はてなキーワード: 等価とは
ラスベガスの高級感と優雅さに欠け、カネだけの博打場は限界があった
マカオは旧ポルトガル植民地。1999年に中国に返還されたが、爾後、なにが一番変わったか?
唯一の産業=博打ビジネスが以前より繁盛し、本場ラスベガスから大手三社が殴り込み、そして、大不況の到来とともに米系一社が倒産し、それでも二十四時間不夜城のマカオの博打場は盛業を極めていることだ。
旧植民地時代からのマカオ・パカタである。香港ドルとほぼ等価。ところが、マカオで、この独自通貨にお目にかかるのは稀、殆どが人民元か、香港ドルで決済されている。ホテルは米ドル建てか、香港ドル建てだ。
2004年頃までは香港ドルが圧倒的に優位だった。人民元優位に転倒がおこったのは05年以後で、いまではマカオ中のホテルでもレストランでも人民元の天下となった。香港もそうである。香港とマカオは「人民元合衆国」の一員と名付けても良いだろう。
香港とマカオは「特別行政区」で、「一国両制度」のもと、五十年間は自治が保障されている。だから独自通貨を維持している。
独自の行政法(憲法らしきもの)があり、一応、言論の自由があり、独自のパスポート(或いは居住証明)が発行され、世界中旅行できる。
しかしEUの通貨が「ユーロ」で統一されたように、人民元という通貨が共通となって、香港とマカオは中国の「出島」のごとき存在となり、“人民元合衆国”の一員となったのである。
最初にマカオへ行ったのは三十五年前だった。
香港からフェリーで行った。三時間以上かかった。船酔い客が続出した。マカオの公式の博打場はフェリー乗り場に近いリスボア・ホテルしかなかった。
このホテルはマカオ経済を牛耳るスタンレー・ホーの経営である。
筆者は麻雀もパチンコもやったことがないので、トランプ博打の遣り方を知らないが、このとき同行した弟が二十ドルほどかけて、五十ドルほど勝った。
十五年ほど前にも行った。やはりまともなホテルと博打の施設はリスボア・ホテルしかなかった。
マカオは事実上、この最大財閥=スタンレー・ホー一族の天下だった。マフィアが入り乱れ、麻薬、武器密輸、売春が盛んで、治安が悪く、筆者はもっぱら香港から日帰りだった。
返還後、行政法が改正され、外国の博打ビジネスの進出を緩和した。
一斉に博打ホテルが開業した。とくにラスベガスの大手三社、サンズ、MGM、ウィン・グループがやってきて、つぎつぎに豪華ホテルを開業し、そこに中国大陸からどっと、年間1200万の博打打ちが、あたかも中山競馬場へいくような気軽さで押しかけるようになる。
フェリー乗り場と中国との国境ゲートからは各ホテルがそれぞれ無料バスを運行している。まるで昔の面影はない。
2年前にもマカオへ行って驚嘆したことが幾つかある。
第一はマカオの通貨が殆ど使えないこと。第二は二十四時間不夜城のホテルではロシア美女のダンス、フィリピンからの楽団がショーをやっているが、本場ラスベガスのような娯楽性がない。ショッピング街が貧弱極まりない。家族で遊べない。第三に付帯設備が貧弱。エンタテインメントの風情に乏しい。そのうえ、レストランはまるで町の食堂である。
優雅に時間を過ごし、贅沢な食事をワインを飲みながら楽しみ、或いは瀟洒なショッピング・アケードを冷やかし歩くという贅沢な空間のなかに味あうリクレーションの発想がないのだ。
中国人はひたすらマネーゲームに熱中し、カネカネカネと念仏を唱え、ほかの楽しみがない。博打に勝てば美女を買うぐらい。
▲これからマカオの迷走が始まりそう
マカオには決定的に“遊び心”が欠落している。
そして2009年6月1日、マカオの「夢の市街区」(ドリームタウン)が開業した。目玉はスタンレー・一族(娘のパンシーが経営参加)とラスベガスの大手が合弁の新築ホテル「ハード・ロック・ホテル」。
認可料金も莫大で、「夢の市街区」の建設費用21億ドルのうちの、じつに40%が『ライセンス料金』としてマカオ行政府の懐に入った。
04年にラスベガスのサンズ・ホテルが開業し、06年にラスベガスのウィン・グループがリゾートホテルを建て、MGMミラージュも店開きし、07年にベネチア・ホテルも開業した。ラスベガスの御三家が揃っていた。繁栄はピークに達した。年々顧客がふえ、売り上げはラスベガスを凌いだ。
ところがラスベガスの経営者らが首を傾げた。ラスでは博打の胴元の稼ぎは、全体の売り上げの26%でしかなく、付帯設備からの売り上げが凄いのだが、マカオでは計算が狂った。
共産党幹部の出入りが激しくなったのも、ここで合法的な賄賂が受け取れるからである。業者の招待でマカオへ「出張」し、博打をする。業者が天文学的金額をかけて、故意に負ける。
共産党幹部は合法的にべらぼうな賭け金を受け取る。領収書が発行される。合法の賄賂である。
たとえば「リアルのゆくえ」p273。東氏の言いたいことは以下です。
東氏にとって、Apemanさんのやられていることは、お宅がガンダムの一年戦争について語ることと同じなのです。
「かって公共性を担うと思われていた話題も、いまやオタクのネタと代わらないわけです。ネットというインフラは、ガンダムについて熱く語っている人と、南京大虐殺について語っている人を等価に見せてしまう。実際若い嫌韓厨にとっては、第二次世界大戦は宇宙世紀と同じくらいフィクションでしょう。そのどちらのフィールドにおいても、彼らはすごく議論するし、ぶつかりあう。だからそれがすべて公共圏の萌芽だっていうなら、すごくハッピーな議論になるんですが、実際にはそうじゃない」
P232
「たいていの人にとっては国家なんてどうでもよくて、100人や1000人規模のコミュニティのなかで生き生きと生きていれば、それでいいんじゃないか」
つまり、こうやって、歴史修正主義について議論するのは、歴史の歴史性とは?またそれを語るとは?歴史学における事実とは?とかの問題ではなく、価値中立な工学的に設計されたネットインフラのなかの「南京大虐殺」コミュでの、コミュニケーションのネタにしか東氏にはみえないのです。そしてそれでいいじゃないか.それで幸せならば、と言っているのです。
普通に考えれば、歴史学的に証明されている南京事件という史実と、歴史学では相手にされていないその否定論というトンデモを並べてフラットに「コミュニケーションのネタ」として扱うことは問題があるといえます。しかし、彼らはそうは考えません。だってポストモダニズム系リベラルの時代だから。ポストモダニズム系リベラルの時代には、史実もウソも、フラットな情報としてしか扱われない。だからぼくは南京事件があったかなかったかは関心がないんだよ!と公言できるわけです。
だから、彼らに対して彼らが「無知」である(あり続ける)ことをもって糾弾するのは、確かにあまり意味がないのかもしれません。自分は無知であり続けながらひたすらコミュニケーションのあり方のみを問題化していくという態度そのものが、彼らにとってはステータスなのかもしれないからです。
http://anond.hatelabo.jp/20090602062719
何で「ビジネスでの成功を目指す」ことと「恋愛やセックスに積極的、特に女を征服しようとすること」が
マッチョないし男らしさという言葉でひとくくりにされるのかな。
前者を満たしていないが後者は満たしている事例(非モテDQNや処女厨など、いわば肉食弱者)はよく聞くが
何が書いてあるのか、読み取りきれなかったのだけれど。
「後者」=「恋愛やセックスに積極的、特に女を征服しようとすること」
つまり、「前者」と「後者」は連動していないという事例ということでいいかな?
それでも、あえて「マッチョ」ないし「男らしさ」として、ひとつのモノとして括られるのは、「後者」の積極性は「恋愛やセックス」に対しての積極性ではなく「女を征服しようとすること」に対する積極性のことだから。
原爆は空から一つ原子爆弾を落としたらその結果何十万人?が死んだんでしょ。
対して南京大虐殺とやらがもし本当にあったとしたなら、数日間ないし数十日間地上に人がとどまって人を殺していたわけでしょ。
軍は何をしてたかって、まぁそりゃ占拠されてる時に軍が何ができるんだって話もあるけど、上からポーンと突然なんか落とされたら軍とはいえ何もしようがないよなぁ。
それよりも、南京大虐殺があったってことで謝罪と賠償を要求するのに正当性があるというのなら、東京大空襲とか大阪大空襲とかはどうして謝罪と賠償を要求しないのかなー。いくら軍事拠点を狙ったとは言っても民間人何十?万人巻き込んでるんだから、今だったら各国から非難ごうごうだよね。敗戦国だから何も言ってはいけないのだろうか。アメリカの民間人はたぶん大空襲のこと知らないんじゃないかな。まぁもう昔の話だからみんな全部忘れて仲良くしようぜってかんじだけど。
よくミクシイのプロフィールなどで書いてあること。
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「楽しいことが大好き」
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俺はこれが大嫌いだ。
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楽しいことが大好きなのは、誰でもそうであって、何も言ってないのと等価である。
別の観点から見れば、その人にとって何が楽しいかというのは人それぞれなのに、「楽しいことが好き」だけでは
その人が何を楽しいと感じるかについて何ら情報を与えていないことになる。
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こういう事を書くのは大概馬鹿な女性と相場が決まっていたが、近頃は男性でさえこういうことを書く奴がいる。
一体何を考えているのだろうか?
そもそも、プロフィールなのだから、他の人と差別化できる部分を書くべきであって、「楽しいこと大好き」なんぞ、
自己紹介でもなんでもない。あえて言うならば、「自分馬鹿です。思考停止しちゃってるどうしようもない馬鹿なんです」
という自己紹介にはなっているけどな。
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なぜこんな馬鹿なことをあえて書くのだろう。知的障害者ならばともかく、脳科学・精神医学的には正常であろう多くの若者が
こういう事を書いているという事実。これは厳粛に受け止めないといけない。自分の言っていることが中身のない馬鹿丸出しの発言
だということを自覚できないくらい脳が麻痺してしまっているのだから、脳科学・精神医学的には正常であっても、脳機能は著しく
異常を来していると言わざるを得ない。
さっきお風呂でふと考えた
正確には、買う雑誌を選ぶようになった。
理由は単純である。金を払ってまでして得られるものがない雑誌に価値はないと考えるようになったからである。
例えば音楽雑誌。ほとんど音楽をとして「消費」している私にとっては、彼らの人生、作品の制作過程や曲の解説はトリビアルなネタにすぎないものだ。年末のベストディスクが特集されている号だけは買うが、それはリストアップされたCDを購入する指針に便利だから言う理由にすぎない。あくまで記号的な消費である。
また、こういう言い方をすると傲慢と捉えられるかもしれないが、明らかに自分より頭の悪い人たちの言葉を読んでも論理的思考力は向上しないし、人生にプラスになる知恵や知識を得ることも期待できない。
スポーツ誌は言うに及ばず。内輪の「ネタ」の集積体。サッカーの戦術が役立つのはサッカーの枠組みの中だけである。ある方面に精通していることはとても良いことだが、私は精通するために雑誌は利用しない。必要な情報はインターネットで充足可能である。
エロ本はとりあえず手っ取り早く抜くためのツールだ。記号的消費に傾倒して内実が無いという意味では私にとってロッキンやサカマガはエロ本と等価だ。
私が買う価値があると考える雑誌は公共的で、知識や知恵を取得できる雑誌である。
公共的とは多くの人に関係があることである。これから社会人になる自分にとってコミュニケーションツールとしての公共性は必要になる。
知識や知恵を取得することを雑誌に求める必要はないのかもしれないが・・・
というわけで最近はサイゾーくらいしか買わない(というか、お金がなくて買えない)新聞をとっているため週刊誌は買わなくていいかなと。
http://anond.hatelabo.jp/20090402234220
ん? と思ったのでとりあえず以下例え。
面接というのはテストと違って、本人の能力を評価するためのものではなく、会社に必要な人材かどうかを見極めるために行われるものである。基準に対して適合性をみるもであって、人間の価値を絶対評価している分けじゃない。
極論になってしまうが例え。
仮面ライダーの集団に、ウルトラマンとウルトラセブンが面接に来たとする。ここで、仮面ライダー集団は、ミクロ化等伸縮自在で自分たちの敵と戦うときに同じ大きさで有利に戦ってくれうだ、というウルトラセブンを雇い、ウルトラマンを落としたとする。(もしくは、仮面ライダー集団は求人票に「身長3メートル以下」等と条件を書いていたとすると、一時面接官が不適合で機械的に落とす可能性だってある)
その後、ウルトラマンは第2志望である戦隊ヒーロー集団の面接に臨んだ。ここで、戦隊ヒーロー集団では大形化した怪人をやっつける必要があり、ちょうどいい人材としてウルトラマンを雇うわけだ。
こういう状況で、そしてその後戦隊ヒーロー集団のなかでウルトラマンが怪人退治に大活躍したといったからといって、仮面ライダー集団がウルトラマンを雇っても、そのポテンシャルは有効に活用なんてできっこない。
また、もしかしたらウルトラマンはガチな体育会系は苦手で、女の子がチームにいないと活躍できないタイプだったかも知れない。そうすると、そういうタイプであると見抜いて落とした面接官は優秀だと思うのだがどうだろうか。
さらに、ここでウルトラセブンは空は飛べるもののバイクは乗れなくて仮面ライダー集団の中ではまだ評価が低く、またウルトラセブンのあずかり知らぬ所で(景気悪化によるスポンサーの撤退とか、時代のニーズを見誤って若いお母さん層に訴えかける美少年の獲得に失敗したとか)経営が悪化していたとしても、それは基本的にウルトラセブンがどうにかできることではない。たとえここでウルトラマンがスモールライトを入手して仮面ライダー集団に就職していたとしても、ウルトラマンだってバイクには乗れないだろうし、同様の結果になっていた可能性が高いわけなので。
(例えへの突っ込みは勘弁してください。ほとんど半可通なので)
つまり何が言いたいかというと。
と言うことである。
また、「カン」というものをずいぶんと過小評価しているみたいだが、カンというのは普通、自分自身の経験や知識から導き出される非常に高度な判断について、それを説明する時に使われる言葉なので。判断する能力がないから勘に頼ると言うのはちょっと考え方がおかしい。普通は相手に説明する気がないとか、特に秘匿しておきたい時、あるいは説明すると長くなることを端的に表すときに使われる。また、これをもって理由を推し量ることはできない。普通、その背後にはそれなりの根拠があるので。そうなるとこの「カン」という事で求めるのは説明不足を求めるべきであって「カンだから悪い」というのはただの思考停止だと思うんだ。
ついでに言うと「事実だけ書く」と言っているが、そのうち
印象論でしかないと思う。(彼についても、増田本人についても)また、
この三つは、何故か元増田氏が自身を引き合いに出しているが、比較対象としてとてもじゃないが正当とは思えない。(一体だれが元増田氏を客観的に評価しているんだ?)普通、一つの事を正当に比較するなら、その評価する以外の点は平等に一致させておかないと、どの部分の影響かと言うことは評価できないわけで。
また、事実の認定の仕方が一部おかしいよう(落ちた、と言うのではなく落とされた、とか)
これを持って、わかることは、
で、元増田氏が主張しようとしていると思われる以下の点は判断できない。
これで一時面接官を批判する材料にはならない気がするんだがどうか。
[2009.3.30]
知識がお金になる時代の終焉。
知っている人が得をし、知らない人が損をするという情報の非対称性は、あらゆる取り引きに存在している。その一番極端な例が金融取引である。買いたい人は売りたい人が居なければ買えないわけで、買って利益が生まれる理由を独り占めしておかなければ、売りたい人を増やせない。同様に、売りたい人は、持っていると損をする理由を独り占めしておかなければ、買ってくれる人を増やせない。
知っている事が利益になり、知らない事が損になるという、知識がお金と等価であった時代の仇花がCDSであり、CMO(Collaterized Mortgage Obligation)であった。それらの加工された債券は、元本である債権の情報が隠され、高格付けの高利回りの債券として売られていた。
それらの偽装された格付け情報を信じて買ってしまった所が、大火傷をしている。
インターネットが社会に受け入れられたのは、知識を手に入れやすくなるという点を評価した人々が飛びついた為である。しかし、それが一般化すると、知識はあって当然であるという状況へ向かう事になる。
つまり、知識・情報を独占して間抜けを騙して損を背負わせるというアンフェアなビジネスを否定し、地道に汗水流して働く事でしか利益が発生しない社会へと向かう選択となっているのである。個人の利益の為にとった行動でも、全員が同じ行動を取ると、誰も利益を独占できないばかりか、社会の構造自体が変化していくという結果に繋がるという、興味深い変化でもある。
金融バブルと違うのは、こちらの方は、その変化を続けた方が、社会全体にとってメリットが大きくなるという点であろう。
このwebで、著作物の独占的所有権を否定して、情報を生み出す能力を評価する仕組みを提唱しているのも、同じ文脈に沿っている。
医療・介護費用の削減においても、いろいろな取り組みが行われているが、究極的には、知識の独占を解除するという方向に進まざるを得ないであろう([2008.2.9])。知識の独占がある為に、病院に行けば治してもらえるし、治らなければ期待を裏切られたとして裁判沙汰になるというトラブルが発生しているとも言える。患者の側に、病気に対する知識と、どれだけの費用をかければどれだけの事ができるのかという知識があれば、無理難題の持ち込み先は病院ではなくなる。
病気で苦しんでいる人に、病気に対する知識や治療法を説明して、説明にかかったコストを請求するなんて事は、神経を逆撫でするだけでしかない。合意を取り付ける為には、相手に十分な知識がなければならないが、その知識を相手が持っているかどうかなんてことは、誰にもわからない。文書で説明し、サインを求めるという手段で説明と合意は成立したとしているが、訴訟対策でしかない。
どんな名医でも、自分の身体を手術できないし、レントゲン等の個人所有するには高価すぎる機械を使うには、それを所有している他人の手を借りなければならない。この、サービスの対価が医療・介護のコストであるべきである。知識を独占する事は、利益の源泉ではないし、むしろ、デメリットの方が増えていくという状況が、生まれつつある。
知識の独占が利益の源泉であるという考え方は、軍事においては正当化される。それは相手が滅ぼすべき敵だからである。共存しなければならない相手に対し、軍事ドクトリンを当て嵌めてしまった所から、ボタンの掛け違いが発生しているのである。
知識・情報の独占に偏り、それを作り出す能力や技能といった部分を軽んじると、敵味方の識別を間違う事になる。著作権者が、消費者は著作物を盗む泥棒であると主張したり([2008.7.9])、手数料収入を稼ぐ為に返済能力の無い人にローンを組ませ、格付けを偽装した債券に加工して売り飛ばしたりといった、罪刑法定主義の下では違法ではないが、不正な行為をやらかしてしまうのである。
お金はマネーゲームのチップとして使われるのではなく、財やサービスを生み出す為に使われるべきであるという考え方は、至極まっとうな考え方である。ただし、マネーゲームの原因を作った人が言うのは、企業献金を受け取って蓄財してきた人が企業・団体献金の禁止を言い出すのと同じで、おまえが言うなと突っ込まれて当然の、渾身の自爆ボケと言える。このボケを言う為に、あれだけの迷惑を引き起こしたのかと考えると、すさまじい芸であるとしか言いようが無いのであった。
年収1000万だから「ルートに知人」がいるとは限らんというか、年収1000万って(どんな知人がいるか的には)まだ普通と変わらんと思うぞ。
物と金の間は常に等価じゃないので、金ばかりバランス悪くあるよりも、金と友人がバランス良くある方がよいって話しをベースにした応用の話し。
それは分かる。金と友人がバランス良くあるに越したことはない。しかし、「年収1000万円と使える知人が多い、が両立している状態がバランスいい」という感覚がよく分からなかった。
俺の上司は世帯年収が3000万円超えてるはずだけど、足りなそうだよ。ちなみに、子供は一人。
昔金持ちに聞いた話では、家とかジェット機とか特別な買い物をしない限り、普通に1年に個人が使えるのはせいぜい1億までらしい。もう使いようがなくなると言ってた。まあそこまで使い切らなくてもいいんだろうが。
これ、無駄な金を使っているのは誰? もらっている本人のことだとしたら、もらっているからといって使っているとも限らないと思う。
いや、半分ネタだけど、半分ぐらいはマジ。
正直、高い金を出して買うような物でも、そのルートに知人がいれば社割りだったり、なんだりで普通に安く買えるってのはガチだろ?。
たとえば、プログラマの増田なら、友達に頼まれれば簡単なパソコントラブルなら無料で解決してやるだろ?
それを金を払って業者に頼むと1万2万はとられるんじゃね?出張料金とかなんとか色々。
って感じの話し。
物と金の間は常に等価じゃないので、金ばかりバランス悪くあるよりも、金と友人がバランス良くある方がよいって話しをベースにした応用の話し。
ちなみに、金ばかり合って友人がいなかった例が小室。あれをみれば、金があっても友人を選んで、選ばれないと
とどうなるかってのがよくわかるんじゃね?
元に戻れば、年収1000万は、無駄に使えば使えるが、効率よく使うと結構使えない。
そんで、AIGまで戻れば、もはや年収X億とかの世界は 無駄の極地の金の使い方をしているとしか思えないわけで、そんな、無駄な金の使い方をしている奴らに金を預けているんだから、破綻するのは目に見えてるんじゃ?って話しまでさかのぼって、非合理的という増田の意見に賛成と、いうシメ
なんとなく思ったこと。
例えば、突如あなたの周囲でスカトロが大流行したとしよう。みんな暇さえあればスカトロである。
しかも泊りがけで。そしてあなたはスカトロが大の苦手だとする。これは実に好ましくない事態だろう。
このままでは仲間はずれになってしまうかもしれないから、何かしらの対策を講じる必要があるとする。
その際、スカトロはやめるべきという論旨で主張をしたところで、おそらく事態は好転しないのではないだろうか。
やめるべきである理由こそいろいろと考えられるが、どれも単なる我侭か大きなお世話かただの詭弁である。
こういうことを言われると、大抵人はむしろ頑固になると思う。
「スカトロは何の効果もないから、やるやつはアホだと思う」とか。
「スカトロはクソくさいからやめるべき」とか。
スカトロの効果など、やってる人が自由に感じればいいし、クソくさいこととやめるべきであることは、まったく論理の飛躍である。
そして大した根拠もなく差別という指摘をするのであれば、単なる中傷である。
とるべき対応としては、おそらく次のようなものに限られるのではないかと思う。
(1)スカトロが、例えば大規模な健康被害に繋がることを客観的に立証する。
(2)嫌々でもスカトロを練習して上手くなり、スカトロについて語る際の説得力を高める。
(4)「実はスカトロが嫌い」という人を探し出し、スカトロ嫌いで結束するコミュニティをつくる。
(1)は、対象物が公的な秩序に反することを利用し、対象物の価値を減じる手法だ。
公的な秩序は、コンセンサスが得られるなら道徳や倫理でもいいだろう。
究極はその対象となる行為によってリアルに逮捕されるような状況なのであって、成功すると非常に高い効果があることは言うまでもない。
ただ一方で、あまり教条的になると逆に主張の中立性が失われ、説得力に欠けることになるし、
他人が公秩序に反することをあまり大きな声で言うと、逆に名誉毀損の罪に問われることもあるという諸刃の剣である。
(2)も、対象物に対する他人の評価を減じる方法となり得る。
ある価値評価機軸に肯定的な論者の価値評価にもっとも影響を及ぼすのは、同評価機軸において相対的優位を有する、
いわゆるカリスマのような人物による指摘だろう。
相対的な劣位から同種の指摘があったとしても、お前に言われる筋合いはないという話にしかならなくても、
相手がカリスマであれば話は別である。ネットで有名な常套句、「ただしイケメンに限る」と一緒(か)。
(3)は、対象物に対する他人の価値評価に直接影響を与えることなく、代替品を持ち出すことによって、
相対的に対象物の評価を下げる手法であるといえる。重要なのは、代替品として対象と機能的に等価なものを探すことだ。
例えばその集団がスカトロに対して感じる魅力の根本(リビドー)が脱糞や自分の食糞なら、食糞でも飲尿でも大した違いはなく、
ふたつは機能的に等価であるといえる。一方、有名なプレイヤーとSMする機会があるなどの動機がある場合、スカトロではなんの代わりも果たさない。
(4)はつまり、仲間はずれになり孤立するという最大のリスクに対処する、既存コミュニティの代替としての新規コミュニティの構築である。
上記3が他者に対して代替品を提示するという話だとすると、これは自身に対する代替品の提示である。
ただひたすら文句を言っていたらなんとなく状況が改善した気がするというケースは、たぶんこのパターンだろう。
似たようなアンチが集ってもう寂しくなんかない、みたいな。
冒頭にあげた例では仲間はずれになるリスクが対処すべき課題であることが前提なので新規コミュニティの構築が対処法となるが、
現実には好ましくないと感じる原因はさまざまある。それ(リビドー)を見極めることが重要になるだろう。
ちなみにこの記事は、ただの文句に対するオルタナティブとして書いたつもりだが、
考えてみればただの文句がただの文句とみせかけた上記3に書いたようになにか別の意図があるものだった場合は見事に空振りに終わる。
小国:労働者一人当たりでワイン2単位、または毛織物4単位生産できるとする。
大国:労働者一人当たりでワイン10単位、または毛織物30単位生産できるとする。
小国はどちらの商品生産においても大国より生産性が低いということになる。いいかえれば、大国は小国よりも毛織物およびワインの生産性が高いため絶対優位となる。では小国は大国に対してどちらも競争力がないのであろうか。答えはノーである。小国はワイン生産において比較優位なのである。なぜかというと、小国ではワイン1単位と毛織物2単位が等価、大国はワイン1単位と毛織物3単位が等価であるからだ。つまり、小国のほうがワインを割安に作れるのである。
比較優位とは、国内における他の財との生産費の比によるものであり、「他国との差」ではない。よく使われるたとえでいえば「アインシュタインが秘書よりタイピングがうまくても、彼がタイプしてはいけない」のだ。輸出競争力を決めるのは、(藤本氏の混同している)絶対優位ではなく比較優位だから、中国のように生産性の低い国が日本に輸出できるわけだ。
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/266531b9b5a85f5bac001c2a96fff300
派遣のことを書いているのだと思った。
そうだとして「身体を売る子」=「貯蓄をしない派遣」、「真面目に働く子」=「貯蓄をする派遣」にしてるんだったら、女の子を引き合いに出すのは誤解の元だなあと思っていたのだけれど、なんだかそういう感じでもない。
最初にひっかかった文脈はと言えば、大体財布にコンドーム忍ばせてるのは男なんじゃないのかという話。最近はどうだかしらないけれど、女の子が持つのは護身も含めてってところだと思う。性病というリスクは等価でも、妊娠してしまうというリスクは男にはない。
ここにサラされているということはやっぱりしょうもない文章と思われているところも大きいのだろうけれど、内容を読んだ限りでもこの人に取材力はあるんだろうかと疑問になる。
大体いまどき「いい子」なんて言い方、するのだろうか。褒め言葉としては最近聞かない。
「誰とでも寝る子」は「いい子」なのではなくて、誰かにとって「都合のいい子」なんだと思う。
派遣にしても別にスーパー派遣が欲しいのではなくて、そこそこ使えて言うことを聞いて余計な野心もない「都合のいい子」がむしろ喜ばれる。そしていらなくなったポイ捨てするのだ。
雇う時には言うとおりにしてくれるからといって雇って、やめさせる時は言うとおりにしかできないからと言う。涙ぐましいまでに他人とあわせる努力をして、いったい自分のなにが足りなかったのだとますます頭を悩ませることになる。
>「皆、真面目に生きているんだ。君はどうしようもなく堕落している。女のクズだよ」
今までずっと男に求められるなにかを演じてきた女の子に、この言葉はどんな意味がある?
混乱する子は混乱するだろうし、聞き流す子は聞き流すだろう。
獅子は千尋の谷に子を突き落とす、何て言葉があるけれど、あなたは親でもないし親代わりに親身になる気もさらさらないだろうと。あなたのためだからと無理難題ふっかけて、放置するバカ上司とあなたとどこが違うんだと。
>昔、私にそう言われたAV女優は、今は、地道にバイトをしている。
そりゃその子にそうするだけの基礎体力があったからで、きっかけはあたえたかもしてないとしてもあなたには感謝してない。
どうしようもなく勘違いしている。あなたがなれるのは反面教師という立場だけだ。
大家族物を見ていて、母親が娘を殴り倒して言うことを聞かせるみたいなシーンをみると、それに本当に意味があるのかいつも疑問に思う。
いまの世の中を見ていて思うのは、なんでこうみんな身の回りにいる人間を「都合がいいだけの人間」だけにしたがるのだろうと。リラックスするのはいいにしても、困っている人を助けてはいけないような空気を作るとか、そういうのこそをなれ合いと言うはず。
助ける人間は必要と思えば空気を読まずに助けるだろうし、罵倒はかける言葉としては最悪だ。回りをイエスマンで固めることが出来るというのはそれなりに権力があるということなのだろうけど、それこそなれ合いの中のお山の大将じゃないのか。
罵倒の先のことを考えているのかと、いつも思う。
このエントリは、片に散らかった
http://anond.hatelabo.jp/20081117191106
を再構成したり、加筆したり加筆したりといった、無駄な努力と抵抗の上起こした次第。
さて。
ぶっちゃけ当時もう下火になりつつあったネガコメとネガコメ論争。
ネガコメをする人といやな人に分かれて色々言い合っていたわけだけれど。
最も言いたいこととして、アンチネガコメ、その主張は自体は別に存在してても良いんだけれど、そもそもやり方がおかしい。つまり、ネガコメに対して「死ね」とか言ったネガコメで返したり、ネガコメをしたidをさらし上げてみんなで共有したりするという方法は、自身が嫌悪していると主張する対象と同じ方法を用いているので、(自身がどう見ているのか関係なく)相手、殊ネガコメを肯定する人間には影響を及ぼさないよと。そして、それはスタンドプレーでしかなくて、(相手と自分以外に)ジャッジがいるような状況では有益かもしれないけど、そうじゃないでしょ、と言いたいわけです。
それはさながら、テロリズムとそれを抹殺しようとする反テロとの関係のごとくスパイラルを生み、肥大して行くだけだと思うんです。
自分自身、ここまで天下り的にネガコメというタームを使ってきたが、そもそもその線引きが曖昧で、明確になっておらず、また、共有もされていないという前提ないしは背景があると言うことをここで明記しておくことにして。
単純にアンチネガコメという主張を是としたんだけども、これはつまり、あらゆる主張の存在そのものは許されるべきであって、それそのものは等価であるという個人的な思想によるわけ。これについては、ことさら間違ったものではないと考えてもらえると思う。もちろん、程度はあるけども。
ネガコメについても、それ自身が"エントリーの主張に対してネガティブなコメントである"とするだけならば、存在は肯定されなければおかしい。
ここで一例
たとえば、俺がダイアリーで「ワープアの人って無能で我慢が足りないんでしょ?」とかいうありがちな偏見記事を書いたとする。
すると、まず間違いなく某idや某idあたりから、「現実はこうなんだよ、偏見で語るな」的なブコメが一杯付く。つまりdisられる。
でもそういうidは、その人をdisってるんじゃなくて、「その考えをdisってる」んであって、それはそれで、一意見としては存在すべきなんじゃないかと。
ブコメっちゅうのはそういうもんで、誰かに向けてかどうか、エントリを書いた人間に向けてかどうか、非常に強い意志が、それこそイデオロギーがあるかどうか、関係なく一意見とその集合がブクマページなわけで。
ところが、
において、「現実はこうなんだよ偏見で語るな。こんなこと言うやつって何なの? 馬鹿なの? 死ぬの?」と言われているように感じるのではないかと考えている。
まぁ、実際、口の悪いidは言っちゃう傾向にあるが。
言っちゃっていた場合はなおわかりやすい。
みんながみんな、「こんなこと言うやつって何なの? 馬鹿なの? 死ぬの?」と言っているように見えてくる、感じてくる。
更に、ブコメは、はてな村民以外にも読めるがはてな村民以外からは書き込めない様になっているので、より手が届きにくい大上段から言われているように感じる。そしてこれが、"卑怯だ"と映る。
さらに、面倒なことに、アンチネガコメに走っちゃった人は、主張=自身の人格であり、なおかつ自身の考えを他者が支持してくれると思っている事が多い。ちょっとしたネガコメでイラっとする人や、大量のネガコメを見てイラっとする人は多分そうじゃないかと考えている次第。少なくとも自分は。
だもんで、そんな人は、論拠が崩れる崩れない以前に、ネガコメによって自分が否定されたかのように感ずる。
まぁ、ネガコメ派も、口が悪い人間はあんまりやり過ぎると円滑な議論や意思の伝達の妨げになる(そうでなくとも、相手が先鋭化して言論封殺を是とする人間になったところで、本人もその周りも何も良いことないし、いつ何時、じぶんに巡り巡って火の粉が降りかかるかもしれん)し、何より、いかなるものであれ、相手が主張せんとしていることを一度汲み取ってやったと見せる必要はあるのかもしれないが。
場が何でもかんでも修正する方向に働くとは限らないわけで。それは市場原理主義の新自由主義者が破綻したのと同じように。
そう思う次第。
ところで、結局のところこのネガコメ論争は、最終的にモヒカン論に帰着するんだろうけど。
あと、まぁ、エントリをネットで大公開してしまっている以上、どうしてもそういう主張間の摩擦が避けられないわけで、それを避けるためには端っから非公開とするか、大公開してるならネガコメを"見ない"という選択肢を選ぶ、スルー力を養うしかないんだけども、どうも。
アンチな人は多分そこら辺がわからないか、そこら辺にとても反発してるんだと、そう感じている次第。
だから、二つ上のパラグラフ(まぁ、ネガコメ派も、口が―)で言ったようにネガコメ派についてもやり方を変えた方が、良いんだと思うよのココロ。
何か腑に落ちた気がする。
相方が浮気してまずあんちくしょうなのは、肝心の恋人よりもその浮気相手の方だよね。
自分とその浮気相手は、相方の立場からすれば等価であるわけだから。
つまり「2次元キャラやアイドルをオカズにするのは許せない」という発想は、
生身の体をもつ自分と、生身の体を持たない2次元キャラやアイドル
(アイドルは雑誌・テレビの向こう側の存在なので、生身の体を持たないと考える方が自然だろう)
が等価であるという前提がないと成り立たないよね。
でも果たして、ネタではなくマジでそういうことを言う人っているのだろうか。
# つーか「設問のレイヤ」を「股間のレイヤ」と空目してしまった。
# ついでにトラバ間違い・・・。
処女厨は非処女の誰かと性交したという行為とかそういう行為を選択した人間性(?)をキモいと言ってるのに対して処女厨をキモいと言ってる人は、処女厨の非処女を「中古」という蔑称で呼ぶ行為とかそういう行為を選択した人間性(?)をキモいと言っているのでまったく等価。
OKOK。話は大変よく分かるし筋は通ってると思う。特に誤解はない。
そうすると、あなたと私の立場の違いは、国歌というのはどういう観点から誰が選ぶものなのか、そもそも何のためにあるのか、という点に関する認識の部分だと思う。
以下、三行でまとめ。
・そこで「開き直り」はあり得なくね? (あと最後に大事なこと言った!)
以上終わり。…とりあえず、暇が有れば以下を読んで欲しい。
国民主権の民主主義国家にあって、国歌を選ぶ主体が国民であることはまったく問題がないし(だからこそ国会で国旗国歌法が定められた以上アレが国歌であることを否定はしないけれど)、その際国民でない人には一票を(たとえ間接的であっても)投じることはできない、というのは実際その通りだ。でもそれは純手続き的な意味でそうであるに過ぎないのではないかな。国の「歌」というのは単に象徴として存在するだけではなく、事実様々な場面で歌わされるものでありそれによって国民の自覚を高め団結を強めるための道具であるわけだよね。神棚に飾ってあるだけでなく、事実使う、という。
従ってそれは、大げさに言えば日本という国の国民が持つ「国家観」に関わるものだと思うのだけれど、日本という国は、私の記憶が間違っていなければ、その憲法前文で「国際協調主義」を謳っておるね。
われらは,いづれの国家も,自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて,政治道徳の法則は,普遍的なものであり,この法則に従ふことは,自国の主権を維持し,他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
我々は日本人として『国家の名誉にかけ,全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓』っているはずだと思うんだ。その点から見て、
つまり諸外国の認識がヒトラー=天皇であるかどうかは関係ない話では?
国民が納得するかどうかと、諸外国が納得するかどうかというのは違う話ですし、諸外国が納得しないから国歌として不適格ってのも変な話です。
…と、これを「関係ない」で押し切ることが適切かどうか、私は日本という国家の『名誉にかけて』この主張はまずいんではないかと思うがどうだろう。
さらに言うなら、そういう国際協調を憲法で唱える国が、諸外国から旧戦争指導者とみなされる存在を讃える歌(そうじゃないという解釈は所詮詭弁だと思うね。戦前に教育を受けた人で『君』が天皇を指さないと考える人など一人もいないよ。歌を変えないが解釈だけ都合良く切り替わるなんという説は『味噌も糞も同じにする』ようなものだ。)を「国民統合の象徴」として用いる、というのは、はたして日本という国の『名誉』の問題として、どうなのかね。
もちろんこれは、根っこのところでは天皇制を存置したことと同じ問題ではある。そして、私は先に述べたようにそれが「充分にやむを得なかった」とも考えている。昭和20年のあの時点で、占領軍には天皇制を存置する以外の現実的な選択肢は無かったという考え方に説得力を感じるよ。だから日本人と占領軍はいわば「コソコソと」天皇制を続行した。君が代はその余録で残ったようなものだね。確実に言えるが、敗戦時に天皇制が廃止され天皇の戦争責任が追及されていれば「日の丸君が代」は廃止されていたんじゃないかね。その状況なら「過去を振り返るためにこれは残そう」などという案は一顧だにされなかったことは確実だ。(…ただし、天皇を訴追していれば、軍の武装解除は進まず、結果確実に内戦が勃発していたと思うがね。)
そして多分その事情は現在もなお変化が無いんだな。法制化された現時点でもまだ「君が代」は「コソコソと国歌らしい何か」として存在するのが唯一やむを得ない正しいあり方であり、いかなる開き直りの余地もそこには無い、と考える方が妥当だと思う。開き直った瞬間に、確実に二つ三つと戦後日本を貫いてきた論理が破綻するからね。
天皇制を存置させた以上、君が代をおいて別の国歌を作ることもできず、かといって君が代を大手振って歌うことにも矛盾が残り……というダブルバインドから、我々は免れ得ないんじゃないかな。
いずれにせよ、「過去をきちんと振り返る」ということはとても大事だし、戦争を振り返ることはとても大事だ。その発想には同意する。同じ意味で「(押しつけであろうが無かろうがいずれにせよ唯一の存在としての)日本国憲法を愛し守ってきた戦後60年の日本人」の歴史の重みもきちんと振り返るべき時期にきている気がするんだ。
http://anond.hatelabo.jp/20081225154636
こういうと「別に恋愛なんて特別視してない、そっちが勝手に劣等感抱いているだけでしょ」等といわれるのだが、そういう人はあなたが稀有な世界で過ごしているか、或いは単にあなたの見識が狭すぎるだけ、若しくはあなたが特別視しているという事に無自覚なだけのどれかだ。
どうして非モテ以外の「恋愛を特別視してない」と言う人に向かって、“見識が狭すぎる”やら“無自覚”やら言えちゃうのかなー。
増田は「恋愛を特別視しない人は普通じゃない、おかしい」と言ってるようにみえる。
でも、そういう自分は「恋愛を特別視する社会」がおかしいって言ってるんだから、「恋愛を特別視しない人」なわけだ。
“無自覚”なのはどっちだよって話で。
まー、なんとなくそんなこと言いたい訳じゃないってのは、わかる気がする。
「別に恋愛なんて特別視してない」と見かけの「恋愛・非恋愛の等価」を主張する人は、
この社会における「恋愛の価値」を見誤っているんだ!みたいなことだろう。
でも、「恋愛を特別視しない」と主張してる人は、別に恋愛市場の価値を評論してるのではない。
「恋愛を特別視しない」という彼(女)自身の価値観を提示してるだけである。
増田は彼(女)を恋愛市場に引きずり込もうとするが、増田自身には、そういう個人的価値観はないのだろうか?
市場がいやだ、というのは、一つの価値観である。しかしそれは結局「恋愛を特別視しない」ということ。彼(女)と同じ主張である。
考えてみれば、「世の中お金ではない」という意見で、金持ちと貧乏が同意できることだってありそうなことだ。
(金持ちに貧乏の気持ちがわかってたまるか!と思う人もいるだろうし、同意できないことの方が多いかも知れない)
とりあえず、そのあり得べき同意の可能性が皆無ってのは、「お前が思ってるだけ」感を強めてる。