はてなキーワード: 風土とは
「宮崎県はどこにあるか」ということ自体を暗記するのは、たしかに意味がないし、馬鹿げている。
だけど、自分が住んでいる場所とは気候風土も歴史も産業構造も異なる土地があり、でもそこで日々の暮らしを営んでいる人々がいるということを知ることは、大人になるためにとても大切なことだ。で、「日本の地図を示されて、最近これだけ話題に上っている宮崎県がどこにあるかすら指示できない」ということは、結局、自分の国の同胞の暮らしのありようについてすら、ちゃんと関心をもっていないことを疑わせる指標になっているわけ。
たとえば、俺は別の似たような記事でケニアの場所を世界地図できちんと示せないなと気が付いたんだけど(西アフリカでもないし南アフリカでもない、くらいにしかわからん)、それで「ああ、俺、ケニアのこと、というよりアフリカのことは良く知らないし、関心ももっていないんだなあ」ということも改めて自覚させられたよ。
これを全部読んでいない人間は「猿」です。
ちなみに猿に人権はありません。ネットで表現をする権利も自由もありません。よく覚えておくように。
レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記』岩波文庫
ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫
ヴァレリー『精神の危機』
ハイデッガー『存在と時間』ちくま文庫, 岩波文庫, 中公クラシックス
ベンヤミン『複製技術時代における芸術作品』複製技術時代の芸術, 晶文社クラシックス
ウィトゲンシュタイン『哲学探求』大修館書店
デリダ『グラマトロジーいについて』
ベイトソン『精神と自然』新思策社
海外文学
『唐詩選』岩波文庫
シェイクスピア『ハムレット』角川文庫、新潮文庫、岩波文庫、ちくま文庫
ゴーゴル『外套』
ポー『盗まれた手紙』
エミリー・ブロンテ『嵐が丘』
フローベール『ボヴァリー夫人』
ドストエフスキー『悪霊』
カフカ『審判』
魯迅『阿Q正伝』
トーマス・マン『魔の山』
ザミャーミン『われら』
ムージル『特性のない男』
セリーヌ『夜の果ての旅』
フォークナー『アブサロム、アブサロム!』
ゴンブローヴィッチ『フェルディドゥルケ』
サルトル『嘔吐』
ジュネ『泥棒日記』
ロブ=グリエ『嫉妬』
レム『ソラリスの陽のもとに』
エリオット『荒地』
二葉亭四迷『浮雲』
樋口一葉『にごりえ』
島崎藤村『破戒』
田山花袋『蒲団』
有島武郎『或る女』
内田百〓『冥途・旅順入城式』
江戸川乱歩『押絵と旅する男』
谷崎潤一郎『春琴抄』
大岡昇平『俘虜記』
埴谷雄高『死霊』
安部公房『砂の女』
野坂昭如『エロ事師たち』
島尾敏雄『死の棘』
古井由吉『円陣を組む女たち』
後藤明生『挟み撃ち』
円地文子『食卓のない家』
中上健次『枯木灘』
斎藤茂吉『赤光』
萩原朔太郎『月に吠える』
北村透谷『人生に相渉るとは何の謂ぞ』
正岡子規『歌よみに与ふる書』
石川啄木『時代閉塞の現状』
小林秀雄『様々なる意匠』
花田清輝『復興期の精神』
江藤淳『成熟と喪失』
by 柄谷行人、他
追記
ネットにはほとんど「猿」しかいないんじゃないかと思うことも多いので、是非、脱「猿」してみて下さい。2chは「猿」の巣窟でもかまわないのですが、はてなが「猿」の巣窟であってはインフラ、リソースの損失だと思っています。実のありげな議論が起こっているなと思いきや、はてな「猿」が集団でやってきて議論を潰しているケースがほとんどなので。
本邦の風土病か
でも、責任者が最後まで残るのって結構当たり前の話じゃね?
責任者に先に帰ってもらわなきゃ帰れないってのはそれはそれで病理的
http://anond.hatelabo.jp/20071229004611
最低でもその部分は本質ではない。
幼少期から思春期にかけていじめられ続けたとか親から虐待され続けていた奴が非モテの中の比率の大半を占めてると思う。
で、いじめの場合だといじめた側はトットと彼氏彼女作ったりとっかえひっかえやって世の中うまく渡ってる。
自分たちは彼らにいじめられてぐちゃぐちゃにされたのから立ち直れなくなってる間にぐちゃぐちゃにした側はいい思いばかりしている。
世間から置き去りにされてる自分らはなんなんだ?!
いじめにしても虐待にしても、そういうルサンチマンを持ってしまった所から這い上がるのには、日本は要求される自己責任が厳しすぎる。
今でも「いじめられるのはいじめられた側が全部悪い」って暴論が世間でまかり通ってるような土地柄だから仕方ないけど。
最近やっと公には言われなくなったけど、実際には「虐待を受けた子供は虐待されるだけの因業を背負っている」って本気で思ってる人がまだまだいるし、虐待された側もそういうのを運命みたくとらえて、その泥沼にはまったら簡単に這い上がれないでいる。
>の話しを聞いてると、気持ちの中に「相手の人格」ってのが、
>全くないんですよね。
当たり前だ。
人を思いやることの初めの一歩を歩むべき時に、他人に自分の人格を踏みにじられてきたんだから。
イカれちまった自分をなんとか支える事で一杯一杯なんだよ。
>「自分はいかに相手に対して思いが強いか」とか
>「自分はいかに相手を思っているか」
>は強いわけだし、一瞬聞こえはいいんだけど
>そこから発展して
>「自分はこんだけ思いが強いのに相手はそうでもなかった」だとか
>「自分はこんだけ思ってたのに相手に裏切られた」だとか
>なんかもう、考え方が自分中心な
>上滑りのいい言葉を出してるだけなんですよ。
今の日本人ってそこにしかアイデンティティを持てない人が大半じゃないですか。
特に人の上に立ってる人がそういう考えで自分の考えが絶対的な正義だと叫んでいるのが大半の組織だし、大きな会社や自治体のトップがそういう発言や行為をして、その尻拭いで下がどんだけ迷惑してもその事は大半は知られずに、エラい人がいいこと言った・やったとマスコミが褒め切ってる。
そんな風土で育った奴が、「人を思いやる」なんて簡単にできるのか?
泥沼に堕ちつづけた所からやっと這い上がろうとし始めた自分から見てると、非モテとリア充は、実は紙一重の所にあると思う。
非モテの立場から見ればリア充は大多数の非モテの心を踏みにじって弄んでる存在に見えるけど、リア充の人見ていて思うのは、青年期かそれ以前に心が徹底的に壊されたかどうか以外は非モテとそんなに変わりがない感じがしてる。
リア充の大半は、今の日本の状況と自分とのギャップやギャップからの苦しみを認知出来ないから、非モテの事がわからない。
非モテは、今の日本の状況と自分とのギャップがとてつもなく大きく感じられて、リア充が「なんであんなに楽しそうにやってる」のか自体が理解できない。
今思うのは、誰が不幸で誰が幸せかなんてわかりゃしない。って事。
自分自身は相手がつきやすいつきにくいあたりを基準にカテゴリ分けすれば明らかに非モテなんだけど、今まで書いたような非モテの泥沼から這い上がり始めたら、次にどうすればいいのか全くわからない。
人とどういう風に接すればいいのかわからない。自信が持てない。
で、多分、それは人付き合いを学ぶべき時期にいじめとか家庭の不和とかで一人で生きていかないといけないと追い込まれて人を見ることが出来なくて、人を見ることが出きることを過度に理想化してしまったツケなんだろうな…とか思って足掻いてる。
引き継ぎもあらかた終わり、普段と同じように仕事のない時間が続く。
外資系にもいろいろあるんだろうけど、これくらい楽で環境の良い職場は初めてだったし、たぶん、もうないんじゃないかな、と思ってる。何か別の、今とは根本的に違う状況にならない限り。つまり雇われる側から雇う側になったりしない限り。
山手線のとある駅から五分程度の好立地(でもあまり開発されていない駅だけど)、約二畳半の広さで俺の背丈くらいの仕切りがあるブース、PCはIntelMac一台、Dellノート一台、Dellデスクトップ一台。シスコのIP電話が一人一台支給。椅子はハーマンミラー製。腰の悪いおれにも心地よかった。クーラーも完備、自販機はあるけどもちろんただ、水もなんか上の方にタンクが付いているやつが置いてあって、おいしいのがいつでも飲める。もちろん当然私服。おれはひげもじゃだしね。
ミーティングルームにはビデオカンファレンス用の設備が備わっていて、ライトアップを何種類か選べ、音楽も流せてすごく心地よかった。クォータに一度は当然会社持ちでケータリング取って、ビールやワインやシャンパンを飲んだり、ホテルを借りてパーティしたり、なども楽しかったな。
正月は半月近い連休、GWも10連休は当たり前、夏休みも当然それくらい、と休みも充実してた。
おれは派遣だったから完全フレックスの恩恵にはあずかれず、その意味では正社員と同程度に満喫したわけではない。正社員は四年に一度、三週間のサバティカルリーブがあったし。有給とかもかなりたくさんもらえてたみたいだし。何よりストックオプション関連が充実していて、高給取りだった。つまりおれは経済面ではそれほど潤ったわけではなかった。
けど、毎日二時間近く昼休みを取っても何も言われず、自分の仕事は自分だけのペースでできる(もちろん報告とかはするけど、普通にやってれば文句は言われない)。誰とも話さなくてもいいし、周りの視線も全く気にならない。エロサイト見てても(みないけど)、ついったしてても、たんぶらしてても。
一番よかったのは、繰り返しになるけど、周りからの縛りがないこと。一人一人にプロジェクトが与えられてそれを遂行する、という形態だったこと。誰かと一緒に、というのはなかった。勿論一つのプロジェクトを分割してやる、というのはあったけど。
それに、大半は日本人だったから、日本人らしさは至る所で出ていた。人事的なことも陰で決まっていたようだし。だけど、それでも今まで働いてきた企業とは風土が全く違った。規模に比して人の数がかなり少ない印象だった。やはりそれは一人一人に仕事がはっきりあって、責任を負わされているというところからくるのだと思う。
で、外資だけに、首を切られるさまも何度も見た。というか、おれ自身、ポジションクローズで辞めるわけだ。つまりおれのやってる仕事自体がなくなるってわけで、後任もいない。でも、実際のところ、おれが上でもそうする。俺は超暇だったからw その意味で恨みつらみはない。判断が遅いって思うくらいで。
http://anond.hatelabo.jp/20070821000854
博士が就職難で、その理由はコミュニケーション能力や協調性欠如などと新聞に踊っているが、
新聞はなんで根拠も無しにあんなことを書いているんだろうか?
完全に名誉毀損だろう。
博士の就職が難しい理由なんて、普通の会社で3年過ごせばすぐわかることだろうに。
終身雇用前提だから、社員は一生その会社で人生を過ごすことを想定して仕事してる。
年功序列だから、上司は無能が多いし、無能でも給料はおおよそ平等に貰える。
天下りみたいなのも普通にあって、幽霊老人社員とかいるわけよ。
そんなんでも会社は余裕でまわる。
(あんまりぬるま湯につかり過ぎると、世界競争に巻き込まれて日本沈没かもな)
中には「俺は社会人」とか言って張り切ってるやつもいるけどさ、
そんなところに、やる気と知性に満ち溢れた博士課程の学生が入ってきたらどうなるか・・・
mixiのコミュに乱入する日下部さんを想像してもらえばいい。
ほとんどの博士は、大学受験を勝ち抜き、修士博士の5年間をたった1人で戦い抜き、
世界に通じる業績を捻出してくるやつらなわけよ。
そんなやつらが「僕、新入社員です」とかいって入ってきたら、お前らどうするよ?
部活で例えれば、後輩にスタメンとられちゃった先輩は、その後輩にどう接しますかってこと。
だけど、それと引き換えに失うものがある。そうプライドさ。
どんなに言ってることが正しくても、結局会社なんてmixiコミュと一緒。
馴れ合いが大事。
だから会社村に、天才は必要ないんです。
だからね、博士はおろか、そもそも優秀な社員なんて恐くてとれません。
中の人が自慢してました。
でも、最近は事情がちょっとかわって来ました。
あんまり温いことやってると、本当に会社が傾きかねないです。
今後はどうなるかはわかりませんが、まあ会社なんてこんなもんですよ。
1人で世界にチャレンジしちゃうような博士課程の学生とサシで勝負できる社員なんてほんの一握りです。
そういう人が会社支えてます。
以上、ネタでした。
A. アメリカで就職するには、ネイティブ並の英語力が必要なので簡単ではありません。ですが、待遇は給料にすると3倍から5倍以上違うとかなんとか。また、修士や博士で外資系企業に行く率は高いです。特に優秀な人が外資にかなりの割合で流出しているのが現状です。ただ、外資にいく場合、年功序列のかわりに人種差別がある可能性があります。給料などは暗にそういう基準に従います。
Q. 博士卒は全員優秀なのか?
A. ピンキリです。ですが、うんこジャーナルでさえ論文を掲載することは簡単ではないですし、うんこ国際会議でさえ英語で論文を投稿し、査読を通過し、英語で発表するのはとても大変なことです。従って、底辺でもそこそこのレベルです。一方、上は果てしなく頭の良い人が多いです。修士の上位層が博士に進んでいると言っても過言ではありません。中には金銭的な理由で修士で卒業する人もいますが。
Q. 博士に進んでもいいですか?
A. 分野によります。数学や物理のような産業とはほぼ無関係な研究をする場合、アカデミックポスト争いに敗れた時のリスクは計り知れません。一方、工学系で就職できないケースはほとんどありません。いずれにせよ、肝に銘じて欲しいことは、研究は手段であって目的ではないとういことです。あなたが博士過程に進むということは、10年以内に人類に大きな影響を与える研究成果を叩き出すという契約であって、あなたが研究人生を過ごすためのプロセスではありません。研究がしたいだけなら、趣味でどうぞ。
A. 3年間、自由に研究ができることです。企業に入った場合、あなたの行動は制限されます。あなたがどんなに有望な技術だと感じていても、その研究に企業がリスクを感じていたら、取り組むことはできません。一方、「研究してる自分が好き」なだけであれば、企業に入った方がいいでしょう。そういう人は企業にいっぱいいます。大学にもいっぱいいますが。
Q. 博士に進むとコミュニケーション能力が鍛えられないんですか?
A. いいえ、1人で戦うからこそコミュニケーション能力が必用です。会社と違い、あなたを助けてくれる人は極小数です。一方、社会とは1人で生きられる程甘くはありません。ですから、常にコミュニケーション能力を磨く必要性に晒され、嫌でも対人能力を磨かざるえないでしょう。少なくても、群れから出たことのない羊や、決まったプロトコルでしか会話できない端末のような人に比べれば、力強く柔軟な対話能力を身につけることができるでしょう。その分、苦労は計り知れません。
2007年08月25日 kiya2014 コミュニケーション能力があったら打算考えるから博士なんて行かない。対偶をとると、博士に行くやつはコミュ能力欠如
Q. 「コミュニケーション能力がある、ならば、博士に行かない」またはその対偶の、「博士に行く人はコミュニケーション能力がない」は真実ですか?
A. もし上記が真実であれば、「コミュニケーション能力があるならば、成績が悪い」そしてその対偶の、「生成が良ければ、コミュニケーション能力がない」が成り立ちます(既に書きましたが、博士課程に行く人は、主に学力で上位に位置する人です)。これは現実と照らし合わせる間違っていると思われます。従って、「コミュニケーション能力がある、ならば、博士に行かない」がそもそもの誤りであり、その対偶である「博士に行く人はコミュニケーション能力がない」も誤りということになります。対偶は証明の手段ではないのであしからず。
もともと、稼がないでいい、物好きが適当にいろいろ情報提供すればいいじゃん、って風土のところで出来上がったインフラだから、その上のレイヤーをいくら頑張っても、無料は無料なんだよね。
で、儲けになるよ、って言い出した人はみんな山師だったから、成果を無理矢理大きめに報告しちゃったんだよね。
「世界に向けて情報発信!!」「個人のすきなテレビ画像を生中継!!」
ドッグイヤーとかいうのも、進歩が早かったんじゃない。技術が簡単だったから誰にでも真似出来たり裏側の事情が簡単に透けてみえただけだった。
例えて言うなら。
新幹線や飛行機はあのインフラや運行技術があるから高い金出しても乗るけど、その裏側で実はインフラは作らなくていい、運行コストも自転車1台でいいとなったら誰も金を払わない。そのくせちょっと速いスピードを出そうと思ったら急に必要な自転車の台数が多くなる、みたいな話でスケールメリットもないって感じだ。
でも、そのうち自転車だって誰もが乗れるものじゃなくなるかもしれない。そうすれば自転車技術がもてはやされることになるかもしれない。そのときやっとビジネスになるんじゃないか。
http://anond.hatelabo.jp/20070510190710
日本人って「宗教」も「民族」も意識することがないから、「昔こんな過ちを犯したんだ、だからそれだけは覚えておいてね!」ってことを歴史で習うぐらいで、結果として悪いものみたいに見ちゃうよね。宗教の場合エホバの証人(キリスト系)の宗教的躾の末の子殺しとかイスラム教原理主義者のテロとかキリスト教の魔女狩りとかオーム真理教(仏教系)のサリン事件とか創価学会(仏教系)のあんなこんなとか。でもほとんどの常識的な考えを持った信者・宗派は悪いものじゃなくて、じゃなけりゃそんな概念生まれないわけで。
仮に「民族」という概念がなくなったら、周囲から食われてしまうんじゃないかな、お隣さんには物騒な民族が結構いるし。そして民族が食われるとそこにあった文化の多くが消滅する。文化は少なくとも発生当初には必然性があって生まれたものばかりで、今後も社会的価値を産み続けるものだってかなりあるわけだけど、それがなくなってしまう。たとえばごく最近寿司が世界で流行したけど、その前に日本にある民族が根こそぎ消滅していたら諸外国に文化を潰されて「魚を生で食う」なんて他民族から見たらおかしい(と思われていた)文化は消滅する可能性が高くて、少なくとも今みたいにはなってなかったわけだ。
世界は広くていろんなものがあって、その多くは他民族には理解できない。全ての人類を画一化してしまうとおそらくそのロングテールのほとんどは消滅してしまうんだよ。多様性の維持のために民族は必要だ。
もちろん強制が当たり前みたいになったら下らないと思うから、そういうこと言う奴がいたらグーパンチしていいよ。
http://anond.hatelabo.jp/20070510222510
それ結局「地元」の定義が今の「民族」と同じになってしまうだけだと思うけど。要するに文化や風土なんかの共有者集団ね。あと複数項を共有しているのを民族と呼ぶから「共通母国語集団」を代替にするのはちょっと無理がある。
グレンラガンの4話が作画崩壊だとか、作画監督の演出で味が出てるとか、争論になってることについて。こんなこと日本の芸術作品とかではあんまりないよね。スポーツについても言える。個々の主観による批判、賞賛っていうのが出てる。作品を作る人たちを二人称として捕らえて、より良い作品を、感動を、面白さを要求する。この構図があるから、日本アニメはこんなに進歩していったんだと思う。
サッカーなんかはヨーロッパの影響があるのか、その色は強くないと思われるが、野球とかはプロに対して「頑張れ」という。プロに「頑張れ」ってなんだ?「Do your best!」なんて、全力出そうとしない奴なんか応援しないっての!プロに対しては華麗なプレーと勝利を要求しないと、プロに対する侮辱だ。日本的な風土、心とか言うけど、実際、日本は最低2度はリセットボタンが押されてる。明治維新と第2次世界大戦。せいぜい日本的な風土、心なんてのの歴史は60年くらいしか培われていない。人の一生より短い。野球の応援って・・・試合観ろ、そこまで盛り上がられると付いて行けない、引く。素晴らしいプレーしたら拍手。見っとも無いプレーしたらブーイング。あんな応援じゃ、できないだろ? あ、ちょっと熱が入ってしまった(汗 あんま気にしないで下さい。
それで、グレンラガンの話に戻るけど、こうした主観のぶつかり合いがあるから、客観性が生まれる。いろんな人の意見が飛び交うことで、個人の目利きが磨かれていく。そういう風に思う。だからアニメはいいんだよ。
グレンラガン4話は観たけど、そんなにいうほど悪いとは思わなかった。一瞬、プレスコかな?とか、アメリカ的だなとか、感じ変わったなとか、は思った。そして、カミナの言動には理解しかねるところはあった。手を抜いてるかとも、若干思ったけど、乱れてるわけじゃなかったので、作画監督のお遊びというには若干失敗だったかな?ってところかな。まぁ、グレンラガンの3話(#1??4で3話以外は観た)を見逃した俺が言うことじゃないか。
以前誰かが、匿名版のはてブを作って欲しいといってたのを、これで一部実現。記事にコメントを付ける機能は増田に記事を投稿する今のスタイルでGo。
これは、はてブとは設計思想が異なるので一緒くたにしないように。外からの評価ではなく、増田内での自己完結的な記事のソートをやりたいわけ。
はセリは一発ネタの一こま漫画だから、文章を評価しようとするオモロとは似て非なるものである。増田特有の一瞥したときのカオス感は、増田の風土を象徴していていいのだけれど、中の人用の便利機能だって欲しい。
ま、はてラボだけどな!!
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この前新聞かなにかかな温暖化で起きる影響について書かれていたものがあったんだけど
えーと
あと思ったのは現代社会と19世紀?以前との世界とがあまりにも比較できないかもしれないこと。
人口だとかの増減のパーセンテージは、大分増えるかもしれないグローバル化があるから、そんなに変わらないとしても人口数掛けたら数億だとか数十億だとか、まあ数千万だとかはいっちゃうかも。
60数億がそのまま原始世界だとか中世世界とかで生きるのを我慢するんだったら別に大丈夫大丈夫、かもかも。
そんなところかな…
現代社会での影響はかなりわからないから、人間での時代区分人口推計とか生物の種数・個体数なんかのデータはとりあえず一番必要かも参考資料として。
戦死と不当死あわせて10万人ほどで、うち何割が虐殺か、というかんじじゃないかな。
市街戦で虐殺なしはありえないのは、この間のバグダットの混乱をみてのとおり。
ただし指揮系統混乱の上での撤退戦である以上、国民党兵士の被害は通常の敗戦に比べかなり多いだろう。
その混乱は、そのまま住民の被害も増やすことになる。住民誘導もうまくいかず、逃げる兵士が住民にまぎれるなどが増えるからだ。
人数はともかく虐殺はいけないのは変わりないという主張はある。
それは今だに法輪功やチベットなどに対してやってる中国共産党にそのままはねかえる。
しかし日本将官の責任は重大だ。現場指揮官は、統制不能に陥った責任は大きい。
そもそも南京攻略そのものが独断行為であり、突入させる必要があるかも疑問である。
そういう独断をゆるしていた組織風土も軍隊としてはどうだろうかと思うので、より中央にも責任はある。
あと中国の30万人説は、項羽の20万人坑殺を考慮しなくちゃいけない。
名分的に歴史上最も多くなきゃいけない事情があるからだ。
一連の地方談義を読んで。
風土というのは、歳月が積み重なって固定化してしまった何かなんだと思う。
システムが硬直化しているから、チャンスがない。
チャンスがないから、若者は地方を捨てる。
結局、地方のシステムをいじらないとどうにもならない気もする。
システムを変えることによって風土もそれになじんでいくだろうし。
(でも、なんだか抵抗感があるんだよなあ)
http://anond.hatelabo.jp/20070122153609
http://anond.hatelabo.jp/20070121232018
に関して。
私は18まで宮崎に住んでいて、それから関東に移り住んで10数年になるが
地元を離れてみて初めて、これは県民性をあらわしている言葉なんだなあと思った方言がある。
それは「てげてげ」と「よだきい」という言葉だ。
「てげてげ」=「細かいことはまあいいから適当に」
「よだきい」=「あぁめんどくさい、いやだぁ動きたくない」 みたいな感じ。
それと方言と気づいていなくて使ってたのが「しれっと」という言葉。これは「すまして」という意味と説明されてたりするが、
「しれっと」=「いちいちアピールしたりおおごとにするのは面倒だから、何事もなかったかのようにことを済ます」
というニュアンスだと思っている。
どの言葉も、「惰」とか「んなことわざわ別に」的な空気が篭っている。
これには、変えたいという気もあまりないし、変わる事もさして望んでない、みたいな県民性があるかもしれないのかなと思った。このあたりはid:TERRAZIさんが「消極・弱気・怠惰・諦め・投げやり」という言葉で端的にご指摘なさっている通り。
「てげてげ」に暮らしていれば何事も適当に緩やかに進んでいくし、そもそも変えるのは「よだきい」。
一方、変える力が加わったらそれに「てげてに」流されよう、流れに逆らうのは「よだきい」から。
「よだきい」ことなんかせずに「てげてげ」にことを済ます。それがみんなが幸せに穏便に生きていくやり方、そこに改革や前進や向上がなかったとしても。
まさに「そのまんま」が風土に合っているのかもしれない・・・
ちまたで話題になっている「残業代ゼロ法」こと「ホワイトカラー・エグゼンプション」について。
大昔、労働における生産量というものは労働時間にほぼ比例していた。例えば畑を耕すのでも工場で物を組み立てるのでも、個々人に差はあれどそれは微差の範囲内で、基本的に長い時間働いた人ほど労働量が多いことになる。このような労働体系下においては、対価としての賃金は労働時間によって支払われるのが妥当と言える。
だが、情報化が進んだ現代では「時間=賃金」という等式は既に崩れている。例えば私の所属するエンジニア業界でも、同じ時間働いても個々人のスキルによって生産量が数倍から数十倍も違ってくる。1時間に3の生産量を上げられるAさんと、1時間に1の生産量しか上げられないBさんがいて給料が同じだとして、「時間=賃金」という対価の与え方では、同じ金額を稼ぐのにAさんはBさんの3倍の量の仕事をこなさなければならない。このような不平等をなくすために登場したのが「成果主義」であり、「ホワイトカラー・エグゼンプション」なわけだ。
「ホワイトカラー・エグゼンプション」は残業代ゼロ法などと揶揄されて暗黒面ばかりが話題に上がっているが、そもそもの目的は労働法に記載されている「1日8時間、週40時間」という枠を取っ払おうというものだ。この法律が施行されることで、労働者は会社に9時から5時までいなければいけないという縛りから除外(エグゼンプション)され、各人が自分にあった労働方法をとることが出来る。
例えば、幼い子供を持つ親御さんたちは、決まった時間に会社にいなくてもよいので、打ち合わせの時だけ会社に出向き、後の仕事は持ち帰って家でお守りをしながらやる、といったことが出来るようになる。仕事が物凄く出来る人は、一日2時間働いたらさっと切り上げ、残りの22時間をプライベートに回すことが出来るようになる。持ち帰りの作業が一週間分ほどたまったら、ノートパソコンとともにのんびりと旅に出て、旅行の合間に仕事をするということが出来るようになる。安倍総理が「この法律を施行することで出生率が上がる」といってネチズンの失笑を買っていたが、彼の意見はあながち間違っていないのだ。
だが、こんなのは単なる原理原則論、理想論であって、実際の運用上でもちろんこんなパラダイスのようなことが起きるわけはない。
昨今の情報漏洩ブームのおかげで在宅勤務なんかは夢のまた夢。仕事が物凄く出来る人は出来ない人の5倍10倍の量を押し付けられ週日会社に縛り付けられ、旅行なんかは行く暇すらない。労働者はますます困窮する。
「ホワイトカラー・エグゼンプション」の根底にあるのは、働いた時間など関係ない、生産量で人を評価しよう、というものだ。これ自体は間違ったものではないけれど、日本の企業風土では幾ら生産量を上げても決まった時間会社にいなければならないという暗黙の了解が既に出来上がっている。うちの会社はフレックスタイム制で、仕事が終われば3時半に帰ってもいいのだけれど、まずそんな人はいない。定時まで仕事をして、残業をしてやっと帰れるというのが社員の「当たり前」になっている。私なんかは仕事が暇な時は毎日定時に帰れるけれども、あちこちの島で火の手が上がっている職場でそんなことが許されるわけはなく、会社に居残って資格の勉強をしたり趣味のツールを作ったりしている。馬鹿馬鹿しい話だが、幾ら生産量を上げても早く帰れば「あいつは駄目だ」と思われるのが日本の企業風土であって、これだけはどうしようもない。実際私も「俺の会社は毎日定時に帰れるぜ」とか聞いたら脳たりんの集まりなんだなと思ってしまうしね。まあその逆もまたしかりだけど。
こんな状況下でホワエグなんかを導入したらますます惨状になるのは目に見えている。現在の企業側の認識としては、「サービス残業はいけないことだが仕方がない」という辺りだろうが、この「いけないことだが」の部分が結構大きくて、ホワエグによってサービス残業が合法化されてしまえば日本の労働環境は地獄と化す。何せ過労死をしても会社側は何ら責任を取らなくてよくなるのだ。良心的な会社ならともかく、悪用しようと思えば幾らでも出来るこの法案、ストッパーが完全になくなってしまうこの法案は大変危険だと言わざるを得ない。「現在も残業代出てないし、別に構わんよ」と嘯いている人は、もっと危機感を持ったほうがよいと思う。
先輩の会社のお偉いさんなのであまり遡上にあげたくないのだけれど、経団連の御手洗氏がよく言う「国際競争力の向上」というのは、つまり「安い賃金で多くの労働を」という以上の何者でもなく、こんなバイアグラのような方法で経済を伸ばそうと言う発想は極めて幼稚で短絡的である。日本の労働環境の向上なくして、経済力の向上などあり得ないのだ。音楽でも何でもそうだが、「人間的である」というものは普遍的で強い。法律も一緒で、非人間的な法律、そこに人間性や国民性が反映されていない法律は凶器と化す。今回の国会では廃案になりそうだが、来年以降も経団連と自民党の動きから目を離してはいけないと思った。
僕は広島県の神から見捨てられたようなニュータウンに住んでいるのだけれども、僕の街はそんなに広島に遠いところではない。これは実は中国地方の街に住むものにとっては、かなり大きいことなのだ。広島というのは、軽い中華思想にまみれた街なのだwこれはどれくらいの人が共有できる感覚なのか分からないのだけれど。
中国地方は『田舎』である。この『田舎』というのに、注意しなければならない。これは実は(広義の)政治的なものなのだ。日本の『田舎』が北海道でもなければ、沖縄でもなく、九州でもないことに注意しなければならない。寒村風景というのは日本人においては昔話にも出てくるような"原風景"であるが、それは、本土の風土(北海道では『北の国から』になってしまうわけで)、それもより亜寒帯よりの温暖な気候という中国地方的な風景なのだ。
やっと本題だが、しかし、広島は違う。広島はイケているのだ。広島の街は実際歩いて見ると分かるのだが、東京のデフォルメされたミニチュアのような感じがする。例えば、その象徴としての横川シネマ。ここは所謂、オサレ系の映画を広島の街ではこの映画館が、ムービー・コンプレックスとして一手に担っているのだ。つまり、ここは広島において、「オサレ映画」の象徴の具現化なのだ。当然、東京のようによりもっと深くとはいかないのだけれど。
この街は、楽だ。オサレを追求する必要もない。まだ、広島にも"中国地方"的なものが残っているのだ。オサレとそれを上手く折り合いをつけていけば、広島的なライフスタイルは、広島人にも、東京人にも、有効である。ここは、街と村の境目なのだ。昼間は横川シネマ行くナウいお嬢さんが、その日の午後にはしゃもじ踊りしてるっていうその感覚は分かってもらえるだろうか?パトリオティズム、それも農本的なもの、それこそ、"中国地方"的なものと僕が呼ぶものだ。それが東京のミニチュアのような都市にまとわり付いている。その広島的なカルチャー(サブカルチャーも含め)を、僕は否定する気はないが、受け入れてあげる気もない。はっきり言うと、その中途半端さが嫌いなのだ。