はてなキーワード: 高円寺駅とは
たとえば、たとえばなしというものがどんなにそのものの真を捉えていたとしても、それはどこまでいってもたとえばなしでしかないように、僕が語る君についての言葉も、どこまでいっても君そのものではないし、君には届かない。
君がいないということは、そういうことだ。
朝から汗ばむような日は、突然君から「会おうよ」って、連絡がくるような気がしてそわそわしてしまう。
今日は古着屋でTシャツでも探そうかなと思った日は「着なくなった服持ってきた」って君がいきなり訪ねてくる気がして家を出られない。
君に会いたくなったときは、いつかのように高円寺駅の喫煙所で君が待っていてくれているような気がして、つい立ち寄ってしまう。
君がいないということはそういうことだ。
あらゆることに君を感じるのに、ことごとく君がいない。
君がいないということは、そういうことだ。
悲しいことに俺の青春と人生は、オウム真理教の影響を大きく受けている。
杉並区の高校に通っていたことも、俺の精神をオウムで埋めることに拍車をかける要因になっていただろう。
彼らの一部は愉快な教祖のはりぼてを被り、ある者は象の着ぐるみに身を包み、あるいは象の帽子を頭に乗せている。
特殊なコスチュームを持たない信者らは、サマナ服と呼ばれる修行用の衣服をまとい、風船やら麻原彰晃のマンガを配ったりしていた。
もちろんBGMは例のマーチやらアストラル音楽という、キャッチーでありまた環境音楽のような不思議なものである。
俺は国語を筆頭に社会科、政治、そう言ったいわゆる「文系」科目は苦手ではあったものの、そんな俺でも「選挙権を持たない子どもをメインターゲットとしている活動」が、少々不自然であると感じていた。
そりゃそうだ。
風船はただの風船ではなく、教祖の似顔絵がプリントされているのだ。
高校生に配られる小冊子には、確か空中浮遊できるまでの修行の様子が描かれたマンガなどが掲載されていたが、しょせん高校生などアホの集団であり面白がってそれを貰うのだ。そして教室の後ろのロッカーの上には放置されたそのチラシが散乱していた。
男の子は好きなんだよ。
秘密基地のようなものや、仲間をコードネーム(ホーリーネーム)で呼び会う秘密結社感が、想像力をかきたてるのだ。
ではその秘密結社に入りたくなったのか?と言えば、残念ながらそれは無い。
「なぜこんな怪しげな組織に入りたくなるのか?」と、信者の心理や精神構造が気になって仕方なかった。
ずっとだよ、ずっと。
彼らが大きな事件を起こし、事態が収束していくまで、いや、それ以降もか。。
「そこに何かの救いがあったのだろう。」と漠然と思っていたが、なぜソレなのか?ソレでなければいけなかったのか?
彼らは事件を起こした。
自宅最寄り駅の野方駅近くには、呉服屋の上にオウム真理教病院があったが、そこもまた事件の舞台となってしまった。
震撼した。
にも拘らず、日々テレビで報道されるオウム真理教の情報は、心を揺さぶったのだ。
サティアンと呼ばれる施設には秘密化学工場があり、ヴァジラヤーナ号とかいうクルーザーを所有していたり、次々と明かされる関係者のホーリーネーム、挙げ句の果てに報道陣が居る目の前での暗殺まで……
笑えない、笑ってはいけない。
笑えるわけがないのだ。
……にも拘らず、興味が絶えないのだ。
事態が収束し報道される情報の減少に、軽い寂しさすら覚えたのだ。
終わりが近づくことは良いことであるはずなのに、だ。
心を返して欲しい。
俺の心も脳細胞も、そんなことを考えるためにあるわけじゃあない。
そんなことを覚えるためにあるわけじゃあない。
心と脳細胞を返して欲しいのだ。
教祖は死んだ。
これで本当に、人々の興味も、記憶も、薄れていくのだろうか?
それとも、まだあの教団から派生したいくつかの組織が存続している以上、しぶとく人々の記憶に巣食い続けるのだろうか?
人々の……というより、俺の、だ。
こんなに、こんなに興味を注ぎ続けてきたのに、一度たりとも「入りたい」と思ったことは無いのだ。
huluでナルトの配信始まってたから見てて、ナルトが腐った牛乳飲んで腹壊してトイレに何回も行くシーンあったんだけど、みんなトイレでケツ拭く時ってちょっとケツ浮かして中腰で拭くもんだと思ってたのにナルトの野郎、ケツ浮かせないでそのまま後ろに手をやって便器に手突っ込んで拭いてやがった。
俺の今までのケツの拭き方がなってなかったみたいにナチュラルに拭いてやがった。
まぁ確かに中腰にケツ浮かしてケツ拭く格好って客観的にイメージしてみたら情けないというかなんか絵にならないし、あんまりこう見られたくない格好になっている。チンチンぶらぶらしてるし。
かと言ってトイレにいる時に見られたい格好なんて1秒たりともしていないし見たいとも思わないけど、便器的に想定していたポーズとか排便の仕方とかがあるだろうし、なるべくそのポージングに乗っ取った排便体制ってのを実践していきたいわけよ。便器だって困るだろうし。
自由研究とかもあんまり自由すぎると何も手がつかなくなって、面倒になって自由研究なんて考えるのやめておいプール行こうぜ!とかなるし、もうちょっとプラットフォーム的なものをかっちりするとかして導いて欲しいわけよ。自由研究はなんか自由にさせて大人になってからの自由な生活の中で自分というものを見失わないで自我を保つ訓練とかに必要なのかもしれないけどさ、いやわからないけどさ。
トイレの中で用を足してる時って誰にも覗かれないし、覗けないからこそわからないし、ある程度の自由が存在しているけど逆立ちしながらの小便とか普通しないでしょ、濡れるし。そういう形してないからすぐわかる。
(洋式、和式って呼びかたっておかしいと思っていて、洋式使ってた人も絶対和式形式の便器の形を辿って最終的に洋式に行き着いたんだから和洋の呼び方とかナンセンスすぎるけど)
「座ってくださいね」
って感じで佇んでるから
「おおよしそれじゃあここに座って排便をしてやろうか」
って思えるのだけれど、ケツを拭く時になると「さてどうしたものか」ってなもんで、あとは人それぞれの自由にしてくださいってなってるから俺はちょっとケツ浮かして中腰でケツを拭くんだけど、最近の洋式トイレってあれなのな、ケツ浮かしたら流れるようになってるのな。
こっちとしては人それぞれの自由にしてもいいんだろうって気持ちでちょっとケツ浮かして中腰でケツ拭いてるんだけど、そのポーズの下で「シュゴーーー」っとか勢い立てて流れてるわけよ。中腰でいるとチンチンぶらぶらしてて情けない格好で「あっ。。」とか声だしちゃったりして。悲しいわけよ。
しかもチンチンに流れる時に出る水しぶきがかかるわけよ。冷たいんだよ。
とりあえず冷静さを装ってまずケツ拭いて、拭いた後の紙を便器に投げ込むんだけど排便した物はもう流れ去ってしまっていて紙が取り残されたままになってるからまた流すわけよ。水がもったいねぇよ。なにがecoだよ。高円寺駅で酔っ払った外人がハンバーガー食べながら「えこぉ!」って絡んできたの思い出せるわ。えこぉ!