2008-11-15

ケータイ小説(笑)が許し難い理由-水村実苗氏の『本格小説』より-

水村実苗氏の小説本格小説』の副産物で、図らずも「ケータイ小説(笑)が許し難い理由」を得たので紹介したい。

小説を読まない私が水村氏の著作を読んで見ようと思い至ったのは、梅田氏のトピhttp://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20081107/p1に因る)

p173-174『本格小説水村美苗,2002,新潮社

もちろん小説家が自分の人生を書いた小説、あるいは、書いたように見える小説は、どの言葉にも存在する。そしてそのような小説は、どの言葉で書かれていようと、もっともたやすく「真実の力」をもつであろう。なにしろそこには一人の人間の一人の人生そのものがある。だからこそ、小説家はどの言葉で書こうと、自分の文章を売るよりも自分の人生を売りたいという誘惑と、常に、そして永遠に、戦わなくてはならないのである。しかも私たち人間は例外なく他人の幸福よりも他人の不幸に興味を持つ。小説家が、自分の不幸を売りたいという何よりも大きな誘惑と、常に、そして永遠に、戦わなくてはならない所以である。ゆえに、小説家にとって真の不幸とは、自分の不幸を売るのが文学として通るようなところで書くということにある。「私小説」的なものが日本語で栄えるということは、日本語で書くことが、小説家が自分の不幸を売るのが文学として通るようなところで書く不幸を意味することにほかならないのであろう。


以前より私は、ケータイ小説(笑)に対して朧気ながら嫌悪感をもよおしていた。

未成年の著者による自己中な世界観が我慢できない

・そもそもビッチの生態が気にくわない

・ページをめくる作業もめんどくさい

だが、理由のどれもこれも個人的の嗜好で、ケータイ小説根本的に駄目な理由としては弱い。

が、水村実苗氏の『本格小説』の上記引用部分に触発され、ケータイ小説(笑)に決定的に欠けている点が良く分かった(と私は感じた)。

自分の文章を売るよりも自分の人生を売りたいという誘惑と、常に、そして永遠に、戦わなくてはならない

まさしく、これだ。ケータイ小説(笑)の著者(笑)は、たやすく誘惑に屈する。

自分の人生を切り売りして描くことは、水村氏が言うように、「真実の力」を得やすい。故に、並の小説家が「真実の力」を小説に込めたいがために己の人生を己の視点のまま書いてみようという安易な姿勢に堕するのは想像に難くない。

こうした誘惑に踏みとどまり<何故この小説でなくてはならないのか?>と自問し続けることができるかどうかが、小説家の値打ちを決める。

蹴りたい背中綿矢りさ等々(例が古くてゴメン)、若年の著者による小説が隔年間隔で大々的にプロモーション展開がなされている。

が、彼らは少なくとも<己の部分>をそのまま表出していては、選者の評価を得られなかったであろう。

小説家が自分の不幸を売るのが文学として通るようなところで書く不幸

まさしく、そう。

感情の垂れ流しを嬉々として受け入れる読者層も不幸ならば、己の姿勢を問い続けることのできないケータイ小説(笑)の著者も不幸。

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