はてなキーワード: カリキュラムとは
なんか結局教育制度の問題点って学問が目的ではない大学進学者が多すぎるってことに集結する気がする
大学で学問をするならどんな道に進むにしろ高校程度の国数英社理は役立たないことなんてないから
もっと高校時点で基礎をきっちり詰め込んだ方が良いに決まってるんだけれども
将来学者になったり学問を間接的にでも用いる職に就く人は大学生の中で少数派なわけで
だから、大学は学問するところだから就職目的のやつはくるなよ、って主張がいくら正しくても
(欧米に比べて緩いとはいえ)大卒が優遇される学歴社会の現状なんだから
そんな大学できちんと学問出来るカリキュラムを組む事は一応教育機関という客商売である以上無理
とはいえ就職予備校ではないから学問を軽く触れる程度の勉強はするけれども
就職予備校として進学してくる大学生に取っては意味のない物でしかない
だから大学受験や大学なんてくそくらえ、って批判があふれかえっていて
そして、ほんとうにただ生活するのに必要な知識なんて小学校中学校のお勉強すら十分なのだから
大学を教育制度を擁護するには、教養や常識といった薄っぺらい言葉で正当化するしかない
そうそう。
みんなが忘れてるのは、「ゆとり教育」が失敗したからと言って、カリキュラムに「ゆとり」が必要ないわけではないということ。「ゆとり教育」は「ゆとり」が過剰で内容が減らされすぎてたから問題だっただけの話で(もっとも、大学でその分苦労してるはずで、ゆとり世代は他の世代に比べて学力が著しく低いとは思わないが)。
早い話、難しい概念を理解するためには単に本を読んで字面を追うだけではなくて、それを頭の中で遊ばせていろいろやってみる時間が必要だってことなんだよね。そうでなきゃ単なる無駄な丸暗記にしかならないわけで。孫正義あたりが「俺は起きてる時間ずっと本読んでた」とか言っても誇張にしか聞こえないのはその辺。
そもそも、二流以下の大学がレジャーランドなのはアメリカでも一緒らしい(ピーター・サックス「恐るべきお子さま大学生たち」参照)しなあ。
http://b.hatena.ne.jp/entry/sankei.jp.msn.com/culture/academic/101007/acd1010070904010-n1.htm
ここの意見が真っ二つ。
ついでに言えば、僕は現行教育はぬるすぎてヘドが出るので、
これぐらいすればいいと思うよ。
撤退の理由はあなたが書かれているものと関連しますので、
人ごととは思えず、長文を書きます。
友人のほとんどは司法試験に合格し、また、優秀な実務家教員とも飲み会をし、
思うままにいくつか書きたいと思います。
弁護士は、扱える金額が非常に大きいし、そもそも高給取りだ。
「考え方がずれる」とかそういう話じゃないと思います。
そのために「割のよい仕事」を求めるのは当たり前です。
弁護士は「法律を使って法的に正しい状況を実現する」ことを商売にするのですから、
採算の合わない仕事をやらないからといって、彼らを否定することは出来ません。
儲けの少ない仕事であっても処理せざるを得ないのです。
薄利多売でいかざるを得ないのです。
もちろん、すっぽかすような弁護士は商売人としてどうかと思いますが、
弁護士数の増加によって弁護士をとりまく競争状況は年々に悪化していると聞きます。
採算の合わない事件を処理しないのは、事務所を経営しなければならない、
家族を養っていかなければならない、事務員の給料を払わなければならない
弁護士からすれば当然のことであり、いわゆる弱者救済を放棄したとかいう
「考え方の違い」とは関係のないことだと思います。
だから・・・
ということは起こりえません。
逆に競争が激化して事務所単位の収入が減れば、貧乏人のために働く弁護士は激減するでしょう。
彼らだって食っていかないといけないのであり、赤字事件は事務所経営に余裕がないと出来ません。
なお、
司法書士のような国際的になんら認められていない資格は淘汰され、日本の法治主義はより進歩したものになるに違いない。
そう考えていたが、どうもそうではないのかもしれない。
この部分については、ちょっと認識が間違っていると思います。
しかし、試験科目をみればわかると思いますが、中心的に勉強する範囲が異なるので
例えば、司法書士では不動産登記法が科目になっていますが、司法試験では民法に関連して少し出てくるだけです。
よって、例えば登記関連の仕事を弁護士は資格上は処理することは出来ますが、
知識不足・経験不足のため事実上、処理することが困難なのです。
なお、中規模の弁護士事務所には弁護士と司法書士が所属しており、両者は互いに助け合って仕事をしているのが実態でしょう。
司法書士なんて、弁護士になれなかった人がなるもので、これから司法改革が進み弁護士の数が増えれば、
必然的に淘汰されるに違いない、と考えていた。
前半部分は正しいですが、淘汰されることはないでしょう。
全体を通してですが考え方が甘いと思います(昔、私もそうでしたが。笑。)。
そうすると、扱える金額が制限され、弁護士に比べると様々な点で業務が限定されている司法書士だからこそ、
自分自身が誰のために働くか、というのは資格の種類の問題ではなく、あなた自身の問題です。
弁護士でも貧乏人のために働くことも可能でしょうし、司法書士でも儲かる仕事しかしないことも可能でしょう。
また、同じ仕業の人がどういう考えでいるかということに、元増田が流されると考えるようでは
貧乏人のために働き続けることは難しいでしょうし、そもそもロースクールのカリキュラムに耐えたり、
司法試験に耐えたりすることも難しいでしょう。
「グローバル社会に企業が勝ち抜いていくためにも、法律に通じた優秀な人材がこれからの日本にもっと必要だ」
という要請があったというのが本当の理由だそうだ。
これは大嘘です。仮にそうであればグローバルに展開している大企業はこぞって司法試験合格者を採用して、
司法試験合格者の就職難も解消されていてもいいはずですが、そういう動きはありません。
司法試験合格者数や就職難に関する弁護士のブログをみれば、これが嘘であることは明らかだと思います。
新司法試験とロースクール設置によって一番利益を上げているのは大学関係者と文部科学省です。
一連の司法試験制度の改革は彼らが利益を得るためにおこなったものといわざるを得ないと思います。
大学教授の「法的サービスの潜在的需要はあるはずだ!!」という、根拠に基づかない発言は極めて迷惑です。
大学教授は自分の学生や、司法試験合格者が食っていけなくても別に困らないですから、何とでもいうと思います。
大学がスポンサーとなっている新聞社は、大学の利益にならないことはなかなかいえませんから、
元増田のような公告・記事を書くでしょう。
元増田は「金を取って人の紛争を解決する」ということの実質をきちんと考えた方がいいと思う。
具体的にどういう仕事をしているのか、実際に働いている人の話を聞くといいと思う。
弁護士であれ、司法書士であれ、事件を受けるからには、どんなに依頼人が金に困っていても
彼らから着手金はもらうわけだし、成功報酬ももらうわけです。
慈善事業ではなく商売として人の紛争に首を突っ込むのです。
貧乏人から金を取ることを割り切ることが出来るかどうか、ということは極めて重要です。
また、貧乏人だって悪い人は悪いんだから、そういう人を救うことは出来ません。
うまくまとりまりませんが、なんだかすごいナイーブな発想で弁護士という仕事を捉えてらっしゃるように感じます。
ロースクール入試による競争、ロースクールでの競争、新司法試験での競争、就職活動での競争。
全ての段階でドロップアウトする可能性があります(上位校に行かなければまともな教育は受けられず、
また、友人から聞いた話ですが、新人弁護士の最低待遇は年収300万円に
弁護士会費自己負担(年間50~100万)という状況だそうです。
仕事がつまらないという理由と、先述したナイーブな発想で弁護士を目指すのは
あまりにも頭がお花畑だといわざるを得ません。
それでも弁護士を目指したい!!と思うのならばそれは自由ですが、
かなりのリスクがあることを覚悟の上で、いかれるとよいと思います。
・世代一般を語るにはサンプルが少なすぎる
・世代なのか年齢なのかにすら意識が至っていない
・仮に世代の特徴を捉え得ているとして、それがゆとり教育による物だという根拠が不明
褒めているように見せかけて
「ゆとり世代だから○○」という無根拠な偏見をぶつけており差別的ですらある。
ゆとり世代に対して最低限許される先入観(変な言葉だが)はせいぜい、
学習カリキュラムが減ったことによる学力への懸念ぐらいだと思うが、
何故か平気で知性や人格まで語っちゃう人が後を絶たない。
とりあえずモンペアの世代だけ死ぬ疫病でも流行ったりしないかなと思ったり。
内容の知的レベルにあった締めの文句だと思う。
とりあえず、
老人にはいつも席を譲ってるがお前らには絶対譲りたくない。
寝たふりしたなんて思われたら不愉快だから眠くても起きて睨んでおきましょう。
こいつらの発言にはいつも恥や自省がない。
大抵はお前みたいに頭も悪いし。
「絶対に失敗する英語学習法」
http://anond.hatelabo.jp/20100806010225
の、続き。日本の英語教育のどこがどうダメなのかを分析してみます。ただし注意、中にはダメじゃない英語教師の方も沢山いらしゃいます。あくまで一般論、しかも乱暴な一般論として。
いわずもがな、ですね。「教科書を教える」ことが教師の仕事になってしまっていて、生徒はそれを浴びせられるだけ。英語が身に付くはずもありません。確かに一クラスの人数的にアウトプットをさせることの難しさはありますが、それはかなりの程度工夫でどうにかなるんです。
(2) アウトプットをチェックしない
そもそもの問題は、授業のスタイルが生徒のアウトプットを基準に設計されていないことにあります。英語の授業で当てられる、というのは、今のやりかただと「運が悪かった」と片付けられてしまうんですね。ダメ出しされたとしても、それは生徒に響かないんです、その生徒は自分のアウトプットにコミットしていないから。授業そのものが、「教わる」ではなく「自分が何かをやってみる」という意識で捉えられていないと、アウトプットのチェックはたとえあったとしても意味がありません。
(3) 身の丈に合わないインプットを与える
例えばネイティブを連れてきて授業させる、みたいなことです。往々にして、生徒はそこから何も学びません。何となく「あー英語だったー」でおしまい。それが完全に無意味なこととは言いませんが、もっと有効に時間を使う方法はいくらでもあります。中には生徒のレベルに合わせてインプットをうまいレベルに調整できるネイティブ教師もいるんですが、とても稀な才能です。
(4) 生徒がそれができるのかをを考えない
英語って、本質的には「教わる」ものではありません。学習者が自分で練習することで初めて上達があります。すると英語教師の役割というのは、「どのような練習をすればいいのかを教える」ということになるんです。生徒のレベルに合わせて達成可能な目標を与え、それを達成することの喜びを利用してモチベーションを管理し、いずれは生徒自身が自分で目標を設定して自主的に練習ができるようにすること。それが教師の仕事です。つまり、英語の授業はまず「この生徒はどれぐらいのことができるのか」を土台にデザインされなければいけない。しかし現状は逆です、「これができなければならない」を一方的に投げつけるだけ。どうやったらそれができるのかわからない生徒のモチベーションはダダ下がりです。
反復練習の大事さ、コツコツと積み上げていくことは必ず報われる、という実感を生徒に与えられていないところに問題があります。反復練習は面倒くさいものですが、しかしそれを上手にデザインして生徒に与え、生徒が英語に熟達していく実感を与えられることが大切です。そういう感覚を体験していない生徒は、「どこかに楽勝で英語がうまくなるやり方があるはず」という幻想に囚われます。この幻想は基礎に対する信頼を失わせ、「自分が英語ができないのは学校教育が悪いから」というルサンチマンに結びつきます。これは生徒にとって言い訳として機能するところがタチが悪い。一度この言い訳を身に付けた生徒は、その後どんなに素晴らしい英語教師と出会っても、自ら努力することができなくなってしまいます。
じゃ、どうすればいいのか。大切なのは英語教師のTOEICをチェックするとかではなくて、適切な教授法を定式化し、それをカリキュラムに組み込むことだと思うんですよね。極端な話、英語ができない教師でもそれに従えばまともな教育ができる、というマニュアルを作ることは全然可能だと思います。それは全国津々浦々の学校に英語ができる教師を配置するよりはずっと簡単なはずです。
様々な教育改革にチャレンジしてきた某自治体の教育行政が、危機的状況にある。
そもそも、現場出身の教育長の強力なリーダーシップのもとに進めてきたこれらの改革。
現場からは無理とは思われつつも、語る言葉には説得力があり、子どものためにとみんなで作り上げてきた。
やるからにはより良いものを。と、現場はシステムを懸命に作りあげ、ようやく軌道に乗ってきたと思われていた。
ところが今年度に入り、教育委員会の動きを懸念する声が上がっている。
教育長の下に新たに職をもうけ、教育長に近い退職校長がその任に当たった。
もう一人は各方面の評判が芳しくない。
好き嫌いで十分な環境を与えない教科があったり、
そんなお方が、ある全国的な発表会の席上で、
「すべての方針は私が決める。校長会で議論する余地はない」
という旨の発言を行い、物議をかもした。
これから何が始まるのかと、現場は戦々恐々としている。
そして、学校ごとに行う研究でも、周囲が首を傾げる事例が起こった。
研究の途上で提唱者の校長を転任させ、その研究の内容を別の学校のものとして、全国大会で発表したというもの。
元の学校で中心的な役割を担っていたベテラン教員は、様々な理由をつけてその立場を外されつつあるという。
さらに、月に一回どの自治体でも、各教科ごとに分けられた研究会が行われている。
そこで急に講師を呼んで、全員参加の講演会が開かれることになった。
その内容は、国や都道府県から配布される資料のおさらいとも言うべきもので、
なぜ緊急にそのような講演会が開かれたのか、詳しく知るものはいない。
研究といえば、教育改革に関わるカリキュラムを、教科ごとに検討する委員会があるのだが、
今年度になってその動きが途絶えている。
来年度の国の指導要領改訂に合わせて、自治体独自の要領も改訂する大詰めの時期であるにも関わらず、だ。
また、現場の教員の指導・監督にあたる「指導主事」が一新された。
そのため、様々な事務が滞っているようだ。
ある事業の年間計画が出されなかったことを質問すると
「例年一緒なんで、だいたいそれに合わせてください」
とのことだが、
重要な連絡会や提出物の通知が3日前に出されるということもあったそうだ。
指導主事の指導に関しても疑問を投げかける声が上がっている
事業の目標や実行までの行動サイクル、数値による評価など、
肝心の授業や指導法など、本来指導すべきことは最近耳にすることがない。とのことだ。
教員は保護者や評価委員、さまざまな所から見られ、プレッシャーが与えられて、自らの仕事を改善している。
それはどの仕事でも同じである。
総理大臣や市長でさえ、世論というプレッシャーは無視することができない。
しかし、教育委員会というものは行政からも独立した存在であり、その動きに問題がある場合に、誰も有効なプレッシャーをかけられるものがいない。
組合は自らの要求とイデオロギーに走り、その機能を果たしていない。
この自治体は、どこへ向かってゆくのだろうか…
記
1 処分等の対象教員及び内容
(1)懲戒処分
所属
職名 氏名 年齢 性別 処分内容
(2)措置
所属
職名 年齢 性別 措置内容
※管理監督者である、システムデザイン学部長及びシステムデザイン学部インダストリア
ルアートコース長を厳重注意とした。
2 処分等事由
(1)【諭旨解雇】
・平成 22 年 6 月に、自らのゼミにおいて、先般退学処分とした学生が卒業制作に関連し
て作成した映像を視聴した際、その内容の不適切さを認識し、当該学生が企図したイン
ターネット上の動画サイトへの投稿については制止の指示をしたものの、製作の継続に
ついては容認するかのような発言を行うなど、その教育指導が不十分であった。
その結果、本学の社会的信用の著しい失墜など、重大な事態を招いた。
・今回の不適切な映像についての問題発覚後、上記の経緯と異なる虚偽の報告を行った。
(2)【訓告】
・上記学生が作成した別の映像(「募金」に関するもの)について、社会から誤解を招く
ような不用意なコメントをインターネット上の簡易投稿サイトに掲載したことにより、
本学に対する非難を惹起し、本学の社会的信用を失墜させる一因となった。
3 処分等年月日
平成 22 年7月6日
問い合わせ先
連絡先(直通 03-5320-7080)
平 成 2 2 年 7 月 6 日
去る6月24日に、不適切な映像を製作し、動画サイトに投稿した本学シス
テムデザイン学部学生2名及び大学院生1名に対して、懲戒処分を行って以来、
引き続き、指導的な立場にある教員につきましても、徹底した調査を行い、本
件の詳細な把握に努めてまいりました。
これまでの学内における調査において、映像製作の過程での本学教員による
関与があったことが判明いたしました。誠に遺憾な事態であり、深く皆さまに
お詫び申し上げます。
調査の結果、当該学生が所属する研究室の指導教員につきましては、当該学
生が製作した不適切な映像を視聴した際、ネットへの投稿については制止の指
示をしたものの、製作を続けることを容認するかのような発言を行うなど、十
分な教育指導を行わなかったことが判明しました。大学としてはこの事態を厳
また別の教員1名については、不適切な映像への直接的な関与は認められま
せんでしたが、当該学生が製作した別の映像(「募金」に関するもの)に対して、
簡易投稿サイト上で、不用意な発言を行い、結果的に本学に対する非難を惹起
し、本学の社会的信用を失墜させる一因となったことから、文書により訓告を
行いました。
さらに、これらの所属教員に対する管理監督責任により、当該の学部長及び
コース長に対し、それぞれ厳重注意を行いました。
本学といたしましては、今回の事態を深く反省するとともに、今後、このよ
うなことを二度と引き起こさないよう、全学をあげて信頼回復に努めるため、
教育実施体制の検証を中心に、再発防止対策を策定、実施することといたしま
した。
まず、早急に取り組むべき課題といたしまして、システムデザイン学部イン
ダストリアルアートコースでの教育内容の検証及び改善を進めるため、同学部
長を中心とする再発防止対策委員会を設置いたしました。再発防止対策委員会
において、インダストリアルアートコースにおける教育研究に係る指導方針、
指導状況等を検証し、改善策の策定及び実施を図ってまいります。
また、関係教員が担当している研究室につきましては、今回の事態が教育界、
社会一般に与えた影響の大きさを踏まえ、当分の間、研究室の教育活動を自粛
し、その教育指導状況等につきまして、外部専門家の力もお借りしながら、徹
底的な精査を行う所存でございます。
さらに大学全体の取組といたしまして、学長を中心とし、副学長、学部長等
で構成する対策会議を設置し、人権・倫理重視の観点から、本学構成員全員に
対する人権・倫理意識の向上、さらには学生への情報教育における情報倫理の
徹底等を進めてまいります。
最後に、多くの皆さまに多大なご迷惑をおかけいたしましたことを、改めて
心よりお詫び申し上げます。
平成22年7月6日
原島 文雄
平成22年7月6日
再発防止対策について
1 基本的考え方
今回の事態を踏まえ、再発防止の観点から、本学の教育内容の検証を行うとともに、教育・研
究活動における人権意識、倫理観の確立及び良好な学修環境の確保を一層図る。
2 具体的内容
◆学部長をトップとする「再発防止対策委員会」を設置し、早急に以下の内容に取り組む。
・教育研究に係る指導方針、具体的な教育指導状況を検証した上で、必要な改善策を策定・
・外部専門家を含む「(仮称)アート教育倫理委員会」を設置し、倫理上の観点から芸術教育
の内容を定期的かつ継続的に検証
・本件に関連する研究室のあり方の精査
◆学長を中心とし、副学長及び学部長等で構成する「(仮称)倫理意識向上等対策会議」を設置し、
人権・倫理重視の観点から、全学の教育のあり方を検証し、以下の内容に取り組む。
・現在策定中の「ダイバーシティ施策行動計画」において、人権、倫理教育に関する具体的
取組を明記
・全部局において、内部及び外部専門家による研修を定期的に実施
・情報教育(情報リテラシー)におけるメディアリテラシーや情報倫理に関する教育を徹底
○学生生活全般に係る指導・支援を拡充するために、担当する副学長の機能強化
・役割分担の明確化や増設の検討
3 今後の対応
上記対策の取組結果等については、改めて報告書としてまとめ、23年3月末までに公表
2 全学に関するもの
>>とてもじゃないが1から覚えるには授業に出ただけでは絶対足りないよな。<<
特にワードエクセルとかじゃなくプログラムとかだと、触りだけになる。
と講師たちも言ってる。
かつ、訓練期間が終わっても仕事が斡旋されるだけではない。
俺みたいな「1から」の人はね。
>>増田の能力がないわけじゃないんだよ。あそこのカリキュラムじゃ絶対時間が足りないんだからね<<
カリキュラムが浅くて短いのは聞いてたからね。実感はなかったけど。
それはいいとして、PC使えなくなるなんて、どんだけキャパのない脳なんだと…
ちなみに以下の記述は大都市の私学が前提みたいな書き方になってるけど、公立でも多かれ少なかれ似たようなものみたい。
上位の大学に行けるんなら、
何で進学校じゃないところは
それを採用しないの?
勉強以外のことで考えてごらん。
「PL学園の練習で甲子園にいけるんなら、何でPLじゃないところはそれを採用しないの?」
どう見ても愚問だよね。普通の高校の生徒は高校生になった時点での基礎力が既にPLの生徒に遠く及ばないし、そもそも野球に全てを捧げて生きる覚悟と情熱すら持ち合わせてない。PLの練習と同じメニューを普通の高校生に課すのは下手をすると児童虐待かもしれない。要はそういうこと。
あ、念のため、東大に行くのは甲子園に行くのとは比べものにならないほど易しいし、進学校の生徒はPLの生徒が野球に取り組むのと同じぐらいマジで勉強に取り組んでるわけじゃない。でも、そういう量的な違いはあるけれど、質的には同じことだよ。
それとも進学校は
学生を集めているだけで
教育はそんなにすごくないの?
進学校といっても色々あって、トップ校は基本的に受験指導は最小限で自由にやらせるし、二番手校以下は宿題とか補習の量が充実していて予備校並のサポートが受けられる。
で、トップ校は「勉強の習慣は自分で身につける」「一を教えればあとは自分で勉強して十まで理解する」という前提で教育するから、理科や社会なんかでは特に研究者くずれの教師が大学の一般教養レベルの話をして「ついてこれる奴だけついてこい」という感じになることもしばしば。要は教科書の内容なんかは自分で身につけられるのが前提なので、それができない奴は受験期になって予備校や塾に頼ったりする(というか受験期に塾に行かずに済ませられる奴は少数派。ちなみに俺は行かなかった)か、あるいは落ちこぼれたりする(落ちこぼれても一浪で早慶ぐらいは行ったりするけど。逆に言えば学校側の要求レベルがそれだけ高いということ)。
二番手校以下は(この辺は主に伝聞になるけど)、とにかく教科書の内容を身に付くまでやらせる。大学入試なんて東大だろうがどこだろうが教科書の内容が身に付いているかどうかの勝負なわけで(この点に反論は受け付けないのであしからず。俺に言わせれば、それが嘘だと思っている人は教科書の内容を表面だけ暗記していて本質を理解していないだけ。高校の教科書は記述こそあっさりしているけど意外なほど基礎的なことがきちんと網羅されている。理科なんかは杓子定規な指導要領の関係で不備も目立つけど)、とにかくできない生徒には宿題や補習で強制的に勉強させて徹底して底上げを図る。
で、どちらにしても教育が「すごい」のかどうかは俺にはわからない。悪い見方をすればトップ校は教育の責任を放棄して教師が好き勝手しているとも言えるし、二番手校は物量で押し切っているだけとも言える。
ただどっちにしても、こういうやり方が普通の学校では通用しないことは確かだろうね。トップ校のやり方をすれば、本質的に勉強好きでない子供は最初から教師を無視して勉強なんかしないのが関の山だし、二番手校のやり方をすれば「受験少年院」呼ばわりされるのが関の山。
要するに、それぞれの学校の生徒や親のニーズに合ったやり方(最適かどうかはともかく)をしているわけで、他の学校でこういうやり方を真似できるかというとちょっと無理だろうね。
茂木健一郎氏のブログエントリーで気になる点があったので指摘したいと思います。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2010/06/post-9d62.html
まず、前提として私は茂木氏の主張には賛成です。
茂木氏は、日本での行き過ぎた標準化の弊害として、突出した能力が育ちにくいと述べています。それの対照的な例として、アメリカの個人の得意な分野を伸ばせるシステムに言及しています。茂木氏の要点としては『学力における個性と、標準化のバランスをどのように見るか。この点においてアメリカと日本の大学入試は、異なる思想に基づいている。』(本文より)ということです。
しかし、茂木氏の説明にはあまりにも説得力が欠けており、この人は実はあまりきちんと考えずにこのエントリーを書いたのではないかと考えてしまいます。
その理由は、日本の大学入試問題とアメリカのSATという試験を比較対象にしているところです。
SATとは、日本でいうセンター試験のようなものです。「ようなもの」と書いたのは、SATとセンター試験とは大きく異なる点がいくつかあるからです。
*SATはセンター試験のように大学入学のためだけの高校範囲の理解度をはかるものではなく、言語能力と数学の基本的な能力をはかるものです。
*センター試験は大学入試の前の一発勝負ですが、SATは何年生からでも何度でも受けることができ、大学に応募するときには一番高い得点を採用することができるので、どちらかというとTOEFLやTOEICによく似ています。
*東京大学というのは言わずと知れた日本の一番学問的な偏差値の高いところですから、学生に高い思考能力を求めるのは当然です。東京大学以外の大学では一問一答式のお粗末な入試問題を出すところも多いのですが、そのことには触れられていません。
ですから、個別の大学の大学入試問題とSATを比較し、求められる思考能力のレベルに言及し悦に入るのは明らかに的外れなのです。
日米どちらのシステムがいいというのは一概には言えません。教育を受ける個人によっても違うでしょう。
日本は多岐にわたる教科すべてで高いレベルを求め、いわゆる知識的にはAll roundedな人間を育てようとしますが、アメリカでは得意な分野の教科を重点的にとれるなど、個人の特性にあわせた教育が行われるよう配慮されています。私の感覚では思考能力を育てる教育をしているのはアメリカのほうです。アメリカでは小さいときから著述式問題を解かせ、表現能力を養うほか、学年が上になると論理的な文章を書くトレーニングを繰り返し行います。知識を吸収し、正しく物事を理解するアプローチを取る日本より、批判的な視点が養われると思います。どちらにもメリット、デメリットはあるのです。
茂木氏の指摘に、日本のやり方では高校の範囲で足止めされてしまい、能力が伸ばせない学生が出てくる、とありますが、果たして本当にそうでしょうか。
アメリカには国で統一された標準のカリキュラム、というものはありませんが、この分野ではここまで理解しているのがふさわしいとされる基準はあり、高校でそれ以上のレベルの授業をオファーしているところはほとんどありません。必修の科目も多く、レベルの高い高校では学生は日本の学生のように日々勉強に追われています。大学入試は日本のように一発勝負ではなく、課外活動も含めた高校生活すべてが見られるので、アメリカの学生はいい大学に行くために日本の学生以上に多忙です。茂木氏の『アメリカのSATは簡単だが、同時に、高校生の時から非可換代数や無限集合論に精通した学生をつくるかもしれない。』という主張の根拠はどこにあるのでしょう。
確かにアメリカは才能を伸ばす教育をしているので、数学が良くできる生徒は大学の講義をとれたり、夏期の数学キャンプに参加したりして自分の能力を伸ばすことができます。それはあくまで自主的に自分の時間にしているのであって、日本の学生だって趣味で高等数学を勉強しようと思えばいくらでもできます。
茂木氏は学校というものに期待をしすぎているのではないでしょうか。優秀な学生は、特に高校生にもなれば、人の手を借りなくても自分でさっさと知識を探し吸収していくでしょう。日本の教育は比較的受動的な学生を育てるので、どうやって自分自身で次のレベルに進むか分からない、という問題があるかもしれませんが。
http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2010/06/post-9d62.html
日本の大学入試は「プロクラステスのベッド」とか聞いた風なことを言ってる割に、自分自身の学識のなさを暴露しているんだから噴飯ものだ。
上に挙げた東京大学の入試のように、高校までのカリキュラムに出題範囲を限定した上で、その中で人工的な難しさを追求した出題をしていると、大学入試が終わるまでは、高校生はそのカリキュラムの範囲に足踏みすることになる。
こいつ本当に、自分がリンク張ってる東大入試の問題見てみたのかと思う。どの科目も基本的な良問がおおむね揃っている(英語については言いたいこともあるがこれは日本の英語教育自体の問題になる)。専門家がこの辺の問題に全く歯が立たなければ「廃業しろ」と言われても仕方ない種の問題だ。専門から離れていたら思い出すまでに時間こそかかるだろうが、一度は身につけておかなければ教科書の内容を習得したとは言えないレベルの、基本的な知識と考え方を試す問題でしかない。この程度に深く掘り下げる能力がなければ大学での本格的な勉強になんかついて行けないだろう。
というか、アメリカの大学生の勉強量が多いのは、日本の受験勉強と同じような内容を学部教育に詰め込んでいるからという面もかなりある。日本の大学の1年後期や2年前期の電磁気学や解析力学で使う米国製の教科書の序文に「本書は学部上級生から大学院生を対象としている」とか書かれていることなんて結構ザラ。
本当は、さっさと量子力学や統計力学、線型代数か解析幾何の進んだ内容を修得すれば良いのに、18歳の段階では、いつまで経っても高校のカリキュラムの範囲であれこれと勉強をしなければならないことになる。
解析幾何wwwww知ったかぶりがもろばれなんですけど。
あのね、解析幾何っていうのは一口に言えば平面や空間に座標を引いて図形を扱うことで、思いっきり高校範囲です。せめて位相幾何とか微分幾何とか代数幾何とか言えないかね。門前の小僧でもそのぐらいの言葉は聞きかじっておいてくれよ。あんたこそ大学で何してたのかね。
それに、あの程度の数学や物理がわからない奴に量子力学や統計力学なんて理解できないよ。なんとかごまかして線型代数の試験で単位を取ることぐらいはまあできるかもしれないけど、線型代数なんて大学入学直後に習う「イロハのイ」なわけだからねえ。
学問というものは、ある程度の段階を超えると、標準化をすることが難しくなる。どの方向に伸びていくかは、分野によっても人によっても異なるからだ。
あのね、あなたが「進んだ内容」とか言ってる「線型代数」ですら「標準化」されたレベルの内容でしかないんですが何か?いわんや高校レベルをや。
「非可換代数」とか「無限集合論」とか素人臭い用語法(せめて「非可換環論」とか「公理的集合論」とかいえよ)が気になるが、東大や京大の数学科あたりに行けば、高校時代から大学レベルの数学に手を出している学生はかなり沢山いるよ。
だいいち、東大入試レベルの普通の数学を理解せずにそんなマニアックな分野(リー環論とかならマニアックとは言えないだろうが)に手を出してもありがたみが理解できないと思うのだがどうだろうか。つーかお前、非可換って言いたいだけちゃうんかと。
こんなんに釣られている奴がブクマ見ると結構いるのが驚きだよ。
アメリカのID論者の一部は「IDを『科学』として、学校教育のカリキュラムに組み込むべきだ」と主張し、実際に議会に働きかけてそのような法案を提出した。このような動きに対して科学者が「IDは科学的でない」と反論するのも宗教戦争で、やめるべきなのか?そうじゃないだろ?
ID論者というだけで「科学的に有り得ない」と噛み付く一部の科学者の行動は宗教戦争の側面を持ち、不毛だろう。
だが、「違う土俵」にずかずかと入り込んで一方的なルールを押しつけようとする輩を「排除」する行動は、「いいかげんやめれ」と声をかけたところで、止まるものではないだろう。
簡単な話だけど、
1.教える方も仕事しているんだから、授業みたいに1から10まで教える時間はない
2.そもそも、カリキュラムみたいに教えられない感覚値が技術に含まれれていると難しい
という話は前提として
普通は仕事の振り方で、技術を教えて行くのですが、これが教えられるほうがわからない事が多いみたいです。
つまり、Lv1の技術力の人間にはLv2の技術が必要な仕事の中で一番簡単な物を
この人に次に何の仕事をやらせるか?というのは、結構気を使って頭ひねるのですが・・・わかってもらえないことが多いです。
ぬう。
私は、事務系の仕事でそれをやられたので、
まあ、職人がそんなに甘くないってことをいいたかっただけです。はい。
あくまで職人にくらべてですけどね。
それに比べたら、不親切って話。
後で書きますが、教えられるほうがわからないというのは
その教え方はその人にあってないだけかもしれませんね。
それは仕方のないことだと思います。むりですもん。一人ひとりに合わせるなんて。
あなたに書かせて、ちゃんと上司のはんこがもらえる用にミスがないかどうか?理由がかけているかどうか?その他漏れがないかをチェックして、何かあったら書き直してもらって・・・チェックする手間が大変ですよ・・・。でも、やってもらわないと、あなたが覚えないでしょ?。
えっと、毎回違うからってカンと経験で覚えろって人がいたんですよ。私の周りに。
で、たとえば伝票の書き方。
・Aさんという人はこういう書き方。
・Bさんという人はこういう書き方。
・Cさんという人はこういう書き方。
私の覚え方は、A、B、Cさんの伝票の書き方の共通するところを書き出して、
共通するところはこれだ。で、ここはアドリブを利かせればいいって判断して、
基準になるものの共通点を記憶するための基準にするんです。
まあ、覚えるための目印とでもいいますか。
マニュアル化しちゃうんですよね。覚えるのに。
でも、その人たち、書き方の共通するところをかきだしてたら、
バカにするんです。そんなんで、覚えられないって。
自分で工夫して覚えようとしているのに、
カンで覚えろだなんて。
実際その人のやり方で物事を覚えないと、見放す人多いですよ。職人さんのタイプって。
俺の経験じゃ、そんなやり方じゃダメだ。みたいなこと職人さん結構言ってるでしょ?。
そうじゃない人もいると思いますが、私の周りにいる人を見るとそう思えてきちゃいます。
感覚的にものを覚えないといけないってどういうことですか?って思っちゃいます。
多少は話はズレますが・・・
簡単な話だけど、
1.教える方も仕事しているんだから、授業みたいに1から10まで教える時間はない
2.そもそも、カリキュラムみたいに教えられない感覚値が技術に含まれれていると難しい
という話は前提として
普通は仕事の振り方で、技術を教えて行くのですが、これが教えられるほうがわからない事が多いみたいです。
つまり、Lv1の技術力の人間にはLv2の技術が必要な仕事の中で一番簡単な物を
この人に次に何の仕事をやらせるか?というのは、結構気を使って頭ひねるのですが・・・わかってもらえないことが多いです。
たとえば、新人君に発注伝票の書き方を教えるために、
あまり重要ではない物の発注伝票を書いてという仕事を振るのですが・・・
自分で書いた方が速くないですか?といわれると、ゲンナリします。
えぇ、だから大切な物は自分で書いてるでしょと・・・。
あなたに書かせて、ちゃんと上司のはんこがもらえる用にミスがないかどうか?理由がかけているかどうか?その他漏れがないかをチェックして、何かあったら書き直してもらって・・・チェックする手間が大変ですよ・・・。でも、やってもらわないと、あなたが覚えないでしょ?。
という当たりを、ちゃんと考えてくれないと、教える方も大変です。
逆に、ここに氏名を書いてください・・・ここにXXを書いてください・・・って、やるとしたら、そりゃぁ、どこのお客様ですかと。
まぁ、技術職の教え方というのは、そういう物でした・・・わたくしてきには。
こういう教えようと思ったら教えられる物は良いですが、教えられない感覚値の物は、こういうやり方で伝えるしか無いと思うのです。
あと隠しているのではなくて、それをいきなり知ってしまうと、途中で知らないといけない技術をジャンプしてしまうので、おまえにはまだ早いという時があります。ジャンプして良い技術なら問題ないのですが、知っておかないとダメなことだったりすると、とりあえず、やっておけ。みたいな。
学校の勉強と実際社会に出てから使う知識&スキルがあまりにも乖離している。
いやまあ自分は文系だから理系の人たちはもっと直結できてるかもしれないけど
ただこれなら文系はつかえねーよななんて言われてもしょうがない気がする。
それはお前大学時代さぼってたからだろうがって言われそうだがその通りだ。
でもちょっとだけ自己弁護させてもらうと、だって、何に使えるのか分からないんだよ。
自分は地域研究をメインにしていて今は海外営業やってるからまったく死んでいるわけではないけれど、
逆にそれ以外の必須単位カリキュラムの講義が何かの役に立っているかというと、ほとんどない。
さらに自分の業務と興味が出てきた分野についてはビジネスを通じて得た情報と体験と複合させて
学生時代よりよっぽど打ち込めるし深くまで掘り下げられる。
でも学生時代よりもはるかに時間が少ないから結局のところ満足のいくところまで学べない状態。
新卒主義+年齢制限でどうしても再就職するときに割を食らう現実
やっぱり学習意欲を優先させてしまうと年齢制限が比較的に緩い外国にいくしかないだろうか。
そう考えると学生に戻る選択を選ぶとしたら海外の大学のほうがいいのかなぁ。
これだけ結婚できない人が多々存在している以上、現在の勉学としてではなく、
カリキュラムとして対人コミュニケーションとして項目が必要だと思いますね。
お互いのコミュニケーション能力に不足があるからお互いくっつかない一因じゃないかと思ってるんですがどうでしょうかね?
非モテのよくある悩み、ファッションについては、体系的なガイドが見つかんないことに苦労してる。
雑誌じゃないファッションの本って、フォーマルファッションについてのものしかないってのが本音だが。
探し足りないだけかもしれないけど。
美容院や服屋って、店員さんに丸投げしちゃっていいもんなの?
僕は美容室に行って、そこに置いてある雑誌を見てこんな感じにしてください!っていいますね。
正直慣れてないお客さんはきちんと教えて満足したら常連になる可能性が高いので、
美容師さんはきちんと教えてくれますよ。
さらに使い方をレクチャーしてくださいって言う感じです。
大体ワックスは1000円ちょっとだし、使ったワックスをそのまま買えばやりやすいですからね!
僕は毎回必ずセットの仕方は聞いてます(><)
女性版
http://taf5686.up.269g.net/image/8F9790AB8E8F837D83b83s839383O2007.jpg
男性版
http://taf5686.up.269g.net/image/C3CBC0ADA5D5A5A1A5C3A5B7A5E7A5F3BBEFCAACCEE02008.jpg
ここにあるように真ん中の雑誌の服装が一番大多数に人気があると思います!(メンXX系除く)
良くオシャレを突き詰める人がいますがわかる人以外に受けが悪くなるような気がします!
昔色々凝って突き詰めて買った服を着てたら奇抜!と言われた感じです!
奇抜=変ってる=一般受けしないという事なので真ん中の雑誌の服装を心掛ければいいと思います(><)
とりあえずオシャレとは言われなくても引かれる事もまずないでしょう!
後は清潔感があるのが大事だと思います!
書いてもらった疑問点については今はここまで書いてみました。
コンパイラ作ったりCPU作ったりシェル作ったりは普通じゃね?
CPUの原理やコンパイラの構造が、大きく変化することは無いから、授業しやすい
俺もやったし
凄いなと思ったのはこれかな
http://d.hatena.ne.jp/kzhk/20091202/p2
suffix array くらい習うけど、実際に意味のあるプログラムまで考えられているのが、課題として良くできている
自分が所属している専攻だと、昔CLU(くるー)って言語を教えていたらしい
初めてADTを実装した言語で、当時としては先進的だった、って先生がよく自慢してる
保守的な授業だな、とは思った
尖った授業はあるとは思うけど
あと、scheme やっていないの?
SICP 読みながら meta circular interpreter 作るのは価値がある行為だとおもう。
大学が研究機関でありつつ、教育機関でもあるという理屈はわかっているが、果たしてどういう配分で成り立っているのだろうかと考える。
米国のシステムは日本の大学を呪縛する講座製とはかなり異なる、
しかし、職階間に、支配-被支配関係はない。
それぞれが独立した研究者であり、肩書きは純粋に研究キャリアの差である。
独立した研究者とは、自らのグラントを稼げる研究者ということだ。
それゆえに彼らの最優先事項は、国の研究予算あるいは民間の財団や寄付などを確保することであり、それに狂奔する。
グラントこそが全ての力の源泉であり、研究資金のみならず自分のサラリーもここから得る。
大学と研究者の関係は、端的にいって貸しビルとテナントの関係となる。
これをもって研究スペースと光熱通信費、メンテナンス、セキュリティなどのインフラサービス、そして大学ブランドが提供される。
僕の母校における大学と研究者の関係は、貸しビルとテナントの関係ではなかった。
けっこうな割合を、むしろ大学のほうから吸い上げてる。
大学生の時、母校で研究費を国からとってこれる研究室は、自分の研究室とあといくつかだけだった。
自分の研究室は、2人の教員と10人の学生、2人の院生をかかえて、年間に1000万くらいで収支がなりたっていたと記憶してる。
有名大学だったら笑われるようなしょぼい額だ。
実験実習系の授業を受け持つと降りてくる一単位あたり60万の実験実習費、最終学年の卒論実習を受け持つと学生一人あたり6万降りてくる卒論実習費、それらの収支が200万程度。
教員一人あたり50万ほど大学から降りてくる研究費が2人で100万だったと記憶してる。
それの残りは主に国から取った予算だった。
「○○から500万だしてもらえた。」「○○は一応通ったけど、5年で1200万かぁ、しょぼいなぁ」というような会話を聞いたことがあるから、まあ年平均700万というのはだいたいの計算はあっているだろう。
学科全体で国からとってきた予算も、使い道は自分の研究室の意見が優先的にきいてもらえてた。
研究報告書にのせる研究成果が、ほとんど自分のいた研究室のデータだったからだ。
ほかの研究室からいえば、実験実習費と卒論実習費と、教員一人当たりの予算、それだけで、卒論の実験をさせる研究室がゴロゴロしていた。
学科全体でいえば、大学全体でいえば、研究者よりも学生の授業料で養ってもらっている雰囲気が強かった。
そのせいか、指導教員は冷遇されていたと思う。
受け持つ授業が学生にとても不評なのだ。
実習も不評なのだ。
非常に難解な授業をする。(今思えば、とても役にたつことを言っていた)
実験や実習も、データだけ渡して解析方法の講義、その後の時間は時間一杯解析させられた。(教員いわく「実験操作なんかそんなもの一回したって、そういやボタン押したなぁくらいにしか記憶に残らないって(笑)」)
逆に、学生に好評な授業は、パワーポイントで紙芝居をする授業で、そういう授業をする教官はすごく評判がよかった。
わかりやすい授業、というかみのない授業だったと個人的には思うけれども、それは個人的な感想だから置いといて、
研究と授業なら、授業にウエイトを置いたほうが学生のウケはいい、経営母体である大学の上層部からのウケもいい、という状態であったことが、可哀相でならなかった。
授業の改善要求だとか、「学科の共有財であるはずの機材を、あの研究室が管理、使用を独占してる!」っというような文句がしょっちゅうだった。
2人の教官のうち、一人はなにを言われても適当に「はいはい」返事をして流していたが、一人は病んだ。
いま、2人はどうしているんだろうか。
国の事業仕分けで、研究予算が取りにくくなると、大学はどういうふうに動くのだろう?
1 国ではなく、企業や財団、寄付から予算をとろうと画策する。
2 研究から教育へウエイトをシフトして、授業料と受験料収入で経営する。
どう考えても2だよな。
今でさえ、東大京大を除いたほとんどの大学が、「魅力的なカリキュラム」「国家試験合格率」「就職率」、そういったことをウリにしている。
ホームページで「受験生の方々へ」のページは力を入れているが、「企業の方々へ」のページはほとんど力が入っていない。
企業向けのページじゃ就職関連のことがちらほらあるばかりで、学術関連情報はほとんどのっていないし。
でもさ、少子化が進んだら、授業料収入に頼ることじたいが無理になるんだから、大学は技術と知識を金にかえる方法を探していかないといけないと思う。