2016-10-12

過労死を認められた電通高橋まつり氏を悼み、敢えて自分語りをする

タイトルの通りのことを書く。結論から書けば、高橋まつり氏は「そんなに電通仕事が辛いのなら辞めたら良いのに」「休んだら良いのに」というアドヴァイスを受け取っただろう。だが、その言葉彼女を今後の新たな可能性に導く「希望」としてではなく「絶望」として聞いたかもしれないという憶測である。それを証明するために私のことを書く。

私はメンタル面で問題を抱えているので、彼女のように長時間労働条件で働いているわけではない。むしろフルタイムで働いている人間よりもゆとりを持って働かせていただいている方だろう。そんな人間彼女のことを我が身に引きつけて書くなどちゃんちゃら可笑しいことは分かっている。実際に「ワープア気取りのパラサイトクズ」と罵倒されたこともある。

そんな私だが、仕事面で厳しいことがあった。詳しいことを書けば身バレが生じるので書かないが、職場でそれなりに経験を積み仕事の実績が認められ高いポジションまで昇進させていただいたのだ。だが、上司が変わって職場空気が変化し、不器用仕事をロクにこなせない私の成長は頭打ちで止まってしまい厳しい環境に置かれることとなった。パワハラにも遭った。

そんな私に対して、「辞めたら良いのに」というアドヴァイスをしてくれる方が現れた。私の場合は「仕事内容があなたと向いていないのなら辞めたら良いのに。あなたはそんなに大企業に勤めているのだからあなたが居なくなっても代わりの人間はすぐに補填される。されなかったとすればあなたは余計な労働力だったということなのだ」と。

それに対して私は「辞めても良いんだ」と「希望」を得ただろうか。逆である。私は「自分の代わりなど幾らでも居るのか」という「絶望」を感じたのだ。


高橋まつり氏に対して転職を薦める方は多かっただろう。私は大企業と言っても本当に末端なのでこの年齢に至ってもロースペック、転職などにっちもさっちも行かないという有り様である彼女は「電通」という大手広告代理店責任あるポストを任されて働いていたのだ。「第二新卒」としての転職は容易だったかもしれない。

だが、彼女尋常ではない精神状態に追い込まれていたとしたらどうだろうか。転職するゆとり心理的にも物理的にも持つことは不可能だったのかもしれない。だからこれはあくま可能性、「自分語り」の延長上で推し量るということになってしまうのだが(それがどんなに汚らわしいことかも分かったつもりで敢えて書くが)、彼女が同じ「絶望」を感じなかった可能性はないだろうか。

彼女は真面目であったことは多くの証言が示す通りである。だからこそ、パワハラセクハラに耐えながらも「自分はこの仕事に耐えなければならないのだ」と意志を固めていたことは想像に難くない。だが、その「意志」が脆くも崩れ去ってしまうようなことが生じたとしたら? 「辞めたら良いのに」という言葉がその致命傷になる可能性はなかっただろうか、と書きたいのだ。


むろん、私は一介のネットユーザーに過ぎない。だから全て「想像力」に頼った上で書いている。まるで頓珍漢なことを書いているかもしれない。そのあたり、語弊があればお詫びする。ブログを「自分語り」で汚したくないので敢えて増田で書くが、必要なら名を明かそう。それくらいの覚悟は出来ている。容赦ない意見を頂戴出来ればと思っている。

また、私はなんら代案を示せていない。「ではどうしたら良かったのか」という肝腎な言葉には答えられない。私に言えることと言えばせいぜい「働き方のあり方が早急に見直され、悲鳴を上げる労働者メンタル面でのケアを」と言った凡庸なことに過ぎない。その批判も甘んじて受け容れる。


最後に、このような「自分語り」でその死を貶める結果となってしまったことに対して、特にずっと諦めずに戦い続けていた高橋まつり氏に深く謝罪する。その上で――白々しく響くのを承知の上で――敢えて書く。


R.I.P.

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