はてなキーワード: 私小説とは
ええと、まず
増田には、増田への偏った信頼が、リアリズムあるっぽさが、ここはよく人が本音をポロルする場所なんだっぽさが、あるんだなあと思った。そうでなければこんな文章は書かれない。
「お前は偏っている!」って言われるとけっこう傷つくな・・・。
それはさておき「個人史は終焉しない。続く。」のブクマコメントを読めば、かのエントリをノンフィクションと捉えてコメントしている人が多いことに気づくと思うよ。
私小説風のフィクション作品を、皆フィクションを前提として読んでいるとは思えない。反例ではなく、まったく同じケース。リアリティがあること=読まれる理由になる、勘違いする理由になる
ごめん、こっちは言ってることが理解できなかった。「この作品はフィクションです。実際の人物・団体とは〜〜」って書かれていても、「いやいやこれは本当のことかもしれないぞ!」って読んでる人がいるってこと?あまり多いとは思えないけど。
それから何と全く同じケースなのか。みんな勘違いしながら読んでいるのか?説明希望。
ネット上では特にね。でも、増田はあくまで日記。創作であることを前提としたエントリと日記として書かれたエントリでは、読む方の姿勢も随分違うと思うんだけど。
第二回ファック文芸部杯参加作品まとめ
http://anond.hatelabo.jp/20071204075102
を見ていて不思議に思った。
これらのエントリの中で最も多くブクマを集めているのは、「個人史は終焉しない。続く。」だけど、これってフィクションだったんだ。
もちろん増田には創作も、おそらく真実の話も入り交じっている。だけどブックマーカーは真実の話として受け止め(ときに「ネタっぽい」と疑いつつ)、自分の意見を言いたいがために、あるいはリアリティを感じたがためにブクマする。ていうか俺もブクマしたけど、フィクションならブクマしなかったな。
「それだけの人が勘違いするのは文芸作品としてリアリティがあるってことでしょ」という人がいるかもしれないけど、どうかなあ。たとえば私小説風のフィクション作品は世の中に腐るほどあるけれど、あれは皆フィクションを前提として読んでいる。創作と真実の境界線が曖昧な増田で書いて、「これが文芸部杯参加作品です」と言われても腑に落ちない。xx-internetが「個々人の良識に任せる」というようなことを言っていたから、彼ら的にはまあいいのだろうけど。
東浩紀・桜坂洋の「キャラクターズ」(新潮10月号掲載)を読んだ。論壇へのスキャンダラスな興味で読むぶんには面白いのだけれど、宣言した「キャラクター小説」としては失敗だと思う。文芸誌に載るキャラクター小説とはいかなるものか、そこにしか興味はなかった。オタク哲学者とラノベ作家の共作ということで期待したのだが、残念ながら期待は裏切られた。これはキャラクター小説ではない。この作品のどこら辺がキャラクター小説だと考えているんだろうか。私小説が「この作品の私は作者としての私ではありません」と説明することと何が違うというのか。東浩紀の虚構話を書くこととキャラクターとしての東浩紀を書くことは違うのだ。この作品には標題に反してキャラクターなんて一人も描かれてはいない。
100歩譲って、この作品の登場人物はキャラクターである、という説明を受け入れたとしよう。それでもこの作品はキャラクター小説としては駄作だと思う。簡単な話だ。この作品の登場人物はどれもキャラが立っていないじゃないか。例えば作品の中では東浩紀が東浩紀R、東浩紀S、東浩紀Iの3人に非現実的に分裂する。この3人は向かうあう問題と行動が異なるだけで、いつでも他の東浩紀と交換可能であり別の性質的な差異は感じられない。つまりキャラが立っていない。北田暁大にしても香山リカにしてもその他の人物にしても、凶行の被害者に実在する人物の名前を与えただけではないか。これもキャラが立っていない。
キャラクターとは本来、記号的で類型的なものである。また、実在する何かを写し取ったものではなく虚構の世界に独立して存在するものだ。漫画にネズミを登場させることとミッキーマウスを書くことは違う。前者は実在するネズミと対応させることができるが、後者に実在を求めることはできない。
そもそもキャラクターとしての「私」は可能なのだろうか。しばしば現実の世界では「キャラを演じる」「キャラが被る」という言葉が使われるように、私とキャラクターの問題は「私」と他者との関係における記号的類型的な役割の問題である。文章の大半を「私」の愚直な内省独白が占めるこの作品はこの点においても私小説の延長線上にある単なる「私」の虚構話であり、キャラクター小説であるとは言い難い。
桜坂洋は文学に媚びたりせずにラノベの流儀を貫くべきだった。この作品を書くにあたっては東の自分語りに流されず、ラノベを書く時のように、キャラクターの造形からしっかりおこなって欲しかった。論壇やオタクが東に求める役割=キャラクターは最大限に利用または逆用するべきだし、キモオタ、ロリコン、ガリ勉という類型化された属性ももっと強調したっていい。例えば男性の登場人物全員になんらかの腐女子好みの属性を割り当て東×鈴木、柄谷×桜坂…手当たり次第にヤリまくったほうが朝日新聞社を爆破するよりもまだ破壊力があるというものだ。この小説は「私」に対して愚直すぎる。
あるいは東は桜坂よりもイラストレータと組むべきだったのかもしれない。そして二次創作や便乗グッズ販売が生まれるくらいのクオリティで東をはじめとするキャラクターを作ってみれば面白い。そんな魅力的なキャラ絵を含む小説が新潮に載ったら痛快ではないか。それで掲載を拒否されてたら新潮社と徹底的に戦え。それこそラノベと文学との戦いそのものじゃないか。
増田さんが思う面白い文章の10項目を聞いてみたいなあ。
ネットで注目される文章は、「面白い」と「参考になる」の軸があると思うのね。
そして「面白い」文章の条件のひとつは、ツッコミを入れやすい、思わず自分の意見や感想を書きたくなることだと思うんだ。
じゃあツッコミを入れやすい文章ってなによ、と考えてみた。
10項目じゃないけれど。
ほかにもあると思う。
そして私は元増田の人のナマの文章を読んでみたいです。
みなさんこんにちわ 僕のガラスの呟きを開いてくれてありがとう。
このコーナーではガラスのことやらなんかのことやら、なんだか訳の
わからないことまで書くことになると思うんだけど、そんな場面に出
会っても深く考えこまないで下さいね。なんといってもこれはすでに
ボケ一歩手前まできている、僕の呟きなんですからね。
僕がこのコーナーを企画したのは最近も最近、ほんの先日のことな
ですが、実は掲載するにあたって参考にした叩き台の文集があるんです。
それは自分の口から云う事こそ恥ずかしいことなんですが、僕の半生記
という凄いヤツがあって、そのタイトルは生意気にも「人生はセピア色
に映えて」という、恐れ多い私小説なんです。もちろん作家はどこかの
小説家の大先生、といいたいのですが、とんでもネバハップン、自分自
身なんですよ。ホラ、以前によく流行ったじゃないですか、「自分史を
書こう!」なんていうコマーシャル。あれあれ、あの頃に近くに出来た
新しい電気屋さんから買い求めたワープロで製作した文集なんです。
ワープロっていうと、もう過去のものに聞こえますが、これは慣れるの
が大変でしたよ。読めば読むほどにわけのわからなくなる説明書を首に
っさげて毎日毎夜勉強しました。これくらい勉強してたら僕は、たぶん
訳のわからないガラス屋なんてやっていないと思うんです。
でも哀しいかな実際の僕は英語の方もからきしダメ人間で、どうにか日
本語でキーボードを打てるようになったのは、最初のワープロが傷だら
けになって、それからそれからズーッとズーッと後のことなんです。
もちろんワープロも幾度となく買い換えましてね。その後は小難しいパ
コンに代えて… という風に、 いまでは工房を訪れた皆さんとメール
の交換が少しだけ出来るようになりました。
それではとりあえず今後ともこのコーナーを宜しくお願いして、後日また
おはなしいたしょう。