はてなキーワード: アフリカン・アメリカンとは
https://github.com/php/php-src/pull/5685
この変更は https://go-review.googlesource.com/c/go/+/236857/ にインスパイアされたもので、whitelist/blacklistを全てallowlist/blocklistに置き換えるものです。
大半の変更は内部的なものですが、2つだけ例外があり、RFCが必要です。
(略)
これに33のサムアップ、8のハートが付いたがそれ以上に否定的な反応が多く57のサムダウン、1つのうーんフェイスが付いた。煽りに煽った返信もたくさん付いていてそれが面白い。
市民運動には賛成します。しかし後方互換性のない変更をプログラミング言語に追加するのは反対です。開発の基本方針を忘れてはなりません。
荒らし返信見るのが悲しい
もとのリンクを見てない人のためにどうぞ:
これらの用語のテック業界での使用についての議論はこれまでたくさんあった。
ここでもう一度同じ議論をしようとしているのではない。これらの用語で傷つく人がいることは明白である。技術的な理由でなく歴史的社会的な文脈の理由で歓迎されないと感じる人がいる。これだけの理由でこれらの用語を置き換える理由としては十分だ。
いずれにせよallowlistとblocklistの方がwhitelistとblacklistより自己説明的だし、この変更にかかるコストは負だ
指摘があったように、私は市民運動には賛成するがこれらの単語の除去は大きな影響があります(後方互換性の破壊)。
面白いのはこの用語を変えようというのが単に「黒」「白」を人種差別的な意味を含まずに持っているだけという理由であることです。結局は我々はこれらの単語を除くことで、新しい差別用語を「創造」してしまっています。
allowlist/blocklistの方が説明的であるのでより良い用語であるということに賛成します。これを踏まえてなお、blacklistとwhitelitsを差別用語と呼ぶのは単純に間違えています。
まず、blacklistの語源に黒人は一切関係ないです。さらに、これが黒人に対して攻撃的な意味で使われたことは一度もありません。この単語が攻撃的であり差別的な含意があると見せかけたいのはある特定の極端な非黒人の集団だけです。これは中国の服を中国人以外が着ることが攻撃的であると考える人々と同じくらい馬鹿げたことです。
黒という色は多数の文化において否定的な意味合いを持ちます。これは全ての単語を狩り落とすのは不可能で無意味なほどに埋め込まれていています。
まずはある人々の集団のことをblackと呼ぶのをやめましょう。色が先、人種は後です。色はイメージに結び付けられており、変えることはできません。
あなたに完全に賛同します。黒人、白人をアフリカン・アメリカン、イングリッシュ・アメリカンと呼ぶことを提案します。近視眼的な思考はやめるべきです。これはただの言葉狩りです。
抑圧された人々を代表して声を上げることはだいたいの場合は正しい行いです。良心の行動、美しいです。しかし、それも時々は無意味でありただ不必要な混乱を生むだけです。私はもし誰かが「ホワイトハウスは白人至上主義のシンボルだ!」と叫べば笑うでしょう。もしホワイトハウスを塗り直したいのなら、どうぞ。そして世界を救ってください。
99%の単語は差別から来てる。もし単語がどのように構成されるかのレシピが与えられて、あなたがそれを否定するなら、あなたは一度一歩下がって、どうして事実を信じたくないかということを考えるべきだ。
しょうもないなあ
アフリカン・アメリカンの「ニガ」とオタクの「オタク」がほぼ同じ使用方法
という劣等感は扱いが難しい。
大抵の話の流れだと
ということを日本人が言うと、それはアンフェアであると批難される。
しかし、これは近年の差別の話の中だとアジア人が自分を弱者だと定義するのは正当性のある発言になってしまう。
例えば
アフリカン・アメリカン「アジア人が身体的に弱いとい思うのは劣等感だよ」
↓
アジア系「うん。実際アジア人は身長も低いし筋肉も付きづらいし、劣等だし、劣等感も抱えているんだ」
↓
アフリカン・アメリカン「え?」
↓
現代社会だと弱いほうが強いので、これをどう体系的にフェアネスな形に持っていくのかすごい難しい気がしている。
白人のノミネートばかりなので今年のオスカー(だったかな)を辞退するというニュースを見たが…。
同じアフリカ系でも、ナイジェリアやガーナは映画産業に力を入れていて自分たちで自分達が楽しめるコンテンツを作ろうとしているのに、なんか違和感を感じる。
もちろん被差別としての北米のコンテキストがあるのは重々承知だが、それでもアフリカに住んでいるアフリカ人よりアメリカのアフリカン・アメリカンの方が遥かに恵まれているのではないだろうか。
オスカーという枠組みの中で主張をするより、スパイク・リーが自分でアフリカン・アメリカンが選ぶ良い映画の賞を作った方がいいと思う。
今見たら #id:Nettouochi に意見をもらっていたので、書くと、そのポイントも重々承知しているつもりなのだが、今まで正直散々それをやった上で結果、2016年これってのが現実だと思うので…、アプローチ変えたほうがいいんじゃない?って北米では感じる。という所。