一人が間違ったことを言った時に、2〜3人がそれを諌めたら、4人目は出てこないことが多い気がする。
4人目が出てくると、さすがにもういいだろ、みたいな感じで、かえって4人目が諌められることがある。
4人目が1〜3人目と同じ指摘を繰返してる場合に限らず、たとえ新たな視点からであっても、美しくない物として諌められる。
(心ない4人目が諌められなかった場合、堰を切ったように、残った人々も寄ってたかって諌め始めることが多い気がする。小学生の「帰りの会」で一人の悪童を吊るし上げる時の、アレ。)
「論理的な指摘・反論は善である」という思想は、弁証法を前提にしている。
複数の正義(仮)が対峙している時に一方の正義(仮)を相手に叩き付けて良いのは、叩き付けられた相手が(再)反論することによる公正な競争から、よりもっともらしい正義に近付くことができるからだ。
もし相手に自分の正義(仮)を一方的に押し付けられる状況があれば、その時はこの弁証法の前提を欠き、「論理的な指摘・反論」(=正義(仮))は悪となる。
ところが、(再)反論には労力がかかる。
敵の正義の量がキャパシティを超えると、敵の正義それぞれが各個撃破可能であっても、物量に負けて敵の正義を打ち砕くことができなくなる。
逆に言えば、すでにキャパシティを超える我らが正義に晒された敵正義に対しては、ノーリスクで自正義をぶつけることができる。
(吊るし上げによって、生意気なクラスメートを泣かせることができる。男子も含めクラス全体で一致して、頭が良くて強気なヤツを泣き崩れさせるのは、実に気持ちいい。)
であれば、キャパを超えるだけの量の正義に晒された敵にさらに自正義を主張することは、相手に自分の正義(仮)を一方的に押し付ける行為であり、悪である。
だから、「4人目」は悪として諌められる。
しかし「4人目」の閾値を突破して吊るし上げ状況になれば、圧倒的多数は故に自分達が悪であることは顕在化しないから、快楽をほしいままにできる。
で、まぁそれはいいんだけど。
この文章は素晴らしいと思う。 何って最後の一文が素晴らしい。 この文章は要するに、数の暴力の卑劣さを責めているのだが 最後の最後に「俺も卑劣な1人ですよ」と宣言することだ...
男「おい!もう止めろよ!」 A「なんだよー、お前!」 B「ははん、さてはお前、女の事が好きなんだろ!」 男「な!違うよ!嫌いだよ!」 女「う、うわーん」 A「あー、泣ーかした、泣...