はてなキーワード: 隠遁とは
彼女に振られて1ヶ月ほどたつ。
振られた直後は、現実感がわかないというか、まるで人事のようだったけど、
時がたつにつれて、不安に襲われるようになった。
それと、4年間つきあった末にいとも簡単に好きな人ができたと
関係を絶たれたことへの苛立ち。
2ヶ月前には結婚を迫られてたのに。。
でもいつかは俺のもとに戻ってくるんでないかと、現実的な
考えに
僕の知らない男と仲良く楽しんでいるのかと思うとやりきれない気持ちになる。
あのとき、ああしときゃよかったのもしもシリーズは永遠と頭の中を
めぐる。
もう32になるいい年こいた熟成されたオサーン。
難易度たけーな、なんてクソゲだ。
もう結婚諦めてしまえ、てのと、
前の彼女よりはいい人でないと納得いかない。
半隠遁生活もありなんじゃないかと思う。
東南アジアで極貧生活でいいや。
状況がよくなることをイメージできない。
詰んだ。
彼女に振られて1ヶ月ほどたつ。
振られた直後は、現実感がわかないというか、まるで人事のようだったけど、
時がたつにつれて、不安に襲われるようになった。
それと、4年間つきあった末にいとも簡単に好きな人ができたと
関係を絶たれたことへの苛立ち。
2ヶ月前には結婚を迫られてたのに。。
でもいつかは俺のもとに戻ってくるんでないかと、現実的な
考えに
僕の知らない男と仲良く楽しんでいるのかと思うとやりきれない気持ちになる。
あのとき、ああしときゃよかったのもしもシリーズは永遠と頭の中を
めぐる。
もう32になるいい年こいた熟成されたオサーン。
難易度たけーな、なんてクソゲだ。
もう結婚諦めてしまえ、てのと、
前の彼女よりはいい人でないと納得いかない。
半隠遁生活もありなんじゃないかと思う。
東南アジアで極貧生活でいいや。
状況がよくなることをイメージできない。
詰んだ。
最近よく聞く「処女厨」なる存在について、ホントきもちわるいと思う。
いや、もちろん女性に処女性を求める男性が悪いというわけではない。
そういう人がいてもいい。美人であるとか性格が合うとかと同じくらいの比重、もしくはそれ以上の比重として
「処女である」ことを重視するのは個人の価値観であって、誰にも阻害される謂れのないものだ。
ただ、さ。
要するに、「俺は処女しか受け付けない」を「処女以外は人間のクズ」に変換してるのがすっげえキモい。
メス犬だのビッチだのなんだのかんだの、ネットに飛び交うスラングの数々がガチできもい。
そういう言葉を現実で発せず、ネットでわめきたてる方が世の中に数多存在するということが、
心底キモい。
別に日本人は処女を裁判で証明したりとかそういう歴史を持ってない。そんなキモい民族とは違うのが
日本人の良いところだと俺は思ったりもするがまぁこれは別の話。
日本人は元来農耕民族+汎神論的な土壌に育って来てるので、処女信仰ってあんまりない筈なのである。
強いて言えば処女信仰が生まれたのは、明治辺りに輸入された「愛」とか「恋愛」の観念からであって、
もっと言えばアンドレ・ジット辺りの元祖白人処女厨辺りのブンガクが輸入されたのが基だ。
もちろんそれはキリスト教の輸入と同義である。その中に含まれていた「恋愛」の観念が、日本では極めてファッション的な
「自由恋愛」という一大潮流を形作った。
要するに、「処女厨」と「自由恋愛」は同じところに端を発しているのである。
自由に恋愛をするからには、当然セックスもする。愛し愛されてセックスをする。
この当時、自由恋愛する処女厨というのは「見合いお断り」「家と家の結婚なんてクソファック」
社会からつまはじきにされても俺は愛を貫くぜ、というのが処女厨の本来の姿である。
処女厨とは本来隠遁する存在であり、社会に向かってギャーギャー喚くようなモンではなかったのである。
それは「自由恋愛」を手に入れるための戦いで、これがあまりにロマンティックであったため、
日本では「恋愛」っていう観念が唐突に生まれた。過去のブンガクを遡れば、
「一途な愛」なんてめったにないことがよくわかる。日本人は古来、やりまくりである。
「自由恋愛」を彼らはあんまり認めない。というよりは、彼らは「自由恋愛」にあんまり触れていない。
それどころか、「自由恋愛」に唾を吐く。恋愛する人間にギャーギャー言う。
しかし、処女であることを求めるということは、自分が突っ込むまっさらな穴を求めているということで、
非常に身勝手である。処女厨が童貞であることを誇っているのを見たことがない。
古来、日本の処女厨というのは童貞を誇ったものである。童貞と処女がドッキングすることが
明治以降のブンガクの始まりであった。(ただし、田山花袋にあっさり覆されたが)
要するに何が言いたいか。
処女厨よ、童貞を誇れ。それでこそ君は正当なる処女厨となれる。
あるいは、「俺は既に生涯たった一つの穴を持っている」と叫べ。そうでなければならない。
疲れたので吐き出し。
他人が絡む概念的なことや感情的なことが割り切れず、考え込んでしまうクセがある。いい具合にとか、いい塩梅にとかという事ができず、きっちり取り組もうとしてしまう。その結果、余計なことをしたりやるべき事が疎かになったりすることもあるし、予想以上にうまくいくこともある。結果はどちらにしても、自身は異常に消耗する。上司や友人はそんな様を見ながら、真面目過ぎると呆れ半分にいったりもする。
(まあ、仕事中増田にこうして書いたりもするし、真面目すぎるっていうつもりは本人には余りないんだけれど)
相手の顔色をうかがってしまうというのもあるし、人を信じていないというのもある。幼い頃からやたら慎重ではあったし、昔は得意だった軽い人付き合いが最近うまくできず、ここ数年人見知りが加速している気もする。ただ、幸か不幸か性分のせいで主に仕事などで上位の人間からは好意的に見られ、立場が同等以下の人間には怖がられているようだが、表立って否定的な意見は聞かない。裏でどう言われているかはしらないけれど。あとは
まあ、周りから見て付き合いにくいヤツかなとは思う。気軽な話題を提供する人間ではないし、誰かと絡むとどっぷりと入り込んでしまうため、同僚くらいの間柄で話題や共通点を見つけて広げるのが正直面倒くさいと考えているようなやつだし。
そう、考えすぎてしまうから、面倒くさい。どうにかならんもんかと思うが、それについて考え込んでしまって本末転倒になることが多いから始末に負えない。最近これが過ぎて、どうにも生きていくことすら面倒くさくなってきている。色々と楽しみはあるので能動的に死のうとは思わないが、受動的に死ぬ分には別にいいかと思う。
とはいえ、昔はそれほどじゃなかった。生きにくいと思うほどではなかった気がする。いつからここまで、生きにくくなったんだろう。
物事を割り切れる人間は羨ましい。けれど、時にいい加減さにイライラする事もある。そして、そうはなるまいと自分に言って、また考えこむハメになる。わかっちゃいるけど、やめられない。
どうにか治らんもんだろうか。
どこぞで隠遁出来るのなら、是非したいのだけれど。
a. ただいま
b. おかえりなさい。
a. 今日、ニュースでサリンジャーが亡くなったって言ってたな。
b. そうね、でも、いいのよ、 そんな、 お ・ は ・ な ・ し は。 ちゅっ。
どうだった、お仕事は?
a. ばか、サリンジャーが亡くなったんだぞ。
b. うん、そうね、 でも、 ね。 お風呂にする? それともお食事? それとも・・・
a. サリンジャーはなあ、 あの偉大な・・・
b. わかってるわよ、 そう、 そんなに そんなお話がしたいの?
そうね、 その前に服を脱いで着替えてからにしたら?
a. 『ライ麦畑で』は良かったなあ、 『ナインストリー』も、
b. でも、はい。
着替え、ここに置いておくね。 私も着替えよかな。
a. でも、なぜあんなに偏屈になっちゃったのかな。 どう思う?
b. うん。 もう、 は ・ や ・ く 着替えてって。
a. 結婚して子供も生まれてるし、なのに塀で家の周りを囲んでじゃって
その中だけで生活するって。
b. へー、 そうなの。
はーーあ あ あ。 ちょっと、疲れちゃったは、わ ・ た ・ し。
a. それからが謎なんだよなあ、作品、残してるのかな?
b. えっ、何? えっ、 あっ、 そんなことしないでっ もう。
a. 何言ってるんだよ、たぶん残してないだろうな。
残してても案外、くだらないものばっかりだと神話が崩れちゃうしな。
b. 神話って、昔話しみたい。 イヤ、どうしちゃったの? そんなお話しばかり、
わたしのことキライになっちゃった? どう、この下着。 いいでしょ。
a. 一度、行ってみたかったよな。サリンジャーが隠棲してたって言う、ニューハンプシャーの田舎に。
b. 下着が邪魔なのかな? そしたら、脱いじゃおうかな? いい?
a. 誰か、何か書いてるかな、
サリンジャー氏は1974年に20年近くの沈黙を破ってニューヨーク・タイムズ(New York Times)紙の電話インタビューに応じ、次のように語った。「作品を出版しないでいれば、驚くほど平和な毎日だ。何かを出版すれば私の個人的な生活がひどく脅かされることになる。私は書くのが好きだ。書くことを愛している。でも今は自分自身のため、自分の喜びのために書いているだけだ」
http://www.afpbb.com/article/life-culture/culture-arts/2553970/3647218
だからビートルズファン、ジョン・レノンファンにとっても、サリンジャーはちょっと特別な存在だ。その死のニュースを目にしたときは、やっぱりある種の感慨があった。けれど、そうか、まだ生きていたかというキモチも正直あったり。
この人、ノルマンディーでユタ・ビーチに上陸してるんだよねぇ。歴史だなぁ。今晩、家に帰ったら、ひさしぶりに「プライベート・ライアン」でも見るかなぁ。
http://d.hatena.ne.jp/curragh/20100129/p1
91歳。世界でいちばん好きな本の作者が死んだ。偉大な人がまたこの世から去っていった。このニュースを知ったとき、なんとなくヴォネガットの死を思い起こした。彼が亡くなったときはもう読めなくなるのか…という感じがあった。だけど、サリンジャーの場合、亡くなってからのほうが、隠遁生活後も書いていたらしいモノを読めるんじゃないかと思ったりする。
http://d.hatena.ne.jp/miexpo/20100129/1264767180
あらためて思いますけど、サリンジャーは言葉選びのセンスが抜群なんですよね。ちょっとした短い文章の中に、読む者の心をグッと惹きつける魅力がある。コピーライティングの技法にも通じる彼の文体は、今後も「クールな文体」の手本として永遠に生き続けることでしょう。
http://d.hatena.ne.jp/marukoshi-an/20100129/p1
http://d.hatena.ne.jp/platycerus/20100129/p1
120 : ゆで卵(石川県) :2010/01/29(金) 03:31:04.20 ID:AnGQMgQs
ライ麦は話自体は別に大したことはないが、
疎外者の視点で語りつくすという方法論は素晴らしい。
38. Posted by 以下、ゴールデン名無し がお送りします。 2010年 01月29日 12:31
サリンジャーはもっと長生きするかと思ったのだがな。
著名な文学の大御所(レヴィ・ストロースは哲学者でもあり文学者でも有名)が二人も亡くなったな。
ご冥福をお祈りいたします。
http://blog.livedoor.jp/goldennews/archives/51427492.html
たとえば教師のタッパーの話した時もやな、お前の目普通ちゃうで。人殺すときみたいにぎらぎらしすぎや。光りすぎや。あいつが教室に来る前にトイレ行って髪の毛わざとばさばさのぼさぼさにしてくるゆうあの話。そら全部お前がゆうたとおり間違いないと思うけどさ、でもそんなもんお前に関係なくないか?あいつが自分の髪の毛をどうしたこうしたってええやんけ、あいつなにを気取ってんねん、ププ、ダサイやつやなー思てたら済む話やんけ。悲壮美なんですねーゆうてそんなもんいちいち演出しなあかんほど自信ないんやなあゆうて、同情したったらええんとちやうの。そやのにお前は、ええか、これだけはゆうとくけどおちょくってるんやないで。お前が喋ってんの聞いとっら、あいつの髪の毛自体が、なんかお前の仇みたいになってて、それはちゃうやろ。んでお前がそれをわかってるっちゅうのがもっと気に入らんわ。
http://www.mieko.jp/blog/2010/01/post-4885.html
ニューヨーク公共図書館(NYPL)のウェブサイトに、2010年1月27日に91歳で死去した作家のサリンジャー(J.D. Salinger)氏を悼む文章が掲載されています。
The NYPL Says Goodbye To J.D. Salinger(2010/1/28付けNYPLのNews)
http://nypl.org/press/press-release/2010/01/28/passing-author-jd-salinger-resonates-throughout-nypl
J・D・サリンジャー氏死去 米作家(2010/1/29付け47Newsの記事)
http://www.47news.jp/CN/201001/CN2010012901000109.html
A Farewell to J.D. Salinger from the New York Public Library(2010/1/28付けResourceShelfの記事)
http://www.resourceshelf.com/2010/01/28/a-farewell-to-j-d-salinger-from-the-new-york-public-library/
http://current.ndl.go.jp/node/15711
b. どう、これで満足したの、 は ・ や ・ く こっちへ 来て、
もう誰とも関わるんじゃないよといってきた。
信じられないとも驚愕とも言ってきた。
その中で何年もかけて自分の中で答えを出してきた。
隠遁するのも悪くない。他人の遊び方や在り方に口を出す気もない。
誰かがLOを横で読んでいるなら俺は隣で漱石でも読んでいよう。
互いに分かり合うこともないが、場所を共有している楽しみはある。
不要になった漱石の本を誰かに渡して、今度は別のものを買ってきて読んでいよう。
そうしていれば迷惑はかけない。誰かの役には立っている。今日からそうやっていよう。これからもずっとそうしよう。
隣に座った人が誰かのところに行くのなら止めもしない。好きにすればいい。ただ一緒にいてくれたことに感謝しよう。
http://homepage1.nifty.com/kjf/China-koji/P-023.htm
その昔、聖天子として聞こえの高かった堯が、
その地の関守役人がうやうやしく堯の前にまかりいで、
ご挨拶を申し上げた。
まずはあなた様の御寿命の幾久しくあられますように。」
「いやいや。」
堯は思慮深げに微笑みをたたえながら答えた。
「わしは寿命を望もうなどとは思わぬものじゃ。」
「ならばあなた様の御富のますます豊かにあられますように。」
「いやいや、わしは富を増やそうなどと夢考えてはおらぬのじゃ。」
「なればあなた様の男の御子たちが、
いよいよ数多くあられますように。」
「いやいや、それもわしの望まぬことじゃ。」
「はてさて。」
関守役人はいぶかしげに堯の顔をうちみやりながら訊きかえした。
誰でもの望むことでござりましょうに、
あなた様だけがそれをお望みなさらぬとは、
なんとしたことでござりましょう。」
「さればさ、男子が多くあれば、
中には不出来の者も出てきおって、かえって心配の種になる。
富めば富むで余計の仕事が増えようし、
寿ければ、辱を残さねばならぬような羽目に
遭うことも多くなろうというものじゃ(寿ければ則ち辱多し)。
この三事、いずれも我が身の徳を養うには
無用のものといわねばならぬわい。」
それを聞く関守役人の目にはありありと失望・軽侮のいろが現れた。
彼は堯に聞こえよがしにこう呟いた。
「ちぇっ、やくたいもない。堯は聖人と聞き及んでいたのに、
今の言い草じゃ、たかだか君子くらいの値打ちしかない男と知れた。
何の心配もあるまいし、
富が殖えたら殖えたで人に分け与えてやるならば、何の面倒もあるまいに。
本当の聖人というものは、鶉のように棲み処を選ばず、
ひなどりのように無心で食らい、鳥の飛んで跡なきがごと
自由自在であるべきもの、世間がまともであれば、
皆人とともにその昌えを楽しむがよし、
まともでなければ、我が身の徳を修めて隠遁するもよし、
千年もの長生きをして世間がいやになったその時は、
仙人となってかの白雲にうちのり上帝の郷に遊ぶもよい。
病・老・死の三患に煩わされることなく、身は常に殃なしとすれば、
寿くともなんで辱の多いことがあろうものか。」
こう言い捨てて関守は踵をかえした。
見事に虚をつかれた形の堯は、ハッと気を取りなおして後を追いかけ、
「待たれい。今しばしお手前の話を承わろうではないか。」
と声をかけたが、かの人は、
「えい、うるさいわえ。」
と一喝したまま後を振り返りもせずに、どこともなく姿を消した。
もう1年と数ヶ月になるよ。俺が調子崩して鬱になって。
俺は大学であるプロジェクトの代表をやっていて、それまで俺の大学生活はそこそこうまくいっていたつもりだった。だが結局俺はそこでうまくみんなをまとめることができなかったのだ。どうやったらみんなが協力してくれるか日々試行錯誤していて、工夫して頑張れば頑張るほど俺一人敵対していくようだった。そのくせ下のほうのチームでは妙に結束が強まって本番では盛り上がっていた。そのとき付き合ってた彼女も俺の味方になってはくれなかった。なんかもう全て(他人も、自分の能力も)が信じられなくなって、俺は自分のことを犠牲にして人一倍働いていたのに認められなかったという思いを強くしていた。
その後彼女とはよろしくやっていたのだが、ある日突然に一切連絡が取れなくなって、接触してもまるで赤の他人みたいな対応をされて。全く何の説明もされないままなし崩し的に別れることになった。彼女にその気を起こさせたきっかけとなったことは・・・思い当たることはあったのだが果たして本当にそれがそうだったのか、そこまでのことなのか俺は今でもよく解せないでいる。そんなのってあんまりだろと思った。でも彼女もそれで傷ついているらしいことはわかったし、元々何かとトラウマを抱えている子で、付き合っているときも俺の言動の失敗で辛い思いをさせてしまっていた罪悪感もあってどうすることもできず、自分を責めた。毎日泣いていた。相談できる人は、俺と彼女のことを話しても問題のない範囲(大学内はダメだ)の人で、聞いてくれそうな人は・・・いなかった。
もう今の俺には真剣に話できる友達は一人もいないんだ。別にみんなが俺のことを特別嫌ってるわけじゃないというのはわかったけど、あえて関わりたいとも思ってないんじゃないか。そりゃそうだよな、俺みたいなメンヘラ面倒だもんな、迷惑だもんな。
俺が休学せざるを得なくなって、最初のうちは「話聞くよ」とか「応援してるからゆっくり休んで戻ってきて」とか言ってくれて会ってくれる人も数人いたけど、段々とメールも返してくれなくなって、返してくれたとしても最低限のレスだけ義務的に返したようなこっちが申し訳なくなるような内容で。みんな心配してるよ」とか口では言うくせに信じられない。あれから誰一人として連絡してきてくれたことがないじゃないか。
「また飲みに行こう。」とか言ってくれて「絶対ですよ、元気出してください。」とか言って、その後いつまで経っても話が出てこないから、こっちから連絡して、あんま図々しいといけないと思って、そっちの予定に合わせるから空いてる日教えてよって言うと「うん、わかった」つってそれっきりじゃねーか。
適当なこと言うなよ!なあ。行く気がないなら最初から断ってくれよ。一人二人じゃないからさ。この人はそういう人なんだと思って、すぱっと切り捨てちゃえばいいんだけど、みんながみんなそうなんだと、やっぱりおかしいのはみんなじゃなくて俺ってことになるんだよな。他の人同士はなんだかんだやってて、うまく付き合えないのは俺だけだもんな。
ほんとは厄介なやつだと思って対応に苦慮してるんだろ。このままフェードアウトしてくれりゃいいと思ってるんだろ。ほんとのこと言えよ。俺には付き合う価値も魅力もないんだろ。
俺の一番信頼できると思ってる人が一人大学にいて、ちえ(仮名)て言うんだけど。ちえは頭もよくて大人で仕事もできるし、コミュニケーション能力も高い。でもかわい子ぶりっ子できないから大事な役回りを押し付けられちゃいがちで人知れず苦労している。限界超えると投げ出しちゃう俺とは違ってちゃんと完遂するからすごい。俺にとっては目標でもありこの大学の学生の中で一番の実力派だと思ってる。
ちえは俺の相談にも乗ってくれた。携帯の長文メールにも真剣に返してくれたり、前は俺もちえの話を聞いたりしてたし、他の子や先生と一緒に呑みに行ったりもしてた。
距離を感じるようになったのは、去年の夏が本格化する前くらいから電話に出てくれなくなった頃か。最初のうちは、忙しいとか疲れてるとか電車の中だったとか言われて、でもあまりに続くから問い詰めたら、しばらく電話には出ないと言われた。電話は時間がかかるしメールの方が考えがまとまる、と言われたが俺はよくわからなかった。メールで長文打つのは時間がかかるし微妙なニュアンスが伝わらなかったりしてまどろっこしいと頼んでみたけどダメだった。俺がちえに依存するから良くないと言われて、俺もそうなってるという自覚はあった。前の彼女とのことがあってから俺は女の子に依存するようになってるみたいだった。
その後もたまにメールをしたり、中断したりする時期があったりして、今年の2月から全く返してくれなくなった。なんでって聞いたら、そのほうがいいと思う、って。その主観を一切排除したようなものの言い方が全く理解できなくて、俺とメールするのが嫌なんだったら正直に言ってくれって、相手が嫌がってることするのは俺も望むことじゃないって何度も聞いたんだけどそうではないって。俺のことは応援してるし治療して戻ってくるのを望んでると言う。
今では見てくれてるのかもわからないけど、受信拒否はされてないみたいだからたまにメール送ったりする。はっきり言って異常だと思うけど他に信じられる人なんて誰もいないんだ。たまに大学に行って廊下で会ったりすると声はかけてくれる。ほんの挨拶程度だけど。
そりゃあみんな悪者になりたくないもんな。わざわざお前のこと嫌いだ、とか言うのは面倒だからしないだろうよ。それはわかるけどじゃあせめて嘘つくなよ。俺が誰も友達いないんだとか深刻に打ち明けた時に限って友達の振りするんだよ。考えすぎだとか、思い込みだとか、友達じゃないかとか適当なこと言うんだよ。そんなの嘘じゃないか。
俺はどうしたらいいの。何がいけない?友達の作り方がわからない。他人とまともな付き合いもできない俺は生きてたって社会で何の活躍もできないで隠遁の生活を送るしかないんじゃないか。絶望的だ。
男も女も「合わない」だとか「一人がいい」とか言って一人飯だったり、サークル無所属。
女でも彼氏が出来て、彼氏とべったりしてたら女友達とは疎遠になって結局一人同然とか。
お前ら何してるんだと。
大学は学問を学ぶ場ではあるけど、同時に人間関係の修行場でもあるんじゃないのか。
大学って下手に一人でも過ごせるからそうしちゃうんだろうけどさ。
それは人生を投げている行為であると知れ。
友達いない奴はこの先就職でもなんでもうまくいかない。
自分の可能性の全てを「他人と関わること」から逃げたために全部潰したのだから。
実に愚かな行為だ。
変に傷つきやすい痛い子といい、ぼっち学生といい、
それでいて将来は「やりたいこと(だいたい漠然としたもの)」があるだとか、
もっと近いところで言えば、成績が心配だとか。
身の程知らずのいい子ちゃんが多すぎる。
『モテ』という価値観自体が『レンアイ』という古典的な性別役割主義観に基づくものだから、男女平等価値観を学ぶ前にすでに増田の頭にはそれが刷り込まれていたんだなあ、とまあ、フェミニズムをきちんと学べばそういうことが理解できると思う。フェミニズムの偉大さや利益というのは多分そういう風に人を「楽」にして幸せにするところにあるんじゃないかな。
そんなわけで
まあ実際男女ともども、自分自身も、どうすればいいのか分からない。自分はとりあえずモテ競争から降りたことで大分楽にはなったけど。中島義道が「半隠遁」を唱えていたけど、正直それに憧れている。
という増田の対応は大変正しかったと思う。
役割主義・恋愛主義のような人を勝者敗者に分ける考えは、少なくとも万人を幸せにすることはない。はてなに横行する『非モテ』論壇人というのが、本質においてフェミニストにもっとも近いのではないだろうか。
これを読んで思い出した。
私も同じような事を思った事がある。
といっても私は女性なので、そう思い始めたのは大学に入る前からなんだけども。
いつごろから男女平等だとかそういったことを考え始めたのか、記憶にないが、中学生の時には既に考えていた覚えがある。
やはりこのエントリを書いた人のように、素朴に男女平等を信じていた、という感じだった。
しかし高校へ進学してから、妙だなと思い始めた。周りの女子たちの男女観が、意外と古風なのだ。その頃の自分は女=料理って何じゃそりゃ!と普通に思っているような感じだったが、女子たちは案外「女=料理、家事」「やっぱり女だからいつかは結婚したいし子供もうみたい、それが女の幸せ」みたいな事を考えている、というか、受け入れている、というのか。成績がいつもクラスで5番以内には入る子が何故か「私は女の子だから勉強が苦手」とか「女の子だから数学が苦手」とか言ってるのである。意味が分からなかった。だって実際あなたはこの学校のほとんどの男子より成績が上じゃん?数学だって寧ろいい方じゃん?なんでそんなに自分を卑下するの?と思い、実際そういうような事を言ったこともあった。しかしそう言っても笑って返されるだけか、「へー、○○ちゃんって結構、そういうタイプなんだね」(どういう意味だよ)みたいに言われるだけだった。何だか知らないが、男尊女卑をナチュラルに内面化しているのだ。
大学へ行くと、私と同タイプの子も増えたが、やはり高校のときと同じような女子たちもいっぱいいた。
高校のときは単純に不思議だな不思議だななんて思っていたが、大学に入ってからは、自分はそうなろうとはやはり思えないが、そういう価値観に染まる女子の気持ちが分かるようにもなった。
やはり、要は「得しない」のだろう。
このエントリを書いた人もいっているが、まあ、私のような考えを持っている女子ってのは、やはりモテにくい。モテるのはやはり基本、「女の子らしい女の子」である。私の場合モテは様々な理由から既に放棄したため、それはいいのだが、ほとんどの若い女子にとってはそうそう簡単に捨てられるものではないだろう。(男子にとってもそうだろうが)
またこのエントリでは「もっと女子も発言したらどうか、と言ったりした」と言うような事が書いてあるが、多分その女子たちは単に女の子だから大人しくしていた、というより――たとえば強く発言したところで、このエントリを書いた人はそのまま純粋に議論を続けてくれるかもしれないが、当然ながらそういう男子ばかりではない。ナチュラルに女性蔑視的な考えを持つ人も未だ多いため、発言をしたところで最初から「女の言ってる事」などとフィルターをかけられ最初からバカにされたり、運が悪ければそれをその場の過半数からされるかもしれない、しかもそうなった場合同じ女子たちは助けてくれるとは限らない(というか多分無い)、そういった事を考えると「それでも尚一人でも女性蔑視の視線に対しても戦い続けて議論をする」という覚悟のある者しか発言できない、という状況に結局なってしまい、そしてそんな覚悟のある者というのはたとえ男子であろうが何だろうがそうそういる者ではない→結果、ほとんどは大人しくしている、ということになる。
またそういった女子同士の態度が更にお互いに拍車をかける。
たとえばこのエントリに書かれている、学園祭での出来事。一人の東大女子が東大女子たちに「料理まだ作ってないの?」と声をかける。そこで、「え、ていうかなんで私たちだけに言うわけ?料理の担当は女子って決まってるの?男子には言わないの?」などと発言したらどうなるか。もしかしたら女子たちもどちらかというと「なんで女子=料理?別に料理したくないし」と思っている人ばかりかもしれなくとも、ここで一人そこに異を唱えたところでそれに賛同してくれる女子はどこまでいるのか、それを皆が考える。男子がいる手前、モテたい子はわざわざモテなくなるようなことを言わないだろうし、別にモテたいわけじゃなくても、他の男子や女子に「なんかめんどうくさいやつ」と思われるかもしれない(今は「フェミ」というだけで蔑視語になっているほどだし)、フェミ的な主張をすることにはリスクが伴ってしまう。孤立するかもしれないというリスクが。だったらとりあえず料理くらい別にしておいてこの場はなじんでおこう、という選択をする。そういう子もおそらく多数いるのだと思う。(そもそもナチュラルに女=料理とか思っている子もいるんだろうけど)
「男にモテない」どころか、多分、フェミニズムは男女どちらからも孤立しやすいのだ。孤立した上「なんかあいつ面倒くさい奴だよ」とレッテルを貼られたりする。そういった状況下にあっても尚持論を曲げずに歩み続ける、とかいう結局かなり強い人じゃないと、進んでいけないのだろうと思う。大抵の女子は、それに気付いて、途中で早々に適当に古めの男女観に擦り寄って「女の子」しておいたほうが、トータルで楽だし幸せになれるんじゃないかとそちらへ行くのだろう。多分ほとんどの人は無意識的にそれを行っている。上野千鶴子のような色んな意味で強い人じゃないと結局その道を進んでいけないのだろう。今は。
最近「男は年収○円以上ないとダメ!」とか「男は荷物持つべきだし、通路は当然車側を歩くべき」といった種の主張をする一部の女子がいて(まあ、実際どのくらいそんな人がいるのかは知らないが)それに一部の男子が怒るといった構図がネット上で見受けられるけど、ああいう女子の反応は、「結局フェミに走っても孤立して損するだけ、普通に幸せに暮らすには結局古風の男女観に追従していかなきゃならない。だったら、どうせそうなら、「女なんだから料理しろ」とかそういった価値観を飲む分、こっちだって男に「男らしさ」を求めたり、「男なんだから○○しろ」っていう要求をさせてもらう」みたいな反発なのかなという気がしている。(意識的にそんなことやってるわけじゃないだろうけど)
まあ実際男女ともども、自分自身も、どうすればいいのか分からない。自分はとりあえずモテ競争から降りたことで大分楽にはなったけど。中島義道が「半隠遁」を唱えていたけど、正直それに憧れている。
増田で提示された「仙人になるための八つの試練」は、間違いなく仙人になる『試練』であり、非モテが異性と関係を持たぬまま幸せになる『方法』などではなかった。確かに仙人になる利点は述べてあったけれども、即、幸福とは直結しないことは誰にでも読み取れたし(ただし読み取れなかった思い込みの激しい人は少なからずいた。後述)、これを完遂できる人間がいるとは誰も考えていなかった。
著者はおそらく現代日本社会に適応した、古くからいる神仙の類だろうと思われる。彼は面白半分に仙道の入口を指し示しただけなのかもしれない。だが彼や読者の推測を超えて日本の社会は爛熟の相を迎えており、仙人になる才能、すなわち仙骨をもった人間を多く生み出していたのだった。彼らの多くは非モテと自称していた。
『試練』が提示されたことで多くの人が興味半分に仙道の門をくぐった。どうしても親を断ち切れない杜子春が大勢いた。色欲食欲につながれる俗人が大勢脱落した。酒に陥落するものもいた。それでもまだ十分に多い人数が残り、仙人と呼ばれるにふさわしい域まで到達した。
欲に突き動かされるのが凡俗であるならば、欲を捨て去るものを憎悪するのもまた凡俗である。西洋の哲人は有様を「ルサンチマン」と名付けた。
怒れる凡俗は非モテという名の道士に向かって叫ぶ。
「性欲を捨てたいんなら念じずともぶら下げているものを切り落とせばいい」
しかし仙道とは堕ちるに易し、極むるに難きもの。誰が好きこのんで折り返し不能点を低く定めようか。たしかに本邦には自らの素手により去勢を行うことで、怪力益々猛り剣術冴え渡る剛の者もいたと人伝えに聞く。だがそれで神仙に至れるなら宦官はこれすべて仙人でなければならぬ。無益な助言であった。無駄な恫喝であった。非モテ、いや道士たちはこの種の脅しに耳を貸すことはなかった。
仙人の域に到達したものが誰でも一番最初に驚くのが、人は生殖にいかにリソースをつぎ込んでいるかという事実であった。進化論的には生殖にエネルギーを使う生物がより生き残るのは当然である。おなじポテンシャルを持ちながら生殖に邁進するものとそうでないものの二種では、例え後者が2倍、いや3倍の寿命を持ちえたとしても前者の有利は揺らぐことがないだろう。
そう、八つの試練を乗り越えると目に見える結果が伴うのだ。不死とは言わないまでも不老長寿を現代の仙人たちは獲得したのであった。もっとも彼らにとって若さとは活力を維持できることを意味するのであって、若さがもたらす美しさには無頓着なのだった。
切望するが自分にはないもの、それを他人が持っていてなおかつ利用するそぶりすら見せない場合、それは容易に憎悪の対象になりうる。一般人がオタクを怖れ憎むのと、似てはいるものの違った論理で、凡俗は仙人たちを憎んだ。陰に陽に凡俗の仙人狩りが始まった。
メディアに若さを保っている人としてある仙人が取り上げられたのがそもそもの始まりだったという。その仙人にしてみれば、自分に嫉妬するものがいようなどとは思いも及ばず、軽い気持ちで受けた取材であった。メディアによりそのような人間が個の特質ではなく少数ですらないことが知れ渡ると、さらに凡俗の嫉妬心を煽った。
容姿に秀でたものはそれをもって傾仙を謀り、才能に自負を持つものは才で仙人どもを踏み越えんと欲した。何も持たぬ多くの凡夫は石をもって追った。当時進行中であった社会の静かな崩壊もその傾向を助長させ、事態は魔女狩りの様相すら帯びてきた。
まず童顔と形容されるような人々が不遇な扱いを受けるようになった。禁欲に関係のない才能ある普通の人々が、当人にすらわからぬ理由によって職を追われた。静かに暮らしていた同性愛者のカップルが襲撃され、犯人のわからぬまま時効を迎えた。子を持たぬ夫婦が……。
仙人のほうでも座して死を待つつもりはなかった。隠遁し、人に紛れ、そして連帯した。彼らの能力、資本をただ一点に集中し生き残りを画策した。彼らは宇宙開発に活路を見出したのである。結果、宇宙に居を定める最初の人間は日本人となり、今なお最大の人口を持つスペースコロニーは日本に所属するものとなった。構成員はほとんどが仙人であったのは言うまでもない。
それから千年の後、宇宙から地上を支配するに至った彼ら仙人達に、積もりに積もった殺劫でローマが壊滅することになるのだがそれはまた別のお話。
参考
http://anond.hatelabo.jp/20080728205902
http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20080728205902
この寂しさはなんだろうか。真の意味でブレイクするかしないか、本当にメジャになるかならぬかというこの年に置いて緩慢な引退を隠遁をするということはなんと言えばよいのか。
語られること少なく、売れるだけ売れて、私の老後を彩るがごとくにその言葉は溢れて、それでも私は別れの悲しさを感じずにはいられない。
村上春樹のごく初期の著作で彼は、死んだ作家については大概のことは許せるということを書いた。私はそれを思い出している。私は森博嗣の引退を受け入れられない。そこまで言わずとも、繰り返しになるからくどいと思うけど言いたい。さみしい。
まだ20世紀だった頃、私は渋谷ブックファーストだったと思うけども手にとって読んで、でもそれはあまり心には残らなくて、大学のいくらかそばで日記を読んで、あんまりなものだからずっと封じられたように立ち読みをして、疲れたので買って帰った。今読むと、あるいは誰かが読むとただの日記に見えるかもしれないが、私にはそれは永遠で。
web日記あるいはこの国ではブログ、それの中毒するよな面白さと、なんだろうかもう思い出せなくなってきている。とにかく私を変えた。絶無というくらい爆発的に変わり、それは森と言う人が変えようかなと思いながらも無理そうだったのでやめた出版界への言葉の爆発、そのとばっちりで私は変えられた。主体的に変わったのか変えられたのかということはわからない。
自由奔放我が道を行くのみ。
他人の評価が気にならなくなった。自分のことだけ考えていれば揺らぎは誤差として生きていけるようになった。
ウォール伝「生成ユーモアの企て」http://d.hatena.ne.jp/mimisemi/20071108
2007-11-08 生成ユーモアの企て。CommentsAdd Starmimisemi2007-11-08 アルファブロガー・アワードってのにノミネートされたらしいんだけど、最初、ブ ログへの書き込み見たときにまたなんかの詐欺サイトかと思ったよ。前のmyspace でのライブに出ませんか?と同じ類かと思ってたら、割とちゃんとしてたっつーか、 推薦してくれた人がいたみたいで、なんだか驚きっていうか、今日は社会学のテス トがあってって昨日も書いたけど、今書いてるのは午前なんだけど、一応、学校行 く前に教科書でも読んでおこうかとか思ったんだけど、ノミネートされてて驚きだ ったからこの時点で思ったフレッシュなことをとりあえず書いておくね。 まず推薦した人のセンスというのは恐らくアングラ系に理解がある人なんだろうな って思ったわけだけど、別に俺がアングラぶっているわけではなく、基本的に色々 カイテルとそれがアングラ志向みたいになっちゃうんだよね。ようはメインストリ ームじゃないことっつーかストリームすらないようなことばっか書いてるんで逸脱 していくっていう、まぁその結果がアングラっていうカッコつきのワードで表され るわけだけど、何を書きたかったのかすでに忘れたよ。 あ、そうそう。推薦者に「推薦していただいてありがとうございました」なんてメ ールなり書き込みをするのは白々しいので、やりたくないんだよね。前のはてなス ターと一緒で、もう心が張り裂けそうなぐらい感謝しているんだが、あんま直接本 人に言いたくないっていう。ってことで推薦してくれた人がこれまだ懲りずに見て たら、耳蝉はこのことだけでまた明日から頑張って算数とかをやる気力が湧いたっ て思っててください。 人との係わり合いっつーか特にネットでの係わり合いは極力避けているのにも関わ らず、知らない人がこういうことをしてくれると嬉しいんだよねぇー。すげー自分 勝手。ところであとこの期待ね。おーなんか凄いことになってるじゃん!とかさ、 あ、その前に、「ニューヨークのコミュニティーカレッジに通う著者」って言葉さ、 いやー文字ってのは凄いよね。こうやって文字で現れると実態と乖離したイメージ というのが文字から生まれてくるというか、読み手に連想させるんだよね。なにや ら凄い感じじゃん。 まぁコミカレ自体は凄くないけど、ニューヨークってワードがコミュニティカレッ ジの質を高めてるっていうか、オクラホマのコミュニティーカレッジだとあんまス テータス高い感じしないけど、ニューヨークってのがね、コミカレの響きを高めて るっていうか、まぁそういうのがあるわけだけど、実際は「モトニートかそれ以下 みたいな引き篭もり生活をしていた著者が、死か無理な渡米かの二択を自分の中で 勝手に迫られて渡米というか亡命を決意しつつ、なんだかんだでニューヨークのコ ミュニティカレッジに通いながら、特殊学級の算数のクラスと読み書きのクラスを 受けている生活の中で綴るポスニート的ダイアリー」みたいなね。 ただ脳を掃除するっていう表現はさすがだなって思った。ちゃんと読んではるなっ て。前にも書いたけど精液が溜まりすぎると玉が膿んだような感じになるから一刻 も早く抜きたくなるじゃん?それと一緒で脳が膿むんだよね。色々溜め込みすぎる と。だから吐き出さなきゃいけない。音もそうなんだけどね。 あ、んでね、いつも書くようだけど、留学生っつってもピンきりで、今なんて恐ら く昔みたいな、50年代とか60年代とかに留学してたようなエリート中のエリートな んてのは本当に少ないと思うわけねっつーか昔はそういうエリートしか留学できな かったわけだけどっつーのも奨学金とかね、そういうことで。 ただ今ってのは割とカジュアルに誰でも留学できるんで留学自体がたいしたことじ ゃ無くなっているわけ。ただ留学とか「ニューヨーク」みたいなカッコつきのワー ドに象徴されるようなイメージだけが先行しているものってのはね、そういった昔 から継承されてきたステレオタイプの賜物なわけですよ。留学=賢いとかエリート とか金持ちみたいな。ただ今なんて違法でバイトしつつ英語学校に通っている日本 人なんて少なくないし、VISAがキレても惰性で違法バイト続けてはや10年みたいな 人もいるわけ。 ようはね、クローズアップ現代だかで見たんだけど、就職氷河期世代ってのがよう は年齢差別とかさ、日本って雇用っつーか社会が最悪だからっつーかまぁいいや、 仕事が無くてさ、んで中国行って電話のオペレーターとかやってる人とかいるらし いけどさ、時給が日本円で300円だったかな。ただまぁ中国語をマスターするっての とキャリアアップってのもあって日本で無駄なバイトしてるよりマシってことで行 ってる人も多いんだろうけど、こういうの見るともうすでに日本が先進国だなんて いう幻想はもうなくなったなっていうのを実感するよね。 それこそ本国で仕事が無いとか未来が無いんで海外に出て条件が悪くてもまだマシ ってことで仕事をしている発展途上国から来た労働者とかとあんま変わらないわけ。 こういう人達って。俺も同じだからね。元々日本というか日本社会が大嫌いで亡命 したという理由が一番だけど、でもまず俺みたいなもんに仕事があるわけないから さ、だったら同じ苦労でもこっちで苦労したほうがマシだってことなわけで、状況 的には独裁政権の国から自由を求めて逃れてきた移民なんかと本質的には変わらな いわけですよ。 まぁ俺の場合、親のサポートがあるからこういったシリアスな移民たちと俺を一緒 にするのは失礼なんだけどね。そういう意味だとあれなのよ、ニートが上京して専 門学校通うみたいなのをニューヨークでやってるってだけ。俺の場合。だから全然 たいしたこと無い。エリートでもなんでもないし、こっちの大学なんて高校レベル の英語が出来れば誰でも入れるんだから。卒業するのは大変だけどね。ってことで 留学=なんか凄そうっていうイメージはなくしたほうがいいよ。 こういうイメージが流布してるから短期留学でもなんか得られるんじゃないかとか いって来る人が多いけど、何にもならないよ。基本的に留学の先にあるのは似たよ うな資本主義型社会で、言語が英語ってだけです。そこでまぁ行動的な人は何かを 得るかもしれないけど、それはあくまで主体あってのもので、主体性が無くて、た だなんとなく留学っつーと凄そうだからっつって留学しても何にもならないわけ。 こうやって勝手に留学に対して変な幻想を抱いちゃうってのは、留学を売り物にし ている代行業者とかによるイメージの捏造もあると思うんだけど、やっぱなんつー かそれ以前にジェネラルに留学っていうこと自体に個々が勝手な幻想抱いてる気が するのよね。ただ実際はね、来てみて、それがニューヨークであろうがロスであろ うがイメージと全然違ってたっつって心身がダメになって帰るって人も多いらしい し、何も見つけられないまま英語学校にずーっといるって人も多いし、ようはね、 状況自体が何かを与えてくれるなんてことはどこの世界にも存在しないってことな わけよ。 主体性のないやつが違う環境に行けば環境によって様々なことが変わっていくとか ね、そんなことは起こりえないわけよ。あくまでそれは主体性があった上での前に 書いたようなソーシャルインターアクションによってパーソナリティが変わってい ったり認識が変わっていったりするわけで、そこに何らかの働きかけが無いとまず 無理なわけ。勘違いしてる人達ってのは行けばそういった経験が得られるんだって 凄まじくパッシブなままなんだよね。そんなんじゃ無理。 だから中身が何も無いまま自分探しっつって世界を放浪してもダメなんですよ。自 分が無いと何も得られない。ようはその環境から感化されるような感覚とか思考と かっていう人間の意志が無いとダメなわけで、ようは日本で拾った石をエジプトと かアメリカとかイギリスに送ったところで、石自体に何も変化がないのと同じなわ け。 この石状態ってのがスッカラカンな石人間の留学先で起こるわけ。ただこれは師匠 2っぽい言い方すると自明の理なわけよ。まぁ留学に限らずだけどね。もっと狭い 話でもいいや。どっかのサークルに参加するとかコミュニティに行くとかさ、それ で変わるかもしれないっつっても、主体性が無きゃそれは、その辺で拾った石をな んかのサークルに置くだけで、石自体に何の変化も起こらないでしょ。逆に人間っ てのは変な期待するから、そこでイメージと違ったとか、なんか予想してたのと違 うとかって思うわけだけど、そりゃてめーが石だからなんだよってことに気がつか ないとダメよね。逆を言えば意志さえあれば環境なんて二次的なものなわけ。 だから前に書いたことでちょっと思うことがあったんだけど、俺ってどうやら人里 はなれた山というのに桃源郷的な幻想を抱いてるんだなっていう風に思ったわけ。 こんなくだらないゲームはやめて、とっとと隠遁生活を送りたいって書いたけど、 隠遁生活なんて別に山に行かなくても送れるんじゃないかと思ったのね。 ようは心の中に桃源郷的なイメージを持っていれば、自分の部屋が桃源郷になりう るでしょ。別にそれは瞑想しているときでもいいんだけど、頭の中にそういったイ メージがあれば、実質、環境がどうであれ隠者的な生活は送れるんじゃないかと思 ったのね。まぁ環境も大事だよ。ナチ政権下で心に桃源郷を持ってようがそりゃキ ツイよ。 まぁなんつーかそこそこの環境なら別に心の持ちようっつーか、ようはその個人の 世界観によって自分の世界なんていくらでも変わるじゃんって思ったわけで、んだ から別に山に住まなくても、山にいるようなイメージを心に持っていれば、それは 山に住んでいるのと同等じゃないかってことなわけね。ようはそこで人生なんても のにはもう達観して挑むしかなくて、心に桃源郷を描くことに人生を費やせば、色 々と克服できることって結構多いと思うのね。 それはくだらない人間関係についてかもしれないし、煩悩かもしれないし、精神病 かもしれないし、不安かもしれないし・・・。結局こういったことを解決するのっ て内面的な力しかありえないわけだよね。薬とか環境の変化でどうにかなるもんじ ゃない。何しろ人間ってのはもう文明社会に生きているわけだから、社会からは逃 げられないでしょ。桃源郷が社会に存在しないなら、自分の心に作っちゃえばいい だけの話だよね。 まとめると、ようはこれってのは青い鳥と同じなわけで、幸福なんてのは外的なも のの中には存在しないわけで、そういったものを無理やり作っちゃうのが幻想なわ けだけど、青い鳥の「本当の幸せというのは鳥かごにあった」っていうのに準える と、本当の幸福ってのは心にありってことなわけで、まぁ基本的には師匠1の教え に行き着くわけですな。心っつーと深そうだけど、ようは気の持ちようだよ。認識 ね。基本的には。あーダメだ。話が逸れた!もうあと1時間ぐらいしか無いから教 科書読むわ。 いつもこんな感じね。寸前というよりかは寸前の寸前ぐらいにならないと動き出さ ないのね。俺。あ、そうそう。パリ症候群とかさ、あと日本の馬鹿な芸能人がハリ ウッドデビューとかアメリカで活躍するみたいなことに幻想を抱いているのも、今、 書いたことの良い例ね。良いっつーか悪いっつーか。事実とは関係ない幻想という ものに振り回されるほど不幸なことはないから、とっととそんな幻想捨てちゃった ほうがよっぽど幸せになります。 ところでアルファブロガーって影響力のあるブログの書き手のことを指すらしいけ ど、なんか今回俺のブログがノミネートされたやつは2004年から開催されてるやつ らしいんだけど笑っちゃったのが、Wikiで見てみたら「日本ではFPN(フューチャ ープランニングネットワーク)というサイトが「アルファブロガーを探せ」という 企画を主催しており、ここで選出されたブロガーを指すことが多い一方で、この企 画自体の知名度の低さの問題が指摘されている。また評価の正当性、選考の手法な どにも疑問が投げかけられることもある。さらに、このサイトが選出したブログに は社会問題となりうる虚偽に満ちたブログも含まれている。」だってさ。 かなり批判的。逆にちょーメジャーなしょこたんブログみたいなのがノミネートさ れるようなコンテストだったら俺のブログなんてノミネートされないだろうからね。 「虚偽に満ちたブログ」ってまさしくウォール伝も含まれるな。基本的にこういう のを一般向けに開催していたら、まず個性的なのはノミネートされなくて、ようは アカデミー賞みたいなそれこそ虚偽に満ちたアワードになるわけだけど、逆に俺み たいなちょー逸脱したブログみたいなのがちゃんとノミネートされるなんて、なか なかいいんじゃない?幅が広くて。ネクロマンティックとスパイダーマンが同時に 出展されるような映画祭って素敵じゃん?無いけど。 ようはたぶんこれってアルスエレクトロニカみたいな感じなんだろうね。えー? Cosmosが受賞したのぉー??っつって国際的にアワードの価値が疑われるっていう、 ウォール伝はそんなCosmos的な存在かもしれないけど、逆を言えばCosmosみたい なのが賞を取るアワードってのもアリなんじゃない?とは思うけどね。 あとラッセーラのソヴァージュもなんか受賞したんだよね。えらいアワードだよな。 それこそ評価の正当性やら選考の手法に疑問が投げかけられるわけでしょ。アルス エレクトロニカ。世間の評価ってこんなもんだもんね。しょこたんブログと並んで ノミネートされてたら、「他のノミネートブログが凄いね!」っつってなんつーか 比較で凄いっていうアホな評価になるわけだけど、他がさっぱり有名じゃないわけ の分からないブログとかばっかだったら「たいしたことねーアワードだ」ってこと になるわけ。大半の人はこんな感じ。 内容も見ないでこういった表面的なところで評価するわけね。映画のアワードとか もそうでしょ。ちょー有名監督がノミネートされてたりしたら、その比較として凄 いみたいなさ、まぁ大日本人みたいなもんか。正式に出展されたわけじゃなくて、 オルタネイティブ部門みたいなので、ようはネクロマンティックみたいなのでも個 性があるっつって選考されるような枠に選ばれただけなのに「カンヌ」って名前だ けで人々が勘違いするわけ。 で、誰もディティール見ないんで勘違いしたまま、みんな「カンヌ正式出展作品」 だと思い込んだりしてるわけ。アホだなぁーって思うね。マジで。まぁーでもあれ かねーやっぱ客観的に見てもCosmosみたいなのが賞を取るアワードって何?って思 っちゃうのは分かるけどねぇー。スーパーデラックスってさ、俺がまぐれでアート リンゼイのライブの時にDJした思い出の場所なんだけど、あんときのDJはヒドかっ たな。 選曲はいいんだけどミックスがヒドかった。イカに現場慣れしてないかっつーね。 あと10分ぐらいある曲かけちゃったもんだから、勝手に客が飽きてるって思い込ん で、いきなり別の曲かぶせてミックスしたりとか、ようは精神病的強迫観念すらも ミックスに影響してたりしたんだけど、まぁーでも楽しかったなぁー。 なんつーか「選曲良いですね」って言ってくれたお客さんが何人かいてさ、人との 係わり合いも悪くないなぁーっつかさ、あの時の経験がある一つの決定的な認識を 与えてくれたんだよね。 ようは独りよがりでやってるようなオナニー的音楽をやっているのなら評価なんて 求めないっていう、ようは人に「良い」って言われたいっつーか人と何かをシェア できるようなものを作りたいんだったら、俺は音楽を作るなんて諦めるべきだって 思ったわけね。だから俺は前者を選んでいるわけだけどっつーか選んでるっつーか 前者しか選択肢が無かったんだけどね。人と何かをシェアできるような音楽なんて 俺には作れるわけがないから。 そんな意味でもウォール伝は明らかに前者的な態度でやってるんで、そもそもアワ ード的な概念と繋がりがあるわけないんだよね。やってるっていうよりかは勝手に 出力したものをネットに乗っけてるだけだからね。やってるって概念すらない。た だ今回やっぱ嬉しかったのは、こんなブログでも推薦してくれる人がいたっていう ことと、何よりこんなブログのエントリーを主催側が許してるってことだよね。 まぁ逆を言えばこんなブログのエントリーを許してるから社会的な認知が得られな いのかもしれないけど、まぁそんなもんクソ食らえでいいと思うけどね。まぁただ 他のエントリーは大半がまともな人が書いてるちゃんとしたブログばっかりだった んで、まぁ俺のブログはネクロマンティック的な役割を果たせれば十分なんじゃな いかと。 「幅の広いアワードですわね」っていう。でもあれだね、過去にはきっこさんとか 選ばれていたらしいけど、他のも色々見てみてもなんつーか社会的に見れば「反道 徳的」なものも含まれるわけで、ようはエントリーの傾向が左翼じみているとかさ、 そんな批判も聞こえてきそうだけどいいんじゃないかと。 当たり障りの無いメジャーなブログ選出したところで面白くもなんともないからね。 まぁこのアワードを擁護するわけじゃないけど、ブログって極めて個人的な考えと か経験を出力できる凄まじくインディビジュアルな媒体なわけじゃない?これは逆 にメディアじゃありえないことなわけだ。 そういった媒体のキャラクターを利用してアメリカなんかではブログでソーシャル クリティーク的なことをしていたりっていう、ようは社会へのコミットメントとい うか人への影響力があるようなブログもあるわけじゃん?それがまぁアルファブロ ガーの書くブログということなんだろうけど、日本ってこういうの少ないと思うん だよね。俺がアルファブロガーだとはとても思えないけど、ただなんつーかせっか くネットっていうセンサーシップのない媒体があるわけだからさ、もっと個々が色 々なことガンガン書いていくべきだよね。 色々な意見があっていいわけだけど、そこで議論が生まれればもうそれだけで価値 があると思うんだよね。とりあえず色々なことをネットを使って語りつくすってい うね、そういうことが出来るわけだから、個々がどんなトピックでもいいからガン ガンやっていくべきだよね。それこそメディアじゃ放送できないようなこともブロ グならいくらでも書けるわけだからさ、ガンガン書いていかないと。 それこそWilliam F. OgburnのCulture lagじゃないけど、日本ってテクノロジーの発 達が凄まじい割に、ノンマテリアルカルチャーの部分がテクノロジーの進歩につい ていってない感じがするんだよね。 ようは人間側とか社会のシステム側がテクノロジーを活かしきれてないっていうか、 テクノロジーありきの社会構造みたいなのを提唱できてないっつーか、本当はテク ノロジーの進歩なんて社会自体を変えてしまうような可能性があるわけだけど、イ マイチ日本ってのはこういうところに鈍感なような気がするね。 そういう意味だとアメリカは割とこういうところにケイパブルなのかもしれないね。 だからさっき書いたようなアルファブロガーみたいな存在が出てきたりyoutubeだとか googleだとか、それこそ社会的に影響があるようなものがガンガン出てくるし、ユ ーザーも使い方に多様性があるんだよね。でも日本って使い方に多様性が無いんだ よね。ホント、個人的な欲求を満たす目的だけに使われている気がする。 具体的な例が無くてアレだけど、言ってること分かるでしょ?やっぱいつまで経っ てもアメリカの後追いじゃダメなんだから、やっぱ民度上げていかないとダメだと 思うわけね。まぁ一概には言えないけど、経済とか文化とか教育のレベルではアメ リカとの大差はそこまで極端じゃないんだから、国民のあり方によっては、それこ そアメリカから独立できるわけよ。でも独立しないのってさ、まぁ色々と政治的な こととか経済的なこととかがあるにしても、やっぱ民度が低いんじゃダメだよね。 少なくとも俺がアメリカに来てこっちはレベルが高いって思うこと自体がアウトで しょ。それってアメリカのレベルが格別高いわけじゃなくて、日本のレベルが低い ってことなんだからさ、そりゃマズイよね。あーまた話が拡散バズーカーしてきた。 あ、んでね、今はもう夜なんだけどっつーか今日は社会学の先生がなぜか来なくて、 みんな帰っちゃったのね。っつーかこっちでは15分経ってもプロフェッサーが来な い場合は授業は無しってことらしいんだけどっつーか まぁそんなのが一般的なのかどうかは分からないけどさ、ただなんつーか生徒が独 自に当日の出席票を作って後日先生に渡すとかさ、なんつーか15分経ったからもう 次行こうってああいうクイックなディシジョンメイキングはさすがだなって思った ね。日本だったら生徒がざわざわしててみんな座ってるだけだろうなって思ったも ん。こういう差を見るとアメリカ凄いなって思うのと同時に日本レベル低いなって 思っちゃうわけだけどっつーかまぁ安易な一般化はできないけどさ、これってもう モノの考え方の差なのかなって気もするけどね。 日本は周りの様子を見て慎重で、アメリカではとっとと独自に決断して次行っちゃ うっていう。周りの様子を見て慎重でっつーとポジティブだけど、まぁ頭使わない ってことでしょ。周りに流されてばっかっていう。普段から思考力が鍛えられて無 いからすげー流動的なの。すべての行動が。これって個々がどうのってより、もう 社会の特徴っつーかさ、社会によって個々の人格とか考え方とか習慣ってのがカス タマイズされるから、そういったアホアホな行動パターンってのが社会によって作 られている部分もあると思うんだよね。 それは言語と一緒でアホアホなパターンが身につきやすい日本社会に生まれた人で も、アメリカとか他の国で育てばその国らしい人間に育つっていう、ようは日本人の DNAとか性格がどうのって話じゃなくて、社会の話なんだよね。ってことでこの話 題の流れから行くとやっぱ話が教育になるわけだけど、まぁそれは前に散々書いた からいいや。 っつーかオナニーしたいんだよね。帰ってきてからメシ作ってさ、で、アルファブ ロガーにメールしてこれ書いて今に至るわけだけど、オナニーが無いわけよ。外に 出ると色々なインフォメーションが頭に刷り込まれるからズリネタも増えるでしょ。 俺の眼鏡ってそういう意味だと妄人メガネなわけだけど、妄人と違って俺は自分自 身で妄想ネタを色々と収集してこれるから便利だよね。 あ、そうそう。今後はあれなのかな、書くたびにケツに「クリックお願いします」 みたいな、よくブログにあるさ、ブログランキングとかの投票のあれあるじゃん? あれのテンプレートみたいなのをペーストするべきなのかな?まぁ一ヶ月ぐらいだ しいいかな。俺的には読んでいる人に投票を求めるなんて反革命的だなーって思う んだけど、やらないってのもアレだから、とりあえず投票ページのURLだけ書いて おくね。 https://www.sixapart.jp/inquiry/alphablogger/alpha_vote.html あと選挙期間内は政治家みたいに一時的な注目を集めるためにセンセーショナルな ことを毎日書き連ねていくべきなのかな?で、ベストなんたらに選ばれたあかつき にはとっておきの音源をアップしちゃいますよみたいな、特典つけるとかね。ファ ンキーキンキーアップするとか。 まぁいいや。このことは忘れよう。無駄に期待するとダメだったときに残念だし最 終試験まであと二ヶ月切ったしブログどころじゃないんだよね。過剰にブログに注 意をフォーカスするのも嫌だし、そういったことをすると俺の中の革命度が下がっ ていきそうだからやめたほうがいいよね。ってことで今までどおり時間があるとき に更新していきますので投票ヨロシク。っていう落ちはどう?って感じで落ちを書 いたりさ、投票ヨロシク(結局、頼むんかーい!)とか一人ノリ突っ込みするとか ってよく文章であるけど、最近、アメリカでも一人ノリツッコミが存在することに お笑いの普遍的な価値を見出しましたね。 生成文法ならぬ生成ユーモアみたいなのが人間にはあるのかもしれないね。ユーモ アといえば今日も学校の手前ぐらいでマサさんの波が来たんで、テストが今日じゃ なくて良かったかも。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー http://d.hatena.ne.jp/mimisemi/20071108
http://www.sponichi.co.jp/society/news/2007/03/11/04.html
松岡利勝農相の資金管理団体「松岡利勝新世紀政経懇話会」が、光熱水費無料の議員会館に1995年、事務所を移転したのを契機に、光熱水費が急激に増え同年の122万円から、ピークの2002年には779万円と約6・4倍に達していることが10日、政治資金収支報告書で分かった。
議員会館は水道費も光熱費も基本議員が負担で支払うことはないらしい。
何故こんなにわかりやすい水道高熱費などという名目で記載したのか甚だ疑問だ。
本当に裏金に使ったのであればあまりにも間抜けすぎる。
スポーツ新聞かなにかのでっちあげ記事によると本当にミネラルウオーターを買ったのではないかとのこと。1本5000円のマイクロミネラルウオーターを一日に4本。
だとしたら素敵すぎる。
いつまでこんなものに付き合わなくてはいけないのだろうか。
65歳を超える議員には隠遁してもらいたいし、世襲制の政治など勘弁してもらいたい。
個人的に河村たかしと麻生太郎あたりのぶっちゃけぶっきらぼう組に徒党してもらいたい。
やはり・・・。どうでもいいか。