れいわ新選組から当選した二人の候補が、このままの法制度では登院できないと訴え物議を醸している。
常に介護が必要な方が利用する「重度訪問介護サービス」は、「経済活動」には利用できないとされており、自宅か職場かを問わず仕事に就いてしまうと、この制度が利用できなくなってしまうようだ。
この制度は、「働くことができるということは、24時間の介護が必要のない人」であり、「24時間の介護が必要な人が就ける仕事は存在しない」という暗黙の前提が存在するように思える。確かに少し前まではそうだっただろう。現在では機器の進歩などで、遠隔業務なども盛んに行われるようになっている。
「在宅就労の支援は、恩恵を受ける企業の役割」※1という一文も目にした。経済活動に参加できていなかった人が一人でも多く経済活動に参加する、一番の恩恵を受けるのは国ではないだろうか。
また、何を「就労」とみなすのかもとても難しい問題である。
例えば私の仕事が文筆業であった場合、ほとんどが在宅での業務になる。そして、机に向かって文章を書く時間以上に、構想する時間も必要になるだろう。その時間も間違いなく「就労」の一部ではないだろうか。
「わかっていたのになぜ立候補したのか、もしくは、わかっていなかったのに立候補したのか」
当事者が直接語っても、このような発言が出ることはとても興味深い。
これらの制度については深い理解があるのだろうし、まず第一の大きな壁となることは承知の上だったはずである。
その上で、現状を訴えるため、変えるために立候補したのではないだろうか。
「登院できないのなら、なぜ立候補したのか」
この制度以外にも様々な壁があったはずだが、参議院事務局の努力などもあり着実に登院に向けて進展していっている。
そのことだけをもってしても、大変意味のある立候補だったと言えるだろう。
何かを成そうとしている人に対して、「きっと出来もしないだろうに、なぜやりはじめたのか。」と問い詰めるのはどういった心理なのだろうか。
「いくらかかるか知らないが、議員の高い給料で賄えるだろう。自費でやれ」
確かに歳費、政党助成金などで賄うことは大いに可能だろう。しかし、現時点では制度の不備についてを指摘しているわけで、その交渉の一環として「登院ができない」と訴えているのである。
実際にいくらかかるか、誰が費用負担するかというのは、その次の話ではないだろうか。
ただ、この制度の変更はせず、どこかから費用を捻出するという解決策の場合、同じ問題を抱えている当事者たちには何も解決方法を示せていないことになる。埼玉県のさいたま市では、独自の補完する制度があるようで、国も即刻制度を見直すべきである。
さて、上記のような説明をしたところで、納得してもらえるものだろうか。もらえないだろう。
彼らを批判している人たちの本音は、単に「人のことなど知ったことか」に尽きるんだろうと思う。
批判している人たちの本音は以下のようなものだと想像している。
「動くことすら(あるいは話すことも)出来ないような人間を生かしておくだけのために、いったいいくらの税金が使われているのか。私の給料の何倍になるんだろう。」
「議員になるととてつもないお金がもらえるようだ。そんな権利を、なぜこんな人達が得られるのか。その上、さらに金を欲しがるのか。俺の給料はこれだけなのに。」
これは、健常者と障害者との間にある問題などではなく、実は単に経済的な格差の問題である。
彼らの感覚で言えば、自分よりも低く見ていた明確な『負け組』が突如『勝ち組』になった、あるいは(自分たちはもらえていない)多額の助けが施されていることがわかり、これはズルだと叫んでいるだけなのである。
しかしそれを責めることは決して出来ない、そんな考えを抱いても仕方がないくらいの状況が日々続いているのだから。
このように、経済的な貧しさは、あらゆるところに派生し、自分以外のすべてのものとの間に深い深い断絶を生むものである。
一刻も早い正しい経済政策への転換が待たれる。