社会に出て、「どうする?俺就職できね、ゲームでも作る?」って具合にはじめることが出来たのが当時のファミコンゲームのソフト会社の製作環境。
マンション借りて、ちょっとした機材そろえて、全く初期投資がほとんどかかんなかった、で見返りはでかい、
制作費300万円くらいの今だったら誰も手をつけないような糞ゲーでも売れた、売れた、もう馬鹿みたいに売れた。
ファミコンソフトってだけでこんな馬鹿な話があるかってぐらい売れたんだから、そりゃ同業他社もどんどん参入してくることになるんだが。
んで、ファミコンソフトがいくらで売られていたか、大体7000千円??多くて10000円越えがふつーだった、もちろんこれは暴君任天堂のロイヤリティーが絡んでいたわけだけど、それでもユーザーはなけなしのお年玉で、いや、そのころは景気がよかったからか、まあ、とにかく売れたんだ、あの糞ゲーも、この糞ゲーも誰もそのソフトの価値がわからなかったし、そもそもゲーム自体ほとんどやったことかったから批評のやり様もない、また、買い比べをするにはいささか高すぎる。
だがそんな地上の楽園のような状態も長くは続かなかった、
そもそも、ゲーム会社とはゲームを作って売る商売である、幾数ヶ月かけてゲームを作り、それを売ってその利益でどうする?
そりゃ、ゲームを作るしかない。じゃまた作った、で、また次だ。
こんな感じで回っているのだから一本売れなかったらどうなる?
アウト・その会社は一気に資金難に陥ることになる。
でその会社の末路はどうなるのか、現在製作中の完成率70%のソフトを売りに出すのである、なぜか?
それしか売るものがないからだ、で完成率70%のソフトが売れるのか?
売れるわけがない、じゃあ次だ、次は45%だが仕方がない、スタッフには申し訳ないが死ぬ気で働いてもらうしかない。
このソフトが売れなければ、我が社は。。。。
会社ってものはそうそう現金を溜め込んでおけるわけもなく、他に事業でもしていない限り資金は次にまわされる、ゲーム会社は作ってはぼろ儲け、また作ってはぼろ儲けの連続だった黎明期と時代がうって変わったことに気づかなかった、そしていきなり訪れる、不作。
ネットゲームなんてなかったころの話だ。
こればっかりは天に雨乞いをしようともどうしようもない、多すぎるソフト会社の山は大量の売れ残りを生み、負債を抱え込んだ企業は次々にその命を絶っていった。
あれだけの作品があったのに、といわれたゲーム会社が1本や2本そこらの不作で潰れる、そんなことがざらにあった。
だが、まだゲーム業界の生命は絶たれていなかった、そのころは新規参入企業は死兵よりもはるかに多かったのである、
それもスーパーファミコンの中期になってくるとちょっと事情が変わってくる、どうやらユーザーは3日間徹夜で作ったようなゲームには見向きもしなくなった、それこそ指一本触れなくなったのだ、ユーザーもゲームの価値がわかってきた、面白いものとそうでないものがあって、面白いものだけ買えばいいと気がついたのだ。
じゃあ、そのころ何が売れていたのか?
開発に数ヶ月、しかも多くのスタッフを抱え、同人サークルではありえないようなクオリティを生み出す集団、すなわち大手ゲーム会社のソフトだった。
その傾向は高まるにつれて大手ゲーム製作会社はその規模をどんどんと拡大していく、そして戦争、その後、PSの時代が来る。
ま、大手ソフト開発会社が何をやっているかといえば結局規模の大きい綱渡りであることには変わりはない。
PSが何をしたのか?成長したソフト会社を味方につけたことが大きい、任天堂封建国家のロイヤリティま、年貢、を廃したのだ、これは多くのソフト会社が飛び乗った、だれもがそれが正しいと考えた、そしてその恩恵はユーザーにも訪れた、だれもが目を疑ったスーパーファミコンより明らかに高性能のソフトが5000円台で買える、そんなあほな、今までのはなんだったんだ?
この値下げは功を奏し、ゲーム業界はPS時代に突入することになる。
制作費がかさむのだ、それこそCGやMOVEが氾濫し、複雑なプログラミングを組み、職人一人がやっていたことを複数のさらに腕のたつ専門家が頭をひねらないと出来ない、とてもおいそれとゲームを作れるような環境ではなくなっていた。
じゃあ、販売価格を、NOだ、単価は上げることが出来ない、一度下がった単価はもはや二度と浮き上がることは無い、そんなことをすれば即あの世行きだ。
会議に会議を重ね、制作期間は長期間にわたり、制作費はかさみ、捨てられたゴミアイデアは山のように積みあがる、ゲーム会社はいつの間にか一流企業になっていて、とても失敗は出来ないからだになっていた、だ、だが、ゲームは、ゲームソフトは。
その寿命をさらに短くしていたのだった、これはゲームの値段が下がったからだ、ユーザーは余ったお金で何本もゲームを買うが新作ゲームではなく中古ソフトだった。一本のゲームが市場に存在する時間は無常にも半年を切っていた。
製作費はかさみ、制作期間は延びる、で、虎の子で出したソフトは3ヶ月の寿命しかない、ファミコン戦国時代を生き残った大手ソフト会社も悲鳴を上げる未曾有の事態が訪れることになった、現場は火を噴き、経営陣は再販業者を鬼の子のように憎み、誰もが天を仰いだ。
ようやく均衡状態になったのは何かが改善されたからではない、何のことはない、ゲーム会社がさらに減っただけのことだった。
そして、PS3、SONYは過ちを犯したのかもしれない、確かにこれ以上の制作費の高騰はソフト製作会社にとって負い目でしかない。
そしてユーザーは前には戻らない、いまさらファミコンなんかやらない、いまさら8ビットのゲームなんかやるわけが無い、ましてや金を払うとは到底思えない、じゃあ、前作より高クオリティなものを?無理だ、不可能だ、そのソフトが不発だったらどうするんだ?いったい我が社はどうすればいいんだ。
今はまだネットゲームとパチンコ・スロットで持っているけど、この先そんな綱渡りがいつまでも続くわけが無いじゃないか。
任天堂が突いてきたのはこの点だった、だったら、ユーザーがやったことのないことをやらせればいい、見たことないものを見せる必要は無い。ユーザーにコントローラー以外のものをもたせろ、CGなんぞどうでもいい、そんなものは犬に食わせるんだ。今までゲームに目を向けなかったものにゲームをやらせろ、それは必ずしもゲームである必要は無い、目の肥えたコアユーザーなど今では害でしかないでは無いか。
ゲームというのは他の業種と違う、安定収入が全く無い(ネトゲは別)、同じものを二度以上作ってはいけない、単発で数打てばというように大量のソフトを出し続けることも出来ない、ブランドほど頼りないものは無い。
一球入魂、これだけだ、今も昔も変わらない、売れ残ったゲームソフトはゴミにしかならない、そのソフトにいくら製作費がかかっていようと、いくら背作者が情熱を注ごうと、コアユーザーがいくら声を張り上げようとも。
もうひとつ、技術革新と共にゲームはあった、1から2に2から3に次世代作を出すごとにユーザーには感動があった、驚きがあった、新鮮さがあった。ユーザーの期待を裏切らなかったのは技術革新が共に寄り添っていたからだ。
だって、最初が0だったんだから当たり前の話だよ。
PS2の中盤になってそれがとまった、ぱったりとやんだ。
技術革新はユーザーに驚きをもたらさなくなった、ある一定以上の複雑さはユーザーの限界を超えた、ある一定以上の高画質はモニターと動体視力の限界を超えた。
この頃のユーザーは0から共に育ったユーザーとは打って変わってもう大分進んだ先からゲームに触れた世代だというのもある、もともと高画質の世界を見てきた世代だ、いまさらMOVEの華麗さに声を上げることは無い。
根っからのコアユーザーは童心に帰りたがった、子供の頃の感動を求めた、だが、その感動は「大人になった今でも、山でカブトムシを見つけて狂喜したい」というような理不尽なものでしかなかった。
その要求にこたえようとした一部のメーカーは幾つかのリメイクを画策し、苦心して過去のヒット作のリメイク版を出した、あほだ。
童心に帰りたいやつに新しく作り変えた物を見せてどうする?
たぶん、「よつばと」に影響されたんだろう。
久しぶりに動物園に行ってきた。(でもよつばとのその話を読んだのは、もう半年ほども前)
主な目的は、大学の先生からレンタルしていたデジカメの返済日が迫っていたから撮影の練習がてらだったのだが。
しっかし、でっけーーーーーーーーーーえ!
いやぁ、象でかいよ!
見た瞬間、思わず素で「でっけえ!」って叫んじまった。周りに人がいなくて助かった。
でも、でかすぎだろ! 常識的に考えて!(何を持って常識とするかは別として)
キリンもでっけえ!
いや、なげぇ!
つーか、おれちっちぇえ!(身長177せんち)
いやー……よつばも驚くはずだ。
なんかもう、童心に返ったように驚いてました。
よくよく考えてみたら、動物園に行ったのなんて小学生のとき以来で、そのときのことなんてぜんぜん覚えていなかった。
唯一残念だったのが、冬の成果みんなガラスをはさんだ飼育室の中にいて、撮影環境が限定されていたこと。
でも、でっかかった……。
何を食べたらあんなに大きくなるんだ、とどうでもいいことを考えてた。
春になったら、また行こう。