はてなキーワード: 動詞とは
http://anond.hatelabo.jp/20090206052528
英語で書く、を書いた増田でーす。ブクマしてくださったみなさん、ありがとうございました。
まずご質問にお答えします。
チャットはレスポンスにある程度、早さが求められますので、初心者の方は掲示板の方がいいんじゃないかな。
YouTube のコメント欄もおすすめです。ビデオがあるわけですから、何について話しているか、一目瞭然ですから。
問題はむしろそこで何を話すかということですね。
コミュニケーションもいいんですけど、英語の学習が目的なら、ただただフレンドリーな話題、環境では「やあやあお元気?」で終わってしまいがちなんですよ。
そうじゃなくて、相手も自分もそう簡単に譲れない問題、何でもいいんですけど、政治とか宗教とか、思想とか、わりあい固めの話の方が、突っ込んだ会話になりやすいんですね。インターネットではむしろ。
私も、英語の学習という意味では、友達よりもむしろ論敵の方が役にたってくれました。
私を育ててくれたのは私の敵です。
だから争いや議論を恐れずに、どんどんハードな環境に身をおいた方が結局は近道なんですよ。
私たちは受験のために膨大な熟語や英単語を覚えてきましたよね。
でもそのほとんどは一回も実際に使うこともなく、見ることもないんじゃないでしょうか。
受験のためには必要なんですよ、どういう試験問題が出るかわからないですから。
でもあなたが化学に何の興味もないなら、化学関係の英単語は使う機会もないでしょうし、見る機会も少ないでしょうから、必要から言えばそれを覚えるのは無駄なんです。
あなたに興味のある分野のことを英語で書いたり話をすることのメリットは、あなたにとって必要性の高い単語や構文を集中的に覚えられるということです。
私は文法はとても大事だと思います。
単数と複数の違いとか、時制の違いとか、三単元のsをつけ忘れただとか、そういうことは正直言ってどうでもいいです。間違えても全然問題なく通じます。国際語としての英語は今後そういう方向に進むでしょう。
先日も、You and him is student? とか、間違って書いてしまったところ、突っ込まれたんですね。
私もbe動詞の疑問文の作り方や、主語の人称とbe動詞の関係はもちろん知っていますけど、たくさん書いていればこういう間違いもやってしまうんですよね。
でもそれでもまったく問題なく通じます。だからあなたが文学作品を書きたいとか、英語で修士論文を書きたいとか、そういう高度な欲求がないのであれば、そんなことはまったく気にする必要はありません。
けれども文法そのものは大事です。
文法が分かっていないとそもそも何をどうやって言えばいいのかが分からないからです。
やっぱり中学の英文法くらいはざっとおさらいしておくのがいいでしょう。
it~to, it~that, so that 構文はとくによく使います。関係代名詞もあやふやではなくきちんと分かっていたほうがいいでしょう。
完了形、過去完了形はあんまり気にする必要はありません。
それでしか言えない文章、過去の経験とか、継続してその状態にあるとか、そういう時以外は普通の現在形、過去形で押し通して差し支えありません。
話していると、相手ももちろんいろいろ書いたり言ったりしてきますよね。
それも、私に対して、私が興味があることについて言ってくるわけです。
その時、ああ、なるほど、これはこんなふうに言うのかっていうことがよくあります。
そういうのは興味と驚きとともにインプットされるんで忘れないんですよね。
そういう時は早速自分も使ってみて、表現力を高めましょう。
表現力を高めれば、ニュースを読んだり聞いたりしても、何を言っているかが分かります。
私、日本人はヒアリング能力がないんじゃないと思うんですよ。ヒアリング能力がないんじゃなくて、そもそも単語力や構文力がないから何を言っているかが分からないんだと思うんですよ。
その発想を理解するってのも大事だと思います。
たとえば…。
インターネットを通して知り合ったアメリカ人の友達にデービッドくんっていう男の子がいます。
彼、ニューヨークに住んでいるユダヤ人でものすごくイケメンなんですよ。
「あほか、そないなゼニにならんことしてどないするんや。男は甲斐性やで」
と言ったところ、
「あのな、うちのお父ちゃん、ものすごくお金持ちやねん。そやからわいはお金のために勉強せんでええのや」
と言っておりました。
なに!お金持ち!ということで、
「そかそか、ほなら結婚しようか」
と言ったんですが、「わいはゲイやで」とおっしゃいました。
「ゲイでもなんでもええわ。うちが欲しいのはあんたの体やない、あんたのカネや。正確に言えばあんたのお父ちゃんのカネや。カネのために結婚してやろうって言っとるんじゃ!」
と言ったんですが、なかなかうんと言ってくれません。強情な男です。
その、ユダヤ人でニューヨーカーで哲学者でゲイでイケメンで金持ちのボンボンのデービッドくんと、ある時、パレスチナ情勢について話したんですよね。
彼はユダヤ人のくせにシオニスト嫌いっていう希少種で、イスラエルに批判的なんですけど、その時に彼がこう言いました。
What do you think of israeli invasion with impunity?
私、衝撃を受けましてね。この文章を画像にして、いま、デスクトップの背景にしてますけど、それくらい衝撃を受けたんです。
訳しますと、
「イスラエル、好き勝手に侵略やっておりまんな。あなたさん、どない思われます?」
くらいの意味です。
impunity (不処罰性、処罰されないこと、免責)ていう単語がちょっと難しいくらいで、他はどうってことないですよね。
別に何の変哲もない文章です。文法的にもまったく難しくありません。
ただ、この意味する内容のことを日本人が英文にする時、まずこういう構文では言いませんね。
Israel invades. But it never be punished. What do you think of them?
とかでしょうか。
まず with impunity ってのがほれぼれしますよね。日本人だとここは without punishment ってするでしょう。
不起訴、とか、免責、じゃなくて「処罰されない」って言うのが日本語の癖なんです。
侵略、じゃなくて、「侵略している」って言うのが日本語の癖なんです。
それと、否定文ももちろんありますけど、形としての否定文じゃなくて肯定文に直して言う、そういう発想は日本語にはあんまりないですよね。
without punishment や not with punishment じゃなくて、with impunity ってやるってのが英語っぽいというか、英語の癖なんだなって思います。
日本語の構文に沿って英訳すると、どうしても長くなりがちなんですよ。
接続詞や関係代名詞が複雑に入り組んで、そういう時はひとつの文章を複数にわけるのもひとつの手段なんですけど、動詞を名詞に変えられないか、否定文を肯定文に変えられないかって発想するのも、すっきりした英文を書くコツなように思います。
で、まねをして、I don't know him っていうところを、I have absent of knowledge about the male って言ったことがあるんです。いくらなんでもこれはやり過ぎだったみたいで、「君はイギリス人みたいな英語を書くね」って言われました。
これ褒め言葉じゃないですよ。
なにもったいつけてんだYO!ってことです。
ただ、もったいつけるべき場面、論文とか文学作品とか、ちょっと高尚に見せたい時には有効だってことです。
彼はイギリス人みたいって揶揄しましたけど、実際、イギリスのメディアではこういう文章を書く人が案外います。
BBCとかはすっきりした表現が多いですけど、新聞ではけっこうありますよね。
ま、そういうこともお楽しみのうちということで。
http://anond.hatelabo.jp/20090110022742
はっきり言って、結婚向きの相手と恋愛向きの相手って違うんだよね。
私は結婚相手には堅実さと誠実さ、信頼できるかどうかを重要視する。
別に男前だったり、面白かったり、ドキドキしなくてもいい。
30年、40年後にこの人といても大丈夫だと思ったら結婚する。
信頼さえあれば、愛情は結構あとからでも生まれるものだと思う。
お互いの努力によってね。
彼氏と結婚することになった時、いい人だなぁ、とは思ってたけど
これでいいのか?私は本当に彼が好きなのか?って悩んだりもしたけど、
結婚してからどんどん好きになって、今では付き合ってた頃より仲いいよ。
元増田も、お見合い相手とそういう関係を築ける自信があるんだったら結婚すればいい。
「魅力を感じる」っていうのは動詞だから、
「感じない」んだったら自分で「感じる」ように努力すればいい。
いいとこ見つけてあげてください。そのうち愛情が生まれるよ。
「愛する」も動詞だから、今「愛してない」んだったら「愛する」ようにまず自分がすればいい。
セックスしたくなかったらしなくてもいいんじゃん?
そのうちしたくなったらすればいいし。うちもそんなにしないよ。(不満な男性もいるでしょうけど…。)
私は
http://anond.hatelabo.jp/20090104202942 と
http://anond.hatelabo.jp/20090104214625 を書いた者です。
(http://anond.hatelabo.jp/20090105134129 を書いたのは私ではありませんが傾聴に値する意見だと思います)
それはおかしいです。
博愛せよというテーマの中には、博愛しない人は迫害せよというテーマは含まれません。
博愛しない人も博愛せよが博愛のテーマですから。
私は寡聞にして「博愛する」という動詞を見聞きしたことがありませんが、
言葉尻をとらえて論難するつもりはないので、概ね「あまねく他者を愛する」という程度の意味だと解釈することにします。
(この解釈が不当だと思われるなら、補足説明をお願いします)
さて、ここから本題です。
博愛せよというテーマの中に
博愛しない人は迫害せよというテーマが含まれないのは当然のことです。
その点について、私はあなたと全く同意見です。
「ロボット三原則」を容認する人は博愛しない人であるとは私は考えません。
博愛のテーマが求める愛の対象には黒人やオタクは当然に含まれますが、
ロボットが含まれるかどうかについては疑義があるからです。
しかし、議論の都合上、ここでは、愛の対象にはロボットも当然含まれるものだと仮定することにしましょう。
すると、「ロボット三原則」を容認する人は、
あまねく他者(ロボットを含む)を愛すべきであるのにロボットを愛の対象から除外するがゆえに、
博愛しない人だということになります。
では、博愛のテーマに従う人は「ロボット三原則」をどう扱うべきでしょうか?
もちろん博愛のテーマに従う人は当然それを容認することはできません。
博愛のテーマに従う人は「ロボット三原則」を否定しなければなりません。
(言うまでもなく、これは私自身の見解ではありません。3の仮定に基づけばそういうことになるということです)
しかし、博愛のテーマに従う人は、「ロボット三原則」を容認する人に対しては、
「ロボット三原則」を容認しない人を愛するのと同じように愛さなければなりません。
「ロボット三原則」を容認する人だから愛さなくてもよい、ということにはならないのです。
4及び5から、博愛のテーマに従う人は、
「ロボット三原則」を否定しつつ、「ロボット三原則」を容認する人を愛すべきです。
これは一見すると矛盾しているようにも思われますが、
なぜなら、愛するということは無批判に何でも受け入れるということではないからです。
博愛のテーマに従う人は「ロボット三原則」を容認する人を愛しつつも、
「ロボット三原則」の愚を説いて、考えを改めるように求めることができます。
説得がうまくいけば、もはや「ロボット三原則」を巡る葛藤は解消しますし、
うまくいかなくても、少なくとも博愛のテーマの一貫性は保たれます。
7で述べたことは、おそらくは
ただ、できれば、博愛して欲しい。迫害はいけないことだと思う。
と表明する事まで は博愛のテーマの範疇に入ると思います。
というあなたの主張と完全に同じではないにせよ、かなり近いものだと思います。
私とあなたの間にはそう大きな意見の隔たりはありません。
(私は3を単に議論の都合上の仮定として扱うので、その点では大きく食い違っているわけですが)
さて、先に私はこのように述べました。
これは、6で述べた
と同じことを言ったつもりです。
私には「人間の心理構造を否定」するという言い回しが、博愛のテーマに悖るものだと思われたからです。
また、私は続けてこのようにも言いました。
ここで私が「極論への道をひらく」という言い回しを採用したのは、
人間の心理構造を否定することから、人権無視の考えが論理的に帰結するわけではないからです。
それはおかしいです。
とあなたが言われるのは、論理的観点からの反論としてはもっともです。
しかし、幸か不幸か、人間は常に完全に論理的に正しい思考ができる生物ではありません。
論理的には無限の隔たりがあったとしても、外見上の類似を手がかりとして
心理的に直結するということが世の中にはままあるのです。
「極論への道をひらく」という言い回しで私が言いたかったのはそのことです。
本来論理的には直結しないものどうしを、類似を手がかりとして結びつけるという心の働きは
常に忌むべきものだというわけではありません。
人間が論理的に正しい思考のみに囚われてたなら、多くの藝術は存在を許されなかったことでしょう。
ですが、精密で慎重な議論を行うべき場では、心理的飛躍にはある程度のブレーキが必要です。
最後に、論理的には直結しないのに外見上の類似により心理的に繋げてしまった例をひとつ挙げます。
「ロボットだから人権はいらない」と「黒人だから人権はいらない」と「オタクだから人権はいらない」は
特定のカテゴリーに属する存在者を、そのカテゴリーに属するがゆえに人権不要とみなすという点で共通しています。
推論の形で表せば「xは○○である。○○には人権はいらない。ゆえにxには人権はいらない」という同じ構造があります。
しかしながら、(当たり前のことですが)ロボットと黒人とオタクは同一のカテゴリーではありません。
従って、「ロボットだから人権はいらない」と「黒人だから人権はいらない」と「オタクだから人権はいらない」は
論理的には「まったく同じ物」ではありません。
これら3つの思想が実質的に同じであるのか、それとも形式的構造が同じだけで中身は全然別なのかは
詳しく吟味検討しなければわからないことです。
しかし、ときに人はそのような検討を抜きにして、直ちに3つの思想を同一視することがあります。
長文失礼しました。
http://anond.hatelabo.jp/20081231110532
くやし・い【悔しい・口惜しい】
{形容詞}腹立たしくなる。残念に思う。しゃくにさわる。()regrettable{派生語}悔しさ・口惜しさ{名詞},悔しげ・口惜しげ{形容動詞},悔しがる・口惜しがる{動詞}。
さて、なんで彼女のほうが年収が上だと「悔しい」のだろうか? 社会一般常識的に「年収が高い」=「経済力がある」=「他人からの信頼が厚い」+「自分の能力も高い」+「向上心がある」+「世の中をうまく渡っていけてる」et cetera。
君にとって「年収」というものが、そんなに重要なファクターなら、彼女のみならず、仕事をして自立している女性すべて、結婚対象外にしてもらいたいね。女が外で働くと、いろいろ壁があったり足引っ張られたりするもんなんでさ。年収は真面目にやってりゃ上がる可能性があるから、今男より低くても女が仕事を続けていると男を上回る可能性は常にあるからねー。がんばって給料上りそうになったら、旦那に足引っ張られるんじゃやってられねーもんよ。
もちろん、同じように悔しい人もいるだろう。夫はダメだったね。「仕事やめてくれ」って言われた。別に私のほうが高かったわけじゃないが。奥さんが働いてると「旦那の稼ぎが悪い」と思われるからやめてくれ、だってさ。
同棲してた恋人は、私が生活費全部出してたけど、なあも気にしなかった。「金なんてあるほうが出せばいいだろ」だってさ。
まー、人それぞれ考えた方があると思うから。君にとって「自分のほうが年収が上」というのが絶対条件なら、専業主婦してくれるお嫁さん探せよ。最近は「スーパー主婦」とか「カリスマ主婦」とかいって、収納方法や料理法で稼いじゃう人もいるから、油断ならないけど、まー、普通に専業主婦やってれば、夫の年収上回ることないと思うよ。
私は専業主婦だったけど、別に旦那のほうが稼いでるから悔しいなんてことはなかった。だって、私がお世話しているから、夫はその年収を稼げるんだからね。「メシ、フロ、ネル」だけで生活出来る環境を私が作ってるからこその年収だったから。
その考え方は「社会的」な側面を強調しすぎなんだよね。
それがよく現れてる言葉が「欲情」。「欲情する」だと自動詞っぽいじゃん?
自分の意思でやってるような。
でも実際は「欲情」というより「勃起」。「勃起してしまう」という他動詞的なニュアンスなんだよね。
自動詞的な行為が「社会的」だとすれば、他動詞的な行為は「生物的」。
そして人間は社会性によって生物性を制限すべきなんだが、ゼロにできないというのもまた事実。
どうやってもウンコはしたくなるしね。
そういう場合でも、だったらトイレでしましょうトイレは見えないように囲いましょう、トイレ行くことをこっそり行いましょうなどで、社会性と生物性の妥協を行っていたりする。
このロリ問題での妥協点はどこかという問題になってくると思う。
http://anond.hatelabo.jp/20081205045304
前のをかいたらBrittyさんが実践編として文法書と辞書を紹介しておられたのをブクマで知った。Collinsは、別の国語を勉強する時に初学用の教材として使ったことがある。見やすくて、なにより非常に実用的で、編集方針としてとても感心した。辞書でグローバルを勧めておられて、コロケーションが豊富とのことに、それをもっと早く教えてくれよと(たまたま別の英和を買ってしまっていたので(笑))。
でも、はてなのブクマのつき方を見ると、かなり初歩というか、諦めが全然足りない人が多すぎる(笑)。僕は外国語学習者としてはもちろん素人で外国語は苦手だけど、いろんな本を自分なりに読んで勉強して、気がついいたら3つ4つ外国語を知っている。そういう人間としてなんか言えそうに思う。
欧米の人が外国語を勉強する時、たいてい小さなメモ帳に単語や表現を書きつけている。これはいい方法だと思う。
ポイントは、いかにも単語帳然としたのじゃなくて、メモ帳を使うこと。というのも、単語や表現というのは、使われる場面や文脈にそって覚えられるべきで、かつそういうふうにしか覚えられない。いかにもな単語帳ノートは、そういうものをきれいに削ぎ落してしまう。メモ帳なら、あとで見なおすと書きつけた時の場面を想起しやすい。
たとえばハックルベリーさんのあの記事(http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081111/1226409288)。あれを鵜呑みにしてはいけないのはBrittyさんが指摘された通り。ああいう表現はハックルベリーさんの知人が言うからこそ味があったり面白がられたりするのであって、そのままぱくっても意味がない。
なら、自分なりにお決まり表現を作ってやればいい。時間稼ぎのための一言とか、しょっちゅう口に出てくる便利な表現とか。なんでもいい。自分なりのものを作れば、それが自然に味にもなり面白さにもなるだろう。どんなに初歩でも、言葉を使った瞬間に人柄が反映するものだ。
誤解されたくないのだが、これでも辞書の序文を読んで編者の熱い思いを受け止めるのが好きだ。ただ辞書には使い方がそれぞれあると思う。僕の場合は、まずパッと訳語をみて大体の意味を知るだけで鵜呑みしないことにしている。適当に自分なりに訳語を変えてこんな意味だなと受け取った方が、案外スンナリいく。あと、訳語そのものより、ちょっとした記号とかのほうがはるかに重要な場合がある。どこそこの方言だ、とか。
もちろん、熟語や凝った言い回しなどなど、ちゃんと探さなきゃいけない時は辞書をちゃんと読む。でも学者や難しい仕事ならともかく、普通に読んだり会話したりする分には、辞書はだいたいの意味しか教えてくれないものと割り切った方がいい。
上のと関連するが、共通語をつかうより、自分の方言で考えた方が外国語は理解しやすい。
身内にロンドンに長いこといて英語が完璧な人間がいる。この人が物語るとイギリス人の言ったことが全部方言になってしまう。コックニーだからというより、直訳ではない、こんなことを言いたいのだという感じまで伝えようとすると方言に変換されてしまうらしい。
指揮者の佐渡裕と朝比奈隆の対談で、佐渡いわく、オーケストラの練習で自分のイメージと違う音楽が出てきた時、外国ではオケにNO、NO!!と言えばいいが、日本語にいい言葉がないと嘆いたのに対し、江戸ッ子の朝比奈翁は、君は京都の人なんだから、上方言葉で、ちゃうちゃうってのでいいじゃないかと答えていた。
ヨーロッパ諸国語に関する限り、日本人は非常に有利。なによりラテン語のようにして勉強した英文法は、結構どの国の言葉にも応用ができる。しばらく英語から離れてみて、そして再び舞い戻った時、意外に語彙が増えていて理解が深まっているもので、これを活用しない手はない。
ヨーロッパの人がヨーロッパの言葉を勉強するのは、もちろん有利でもあるが同時に不利がある。というのも、似すぎていて混乱することが非常に多い。ヨーロッパのある語学学校の若い女の先生が、ねえ、受動態を理解してくれないのと泣きそうな顔をしていた。え、だって英語と一緒じゃないの?難しくないよというと、そりゃあんただけで普通はそうじゃないと返された。欧米人のレベルだってこんなものなのだ。
ただ、これには副作用があって、別の言葉を勉強している間、英語が出てこなくなる。たとえばドイツ語を勉強していると、1965年とパッと出されてもドイツ語は出てくるが英語が出てこない。ナインティーン、えーえーえー、フンダート(がっくり)という経験は誰でもあって、それは頭が悪いからではなく、ごくごく普通の現象だ。だけど、こんな副作用をこえる効果があるのだから、英語にこだわり過ぎるのも考えもの。
たしかモンテーニュだったかな。彼はラテン語の英才教育を受けていたが、にもかかわらずラテン語を読んで分からない部分にぶつかると、五分考えて分からなければ諦めて前に進むと随想録にあったと思う。この男前な潔さを見習いたい。所詮僕は外国人で、外国人として英語なりなんなりを使わざるを得ない。どんなに勉強したって限界はある。それに目的だって人それぞれ。ダメなものはダメと潔く諦める姿勢は、ときに必要だ。
ただそれでも、外国語をやる以上、それなりの好奇心あり、また向上心もあるわけだ。Kamikazeは自爆テロを意味するものとして日常語になっている国がある。戦争もテロもいけないが、外国語では人は死なない。敢闘精神と勇気を持って敵陣に突っ込み派手に自爆する心意気こそ、外国語学習の醍醐味だろう。
諦めつつ、大和魂をもって無限に突撃を繰り返しながら、最後は気長に成長を待たなければならない。それにはユーモアが必要だ。退屈な文法も、伝えたいことが伝わらないイライラも、ユーモア一つで救われる。日本人は静かでまじめとむやみに思われている。これはよくない。もちろんふざけたりおちゃらけたりすることはないが、真剣に冗談をいえばなんともいえないユーモアとなって、なんか知らないが笑えあえる。外国語学習の究極の秘訣は、実は笑いにあるのではないか。
(番外編)
何が正しくて何が間違いかってのは、僕らが日本語を使う時と同じように、外国語でも最終的にはあまり重要な問題でないんじゃないか。というかそんなことに臆していてはいけない。向こうの人だって外国語となれば、良くいえばそれぞれに特徴的な、悪くいえばてんでバラバラ無茶苦茶でも、健気にこなしている。だいたい方言のことまで考えたら、発音一つとったって基準がない。天才バカボンは偉かった。これでいいのだ。
あと男性諸氏は女とポルノは絶対に活用すべきだ。たとえ初学者でも、ポルノ小説だけは不思議に読めてしまう、これが。もちろん細かい部分や動詞の変化などは全く分からないが、それでも、ああこれはこーなってああなって、へへえ、と進んでいるうちに(もちろんまじめに文法も勉強しながら)、結構なじめてしまった自分がいたりする。
年寄りの昔話では、旧制高校時代から伝承されたというボロボロのエロ小説を回し読みし、それで英語の妙な表現や口語まで覚えたそうな。つまらない言い回しをネットでぱくるくらいなら、こういう努力の方を真似したい。
実は
中学不登校→田舎の定時制(いわゆる問題児集める高校)→浪人→国立(旧官立レベル)ってのが友人がいるので。
高校も程度が低い定時制なので,まぁ,進学校には毛も及ばない。
高3で予備校行くまで行ったことなかったし,現役のセンター52%くらいだったらしい。
なんせ勉強始めた初期は英語の自動詞と他動詞の意味すら知らなかった。
浪人したら意外と成績あがったみたい。
もちろん,元増田の友人の東大や旧帝に比べればダメダメだと思うけどね……
てか,うちの地元だと地元国立入れれば優秀って感じだったんだけどな??。
彼は地元国立より上の国立に入ったので,学歴的には優秀に見られた。
東大じゃないと優秀じゃないという価値観とかなら,俺の意見はちょっと合わないかもしれん…。
というわけで,さすがに東大クラスだと,小中と塾に行ってないとダメかも知れないけど。
小中と塾に行ってた人の何割が東大に行けるかと考えると,
まあもともとその他の話題もツッコミ満載なブログなわけですが…。
で、英文。なんだろう、タメ口英語っぽいというか、単語、とくに動詞、関係代名詞、副詞が浮いて見える。具体的にどうおかしいかちょっとわからないんだけど、文脈上なんでこんなとこに?っていう違和感がある。というのがぱっと見の印象。
前後の話題を理解してないと、英文単体では意味がわからないってのも同意。つか、人に読んでもらう文章の礼儀として、Thatとか、指示代名詞多用するのはやめたほうがいいとおもう。日本語でも、あれ・それ・どれ・これで書いた文章はわけわかんないのと同じ。
http://anond.hatelabo.jp/20081026030356
まずタイトルから
正しいコピペは「馬鹿なの?死ぬの?」なので、君はコピペもまともにできない人間なのだと読者に思われてしまう。
ただし、有名なコピペをわざと間違えて使ってみせてからネタの伏線として利用するという手法もなくはないので、まだ読者もこの時点では判断を保留して読み進めてくれるはず。
ライトノベルが特異な発想をしたモノ勝ちなのって、日常の人間関係や恋愛とかに乏しいから
特異な設定を取っ払うと、みんな似たような話しか書けなくて、それを誤魔化すために
煽り文として、かなり好調な書き出し。
ラノベを貶めるときの常套句を冒頭に配置することで、タイトルとの相乗効果で読者をうまく煽ることに成功している。
「日常の人間関係や恋愛とかに乏しい」の主語がわからないけど、これはタイトルから「作家」だと推測してなんとか読み進めることが出来る。
文学だって、この世の中で珍しいくらいの不遇を抱えているマイノリティな社会的弱者や
ありえないくらい、けだるげに思弁的な登場人物ばっかりなのって、そうしないと話が面白くできないからでしょ?
これも素晴らしい。
ラノベに限定した話だと思って読み進めていた、ラノベは読まないけど文学作品は読むというような読者に奇襲をかけることに成功している。
あいつらって、普通と違う発想でしか、普通と違う話が書けないから、普通の人に見向きされないようなニッチな話しかかけないんでしょ。
順調に読み進めていた読者の大部分がここでつまづく。
「普通と違う発想でしか、普通と違う話が書けない」って当然だよね?「普通の発想」で書けないから「普通と違う話」なわけだし。
ただ、「普通の人に見向きされないような」というくだりで、なんとなく「普通の人が見向きするような、それでいて面白い話」を君が理想としているのだということは推測できる。
「普通の人に見向きされる」っていう評価軸の導入が唐突過ぎるので、これについてはもう少し前置きが必要。
きっと、作家先生を祭りたてる読者も作家先生と同様に人生経験が薄っぺらなヤツか、分厚い人生経験をもってるやつがああ、人生経験無いわりに頑張ってるなーってニヤニヤ読んでるくらいなんでしょ?
ここはいい煽り文だ。
「作家先生」をバカにされて頭に来ていた「作家先生を祭りたてる読者」たちの怒りが一気に吹き上がることうけあい。
ただ、「ああ、人生経験無いわりに」のくだりはカギ括弧で括らないと「分厚い人生経験をもってるやつがああ」って若本規夫のモノマネみたいに見えてしまうので注意しよう。
予想される反論を的確に撃墜している。素晴らしい。
ただ、ここでタイトルのコピペの誤用がネタではなく素でやっていたことなのだと確定してしまっている。
本論に入る直前でのミスはかなり手痛い。
大部分の読者はもう後の文章を読まないし、読む人がいても君をバカにする目的で斜め読みするだけだ。
いちど斜め読みモードに入った読者の関心をもう一度取り戻すのはとても難しい。
そんなひとくくり出来ないような概念を、ぼんやりとふんわりとくくってわかったつもりになってるオタクどもってバカなの? 死ぬなの?
ああ、薄っぺらな作品ばっかり。
悲惨の一語につきる。
作者と読者のどちらをバカにしているのかもよくわからないし、「そんなひとくくり出来ないような概念」として並置された「学園異能」と「具体的な社会的弱者」の共通項も、それを通して君が明らかにしようとしているものもよくわからない。
「ぼんやりとふんわりとくくってわかったつもりになってる」についても説明不足。
でも事実を薄っぺらに表現するからこそ、有名な古典文学にしろ、すぐれたライトノベルにしろ、現代文学であっても、僕らは現実を間接的に直視する事ができるのだけれども。
「間接的に直視」という表現がそもそも語義矛盾を起こしているし、「事実を薄っぺらに表現するからこそ」「現実を間接的に直視する事ができる」という理屈もよくわからない。
それで、あたかも全部の世界や社会が語ろうとする。経験不可能なことを可能したつもりになってる批評家の方が人生経験が無いよね。
「批評家」という新しくでてきたキーワードがプロの批評家のことなのか、作品について語りたがる読者一般のことなのか不明。
でも、作家が言語化できなかったこと稀に言語化するからナイスじゃん、と思う時はある。
「何かをひとつのジャンルで語ろうとする事」が何を指しているのか不明。
「金型」というのがキーワードみたいだけど、これも前置きが必要。何が言いたいのかぼんやりとしかわからない。
まあ、経験の薄い作家先生のうすっぺらい人間の言葉にも飽き飽きしたし、それをわざわざ拡大解釈して言語化するフォロワーのうすっぺらい感性にも飽き飽きしたよ。
話の流れを唐突に遮っているので普通に考えれば悪文。
ただ、中間を飛ばしてここから読み出した読者が君の考えを三行で把握する役には立つ。
突然ブックマーカーに語りかけてもしょうがないだろう。
「次のステージ」というのが何を指しているのか不明。
I'm lovin' it.
そもそも、Mクドナルドの「I'm lovin' it.」ってどうなんだ。
【他動】
(人)を愛する、(人)に愛情{あいじょう}を抱く
・Love me, love my dog. : 誰かを好きになるとその人のものすべてが好きになる。/あばたもえくぼ。◆聖ベルナルド修道院長教会博士(Saint Bernard of Clairvaux, 1090??1153年)のラテン語の言葉(Que me amat, amet et canem menum.=Who loves me will love my dog also.)を訳したもの。
・Love your neighbor, yet pull not down your hedge. : 隣人を愛しなさい。しかし慎みを持って接しなさい。◆イギリスの詩人George Herbert(1593??1633年)の格言。
(人)に性的{せいてき}な関心{かんしん}[欲望{よくぼう}]を抱く
??に愛着{あいちゃく}を抱く、??に強い関心{かんしん}がある、??にほれ込む
・I love that song. : あの歌、大好きなんだ。
・You'll love it. : 絶対気に入るよ。
(人)を抱き締める、(人)を愛撫{あいぶ}する
(人)とセックスする◆やや古めかしい表現。
??が大好きである、??をしたいと強く思う
・You're going to love working here. : 君はここで働くのがきっと好きになるよ。
??が必要{ひつよう}である、??で育つ
・This plant loves fertile soil and lots of sun. : この植物には豊かな土壌と太陽が必要である。
「愛する」「関心を抱く」「愛着を抱く」などの意味で使われるloveは状態動詞で、進行形不可なんじゃないのか?「私はリンゴが好き」を「I like an apple.」と言って「I'm liking an apple.」と言わないように、「愛しているよ」は「I love you.」であって「I'm loving you.」とは言わないだろう。
同様に考えて、「必要である」も進行形はとれないだろう。
とすると、「I'm loving it.」の「love」は「抱きしめる」「愛撫する」「セックスする」という意味になってしまうと思うのだが…
時制は基本時制と変化形で成立する。
語句がないときは現在である。(文章では一度設定された時制に準ずる)
基本時制を設定したら、動詞をVと動作Vに分ける。
分ける理由は、それぞれちがう変化形をとるからである。
状態動詞は進行形が(基本的に)ないので、普通形と完了形のみがある
前者はその時制での状態。後者はその状態が継続していることを示す。
動作Vは普通形、進行形、完了形、完了進行形がある
動作Vのとき、現在普通形は現在の動作を表さず、普遍の真理など特殊な意味を表すことが重要である。
なぜそうなるかというと、現在というのは一瞬のもので、動作は一瞬では不可能な、時間に幅のあるものだから。
よって過去普通形は過去の動作を表し、未来普通形は未来の動作を表す。
進行形、完了形は一瞬を示す。
動作に対して、切り取ったところが「途中」「事前」「事後」で進行形か完了形の否定か完了形の肯定である。
つまり「私はセックスをする」というのは日常的・習慣的にセックスというあるまとまった行為をしますよということで
セックスをするという動作にたいして途中の場合「私は今まさにセックスをしている」という現在形になり
事後の場合「私はセックスをしたことがある」事前の場合「私はセックスをしたことがない」というふうに完了形となる
またセックスをするということがある特定のセックスの場合その人が童貞であるかどうかは分からない。
しかしセックスをするということが一般的なものであるときこの「事前」というのは童貞だということである。
時制は語句(キーワード)がとても大切である。先ほどの、「継続」の意味を持たせる場合、期間を示す語句と終点を示す語句(現在は一瞬なので終点がいらない
)が必要だ。
時間に幅のある過去や未来で進行形や完了形を使うとき、やはり一瞬をしめす語句が必要である。過去・未来の動作に対して切り取った一瞬が途中か、事前か、事後かということである。つかれた。うんぼぼうんぼぼ
すごく今更だけど気になったので
「俺が探していたのはコレだ!」感。
たとえば、日向小次郎が偶然にも雷獣シュートのヒントをつかんだとき。自分の脳内にしか存在しないと思っていた理想の異性が目の前にいたとき。簡潔に言うと「コレだ!」+「ワクワク」かな。
この感情に名前をつけたいのだけれど、何がいーかなー。できれば動詞がいい。
「エウレカ!」がぴったりだと思った。
アルキメデスがアルキメデスの原理を発見したときに叫んだ言葉で、
「わかった!」とか「見つけた!」とか「キタコレ!」みたいなニュアンス。
興奮のあまりすっぱだかで町を走り回ったって話があるから
ワクワク感も盛り込まれてると思うんだ。
最近、なんか世の中ギスギスしてるよーな気がします。やれモンスターペアレントだの、誰かが謝罪会見しただの、炎上しただの、どうせ俺には彼女ができないだの。実際のところ、今の人たちって昔の人よりもモラル意識が高いと思うのよ。だからこそ、モラル意識の低い人が浮き彫りになっちゃう。「昔はよかったー」なんて言う人もいますが、なんのこたーない、それは悪い点が見逃されていただけだと。
けどねー。やっぱギスギスしてるよーな気がするんですよ。批判だー罵倒だー炎上だー。他人の悪いところに目が行ってしまいがち。もっとね、いいとこ見ようよ。楽しいこと考えようよ。でっかいこと言っちゃうけど、社会の空気が変われば、消費も拡大して景気もよくなるよ!
いやー、ちょっと言い過ぎか。まあ、何がしたいかっていうと、その、良い感情に名前を付けたいのよ。たとえば「萌え」とか「なごみ」とかってあるでしょ。実体のない感情でも、名前がつくととてもわかりやすい。認識しやすい。意識しやすい。「萌え」っていう言葉が普及するまでは、その感情をどう表現していいかわからなかった。あるいは、表現の仕方がバラバラだった。
名前のない感情は、どうなるか。流れていっちゃうんだな。忘れやすくなっちゃう。萌えるシーンに立ち会って「今のは“萌え”だなー」と記憶することができない。「なんだか心があたたまった」で終わっちゃう。というわけで、良い感情に名前をつけたいのだけれど、それはどういう感情なのか。「萌え」でも「なごみ」でもない、なんだか心地いい感情。
たとえば、こないだ俺ひじき買ったのね。乾燥ひじき。でも、ひじきのレシピ検索してもだいたい煮物。もーわかってるよっていうくらい同じよーな煮物のレシピばかり。でも、見つけたんだ、「ひじきはパスタにも使えるらしいですよ」って書いてたの。もう俺の心はズキューンとうごめいたね。「え?え?パスタ?って洋じゃん、それ西洋じゃん!」て。もうありきたりな発想の裏側を思いっきり竜巻旋風脚されたわけ。でも、たしかにたらこや明太子はパスタに使える。そう考えると、ひじきもありかなっていう納得感もあったわけ。素晴らしいミステリー小説を一冊読み終えたような、それでいてタツノコアニメに新型ロボが登場したような気持ち。オドロキとワクワクが同居している状態。「俺が探していたのはコレだ!」感。
他のシーンでも、こういう気持ちになることあるよね。たとえば、日向小次郎が偶然にも雷獣シュートのヒントをつかんだとき。自分の脳内にしか存在しないと思っていた理想の異性が目の前にいたとき。簡潔に言うと「コレだ!」+「ワクワク」かな。
この感情に名前をつけたいのだけれど、何がいーかなー。できれば動詞がいい。造語でなく、「萌え」や「なごみ」のように馴染みある言葉がいいけれど、難しいかなー。「ときめき」だと、ちょっと違うしなー。うーん、長くなったのでいったん切る。なんかいい名前ないかなー。
「私は」がある分分かり易くて親切だと思う。避ける人は避けられるし、つっこむ人はつっこめる。
「私」を意図的に省略した、もしくは自分話であることが当然過ぎて省略された自分話はそういう回避やつっこみの難易度が多少上がるから、相手にある程度の不便を強いることになる。自身の心は安定するかもしれないから、どっちを優先するかってことになるんだろうけどね。
余談だけど、エゴイストってラテン語の「エゴ」って言葉から生まれたんだよってラテン語の先生が昔言ってた。ラテン語は日本語とおんなじで「私は」とかそういう主語が省略できる(というか動詞がみんな be 動詞みたいになってる)んだけど、「私」って単語も一応ある。それがエゴ。私がって部分を強調したい時に使うらしいんだけど、そっからエゴイストって言葉が派生したらしい。エゴイストって単語自体がどこの国でいつ作られたのかは知らないけど、あとその先生の話がどんだけ信憑性あるのか分からないけど、昔から「エゴエゴ言う奴っていますよねー」「そうですねー」みたいな流れがあったんだろうなって想像したら、昔の人が妙に身近に感じられてドキドキした。
たとえば、頭に浮かぶ仮説を書きたいなら、自分のブログに書けばいい。ブログに書くのが躊躇われる仕事の愚痴的な体験談は、たとえばmixiをはじめとするSNSに書けばいい。
でも、恋愛話は、どうも自分の名前で書くのは躊躇われる。
なぜなら、恋愛に普遍的なことはないし、本質もない。ならば、僕の名前で書いても、皆の役に立つ何かを書くことは出来ない。公と個の割合で、圧倒的に個が高くなる。属人的になりすぎるのだ。つまり、ほかの恋愛話との比較も出来ないということになる。理解と納得を求めるのではなく、共感と同調を求めて書くことになる。そんなものは、はてな匿名ダイアリーに書いて然るべきだと、僕は考えている。
恋愛をするとき、たとえばマニュアルに頼る人がいる。雑誌で、「ゆるふわ愛され」を目指す、という記事は絶えない、それを買う人も絶えることがない。
本質とは何か。普遍性とは何か。それは、時代性を超えて、属人性を超えて、全てを通観するものである。川の流れの中つやつやの丸い石となって、川の深いところに沈み、どんなに川が流れてもそこに残り続ける。それが、本質であり、普遍性だと、僕は考える。
でも、恋愛にそんなものはない。
人によって、時代によって、ぜんぜん形が違う。それぞれの人間ならば、ある程度の類型パターンを求めることは出来ても、その組み合わせの無限性、さらにそこに時代背景や環境的な要素の影響を考えると、どうしたって、「恋愛の本質とはこういうものだ」という仮説など出せるものではない。
恋愛とは、常に「私とあなた」の間に「今」を作り続けるものであり、その現場において「本質」という概念は目眩ましにすぎない。
そういった、仮説が出せないなら、たとえばブログには書けない。僕にとってブログは、論文である。学術論文である。仮説があり、それを裏付けるデータがあり、発表する。そしてブログをハイパーリンクで引用し、トラックバックで引用される。そんな僕にとっての論文であるブログに、「恋愛とはこうだ」と仮説を提示することなど、僕には不可能に思える。
ならば、自分自身の恋愛体験談をSNSに書けばよいか。僕はそれも関心がわかない。なぜなら別に共感も同調もいらない。そして、恋愛に本質はなく普遍性がないものである以上、人の恋愛について真に理解をすることなど不可能だ。僕は、本当に僕の恋愛について理解をしてもらえるなら、たとえばSNSに書くかもしれないが、そういうことはまず不可能だ。
結局、もやもやするのだ。恋愛の話なんて、書いてもどうしようもないのに、どこかで僕の心がそれを求めている。きっと、整理をしたいのだと思う。それならば、それこそリアルチラシの裏に書けばよい。でも、何故書かないか?
それは、人の目に触れる、という前提があるからこそ、正確な文章を書くことが出来るからだ。そして、正確な文章を書けば、自分の心が整理できるからだ。
人の目に触れるからには、あいまいな表現が僕の中では許されない。この動詞の主語は何か。One word/One meaning One sentence/One idea One paragraph/One topicは守れているか。(via 篠田義明先生)そこに妥協が許されなくなる。あくまで僕の中で。まだ、ぜんぜん出来ていないけれど。
しかし、本当は、他人に見せるための文章ではない。僕が、僕自身に見せるための文章。恋愛の、なにかそういったもやもやの何かを、なんとかこの活字の群れに潜ませるための文章。せむし男のようななりで、阿呆のように両手をキーボードを打ち付けて書く、そういった類の文章だ。
書いて、何の得があるのか?きっと何の得もない。
そういった文章のために、きっとはてな匿名ダイアリーはあるし、これからもあり続けるのだろう。
なお、何か恋愛話を書こうとしたのに、なぜここにそれを書くのかの理由を前文で書こうとした結果、恋愛話そのものを書けなくなるほど長くなったことを、心より恥じる。これは明らかに「恋愛話は、はてな匿名ダイアリーに書くに限る」仮説を提示するという意味で、ブログに書ける内容だった。
一応突っ込んどくが、ヨーロッパ系の言語でも主語目的語とかの省略があるのはよくあること。ないとされてるのは現代英語くらいのもの。ひょっとして英語が普通の欧米の言語だと思い込んでないか?ヨーロッパ系の言語は動詞や形容詞の主語とかに合わせて語尾等を変化させるのが一般的なはず。だから省略しても通じる。英語はそういうのはBE動詞三人称単数くらいしかやってないから略すると通じなくなりやすい。英語でも日常会話なら略して空気のようなもので把握させたりはするだろうけどね。
日本語は場合によって主語や目的語や動詞など、あらゆる単語の省略が許される時点で、欧米諸国の言語と比べると非論理的です。そして、それらを省略せずに論理だった文章を書くことも出来る言語でもあります。
『僕はうなぎだ』という文章が日本語として成立しているのを考えていただければわかると思います。そしてこの文章が日本語として成立する背景には、みんながお店でメニューを注文しているという場の空気がどうしても必要です。しかしながら、動詞を省略せずに『僕はうなぎを注文する』といってもいいわけです。
主語の省略については、『富士山が見える』という文章がいい例となるでしょう。富士山を見ているのは誰なのか?富士山が見えるのはどんな状況に置いてなのか?それを日本語は場の空気で表します。これを場の空気に頼らず、『僕は今富士山を見ている』というように状況や誰が富士山を見ているのかを明確にすることもまた出来ます。しかし、少なくとも英語では"I see Mt.Fuji."を"Mt.Fuji is viewing."などという変な英語で置換することは決して出来ないのです。逆に言えば、英語は主語の省略が許されない点で日本語と比べると論理的である(というより、論理的でなくては言語として成立しない)といえると思います。