はてなキーワード: 根付とは
漏れは無職37歳だ。その娘はバイト19歳だ。なんか似たような話があったな!
なんかバランス保ちたいので払ってもらうときもあるけど、素振りだけじゃなくてふつうに払う。
「なんで全部払ってくれるんですか、悪いですよ!?」と聞かれたので、
金銭的に余裕がないのに遊んでもつまらないから遊ぶときくらいの予算は用意してくるし、
「払える方が払えばいいのだと思います」と言ったあと照れ隠しで、
「いま私のこと好きでいてくれる人がいるんですけど、全部割り勘にしようとするんです。コンビニとか」「何歳の人ですか」「33歳です」
同い年とかならわかるけどそれはもう限界だと思った。その娘が舐められてる気がして、
自分を安売りしちゃだめだ高値を保たなきゃダメだと演説しながら、
東南アジア日本人沈没組が「市場が荒れるから5ドル以上払うなよ」と愚痴ってる姿が目に浮かんだ。
その後告白につながるわけだ。
そもそも「好き」という感覚の発生自体が自発的なものに見えて全然そんなことなくて、社会の流行とか他の人もそうだからとかに影響されて発生してるからな。恋愛とか存在しなかった遥か古代の時代の人たちは「好き」とか発生しなかったし。
「初恋は幼稚園のとき」が今じゃ当たり前になってるけど、そんなのここ15年くらいの話であって、それより前は10代後半とかで発生してた。だれかが「初恋は幼稚園」と言いテレビでそれがいくつか映ったときにバーっと(このバーには時間的な幅がそれなりにあるけど)日本中の幼稚園児が自分もするもんなんだと思い込みやがてそれが当たり前になった。思い込むとそうなる。
ある宗教が根付いている期間、その宗教で起こるとされている「奇跡」の目撃例がやたらあるみたいなもんだ。本人たちがあるに決まってると思えば見えないものでも見える。うちの親戚でなんかの新興宗教の信者がいて、なんか念じると先祖の霊が降りてくるらしいんだけど、来た来たって言い張ってるから。本人にとってはそうなんだろう。
だから70年代前半くらいまでに結婚したおとんおかんたちの場合、それが以外に一番の相手だったりするんだよ。見合いで一番にたどり着けるわけがない、ってのは現代の社会状況とかによって「好き」の発生まで操られている我々の発想であってさ。ところ変われば感覚もまるで違う。
確かにソーダ割りは苦肉の策だけれど。
例えばシェリーのソーダ割とか、ウィスキー・ソーダもそうだけど
食前酒としても結構いけてると思うんだけれど。ペルノやパスティスの炭酸割とかフランス料理の定番だしクセはあるけどうまい。
カンパリ・ソーダなんて既に定番だし、アプリコット・ソーダもうまい。
ドライベルモットなんてソーダ割りでメシとともに飲むのに実は最適だと思うんだ。
リキュールって家庭でそろえるには厄介な酒だし、次々割って飲んだら楽しくないかなぁ・・・。
ウィスキーソーダにしても、何をどう割るかで味は本当に変わってくる。
もちろん、ストレートで飲む人はストレートで飲んでもらってかまわないんだけど。
「ソーダ割りを飲ます」って店のスタイルは結構やっていける気がするんだよな。
ウィスキーソーダだから銘柄指定ではなく、なにのソーダ割を飲みますか?みたいな感じで。
ぶっちゃけ、グラス小さめならそこそこの銘柄でも案外安く出せるし。
焼き魚の煙が臭くて迷惑でも文句は言えない…。しょうがないんじゃない?
僕は生まれつき髪の毛が茶色がかっています。別に西洋系の血が混じっているわけではなく、正真正銘、生粋の日本人です。
日本人であっても、髪の毛が茶色がかっている人など別に珍しくもなんともないと思います。学校や職場に行けば、だいたい同じクラスもしくは部署に1人2人くらいはいませんか。そもそも髪の色なんて程度の問題で、加齢などによる白髪は除けば、むしろ茶色気のない人の方が珍しいのではないでしょうか。
しかし、それでもこの日本という国は茶髪の人間にはなかなか生きずらい面が色濃く残っており、いまだ茶髪について多くの人から異端の目で見られ、何らかの言及を受けることになります。
僕もそんなこんなで20余年この色で生きてきた一人であるわけなのですが、そうした中で大いに思うところがあるので、ここに書き記しておくことにした次第です。
それは、以下のようなことを言われることが、かなり多いということです。
「・・・」に入る文言は「黒く染めろ/染めた方がいい」だとか「大変だね」とかです。
問題なのは、実際の社会ではこの手の人が圧倒的大多数を占めているということです。「別に気にしない」人が大多数なのに、なぜ茶髪に対する偏見がなくならないのでしょうか。おかしいと思いませんか。実は、こういった人たちこそ、最もたちの悪いタイプの一つ、すなわち無自覚に差別を助長するタイプなのです。このタイプが多い社会では差別をなくすことなんて不可能に近く、その社会そのものも硬直的で変化に弱く構築されます。
僕の経験から見て、実際には、彼らの言う「口うるさい人」なんて本当に僅か一握りしかいません。むしろ彼らは、変わり者とか頑固者といったカテゴリーに属する人たちです。むしろ、一番やっかいなのは、数の多い普通の人なのです。
例えば100人の社会を考えてみてください。(a)口うるさい人が2人、(b)生まれつき茶髪が5人、(c)「俺は気にしないけど〜」の人が93人とします。(c)の人が本当に本人たちの自称するように、純粋な無党派層であれば、(a)よりも(b)の方が社会的意見として力を持つはずです。しかし実際はそうはなりません。理由は簡単、(c)の人が足を引っ張るからです。
僕がこれまで見てきた限り、(c)タイプの人の主張はかなりワンパターンです。曰く、
驚くべきは、本人たちは正論を言っているつもりというところです。彼らは自分たちでは他者性を重んじているつもりなのです。社会人(笑)。スイーツなんかよりよっぽどたちが悪いです。われわれ茶髪は、こんな説教は聞き飽き飽きしています。こちらはそれを踏まえて議論しようとしているのですが、思い込みの激し人が多くてなかなか通じません。
彼らが所与に「仕方がない」とみなす常識や慣習を構築しているのは、いったい誰だと思っているのでしょうか。自分たちマジョリティなのに。まるで「社会」というものが他人事のようです。「社会」なんて人が作り出した単なる概念です。社会は人間で構成されていて、実際にあるのは人と人との相互作用です。おかしいのは、彼らの言う「社会人」の自覚に、社会の構成員としての当事者意識は含まれないところです。
実際に僕らを困らせているのは誰でしょうか?「口うるさい人」なんて滅多にいません。むしろ僕たちからすれば、この「なにかあったときに困るのはお前だ」というお説教こそ、最も遭遇する確率が高い「困ったこと」です。
幸いにも、これまで僕が茶髪によって受けてきた扱いなんて本当に些細なものばかりでしたが、茶髪仲間の中には、肉体的・精神的苦痛を伴う、本格的な差別を受ける人も少なからずいます。最近はさすがに髪を剃られて坊主にされたなんて話は聞かなくなってきましたが、黒く染めるのを強制されることは今でもザラにあります。
日本の社会には未だマイノリティにたいする非寛容が残っています。その非寛容さが根絶されない最たる原因は、以上に見たような「社会人」の、社会構成員としての自覚のなさのように思います。彼らが多数を占める社会は変化に乏しく硬直的になるのです。(a)タイプの人が一人でもいる限り、(c)の論法はある種の妥当性を持つからです。しかし、そんな近視眼的な妥当性でいつまでも攻撃されるのは我慢なりません。
そういえば、よく、日本では真の意味での市民社会は根付かないという議論を耳にします。社会にいる「口うるさい人」という架空の他者のせいにする思考パターンは、まさに市民社会の思想とは相容れないものではないでしょうか。
話が拡散して結局何がいいたいのかわかりにくくなってしまいましたね。要するに、「空気読むな、空気はつくれ」ということです。
ここまで読んでくださった方はありがとうございました。長文での乱筆、失礼いたしました。
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追記 6/26 2:23
http://anond.hatelabo.jp/20100626022244