はてなキーワード: 等価とは
そもそもこの事業仕分け。言ってる事がメチャクチャ
1.>保険の掛かった薬は安く買える分、必要以上に買いすぎるということもある。
医者の薬は医師が処方するもので、患者が選んで買うものではない
2.>治療を受けられている方の負担も、保険料を支払っている国民全体の負担も大事
「治療を受けれなくなるかもしれない」という個人の生命にかかわる話と金銭的な負担の話を等価に語るな
3.>国民的な議論・慎重な検討が必要。方向性もまだまだこれから(方向性すら決定ではない)
と言いながら、最終的には
>仕分け人15名中11名の同意が得られているので方向性としては保険外にする方向で。
つまり、やはり最初から結果ありき
結局スパコンの時と同じく、無知蒙昧に予算削減だけを目的として削れと言ってるに過ぎない。
こんなことを医師が聞かされたら、そりゃ黙っていられないだろう
1.>俺が仕分けの議論を聞いた限り負担の少ない薬の一部という解釈
>むしろ、薬局・薬店で買えるような程度の軽い薬の範囲で、検討するぐらいの話な気がするが・・・
>仕分けでは手術に使われるような薬や治療者負担の大きくなるような薬まで考えられてないような・・・?
漢方薬は薬剤師の免許があれば、すべてが市販できる。調合だけなら何の制限も無い。
つまり、「市販薬類似」などというおかしな基準で保険対象外を決めようとするとやはりすべての漢方薬が対象になる
個人の健康や生命にかかわる重大案件の周知に緊急性があるのは当たり前。
いやマジで。
俺はオタクなので、面白い漫画やら小説やらアニメやらゲームやら、そういうものに触れられるのが生き甲斐。そのために生きているというとちょっと言いすぎだけど、まあだいたい合ってるくらい。
もちろんこういうタイプの人って全体から見るとあんまり多くないと思う。やっぱ仕事とか恋愛とか家族とか、そういうのが生き甲斐の人の方が多いだろう。
別にそういうのを否定したいわけじゃない。それどころか全然理解できる。
何のために生きてるのか、何が楽しくて生きてるのかっていうときに、仕事が生き甲斐のリーマンも、恋愛に人生賭けてるスイーツも、子どもを守り育てることに専心するオカンも、知の喜びをひたすら追求する研究者も、趣味に邁進するオタクも、それ以外の誰も彼もみんな等価だと思う。
(その中でどれが尊くてどれが下らない、ってランク付けをしたがる奴がいるけど、そいつのことは留保しておく。仮に尊卑があろうとなかろうと、「ある」という一点ではみんな等価だから)
そういう「生き甲斐」――楽しみでも喜びでも報いでもなんでもいいけど、そういうのが特にない人って、どうやって生きてるんだろう、どうして生きてるんだろうと最近よく思うようになった。
逆に生きるのに(稼ぐのに、食っていくのに)精一杯で生き甲斐なんて余計なこと考えていられないっていうのなら、そっちの方がよっぽどよくわかる。歴史的に見ればそういう人がほとんどの時代がずっと続いてきたわけだし(だからこそ信仰が必要とされたんだろう)、現代日本でだってそういう人はたくさんいる。
そうですらない。別にちょっとさぼったわけで死にそうなほど困窮しているわけでもなく、それなりに食っていけてるけど、仕事にも恋愛にも家族にも友人にも趣味にも、強く惹かれるものを感じない。別にそれらに不自由しているわけではなくて、仕事もまあまあ、恋人も家族も友人もいる、趣味もないわけでもない、けれどもそれらが死へのストッパーにはなりえないって人はいる。決して多くはないけど、確実に存在する気がする。
そういう人たちって、どうやって生きてるんだろう。やっぱ「別に人生楽しいわけじゃないけど、死ぬのもなんとなく嫌だし」ぐらいのものなんだろうか。あるいは上手い具合に自分を誤魔化して、そのことを考えないようにしているんだろうか。そもそも単に「探してる」最中なんだろうか。
なんなんだろう。
よくネットでもリアルでもすぐに人を「頭が悪い」と罵る人がいるけどあれってどうなんだろう?
ちょっと拡大解釈しすぎなんじゃないだろうか?
人にはさまざまな長所や短所があるけどそれをなんでもかんでも「頭がいい」「頭が悪い」に集約してしまうようなひともけっこういると思う
例えば「優しい」なら
他人に優しくするということは頭がいい
他人に優しくするなんて頭が悪い
こういう言い回し
こういう文章になって現れるまでにロジックがあって結果頭がいい・悪いという結論に達したのだろうし
それについては正しいとか間違っているとかいうつもりもないけど
「頭がいいと思われたい」という意志が強ければ強いほど遠回りしてでもそこにたどり着けるということ
またそういう人があまりに多いように思う
頭のよさにもいろいろあってぱっと思いついたものを挙げるだけでも
記憶力が良い、ものごとを客観視できる、頭の回転が速い、要領がいい、観察力がある、思慮深い などなど
あちらを立てればこちらが立たないというものもあるし
たまにチートな例外がいるけどそれはごく少数だというのは同意してもらえると思う
その数ある頭の良さ中から自分にとって有利な能力だけを価値のあるものとしたり
またどれか一つを持っているだけですべてを備えていると錯覚したりしてるんじゃないだろうか?
そこまでしてすがるほど頭の良さって価値のあるものなの?
個人的な意見を言うと無いと思う
頭の良さは優しさや強さと=でも価値を包括するものでもないし不等号が付く類のものでもなく完全に等価値だと思う
そしてあらゆる能力は長所と短所をあわせ持っていて基本的にはいいとこ取りはできないと思う
一方で完全に独立したものでもないとも思うけど
例えば「どうでもいい」という言葉を言うとき
その言葉が本来持つ意味以上の意味をのせて人を不愉快にさせた経験があると思う
それが感情だしそれは便利だしいいものだと思うけど誤解や混乱の原因にもなったりする
また言葉は順列ができるから完全に客観的に語るのは不可能に近い
すぐに目的を置き去りにして言葉遊びに陥る、論点がずれる、すり替わる
すぐに相手の批判の間を縫ったような何の信念もない理論にすがってしまう
言葉は本当に難しい
そういうときにそれ言葉が本来もつ意味について考えてみたりより発言の意図に忠実な言葉に翻訳してみるのもちょっとはすっきりしていいと思う
自分の頭の良さを言葉で証明しようと意地になるなんてくだらない
他にも価値のあるものはたくさんある自分が理解できる類のものだけではなく
それ自体の価値やその多様性をを理解したい、理解はできなくても認めてあげたい
意地を捨てて楽しい議論をしたい
そういう気持ちの現れです
俺みたいな非効率の固まりみたいな奴には努力が無駄にいるって言われた。
楽するのも頑張ることだよみたいなさ。結果出さないと俺も周りも何とも言えないときもある。
仮に頑張っているのが分かっていても、だからいいかっていったら違う。成果と努力は別枠なんだよ。
「頑張るのって素敵。成果出すのって素敵」って言うようになりたい。言われるのは何か違うから、増田には共感かも。
楽して成果を得たわけではないけど、無駄に頑張りすぎて成果を得たのでもないみたいな。
無駄に頑張ると壊しちゃうし、努力は全体の8か9割で、残った1か2割を遊びにさ。こういう人たちって面白い人ばっかだよ。
楽して成果出せばいいわけじゃないし、頑張ったからいいってわけじゃないしなあ。
元増田の言うとおり、本来そこまで議論する内容じゃない気がするけど。
世の中、大概の男は美人が好きだ。
目の前で彼女が他の男とヤってるのを見れば、気分が悪くなる男は多いだろう。
人間(というか男?)、余計な想像力があるもので、目の前で彼女が「もう、あなたしか見えない」的なセリフを吐こうが、勝手に前の男との光景を無駄に生々しく幻視してしまう。やってるときに、自分が撫でようとしているところを、毛深い他の男の手が撫でるの幻視してしまったりとか。
そーなると、がっかり、というかなんというか。ぞわっとするというか。
等価な例ではないけど、女側なら、今自分を見てにこにこしゃべってる彼氏を5メートル先に移動させて、その隣に、彼氏の方を向いて彼氏と同じようににこにこ笑っている前彼女がいる図を考えて、「好きだって言ってくれるけど、前の彼女にも同じ様に言ってたんじゃんか」とつぶやく自分を想像すれば、がっかり、のところは何となく理解できるんじゃなかろうか。
結局、生理的嫌悪自体はどうしようもないわけで、処女がいいと言うこと自体は構わないと思う。というか、仕方ない。
まあ、男女交際なんか義務じゃないんだし、自分のタイプの人を選べばいい。
一般男は普通そうしてる。
が、処女厨が気持ちが悪いのは、ここで、理屈を付けて「男が処女好きなのは”正しい”」「非処女産廃」とか言い出すから。
個人的に、この論理って、「食べないと死ぬのだから、鶏肉を食べるのは”正しい”」という主張に近いと思う。
鳥自身は、普通の鳥なら殺されて喜ぶ変態ではない(と思う)。生理的に(感情的に)殺されることに対する嫌悪がある。
人も同じ。何らかの理屈、倫理で間違っているとされたところで、生理的な(感情的な)飢え死に対する嫌悪は消えない。
この現実に対して、正しい正しくない、と言う議論は的外れ。間違いなら論外だし、正しかったところで、鳥がじゃあ仕方ないですね譲りましょう、とは言わない(言いたくない)し、人に食べられるのが正しいので食われるの快感とか変態に目覚めることもない。正しさでは相手の感情を塗りつぶせない。
結局、力の強い人間が鳥を食べて生きている。鳥は人を呪いつつ殺されるしかない。
そーいうものだから仕方ない、としか言いようがない。だって、こっちも死にたくないもの。
この世は、鳥も人も死なずに暮らせる完全な世界ではない。
処女非処女でも同じで、女にも男同様に性欲があって(同じ人間なんだから当たり前の気もする)、イケメンとベタベタしたい(男なら、可愛い子とヤりたい)とか思ってる訳で、正しい正しくないでは、役に立たない。処女の方がと言う男の感情も、逆ハーレム万歳な女の感情もどちらも塗りつぶせない。
ここでどう考えれば、他者である女が「1人の男しか知らないの、快感」と感じるという、”正しい”処女厨に感情を塗りつぶされると言う結論になるんだよ。自分はわがまま言い放題、相手のわがままは倫理を使って悪として弾圧して、その挙げ句、「オレのわがままは正しいからわがままじゃない」と、謎の論理で自己肯定。何でこの人、わがままをわがままと認識してないんだろう。そりゃあ、キモがられるよ。(というか、”正しく”ないと自分の感情を肯定できないのか?ずいぶん低い自尊心だな。)
ちなみに。貞操観念とやらに抑圧されまくったいい娘ちゃんというのは、それなりにいる。が、結果はまさに
http://anond.hatelabo.jp/20091027030712
と言うやつだと思う。
全然違う。
1. 「牧畜した家畜を『人道的に』屠殺することには問題はないが、それ以外は動物虐待」という分け方は、日本では大きな賛同を到底得られる考え方ではなく、多くの感情的に反発を受ける。
2. むしろどんな形であれ、生物を殺すこと自体が業であり、それの一部なり全部なりだけを理由付けて全面正当化できると思っていること自体がおためごかしだ、という考えが現代日本では主流である。
3. この2.の考え方が、1.のような考え方に比べて劣っているという根拠はどこにもない。文化的背景に起因する生物観の違いなので、「どっちもどっち」とすべきである。
以上。
1は字面的には正しい。ただ西洋にそういう意見がまずない日本固有の発想って含意があるなら、その限りではない。
2は微妙。「全面的」を外しただけでだいぶ変わってくる。現実問題として屠殺や動物実験において苦痛の低減は行われている。もちろん、これを偽善とする意見もあるが、事実問題として苦痛を減らす試みが行われている以上、単純に主流とはいいが高い。「全面的」とおいう形容をつけたことによる詐術じゃない?
もちろん、アニマル・ライツの人に言わせれば、数多の問題点が出て来るだろうけど、君が主張するように西洋と比べて格段に軽視されているということはないと思う。
3は正当化が必要。
だから?そんなの織り込み済みで話してるっていうか俺はそれを否定しているわけでも何でもないんで。藁人形と戦うのは勝手だが俺に勝利宣言するのはやめろと。
これが藁人形だとすると、実際の君は何を言ってるんだ?こっちが「日本はアニマル・ライツが徹底された国だった」と主張しているものとして、それに反論しているの?それこそ藁人形だよ。
意味がわからん。一方が他方に優越するという理由がどこにもないのなら対等だと考えるべき。そもそもこれは「等価」ではなくて「前提が違うから議論にならない」という問題なんだよ。
いや、アニマル・ライツや動物福祉の理論体系は理屈としてはそれなりに一貫しているという立場をこっちは取っているわけだよね?実践的には受け入れていないにせよ、論理ゲームとしては評価している。「業」論者の主張はさっぱり理解できないので評価していない。
そこを批判しているはずなのに、「一方が他方に優越するという理由がどこにもないのなら」なんていわれても困る。
それが俺のことのつもりなのかどうか知らんが、「牧畜した家畜を『人道的に』屠殺することには問題はないが、それ以外は動物虐待」という主張自体に、文化的土壌によらない普遍的な根拠がないことは認めるな?
「文化的土壌」で何を言ってのかわからないし、「」内部がどの範囲の人や主張を指しているかも悩むけど、たとえば、キリスト教(西洋?)の教義から導かれたものとしてる狭義のアニマル・ライツとか、その手の議論を捉えているかと言われるとNOです。
広義で大雑把な欧米の動物愛護的精神を指すのであれば、”西洋”の文化的土壌の一部であるのは論理的に自明でしょう。なぜならそれは西洋の文化の一部だからです。それを指摘することに特段の意味はない。
狭義のアニマル・ライツについては、現代倫理学の議論からでてきたものとして理解していますが、議論によって育まれた理由付けの体系として把握しています。こういった議論の中で出てくる様々な前提を指して「文化的土壌」と言っているのなら、それが普遍的合意を得られるものではないと、私も思います。
道徳的直観ってのは常にそういうものです。絶対の公理なんてない。メタ的立場に立った議論はできるけど、その場合、あなたの主張もそれは適用される。たとえば「”異文化”に口を出すべきではない」の通文化性・自明性はそれほど高くない。もちろん、様々な文化の文献からそういった文章を集めることはできるが、普遍的価値とは言い難い。
そして、普遍的な根拠がないならば、それを拒否する権利があるということも認めるな?
その主張は普遍的(せめて通文化的、もしくは万人が認める道徳議論の前提となる公理)な根拠があるのでしょうか?そうは思えないのですが。ないのならその主張は自己論駁的です。
そうだね。君の主張は現代日本にはない、だったね。
全然違う。
以上。
ただ肉食の低減等は現実に起きたし、牛馬への配慮も一応は行われていたよ。
だから?そんなの織り込み済みで話してるっていうか俺はそれを否定しているわけでも何でもないんで。藁人形と戦うのは勝手だが俺に勝利宣言するのはやめろと。
とりあえず、あなたは、その双方の主張が等価だということを示す必要がある。
意味がわからん。一方が他方に優越するという理由がどこにもないのなら対等だと考えるべき。そもそもこれは「等価」ではなくて「前提が違うから議論にならない」という問題なんだよ。
自慢げに「業」を振りかざして周りを見下し、「馬鹿どもを論破できる!」って高言してる人には、たまに文句をつけることもあるが。
それが俺のことのつもりなのかどうか知らんが、「牧畜した家畜を『人道的に』屠殺することには問題はないが、それ以外は動物虐待」という主張自体に、文化的土壌によらない普遍的な根拠がないことは認めるな?そして、普遍的な根拠がないならば、それを拒否する権利があるということも認めるな?その二点はあんたも認めざるを得ないはずで、そしてそこを認めるのであれば俺はあんたが批判すべき対象ではない。
東洋って大きな括りで出しておいて、現代日本固有って意味で使う人間とまともに会話を成り立たせる自信がない。
そうだね。君の主張は現代日本にはない、だったね。それも事実ではないけど。
むしろそういうものはあるが、生類憐れみの令に見られるようにそういうものは弊害の大きさ故に「定着しなかった」という歴史的事実が何度も繰り返されてあるわけだよ。そしてそれに対する代替の思想がむしろ支配的に定着してきたわけであってだな。
定着してない?たとえば「生類憐みの令」が完全にそのまま続いたかどうか、というなら否だろう。ただ肉食の低減等は現実に起きたし、牛馬への配慮も一応は行われていたよ。
西洋的発想に対抗する形で提示された東洋的発想というからには、ヨーロッパに比べて動物福祉の実践が小さかったことを示さないといけないので、「生類憐みの令などがパーフェクトに定着したわけではない」というのは反証として不十分。
もっとも、東洋で君が行ったように、君が西洋という言葉を極めて操作的に定義しているなら、比較対象は歴史的ヨーロッパ一般ではなくなるけど、そこまで察してくれと言われても、困る。
俺は最初から「横だけど」と言って入ってきているわけであって、あんたが最初にレスした元の人間と同じ発想だと最初から決めつけられても困るわけでね。
横から入ってきたって、それ以前からの議論の文脈を無視されると困る。
というか「人道的な屠殺の方がおぞましい」ってのが君の感じ方(西洋人wを説得できるとは考えてないにせよ)だったはずなのに同意しないんだ。
あのな。「人道的な屠殺の方がおぞましい」っていうのは俺の主観なんだよ。「犬や猫を食うのはおぞましい」というのと同レベルのな。俺は独善的菜食主義者じゃないからそういう考えを普段は口に出さないし、まして人に押しつけようとはしない。しかしあんたは最初からその考え方を
牛や豚相手には単なる自己満足にしか思えない。
ましてそれを大事なこととかいって偉そうにするのはやめて欲しい。
と切り捨てて、一方で独善的菜食主義者の意見は「自己満足でない」かのように「まだ納得できる」と言ったじゃないか。そのダブスタが気にくわない、というより単なるブーメランだと言ってるんだよ。
何がブーメランなのかわからない。
とりあえず、あなたは、その双方の主張が等価だということを示す必要がある。
どっちも等価であるっていうメタな視点を取れば上位に立てるっていう考え方こそ独善でしょ。
「どっちも等価」という”あなた”の主張を擁護しなければならない。
上位から裁定できる超越的な神の座から語ってるつもりだった?
それこそブーメランだよ。
ついでにいうと、実践的には自分も「食べることに感謝してる」人にいちいち文句つけて回らないよ。
自慢げに「業」を振りかざして周りを見下し、「馬鹿どもを論破できる!」って高言してる人には、たまに文句をつけることもあるが。
元増田です。
そんな理由づくで生きてるわけがないです。
いや、ですから。
生まれたから生きている、というのが理由づくと言えますか?
限りなくトートロジーに近いと思うのですが。
「生まれた」っていうのと「生きてる」っていうのは
全然別のものだと思いますよ。
だからその前提を最初に貴方が『死因』だの何だのを挙げて崩したんでしょうが!
それを今から混ぜっ返さないで下さい。
とりあえず哲学的見地からの『表象の発現』を生と見なして下さい。
社会がどうのではありません。
人は皆一人であり、全ては夢です。
思いこんだ世界が全てです。
生まれた事は、生きている理由にはならないよ
→残念ながら、意味不明の発言と言う他ないです。
→では申し上げますが、貴方は本当に、生まれたことが、今、生きている理由にならないとお考えですか?
そんな理由づくで生きてるわけがないです。
生きる理由が無ければ死んじゃう論だと、赤ちゃんは生きられません。
「生まれた」っていうのと「生きてる」っていうのは
全然別のものだと思いますよ。
君が1000年間1人で生きる仙人ならそれでいい。
→こちらも意味不明の発言です。
元増田です。
因果関係があるとするなら「さっきまで生きていたから、今も生きている」と言うことになってしまう。
生きている理由は母から生まれたからだ。(貴方流に言うならば)
生死は等価では無いので、「ならば」には繋がらない。
生と死が等価ではないという理由が不十分。
そもそも生と死の定義が十分でないのだ。
敢えて言うならば、表象(睡眠時のそれを含む)の有る無しとでもしておこうか。
そうすればほら、等価ではないとは言えないでしょう?
ただ、貴方の書いた、生まれてきた理由などない、というのは確かにその通りです。
しかしそれを敢えて言うならば、生きたかった(経験したかった)んだろう、とそういうことです。
「生きることに理由なんてない」ということであっていただろうか。
構わない。理由より先に生がある。
理由なんか無くても人は生まれて、死ぬまで生きるよ。当たり前だろ?
生きることに理由は要らない。と貴方は言った。
生死は等価では無いので、「ならば」には繋がらない。
貴方が最初に言ったところの死の理由は、死因とは別のものだったはずだ。
(中略)
それを言うならば、『生因』も同じように生まれてしまうではないか。
例えば、心臓が動いているからだ、というように。
今、俺の心臓が止まっているのは何故か?と尋ねれば、
さっき止められたからだ、と原因を言えるし、
なぜ止められなければならなかったのか?という理由にも辿りつく。
なぜ止められなければならなかったのか?形而上でも形而下でも理由に辿りつく。
だが、死ぬのに理由が必要なのは死体をこさえる為じゃない。これは前回書いた。
逆に、今、心臓が動いているのは、さっき動いていたからだろうか?
いや、そこには因果関係は無いだろう?
因果関係があるとするなら「さっきまで生きていたから、今も生きている」と言うことになってしまう。
これに理由はあるのか?これは貴方の生きる理由になるのか?
それなら、「生まれた」というだけで生きる理由になるんじゃないか?
つまり、死因は死ぬ理由に紐づいているが、
生因は生きる理由と結びつかない。生因は生きる為の仕組みどまりだ。
君の文章に書いてある事は読んでいるよ、主張も理解しているつもりだ。
ただし、残念ながら、僕にはまるで一かけらも納得できる要素が無い、と感じているだけだ。
『死』に理由が必要だ、なんてこともなくなるんじゃないかな。
発言が矛盾してないかい?
矛盾しないよ。現実として、何の死因も無く死が出来上がることなどあり得ないだろう。
死因が解明できない場合はあるが、死因が無いということは有り得ない。
人間は生きたいから生きてるんじゃない。
生きているから生きている。
物事には慣性が働くんだ。その慣性を止めるには別の力が必要で、
それをここでは便宜上、理由と呼んでいる。
事故かもしれないし諦観かもしれないが、まとめて理由と呼んでいる。
飯を食っているだけのようなものだ
こう解釈されると酷く凹むな。
飯を食うのは生きる為の仕組みの一部であって、「ようなもの」ではない。
どうにも、君の話は、独りよがりすぎる気がする。
だが、人間は1人で生きているわけでも、生きられるわけでもない。
死ぬのに理由が要るのは誰だか、それこそ僕の文を読んでほしいな。
もっとも、本当に人間が1人で生きていけるようになったら、
生きているのも死んでいるのも全く等価だ。
1人しかいない人間が死んでしまうと言う事は
1人も生きていないのと同じだ。
ポイントは溜まりましたか?溜まりましたよね?
20万円の名詞セットとか70万円の切手シートなんてしたり顔のクソッタレ野郎どものジョークも聞かれたもんだが
あくまでVISAカードだから通常の景品も貰えるわけだ。じゃあ、同じポイントで他に何がもらえるか?ここで一部紹介してみよう。
200ポイントを1000円として好きな団体に寄付できる、ということになってる。
カルマを落としたい時にでもどうぞ。ガルシスに逢えなくて困ってる貴兄に。
http://www.haagen-dazs.co.jp/customer/faq/gift.html#faq01
好きなハーゲンダッツミニカップ2個と交換できるぞ、名刺じゃ腹は膨れねーよ!というアナタにマジオススメ。
http://shop.kodansha.jp/bc/hanshin/
分冊百科の創刊号だけプレゼント。300冊限定とかケチくさいこと書いてあるがなんともないぜ。
おれははらみーと阪神を応援するぞ!という人にもオススメかと。
キャッシュバックすると2100円。
L4Uアイドラオフスケッチの、どんな映画を見せても眠る美希の話を思い出しながら映画館にでも行けばいいって思うな。
http://www.toyo-rice.jp/product/
アイマスVISAで貯めたポイントで米貰っておにぎり作ると言う高度な遊びにどうぞ。期限は大晦日までだけど。
なんか売り上げの一部が寄付されるとかいうが、んなこた気にせず、とりあえず緑茶でも入れて街中とか公園で一人飲んでりゃいいと思うよ。これも年末までだけど。
Aさんが享受すべき人権はBさんも享受すべきであると。
有する属性によって、刑罰その他社会的措置が変わってはいけないはず。
親がいる子供は愛されているから権利を有する、
私生児は親に愛されていないから権利を持たない、こんなのあっちゃいけないだろ。
これは近代国家成立の基本要件じゃないか?
それとも何か、福沢諭吉も言っていたが、
「生まれおちた瞬間は平等でも、その後の努力の量で価値が変わってくる」というのが真相なのだろうか。
それならそう憲法に書けばいいのに。
ネット上の、議論めいたものをROMしてるとたまに出くわす表現に、
「それもまた個人の自由だ」というのがある。
例えばAが「スカートはいた男なんてみっともないぜw」と言ったとする。
Bがそれに対し「スカートをはくもはかないも個人の自由だろ」と言う。するとAが
「そうだぜ、個人の自由だ。だから俺がスカートはいた男をみっともないって思うのも個人の自由だ!だからいいだろ」
というのがある。
でもなんかひっかかるのだ。なんかおかしい気がする。自由って、そうやってなんでもかんでも完全に相対化させて「ぜーんぶ等価値に自由」って言うことなのか?なんかおかしい気がするが、うまく表現ができない。
それを突き詰めると「人殺しも自由」ってことにならないか?と思ったが、それに関しては「それは法で禁じられてるから」で返せる気がする。(実際にそう返されたわけじゃないから、わからんが)
みっともない、くらいだったらば確かに捕まりはしない。罵倒ではあるが。
差別的だ、というのは通るか?
うーん。なんか、違わないか、と思うが、分からん。
こういうことについて書かれた本とかってないか?教えて増田!
http://anond.hatelabo.jp/20090911005650
個人の主義主張が書かれている随筆文に対して、論理的に納得できないかのような文章を書くのは、間が抜けているのではないか。
「感情的に理解できない」を「論理的に理解できない」かのように記述するのは欺瞞もいいところだ。
というわけで、わかり易いように国語の問題風にした。
id:nakamurabashi が、下記のような考えに至った理由について、彼自身の経験を踏まえて簡潔に書きなさい。
なぜかといえば、たった一人のたいせつな女性がいれば生涯を生き抜くことは難しくないのに対し、二次だけでは、人は生きていくことがかなり難しい。
id:nakamurabashi は、かつて「死にたくてたまらない人」であり、生きながらえるために《フィクション》にすがり、《フィクション》を専一に求める生活をしていたが、結局のところ、自分自身を生きながらえさせていたのは《フィクション》ではない《現実》の人間関係や勤労義務であるという事実に気が付いたから。
とは、具体的には、どのようにすることか。id:nakamurabashi の文章から該当部分を抜き出し、文末を「~すること」に変えて答えよ。
理屈としてはあたりまえの話で、フィクションのキャラクターを価値のあるものとするならば、現実に存在するものはすべて価値がないものになるからだ。そしてすべてが価値のない世界では、自分もまた無価値なものになる。
とは、どのようなことか。「価値」「無価値」の意味を補った上で説明せよ。
《フィクション》を《現実》と等価のものにする以上、同様に《現実》も全て《フィクション》と等価となり、《現実》と《フィクション》の区別がなくなる。そのような前提を実現するためには《現実》が《フィクション》に対して持っていた実在性や社会性といった価値を否定、ないし、無視せざるを得ない。その結果、自分自身が持っていた実在性や社会性といった価値も同様に無いものにされてしまうということ。
ここまで書くと、増田自身の使うロジックが、それこそ id:nakamurabashi が、かつて使ったロジックであることがわかると思う。彼はそのロジックで失敗した。
現実なんていうけども、この世自体、逆に言えば虚構みたいなものじゃないかな。どうせこの人生も一瞬しかないんだよね。しかも、特に何の意味もないわけで。そうすると、世間とか社会というものの方が、時に、寧ろ虚構のようにもみえる。
これは、Q3.で引用した文章の焼き直しに過ぎない。自分で同じことをいっているのに、理解できないと言ってしまうぐらい、周りが見えなくなっている。
三界狂人不知狂
四生盲者不識盲
生生生生暗生始
死死死死冥死終
トロッコ問題だなあ。それぞれの選択肢を検討してみようか。
まず、助かる人数の側面から。
いずれの選択でも0~1だが、助かる可能性を乗算すると 妻<近くの人<自分 となる。よって「何もしない」が正解。
ついで罪・義務の側面から。
何もしない→2人を見殺しにした罪
近くの人→妻を見殺しにした罪
妻→近くの人を見殺しにした罪
トロッコ問題wikiによれば「行動による害は行動しなかったことによる危害よりも、非道徳的だと判断される」という主張があるそうだ。
また「意図を持ってとった行動は、意図を持たずにとった行動よりも非道徳的だと判断される」というのもある。
この2項が等価だとすれば
何もしない→「行動しない」+「意図あり」
妻見殺し、近くの人見殺し→「行動する」+「意図なし」
これらもまた等価であることになる。
以上の2面を総合すると「何もしない」という結論が出る。
理屈はこねられるけど、やっぱりすっきりしないな。
今日は午後から雨が降るらしい。
私の考え方では、世界は大きい世界だけで、自分たちの存在はあくまで世界の一部と言う捉え方。
世界の捉え方に多様性があるのを許容するのも、私が抱く多重世界観なのですよ。
だから、当たり前だけれど、あなたの考え方を否定するつもりはないし、そもそもそんなことは私にはできない。
ただ、おそらく私は、「意識」とか「命」と呼ばれれいるものと「世界」そのものを、言葉が違うだけで等価値で見ているんだと思う。
認める/認めないという話って一文からの件が個人的に難解なのだけれど、私の捉え方でいけば、「意識は世界に対して開く」。あるいは「常に開いている」
それは個人個人の「小さな世界」に対してもそうだし、共有している「大きな世界」に関してもそうだ。
私という世界が行動を起こすことは、立脚する足場はもちろんのこと、隣接する周りの人々にも影響を及ぼすことだから。
うーん。ここまでの流れの中で、私にはあなたとの差異が上手に見出せていないから、少し歯切れが悪くなってしまうな。難しい。
どうなんだろう。でも、鳴ることとか震えることって、要はある対象が幅を持って移動することを差している訳じゃない。
緩やかにたゆたう波を具象として考えるのは、もしかしたら一番イメージしやすいのかもしれないね。
それぞれの人がそれぞれの波形を持っていて、たぶん分かり合えるってことは、一部だけでも同じ波形が生まれることなんだろう。
あと、共鳴したりするのは人同士だけじゃないとも思ってる。
そうだね。存在というものは少なからず、何かしらの波形を有しているもの。
人は言葉のない音楽に感動するし、物言わぬ芸術に胸を打たれてしまう。
大自然の中ではその偉大さに平伏するような気分になるし、人工物に囲まれて無機質な気分になることもある。
アニミズム的精神になるのかもしれないけれどさ、やっぱり土地や物体が存在することからも人は影響を受けるし、物体同士でも互いに影響しあっているんじゃないのかな。
コンビニでマテリアルガールがかかっててふと思ったんだけど(-ガール、というsuffixがつくからといって中田ヤスタカの未発表曲じゃありません)マドンナのパパ・ドント・プリーチのときの教皇ってあのポーランドの人でよかったんだっけ。
別にことさらドミニコ会=説教者修道会に対するあてこすりの意図はないよな。全体としてカトリック信仰に喧嘩を売る意図はあまりに明瞭だけれど。しかしまあドミニコ会士の現代における等価物は人権団体とか環境団体のロビイストだろうな。同性愛者に権利を、とか無神論的自由主義、不可知論を標榜しながら、彼らのやってることは「キリスト教徒にふさわしい精神」の押し売りの現代版だ。そしてそれにすばやくすりよる金貸しども。カーボンエミッションの売買は現代の贖宥状そのものだ。マモンのかわりにガイアとか人権、健康とかを偶像崇拝するというのがこの「新しい中世」の堕落した教義らしいよ。そのうちタバコを吸ってると公共に対する毒ガス攻撃として異端審問にかけられる世の中にマジなりそう。タバコを吸うという愚行がいかに自然法の観点から正当化しがたいか、スコラ的に論証できるようになっとくと就職口に困らない、まっくらな未来が来るかも。下々はカルミナブラーナでも聴いてその日暮らしの楽しみを謳歌するすべを学んでおきましょう。(児ポがらみの論点はあえてスルーしますがもちろん関係ありありです)
覚醒しているときもどよんとしていて、自分の身体を認識できず、
寝ているときだけ思考のない無の世界に沈み込むようだった。
起きていても思考が正常に働かず、時間概念が狂い、朝と昼と夜はすべて等価だった。
とりあえず、ご飯を食べて排泄をして、あとは横になある。
意識は覚醒と半覚醒を繰り返していて、明確な覚醒状態を認識したのは
しばらくたってからだったと思う。
ただ、覚醒状態で出てくる思考は全部ネガだったから、
半覚醒でまどろんでいるときが一番ラクだったかな。
横になってたけど、寝てない。
完全に正常じゃなかった時の話。起きてても頭おかしいからどうせ動けないんだよね。
最初に書いておくと、私はWindowsを使ってこの文章を書いているし、ソニーのWALKMANを毎日携帯している。
しかし、XBOXには全く魅力を感じないし、PS2は持っているが、PS3もPSPも買う気が無い。
が、2009/6/19から始まったニンテンドーゾーン(とマックでDS)は余りにひどかったので、敢えてここにその酷さを書く。
ニンテンドーゾーンの公式サイトでは、以下の様に説明されている。
http://www.nintendo.co.jp/ds/nintendozone/
『ニンテンドーゾーン』は、ニンテンドーDSのワイヤレス通信の機能を利用したサービスです。全国のマクドナルド※や、つくばエクスプレス※の駅で、ニンテンドーDSシリーズ本体をお持ちいただければ、どなたでも無料でご利用いただけます。実施しているエリアではオリジナルコンテンツや、DSソフトの体験版をダウンロードして遊んだり、ニンテンドーWi-Fiコネクションに接続して遠く離れた友だちとゲームを対戦するなど、さまざまなサービスをご利用いただけます。
DSi発売と同時に開始する、とされていながら、ようやく始まったサービスだ。
しかし、サービス内容以前の問題として、その仕様設計が余りにひどい。
なお、以下の記述は全てDSiで試した話であり、DSiについてのみ記載する。
ニンテンドーゾーンはDSでも提供されているサービスだが、DSでは動作が異なる部分もあり、私は試していないので言及しない。
ニンテンドーゾーンを利用する為には、専用のソフトウェア「ニンテンドーゾン」が必要になる。
(以下、サービスエリアとしてのニンテンドーゾーンを「ゾーン」、ソフトウェアとしてのニンテンドーゾーンを「ソフト」と書き分ける)
このソフトについて、公式サイトでは以下の様に記載されている。
http://www.nintendo.co.jp/ds/nintendozone/howto_dsi.html
1.本体の電源をONにして、「ニンテンドーゾーン」をタッチ。
※「ニンテンドーゾーン」のアイコンは初めてニンテンドーDSiを「ニンテンドーゾーン」のサービスが行われている場所使用したときから表示されるようになります。一度表示されたアイコンは消えません。
※「ニンテンドーゾーン」のサービスが行われている場所ではアイコンが点滅してお知らせします。
まず重要なのはここだ。
※「ニンテンドーゾーン」のアイコンは初めてニンテンドーDSiを「ニンテンドーゾーン」のサービスが行われている場所使用したときから表示されるようになります。
つまり、このソフトはゾーンに入った時点で、個人のDSiに勝手にインストールされる。
正確には、DSiの電源が入った状態でDSiメニュー(DSiの基本画面)を表示すると、自動的にインストールされる。
私のDSiにソフトがインストールされた際は、5秒程度でインストールが終了した。
DSiメニューを表示したままDSiを持ち歩いている人は少ないと思われるが、例えば、つくばエクスプレスの駅でゲームのメディアを入れ替えている時にDSiメニューを表示したままにしていたりすると、その時点でインストールされる。
気付かないうちにインストールされていた、と言う人も出てくるだろう。
これは任天堂にとって、DSiと言うハードウェアを運営していく上で致命的な失敗だと、私は思う。
何故ならば、任天堂は「DSiと言うハードは、勝手にソフトがインストールされる事があります。知らない間にDSiウェアがインストールされていたとしても何ら問題ありません」と言う事にしてしまったのだ。
本体の更新について
「ニンテンドーゾーン」の利用に本体の更新が必要な場合は左の画面が表示されます。画面の指示に従って本体の更新を行ってください。
つまり「DSiと言うハードは、勝手にソフトがインストールされる事があります。知らない間にDSiウェアがインストールされていたとしても何ら問題ありません。突然、本体を更新しろと言うメッセージが表示されても正しい動作なので更新して下さい。」と言うことだ。
当然、自動インストール可能なソフトは特別な認証が用いられ、悪意の第3者が同じ事をしようとしても出来ない様に保護されているのだろうが、そんな事は問題ではない。
ソフトウェアをインストールする際にはユーザの認証を得る、と言う従来のハードウェアで当然とされてきたステップをニンテンドーDSiは破棄してしまった。
「ソフトウェアをインストールする際にユーザの認証は要らない」と言う認識が一般化されてしまったら、どうなるか。
私は街を歩いているだけで勝手に携帯にソフトウェアがインストールされまくる様な世界はお断りだ。
DSiにソフトがインストールされるとDSiメニューにソフトのアイコンが表示される。
このアイコンはゾーンに入ると点滅して、ユーザにゾーンに入った事を通知する。
それ自体は親切な事かも知れない。が、この時、DSiからゾーンのサーバに対してはどの様な情報が通知されているのか?
個体識別情報は送られていないのだろうか?
ゾーンのサービスを利用するユーザが、そのゾーンで個体識別されるのは仕方が無い。
しかし、そのゾーンの利用などする気が無いユーザでも、勝手に個体識別されるとしたら問題だ。
しかも、前述した通り、このソフトは勝手にインストールされるのだ。
こんな事を望んでいるユーザがいるだろうか?
ちなみに、「本体設定」の「無線通信」設定時の説明は「無線通信を使う場合はON、使わない場合はOFFをタッチしてください」だけだ。
本体の設定画面を設計した人間も、まさかこんな使い方をするソフトが(他ならぬ任天堂自身から)出てくるとは考えなかったのだろう。
まず「マックでDS」はニンテンドーゾンを用いてマクドナルドが提供するwebサービスであり、アクセス時にも「ここから先はマクドナルドの責任で管理・運営されている」旨が表示される。
また、「マックでDS」の公式サイトは http://www.mcdonalds.co.jp/ds/ だが、以下に記載する事項に関して、公式サイトには一切説明がない(2009/06/22 21:50時点で)
マックでDSにアクセスすると最初に「なまえ」と「せいねんがっぴ」「せいべつ」を入力する様に求められる。
DSiのメインユーザである低年齢を配慮しているのか、全てひらがなで記載されており、「本名を書かない様に」と言う注意書きがある。
しかし、一方で「ここで入力した情報はマクドナルドのホームページで公開される事がある」との記述もある。
実際、「マックでDS」の公式サイトのコンテンツである「乱戦! ポケモンスクランブル コレクションラリー」には「スーパーコレクター全国ランキング」と言うコーナーがあり、そこでは地域ごとにランキング上位の「なまえ」が表示されている。
表示されている名前はぱっと見て明らかに本名ではないものが大多数で、一部に本名と思われるものもあるが、まず実害のない範疇だろう。
問題なのは、これらの情報の入力時に、その管理方法に関して何の説明もなされていない事だ(2009/06/20時点)。
プライバシーポリーシーの表示もない。第3者への開示に関する記載もない。
「マックでDS」のサービスを利用する為には、これらの情報の入力が必須となっており、ブランクのままで先に進もうとすると、入力を促す画面が表示され先に進めない。
先に進めないどころか、キャンセルして元の画面に戻る事すら出来ず、情報を入力したくなければDSiの電源を切るしかない。
「なまえ」や「せいねんがっぴ」「せいべつ」などの個人情報を収集し、かつ、その利用目的、利用範囲も示さないと言う運用は、個人的には酷いものだと思う。
しかし、恐らく個人情報保護法上は問題にならない。
名前(本名)を取得していない為、個人情報として扱われないからだ。
実態としてはDSiのハード情報で個体識別しており、個体情報と紐付けられた「せいねんがっぴ」や「せいべつ」は、本名と紐付けられた個人情報と等価であろう。
個人情報保護法が如何にザル法かと言う事だが、現状、個人情報保護法以外にこの手の情報管理に関する法律はないので、法律上は問題ない事にケチをつけている事は重々承知している。
今後、マクドナルド以外にニンテンドーゾーンでサービスを提供する会社が増えた際、それらの会社はマクドナルドと同様に個々のサイト上で様々な情報を入手するだろう。
更に、個々の会社が集めた情報を統合して相互利用する事も可能だ(なにしろ運用範囲を規定せずに入手しているのだからやりたい放題だ)。
DSiの個体に対して広告を配信する事も可能だ(あくまでDSi個体であって、個人かどうかは関知しないというお題目の上で)。
ニンテンドーゾーンと言うサービスはこれでよかったのだろうか?
確かに「マックでDS」は任天堂ではなく、マクドナルドが管理運営するサービスだ。
しかし、ニンテンドーゾーンのサービス開始同時に提供されるサービスについて、任天堂の監修が入っていない等と言う事は有り得ない。
実際、「マックでDS」において任天堂のコンテンツである「乱戦! ポケモンスクランブル」のアイテムが配布されている。
両社はニンテンドーゾーンの開始に当たって相当に深い協力関係にあっただろう。
その結果が、これだ。
私は任天堂はこの手のサービスに関して極めて慎重な会社だと思っていた。
保守的に過ぎると思う部分もあったが、そこもまた好ましいと思っていた。
それだけに、ニンテンドーゾーンのこの体たらくにはがっかりだ。本当に残念だ。
ニンテンドーゾーン周りのものに関しては、余りにユーザに対して不透明で、不躾で、プライバシーに土足で踏み込む様なものが多過ぎる。
ソフトのインストール方法もそうだし、マックでDSのプライバシーポリシーもそうだ。
何故、こんな事になってしまったのか。
ニンテンドーゾーンのソフトには「手書きメモ」や「写真メモ」「画面メモ」などの機能があるが、これらについて、どこを見ても何の説明もされていない。
今までの任天堂のサービスであれば、これらを使ったからといって何か不都合が有り得ると言う不安を感じたりはしなかったが、ニンテンドーゾーンに関しては駄目だ。
メモ内容が勝手にサーバーに送られたりはしないだろうが、はっきり言って全く信用できない。
本当に任天堂には裏切られた、としか思えない。
残念としか言い様が無い。
今更書いても、見てるか分からないけど。
元記事さんすみません。
カッとなってついやってしまった。今では後悔している。
そういう記事なのに、冷静に返して下さってて完全にorz状態です。
自分で
しかも、一生を添い遂げて幸せにするってw昭和かよw女の幸せは男様に与えて戴かないといけないものだったんですねw
そーゆー女の子は未だに散見されますけど(この話の相手の女もその可能性はありそう、かな)、
と書いたわけで、結論は、
逆上した人間の恐ろしさを知らないだけ。素晴らしい人格だなと思っていたり、信頼していた人が、ひょんなきっかけで裏切るとかいう修羅場に遭遇したことないでしょ? このような非常事態では最悪のケースを想定して動かなければならない。
となるべき。(ちなみに、ご推察の通り、修羅場には縁のない運のいい人間です。まあ、ブサな運の悪い人間、とも言えるけど。)
で、その方法も、「自分とパートナーのみ」で考えるなら、「適度に距離を置きながら友好な関係を保つこと」はもちろんいいし、その辺が苦手で「冷たくする」になってしまっても、問題ない。
人はいっぱいいるわけで、振る相手のことは、置いとくというのは効率的だし、振る相手のことまで考えろ、というのは贅沢。
・・・なので、全然問題ない、んだけど。振られる側としては(というか、私なら?)、好きなものを好きと言いたいので、その言葉を聞いた(受けた)上で、無理といって欲しいんだよなあ。
↑本当にすみません。この贅沢を書けばいいだけなのに、グチグチ絡んで感情ぶちまけてすみませんでした。
この辺とかもう・・・orz
ここまで書いて、ひっくり返したくはないんですけど。
男女関係に限定した幸せの話を、幸せ全般に拡大解釈している。男女関係・夫婦関係に限定すれば、「一生そばにいて浮気もせずに癒しと幸せを与える(与え合う)ことが最良」というのは、さほど間違った解釈ではないと思うが? 結婚したが浮気し放題され放題の方が(男女関係・夫婦関係において)幸せということか? 貴方は子供を作らないほうがよいね。
ここはちょっと(私は)、嫌かなあ。うまく言葉に出来そうにないけど。ついでに的も射てないかも。
なんというか、イメージ的に「おまえが幸せなら俺はそれでいい」「あなたが幸せなら私はそれでいい」という感じなんだけど(注:ここ憶測です違ってたらごめんなさい。というか以下の駄文が全部無駄になるよ)、これちょっと違和感がある。
実際は「女の子の幸せそうな顔を見ると俺がうれしいからいい」「男の子の幸せそうな顔を見ると私がうれしいからいい」だと思う。性欲に引きずられまくり。
でも、初めはこれでも、時間が経つと、「おばさんの幸せそうな顔を見ても俺は大してうれしくない。けど、相手を幸せにすべき。」「おじさんが幸せそうな顔を見ても私は大してうれしくない。でも相手を幸せにすべき。」となる。(もちろんならない場合もある。)で、この「べき」にしばられて幸せなのかなーと。特に片方だけが「べき」に移行したらバランスとれないし。
幸せって、本人の感情だから、相手から流し込むことは出来ない。本人の中から湧いてくるものだと思う。
初めの状態は相手に幸せを流し込んで、それの一部が帰ってきているみたいに見えるけど、そうじゃない。本人が本人の幸せの湧く行動をとって、それが偶然相手にとって「好物が歩いてくる状況」で、幸せが相手の中でも湧いてきただけ。
後のになると、本人の幸せの湧かない、したくもない行動をわざわざとって、相手をつつく状態。うまくいけば相手に幸せが湧いて来ます。これ、お互いにつつくのがうまければ、まあうまくいくけど、片方がヘタorやるきないorがんばっても無理だと悲惨。「誰のために働いてると思ってるんだ」とか「今までずっと耐えてきました。もう我慢できません・え?お、俺の何が悪かったんだ・・・?」とか「やりたいけど、妻ではその気にならない。(ムラムライライラ」とか。こういう状態は私にはすごく怖い。(見る目無くて、KYで高望みできるスペックでもないから。)
男女とか夫婦といっても、二人の人間だし、「すごく親密な友人」という関係だと思う。男女関係・夫婦関係を特別視しなくても。
趣味とかで自分と合う内は親密だけど、人間、月日で変化するものだから、合わなくなる友人はいるし、その友人とは距離を離すのは普通では。
でもまあ、何かの思い入れとか情とかがあって、趣味は合わなくても関係はなかったことにはならないし、腐れ縁とかで続いたりする。
うーん。なんかまた感情をぶちまけてるだけの気が。的を射るの難しい。まあ、今度はやばいオーラはあんまでてない、はず。
そもそもパートナーがいると知っているのに告白してくるヤツこそ、それまで築いてきた友人関係・信頼関係を破壊する不誠実な輩であり、「人と見ても仲良くする気が失せる」けどな。「私を選ぶか、今の彼女を選ぶか、どちらかを選べ」と相手に突きつけているようなものでしょ。
というか貴方は例えば男性に告白されて断ったとして、その相手と「そうですか」といって元の関係に簡単に戻れるの? その逆は? どちらの立場にせよ、出来ない人も多いと思うけどねえ。俺は出来ない。告白された側だとすれば「これ以上好きになられたらまずい」と無駄に意識してしまうし、表面上友好関係は築けても常に緊張しているというか、心は許せない。告白した側だと今度は相手の幸せな姿を見るのが辛い。狭量かもしれんが、そういう人は多いだろう。まあこの辺は価値観の違いなんだろうけど。
別に「私を選ぶか、今の彼女を選ぶか、どちらかを選べ」と相手に突きつけるのはいいのでは。他の増田の流れみたくゆすりだしたらあれだけど。
結局どうするかは元増田が選べるんだし。断れば別に崩れないんでは?(でも告白側は勝率低いですよね、これ。世間体的に。)
私は元の関係に戻りたいですね。相手のほうが気まずくなって戻れないでしょうが。あー、確かに告白される側にはメリット欠片もないな、これ。
告白側としては「私の好きという気持ち」と「相手の特に好きでもないという気持ち」は等価で、しかも嫌いになろうと思って嫌いになれるものでもないし、好きになろうと思って好きになれるものでもないので、どっちが云々という話ではないと思うんだけどなー。仕方ない、縁がなかった、運がなかった、で、これ以上出来ることはない。次行こう。
逆でも、相手には普通に接したいところ。何回告白されようが断ればいいですし。経験無いですけど。(この辺の思考は我ながら無防備。確かに修羅場経験無いな、私)