2019-04-21

今後の方針

 まずは方針を見出すところから。なんとなく作ってはみたものの書き方がわからない。どうすればよろしいのだろうか。

方針を見出す方針を固めていこう。まずは自由に書いていいと思う。おそらく長い文章を書くことに慣れていないように思える。とりあえず何でもいいから書く。そして何かしらのテーマにまとまってきたらそれを意識してひとつの一貫した文章を書いてみる。実はこの作業自体もそう。

 次にはてな匿名ブログの条件について考えたい。SNS疲れみたいなものがあるが、あれは今日代表的SNSが出てくる前から顕在化し、現在ではSNSを中心とはしているがSNSの外部にも十分広がっている状況がある。それは非匿名である資本とか権力とか関係くその力は広がっている(1)。インターネット上での行動があらゆる現実の動員力をもつにつれ、国家資本はその力を無視できなくなってきた。まず国家はその内部を可視化、あるいはいつでも可視化できるような環境を整備した。その後インターネットの外部に立つだけでなく、内部の強固な主体として力を広げていく。そしてその内部の可視化と相まって人々へのコントロール可能にしていく。

 次に資本はどうだろう?資本も結果としては国家と同様の状況となったが、その経路は少々違うように思える。資本はより早くネット上の主体となり、その可視化はそれに遅れてきた。しかしこの可視化は近年様々な障壁にぶつかっており、今後どうなるかわからない。

 さて、ここで着目すべきところは個が可視化されたことでも個がコントロールされるようになったことでもない。インターネットで「個」が現れたこである。正確に言えば空間無限に分解できる多層構造(2)において一貫した「個」という線が登場し始めたこである。これに至った要因は主に2つあるように思える。まずひとつは「個」が参入しやすメディアが増えていったこである。例えば個人ブログ、これは初めて個が特別技術がなくとも時間を超えて発言を蓄積できる仕組みであった。この際に「この発言は〜」から「このブログは〜」や「この主は〜」というような表現が出てきたように思える。

 次に責任システムの登場であるインターネット上での「祭り」や「炎上」では「責任」という概念が非常に強く機能している。「責任」とはある事象現象がある個人行為思考に原因を求める考え方である。この「責任」をインターネット上で課せられた個人は稀に見る身分となる。つまり責任」を負った個人以外が人格消失するのである。この現象前近代社会における神や儀式象徴において起きた構図と似ている。唯一違うのは格を持つものが神や対象ではなく、それを取り囲む「群衆」と同様の性質を持った人間であることである。この「責任」のシステムインターネット利用者の個を促進した一因になったのである

 ところでこの2点目を考えてみると面白い。なぜなら「責任」を課せられた「個」がいることによって「群衆」匿名性が保たれていたこであるスタジアム型(それともスペクタクル型というべきだろうか)の構図は「群衆」「群衆」自身を参照して行為を反復することもあるがここに「群衆」行為対象である「個」が用意される必要もあったということがわかる。そして「群衆」は自ずと「個」へとなりたがっていくのである

さて、かなり話が戻ってしまうがはてな匿名ダイアリーの利用目的についてまとめようこのような「個」が渦巻く中で「群衆」であり、一方でここでキーボードを叩き、その結果をモニター観測する「個」をもつためには「群衆」強制されない自己参照的な「個」が必要であった。そのとき「群衆」には「個」を認識されず、主体自身にとっては「個」であるような仕組みを持っているはてな匿名ダイアリーが適していると考えたのであった。

(1)こういう主体無き動員力はなんとなく好き

(2)これを「時間」という

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