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はてなキーワード: 無味乾燥とは

2010-04-27

フィクションに興味が沸かない

最近になって気づいたことがある。僕はフィクションに興味が沸かない性分であるようだ。

映画小説漫画アニメは話題であり、かつ個人的に気になったものを除いて、ほとんど見ない。

読む本のほとんどは新書や実用書だし、好きな番組のほとんどがドキュメンタリー番組で、バラエティ番組も、漫才コントが中心のものよりも、トーク番組面白おかしい企画をする番組のほうが好きだ。

さいころもそうで、おとぎ話に全く興味が無かった。むしろ、図鑑のほうが好きだった。「こんなものがあるのか!」と子供ながら感激したことは今でも覚えている。

そのことを昨日学校で話していたら、「心を動かされるフィクション作品にまだ出会っていないから、お前はフィクションに興味がわかない」との意見があった。

確かにそうだ。単に感受性が乏しいだけなのかもしれないが、僕は今までフィクション映画や本、ドラマを見て感動したことがないし、いくら名作と呼ばれているフィクション作品でも、心を動かされたことは1度も無い。

これ面白い!と言ったときも、大抵の場合は口先だけで、実際はほとんどが無味乾燥だったし、感想さえも持っていなかった。

もし仮に心を動かされる作品に出会っても、そこから先は何も発展していかないと思う。出会ったところで、それだけが好きな作品になってしまうだけだ。そこから発展していこうと思うことはないだろう。

2009-12-29

やっぱり「坂の上の雲」はドラマ化しないで欲しかったなーと思っています。司馬さん本人が誤解を招きやすいか映像化は止めて欲しいって言ってたのに無理矢理ドラマ化したものだから、案の定いろんな批判が沸いています。

私の狭い観測範囲のなかで一番代表的にみえる批判は、司馬さんは日露戦争祖国防衛戦争だと表現しているけれど、ロシア側に侵略の意図はなかった。避けられた戦争なのに防衛戦争とかありえないという意見です。

加藤陽子さんの「それでも日本人は『戦争』を選んだ」を読むと、日露戦争直前に権力を掌握した極東総督のなんちゃらさんが、韓国取っちゃった方が安上がりですよとか皇帝に言ってたらしいのでロシア側に侵略の意図なしとはいえないんじゃないかなーと思うし、当時のロシアトルコ満州にしていた仕打ちを考えたら、次は日本かもって当時の人達が恐怖するのも当然だと思うのだけど、まあそこらへんは歴史をきちんと学んでいるプロの方たちが論争しても中々決着がつかないわけだから素人には分からない事柄が色々があるんだろうから置いておきます。

私はたとえ司馬さんが間違ってたとしてもさほど問題ではないように思っているんです。

司馬さんは「坂の上の雲」をなるべくフィクションを抜きにして事実に即して書こうとしてますし、そう宣言もしていますが、それはあくまで司馬さんの中で事実だと思える内容を書くというだけのことで、読んでる方はそれを完全な史実だと思って読んでるわけじゃありません。

ただ司馬さんの歴史観を誤りだと批判している有識者さんたちは、その批判の理由を小説を史実だと勘違いされちゃ困る。国民歴史観に影響を

与えかねないと言っています。

私は読み手はそれほど馬鹿じゃないし、盲信もしていないと思うんです。司馬さんはこういう風に日露戦争や当時の日本を捉えてたんだなー、凄いなー、面白いなーって読んでいるだけです。司馬さんは小説家ですから、エンターテイメントとして最低限の盛り上がりも必要だと思っていたでしょうしね。読み手はそれほど馬鹿じゃない。小説だと分かって読んでいる。私や私の友人はそれほど優秀な人間でもないけれど、司馬さんは無謬だとか思っていないし、思っている人を見たこともないです。

逆に批判している有識者さんたちにちょっとした思い上がりを感じるんですよねー。私たちは優秀で知識も豊富だから騙されないけど、お馬鹿な読者はころりと騙されて変な方向に突っ走っちゃうかもしれないから、司馬さんの小説を批判して目を覚ましてあげましょう。啓蒙してあげましょうって。大きなお世話ですよね。ちょっと悪く書きすぎかもしれませんが。

子供達が影響受けちゃうから犯罪小説禁止とかと同じ流れな気がして嫌なんです。そういう批判をする人が現れるから、誤解を招きにくいように誤解を招きにくいようにとびくびくした無味乾燥物語ばかりになってもつまらないじゃないですか

同じ小説を読んでも、こういう犯罪の手法があるのか気をつけようって読む人もいれば、単純に物語として楽しむ人もいるし、この手法で犯罪を起こせるかもって思う人もまれにいるかもしれない。でもそれは書き手の罪ではないし、それを恐れてつまらない物語が増えていってもしょうがないと思うんですよね。

ただまあ、司馬さんの影響力っていうのは確かに大きいです。司馬さんの小説を読んでいる人数は、その関連の歴史書を読んでる人数の何倍もいるでしょうから、そのうちのいくらかは勘違いしちゃう人が出てくるかも知れません。だからその人たちの為に批判をするんだっていうのだとしても、やっぱり言い方ってものがあるんですよね。

もうちょっと司馬さんを立てた表現ってのを出来ないものでしょうかねえと。司馬さんの小説には何の罪もないはずなのに、司馬遼太郎歴史観をぶった切るみたいな批判の仕方をする人が少なくないでしょう?別にぶった切らなくても、司馬さんの小説は面白いけれど、現在研究ではこういう論もあるのです。こういう視点もありますよでいいじゃないですか。なぜ叩かずに別の価値観を提示出来ないのかなーと残念に思います。

なんかもやもやとしていた司馬さんファンの愚痴でした。

2009-12-20

死亡記事専門記者が教える人生のレッスン6カ条

欧米新聞社では、死亡記事部を設けて日頃から著名人についての経歴などの情報を収集し、各著名人ごとに死亡記事の準備稿を作成してその死去に備えているのが一般的とのことで、当然死亡記事を専門に書く記者も存在するそうです。死亡記事の多くは、死因や享年などの具体的な情報だけを列挙した無味乾燥なものではなく、その人の人生を振り返り簡潔かつ文学的にまとめた職人芸のようなもので、時には「作品」と呼びたいような読み応えのある死亡記事も登場します。

死亡記事部に配属された記者は、毎日のように死亡記事を執筆し数え切れないほどの人の死を見つめることにより物の見方や人生に対するスタンスも変わってくるのではないかと思われますが、配属3年半で800以上の死亡記事を執筆してきたボストングローブ紙の死亡記事専門記者Bryan Marquard氏によって、仕事を通じて得た人生の心得6つが明かされています。

詳細は以下から。

6 life lessons: from the dead - Boston.com

その1:人に優しくすること。

単純なことのようですが、「自分が死んだあと、人の記憶にどう残るか」という視点で「優しさ」について考える機会はなかなか無いのではないでしょうか?人生においてどんな偉業を達成した人でも、生前の人に対する接し方は、死後人々の記憶にどう残るかに大きく影響するとのことです。

その2:意地悪をしない。

死亡記事部に配属されて数カ月後にMarquard氏は非常に長生きした女性家族インタビューする機会があったのですが、成人した子どもの一人に「お母さんは天寿をまっとうされましたね」と話しかけると、「ああ。ボストンイタリアンだったからさ。ボストンイタリア系は殺しても死なないんだ」と切り返されたそうです。母を亡くしたばかりの子どもたちの言葉が通常予想されるような反応と違ったのは、どうやら生前お母さんがいわゆる「意地悪ばあさん」のような人となりだったためらしく、結果的に子どもたちのコメントの大部分は記事には引用されず、長い人生の割にとても短い死亡記事となってしまったそうです。

その3:長生きしたいなら、若いうちにリタイアすること。

親は人生の教訓を子に伝えたがるものですが、これもその一つで、Alfred Larkin Sr.氏が息子で元ボストングローブ編集長マイケル氏に伝えたもの。家族が集まった時にマイケル氏を脇へ引っ張り、「僕からのアドバイスは、可能な限り早くリタイアすることだ。この10年で、その前の50年分を全部合わせたより多く、楽しいことがあった」と伝えたそうです。Larkin氏は隠居生活を満喫し、92歳まで生きました。

その4:もしくは、生涯リタイアしないこと。

アーティストのPolly Thayer Starrさんは赤ん坊のころ、鉛筆を持てるようになるや否や絵を描きはじめ、緑内障と加齢黄斑変性により視力を失いつつあった80代のころにもまだ素晴らしい作品を描いていたとのこと。視力を失った後は、散歩中に友人たちが読み上げる詩を記憶し、常にクリエイティブであることにより、101年間の充実した人生を送ったそうです。Starrさんは彼女をかきたてる芸術情熱について、「天の猟犬(Hound of Heaven)なのよ。いつも追いかけてくるの」とスミソニアン協会のインタビューで笑い混じりに語ったそうです。

その5:金持ちである必要はない、家すら持たなくてもいい。

Harold Madison Jr.氏、通称「Mr. Butch」はボストン大学付近のKenmore Square一帯やハーバードビジネススクールを擁するAllstonのハーバード・アベニューで30年間にわたり路上生活をし、学生を中心とした数万人の人々に親しまれている有名人だったそうです。飲み過ぎて酔っぱらった時には少し怖がられてもいたようですが、ファンによりWikipediaに項目が作られたり、MySpaceにページが作られ、YouTube動画が投稿されるほどの人気者でした。2007年交通事故により56歳で亡くなった時には盛大に追悼パレードが行われたそうです。

その6:今、行動に移すこと。

「800人もの死亡記事を書いていると、山の上で一人黙想する仙人のように、人生を変えるような深い洞察を得られるのではないかと人々は考えます。人生における答えのない深い問いに対する回答が得られたということはありませんが、確かにある意味人生が変わったかもしれません」と語るMarquard氏。「死について頻繁に考えるおかげで、去年、もし自分が父と同じ寿命を持っているのなら、残りあと25年だということに気付きました。そのひらめきは、ボストン都市圏からバーモント州の小さな町へと引っ越すきっかけとなりました。ボストンへの通勤時間は長いですが、今住んでいる町が大好きです。前々からやりたいと思っていたことを、いつまでも後回しにすべきではありません。死亡記事記者として自信を持って言える教訓です」

http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20091220_memento_mori/

2009-12-08

太宰治の『女生徒』について

太宰の『女生徒』をパラパラ読んでます。

少女的であるというのはつまり不可能なものを求めているということなんでしょう。

解説者が「潔癖」とか「理想主義」とか言っているのは、ある程度そう言えなくもないが、やはり言い方としては美化しすぎている。

少女的なるものの欲望は、基本的に現実にはありえないような純化された世界を求めている。最初の「燈籠」で盗みをするというのも、主人公の少女世界観の中では非常に純粋な行為なわけです。これが不首尾に終わるというのも、少女的なるものにとってはかえって都合がいい。悲劇性の演出ができますからね。そして男が去っていくのも都合がいい。だって、実際に相手の男が手に入ったら、それは現実のつまらないただの男でしかないことが明らかになってしまうから。手に入らないからこそ、その男理想的な美しさを保ったままでいられるのです。眼帯をしていてちょっと目が悪いときに見ている世界彼女は望んでいる。はっきりとした、無味乾燥現実を突きつけられる世界なんて要らないというわけです。この、認識をぼかして理想化された世界を構築するというのは次の「女生徒」にも、眼鏡をはずして見る景色好きだ、とかいうモチーフで登場します。

関連して思い出すのが、『人間失格』の最初の方に書いてある、駅の高架橋が遊ぶためのものだと思っていたのに実用的なものだと知って興がさめたとかいうところです。あれも基本的には少女的なるものの欲望の表現と考えることができます。どこか浮世離れした閉鎖的理想像です。

2009-11-01

http://anond.hatelabo.jp/20091101115741

哲学と単に言っても大体は「西洋哲学なので、東洋人的感覚からすると「何当たり前のことグダグダいってんの?」とか「んなわけねーじゃん、バカなんじゃねーの?」ってのはありがち。その例は典型的後者だよな。そんな薄っぺらい論理で「自然より人工がいい」と言われても、東洋的な感覚からは納得しようがない。

それに、ヘーゲル学者の間でもわりと評価が分かれる。おれの指導教官は(さすがに異端だろうが)全否定だった。曰くヘーゲルは「太陽系惑星の数は(キリスト教で)完全な数字である"7"なのだから、第8の惑星海王星)は存在するはずがない」などとのたまう愚か者であって、あんなゴミクズのような書物はすぐに捨てたほうがいい、らしい。ゴミクズ・・・増田の2万円・・・

まあ・・・哲学学者によって主張もスタイルも全く異なるので、同じジャンルに放り込まれていてもそれぞれが全く別物と考えるべき。題名や著者名でなんとなく買うようなやり方は避けるのが財布のためだろう。哲学を内側から利用する人(論文を書くなど)でない限り、「プラトンアリストテレスカントヘーゲルベルクソンも読んだ上で初めて、言ってることが吟味できます」みたいな読み方(つまり、フツーの読み方)は時間効率的にほぼ無意味に近いわけだから、立ち読みして興味を惹かれたもの以外、無味乾燥屁理屈としてスルーするのが得策なんじゃないかなあ。

2009-08-18

墓参りの後の話

墓参りの帰りに、

従妹が

おばさーん、買い物したいから○○借りてくよー、いいよね~

って、強引に拉致られたんだが

どういう話の流れだったか忘れたが、最後の行き先がラブホテル

ちゃんと避妊さえしてくれるならかまわないって話で終わったような。

昔は一緒にお風呂入ったよねぇとか、お約束的な会話をしながら

バスルームでお互いに全身洗いっこ

そこまで、しておきながら口でしたいと言ってきたときの顔が真っ赤だったのが妙に印象的

あとはベットに行ってからはお互いの持っているモノと技術(?)だけが勝負な単純に快感だけのセックス

スタイルは少々貧しいもののそんなに悪い容姿ではないが

長いこと顔をあわせてることもあるし、そのあたりが、どれだけ影響するか心配であったけど

素直に元気だった

誘いに乗った(こっちから誘ったかも)以上、不能って事態は避けたかったとかは、余計な心配だったようだ

違った相手となれば、それだけで新鮮味があるって事で

相手が相手だけにキスをすることは止めたし、求めもされなかった

セックス中のキスが無いって無味乾燥な感じがだけど、従妹だしなぁ

それなりに喜んでいたようで、またヨロシクとかいわれたが

2回目はどーすっかなー

止めておかないと、色々な所で後戻りができなくなりそうな予感

2009-05-09

自分が凡庸な人間なことに気づいた

言い換えれば自分の無才能を悟った、それをやっと自覚できたっていうのかな。

原因は無趣味さにあると思う。

それは広範囲に興味があるために特定の趣味が無いという意味ではなく、何にも興味を持てない無味乾燥さを持っていること。

例えるなら、生まれついての「不感症」。それらしいインパクトカタルシスエクスタシーを感じたことが無い、無感動人間

子供の頃からそうだった。漫画映画音楽などに特別好きと言えるものはない(絶対数も少ないし、見ようとも思わない)し、

旅行にもとんと興味が無く、スポーツ勉強には打ち込めず。

文章を書くということはよくしたけど、自分自身のみを色んな言葉で表現して、自分に対して何か他人から反応されるのが好きなだけ。

生まれてから今まで、そのときその瞬間をあつらえの遊びによって暇潰しをするために生きていた、という感触。

アニメを有意義前向きに消費していくオタクの「好き」さに無意識に憧れて、アニメを見ていた時期があったけど、

アニメ自体がそう面白いものでもなく、『らきすた』を楽しむオタクとの温度差を感じて「違う」と気づいたときあっさりと決別できた。

一時期見ていた『タモリ倶楽部』などとは宇宙を隔てて遠くにいる人間だと自覚する。

こんなことでは、感性の土壌を耕すのはおろか、夢を持てず動機など作れなくて当然だと今振り返る。

それが自分限界だったと今、素直に受け止められた。自分は何にも影響できない代わりに、何にも影響されないのだ。

元々は、一般人と一線を画した、特別な感性を持ちたいという願望があったのだけど、

それが芸術家肌とか、クリエイティブさみたいないい意味じゃなくて、奇形的な特異さを持った、悪い意味で達成されることになった気がして、嬉しくもあり悲しくもあり。

そんな自分は、元々何の気なしに持っていた願望とは程遠い、人間として最低限動く部分だけを生かした、機械的な社会歯車としてこれからも生きることになるのだろうけど、

そんな自分は、何のために生きるのだろうか。存在を保っておく必要など、他の人が散々考えてきたように、無い。

まあ、凡庸と呼ばれる人の性質が自分と似た者同士ばかりだったらまた自分は埋もれて悶々とした人生を送るようになるのだけど。

「脳の活性化」という言葉脳トレだとかアハ体験という類じゃなくて、

自分の中の「好き」といった感覚を人並みかそれ以上に呼び覚ます技術を指さない限り、自分人間らしい人間として暮らせる日は遠い気がする。

2009-02-27

http://anond.hatelabo.jp/20090226095135

GOSICKヴィクトリカたんにハァハァするゥライトノベルであって、断じてミステリヰでもクソつまらないトリック無味乾燥キャラ造形でも無いことは自明

ヴィクトリカたんハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ(;´Д`)ハァハァ

2009-02-26

http://anond.hatelabo.jp/20090226060022

桜庭信者

GOSICKのクソつまらないトリック無味乾燥キャラ造形に唖然とした身からすると「五十歩百歩の業界で何気取ってんだおめー」という感想しか持てん。長文お疲れ様。

2008-11-14

http://anond.hatelabo.jp/20081114024625

「私の書いた文は水村の本の書評ではない」という意味の修辞疑問文なのでそこは誤読ね。

文脈上(アブスト云々が出てきて以降で、僕がどれを書いたかは以前示した)、元増田書評をしたかは争点でないから、その自分なりの読み方は外れる。

次に、君は書評を書いた人の属性を挙げて「どれが信用に足りるか」とかいってるけど、それは的をはずしてる。私が言ったのはそんなことじゃなくて「知識」の問題。

信用足りえるには、その人の「知識」レベルがあるかの判断が先行するのだから、その程度のことは内包されている。

そのレベル素人目にも明らかな間違いを多くしでかしてるらしい。そんな本が学術的な意味で信用できると思う?んなわけないでしょ。

ということはブログで書いて批判すればいいんではなかろうか。「らしい」ではなくて元増田解釈で。「らしい」から抜け出して自ら判断するには同等の判断能力がないといけないだろう。

もうひとつひっかかるのは、「学術的な意味で信用できると思う?」の部分。信用するものじゃないし、それは鑑定人によるのかな。そういう監視の目が行き届いていればいいけど。

今のところ元増田が言っているのは、「学術レベル能力があると見なされる人がある間違いを指摘している」ことに根拠なく同意しているだけである。現段階では。

ちなみに、

トンデモ」と呼ばれたくないのなら「エッセイ」なり「フィクション」なりと名乗って満足すべきってのはわかるよね。そういうこと。

僕も読んでいないので言うのもなんだが、もう少し前に書いたけどローマ人と同じくエッセイレベルだと、なんとなく、思っているので、ガチの学術レベルでの論争なぞ望んでいないのではないかとは思うし、そうすることは無粋なのかもしれない。無味乾燥世界史教科書ローマ人を比べても。

何がどうあってもニセ科学を信じることをやめない人は「ビリーバー」って呼ばれるよね。悪いけどあれと同じレベルなんだよ。

「らしい」と言っているだけでは、例の学術レベルの人に追随する「ビリーバー」との区別がつかない。そこを聞いているんだけど。何度もね。

僕は元増田に「学術レベルの人のことを、学術レベルで理解できて、批判できるか」かどうかについて聞いているのであって、今のところ「学術レベルの人の言うことを、学術レベルでは、完全かどうかは不明だが、理解はできないにもかかわらず、何故か正しいと信じている」の段階で留まっている。ただ真の学術レベル能力を持たなくてもなんとなくわかる、ということに関しては少しは同意はするのだが、それに見合った「知識」を元増田が持っているようには見えないもので。あるならあるで自分のブログで書いてくださいな。

ということで、元増田が「らしい」といっている限りは、この件に関して同じビリーバー、同じ狢でいいんではなかろうか。

2008-08-06

http://anond.hatelabo.jp/20080806174433

その文脈を把握すること無しに変にして解釈されたら恐ろしいことになる、ってことが伝わらなかったりするのは凄くもどかしい。

教育学とか史学とか民族学とか文化人類学とかそれ系」に関して言うと

前提が多いのはかまわないのだが

それ系の論説を読むと

クセジュにまみれて論説ヵ所が埋没していたり

前提と条件の検討がおざなりになって論に整合性がなかったり

話が横道にそれて私的なことが書かれていたり

そもそも主張したい内容が不明であったり、結論がなかったりするのをよく見かける。

そう言うのを見ると残念な気持ちになることはある。

論文無味乾燥に見えることを恐れて脚色しすぎなんじゃないかなと思う

2008-07-02

http://anond.hatelabo.jp/20080702153823

サル学の見地でいえば、チンパンジーボノボのメスは複数のオスと交尾をすることが知られている。

彼らは生まれてきた子供が自分の子供かどうかもわからん(だから父親の役割を果たすオスもいない)。

人間はこうなっていないわけで、これを「利己的な遺伝子」だけで説明するのは無理があるんじゃないか?

http://www.pri.kyoto-u.ac.jp/shakai-seitai/ecolcons/hanya/ru/answer19.htmlから、

関連ある質問と回答を抜粋。

Q.ボノボのメスはたくさんのオスと交尾してオスは嫉妬しないのか/たくさんのオスと交尾することはかえってオスの怒りを買うのではないか

A.ヒトの女性と違い、ボノボのメスを自分ひとりで独占することはそもそも不可能なのです。それならば、自分にも同じように交尾の機会がある限り、他のオスの交尾邪魔しても大して得をするわけではありません。嫉妬はないとは言いませんがヒトの男性に比べたらささいなものでしょう。

Q.ボノボチンパンジー交尾はオスメス合意の上か/強いオスがメスに拒まれることはあるか、拒む基準は何か

A.ほとんどの霊長類ではオスはメスに交尾を強制できません。メスがオスを選ぶときにオスの順位は関係ないようです。

Q.他の群れのオスと交尾してアカンボウができてもボノボのオスは気にしないのか

A.ボノボのメスは非常にたくさんのオスと交尾するので、他の群れのオスと交尾してできたコドモか、自分の群れで交尾してできたのかは、オスにも、当の母親にも全くわかりません。「他の群れのオスの子供でも問題にしない」のではなく、「どのオスの子供かわからないから問題にされない」のです。

Q.チンパンジーボノボは生まれた子が自分の子だと分かるのか

A.母親はもちろん分かります。チンパンジーボノボもメスが複数のオスと交尾するので、父親はわかりません。



ツリーに関連のないQ&Aも面白いので、個人的に抜粋。

Q.やはりヒトの女性にも発情期があるのではないか

A.この質問をした人は男性で一人、女性で一人いました。その人たちが証拠として挙げていたのは「女性性交渉の頻度や性欲が月経周期によって異なる」ということでした。これだけでは「発情期がある」とは言えません。「発情期がある」というのは、裏返せば、「絶対に男性を受け入れず、男性にとっても性的魅力ゼロになってしまう時期がある」ということです。これはどう考えてもヒトの女性には当てはまらないでしょう?これを単に無味乾燥定義の問題と思ってはいけません。それこそがヒトと他の動物の大きな違いだからです。

 月経周期によってヒトの女性の性行動が変わるかについては、男性の方はともかく、女性でそうだとおっしゃる方がいることは、傾聴に値します。確かに、自分で排卵を感じる、あるいは性欲に月経周期に応じた変化があるという女性はいるようです。問題はそれが一般的な現象かどうかということですが、まだ信頼のおける研究はありません。

Q.ヒト以外のサルで、発情期以外に交尾し、妊娠することはあるか

A.ありえません。第一に発情していないメスに対してオスは興味を持ちません。第二に、たとえ少々頭のおかしいオスが無理やり発情していないメスに交尾をしようとしても、メスは受け入れません。ヒト以外のほとんどのサルでは、メスが頑として交尾を拒否すればオスは無理強いできません。第三に、百歩譲って無理やり交尾できたとして、発情していないということは当分排卵することはないということですから、射出された精子はいずれ死に、受精は起こりません。

Q.交尾以外に仲直りするきっかけはないのか

A.交尾和解に使うサルボノボなど、ごく少数です。普通は毛づくろいなどで和解します。

Q.ボノボは他のボノボ性交渉を見て興奮するか

A.おそらくするでしょう。これはアカゲザルの例ですが、オスだけを檻に入れて飼っていたときは全く性的な行動を起こさなかったのに、横にオスとメス両方いる檻を置いて交尾が横で行われるようになると、オスだけの檻でもマスターベーション同性愛行動が起こるようになったそうです。

Q.ボノボのコドモはオトナの性交渉を見てまねするか/ボノボのコドモとオトナの尻つけはどういう状況でするのか/どうしてオトナが交尾しているときにコドモが乗ってくるのか

A.ボノボのコドモは性に対して実に興味津々で、オトナ相手に積極的に性的交渉をもとうとします。ボノボのオトナはそういうコドモに対してとても寛容です。

Q.昔の人は避妊をしたか

A.膣外射精などの方法はあったかもしれませんが、もっと一般的だったのは、新生児出産後殺してしまう間引きです。

2008-06-25

http://anond.hatelabo.jp/20080625161718

高校国語」擁護派の意見を書いた増田より。今回はもう少し「文学」に話を振って、擁護してみるよ。

元々の愚痴エントリから付き合ってくれてありがとう

俺の教師も増田並に柔軟な思考を持っていたらよかったと思う。

個人的には、明治の初めまで日本人の「論理的思考力」は漢文を学ぶことによって鍛えられていたと思うが、

同じ役割を英語に期待するのはやはり難しいと思う

時折こういう話を聞くが、俺は日本語が特別、外国語と比較して論理記述力に劣るとは考えていないので「論理的思考力」は日本語で学ぶべきだと思う。

ただ、日本語自然言語であるので、訓練をしないと容易に論理と感情が混同されるので

そう言う意味では、プログラム言語で「論理的思考力」を鍛えるのはアリだと思う。

・・・そう言えば、俺の書いた論説文が教師に「無味乾燥感動がない」とか怒られたことがあったっけw

「学びて思はざれば則(すなは)ち罔(くら)し。思ひて学ばざれば則(すなは)ち殆(あやふ)し」

結局はこれに落ち着くのかな、、、

純文学にこだわらず、マンガでもラノベでも読んでおけば何かの肥やしにはなると思うし

知識と経験の両輪が備わって初めて意味が出てくると言うには賛成だ

また「言葉」というのは、一見共通OSのように見えて実は「出力が近似である」に過ぎない。だから、誰もが気づいているように「同じ日本語」を喋っているように見えて「理解しがたい」人間存在するのだ。

議論をするにはそのOSを統一するというのは前提であって

数学に限らず、工学でも、法学でも、統一されている。

論文の様式が統一されているのはそのためだし、専門用語には定義がついている。

そして論説中はたとえ話は厳禁だ

文学の弱点はその統一がなされていないことにあるのだと思う。

文学者同士が議論しようとするととたんに揚げ足取り詭弁合戦になるのはそのためだ。

国語が「一つのことを表現するのにたくさんの言葉を使おう」と教えているのは論説文を書くための教育では完全に誤りだ

増田はそうならないようにとても注意しているのがわかるし非常に好感が持てる。

(雑談なので堅苦しくはする必要はないが、現に文学定義すら揺らいでいるw)

だから、文学は「「言葉」を限界まで使いこなす」ことは感情表現の分野に限定されていると思う。

それは音楽で言うところの調和がとれて聴こえるどの和音を探求する作業に近しい

感情は脳内ブラックボックスに発生しているので、その表現が多様になるのは必然である。

それは完全に芸術の側面だ

>>いわゆる有名な「ブンガクサクヒン」を授業で取り扱う意味というのは、究極すればここにのみ意味を見いだすことができる。

激しく同意

語彙力を増やすのは素晴らしいことだ

せいぜい言い得るのは、表現はその的確さで評価されるべきで権威で評価されるべきでないという程度だ

広まったキャッチコピー2ch語にはそれなりのものが含まれていると思う

結論としては文学屋は「情報伝達」を行う能力を持ち合わせていないのが大多数で

国語の授業では「情報伝達」する方法が十分に教えられていないのが

現在国語教育の最大の問題だと思う

2008-06-24

http://anond.hatelabo.jp/20080624134951

高校のときの国語教師(女)が、授業中ことあるごとに

『私は無味乾燥数学が嫌いで…それに引き替え人間らしさに溢れてる文学は…』

みたいなことを繰り返してて、

まぁおめーの趣味にとやかく言うことはしないけどよ、その浅はかさとそれをお前が教育すべき子供の前で臆面もなく言っちゃう馬鹿さ加減はどうなのよ、精神年齢いくつだよ、実年齢はいい年こいてんだろおめーはよ、

高校生ながらに思ってたのを思い出した。高校(中学)教師は精神年齢高校(中学)生並の奴が多いから仕方がないのかもよ。

2008-05-12

自分の考え整理のためのチラシの裏

なんか不思議だなと思う。

周りを見ていても、少子化だの晩婚化だのなんだの言っていても、なんだかんだいって皆(ちなみに私は大学生で周りもおのずとそのくらいの年齢だが)、結婚願望、子を持ちたいという願望は備えている。し、実際そうしようとしている。なんだかんだいってまあ最終的にはやっぱり結婚するしやっぱり子供持つよね、みたいな流れ。男女とも。

その当たり前のような流れが凄く不思議

昔の人ならまだ分かるけども、今のご時勢でなんでそんなことを思えるのかって。いや、彼彼女らが、「今の少子化日本を救うために、我々が立ち上がらなければ」と考えているなら凄いけど、まあ、そういうわけじゃないんだろう。

少なくとも私的には絶対ナシ、ナシというか、もう「無理」な感じ。

結婚したら、なんだかんだで共働きでも妻がほとんど家事やってる家がほとんどなのが現状。

子供なんか産んだら仕事していられないだろうし。そしたら退職するんだろうけど元に戻るなんて今の日本じゃ建前上可能でも実際には無理っぽい。よほどいい所でもないと。子供が育ってきて、公立は色々と危ないから私立にいれるなんていったら、金かかりまくり。そしたら子育てしつつパートとか?夫も残業まくりでへとへとで二人になってへとへとで?たとえばそうやって子育てしている間に、夫が実はとんでもない人だと分かっても、今更離婚なんてできない訳じゃん。今の世でシングルマザーなんて考えただけでぞっとする。そもそも子を産んだら、その時点で夫に依存せざるを得なくなる。その状態が正直恐ろしい。夫がとてもすばらしい男性でありその状態が永遠に変わらないという前提があれば問題ないが、そんな前提は当然ながら現実的ではない。実際、そういうことで苦労している女性のなんと多い事か。ああいうのを見ていると結婚なんてなぜするのか、そのメリットが恐ろしいほど一つも見出せない。苦労して育てた子供も自分の面倒見るかどうかなんてわからないし、そんなことを強いさせるわけにもいかない。

とにかく赤の他人に生活を依存せざるをえなくなるというシステムが私にはまず怖い。しかし、子供を産めば今の日本では女性はよっぽど仕事面で有能な高給取りでもなければ一時的どころかその先ずっと夫に頼らざるを得ない。それが非常に恐ろしい。夫がどんなに酷い人間であってもあるいはなっても、逃げることができない、あるいは、逃げても悲惨な道しか待っていない。そんな可能性が割りと多分にあり頻繁に起きているこの世で結婚をしたいという人が信じられない。

結婚前によく相手を見極めればいい」なんて現実離れした話。そんな事は所詮絵空事で実際に可能とは思えない。出来ているつもりの人も多々いるけど、それはたまたま、今まで関わってきた人が裏切らなかっただけの話で、どんなに人を見極めるのが得意のつもりの人でも、いつ騙されるかなんて分かった物じゃない。そもそも人間は変化する。その時点で結婚前に見極めても無意味だ。

まあ実際に私が万一結婚するということになったとしたなら、私は家事を一手には絶対に引き受ける気は無いので、その時点で私と結婚したい男性などほぼ皆無になるのだろうけど。したくないというよりそういう意味では無理だ。その上子供欲しくないなんていったらますます私と結婚したい男性などいなくなるだろう。別段、私には人より優れた魅力があるわけでもなし。

そういうわけで、結構最初から結婚は諦めている。したくもないし、したいとしても相手がいないので無理、ってことで二重に無理。高望みなのかもしれないが、高望みもなにもその条件がダメなら私には結婚に対してデメリットしか生まれてこないので、結婚自体する意味がなくなるというだけの話。

メリットデメリットなんていうなんて変、結婚は愛があってするものだ、とか、子供夫婦が愛し合った結果云々とか、そういうロマンス的な事を語ってくる人もいる。別にそういうのを否定するわけじゃない。わけじゃないが、それだけじゃ生活は成り立ってゆかないのも事実現実的生活を直視した際に、そういったロマンス的な要素は味付けにこそなってもメインの土台には到底なりはしない。愛がいくらあっても食べていけなきゃどうしようもない。ロマンス的な理由だけで結婚子供を作ることが可能なのはよほどの富裕層の話で、私のようなおそらく下流人には既に結婚等にそんなロマンスを楽しんでいる余裕など無いと思うのだ。悲しいけど。

大体情熱的な愛とやらの勢いで結婚した所でそれはいつまで持つのだろう。子供ってなんか可愛いし、子育てしてみたーいなんていう子も周りには多いけど、子供がそんな愛くるしいのって幼児までなんじゃないのか、中学生くらいになって「うっせえよババア!」とか「ていうかお母さんホントウザいんだけど。キモい。アンタに似て生まれてきて私可哀想」とか言われてきてもそんな悠長な事言ってられるのだろうか。いや、多分大多数の母親はそれでも子供が好きなんだろうけど(偉いなホント)、でもそれは「子育てしてみたーい。可愛いし子供」なんてノリでは到底務まるものじゃないんじゃないのか。私にはそんな事が出来る自信はない。一人の人間を育てる自信も責任を負う自信もない。そう言う意味で母と父は凄いと思うけど。結構今のご時勢、子連れの母には「つーか子供つれてくんなウザい」という視線も強いしなあ。そんな社会空気のなか厳しい子育てなんて出来る自信はからっきしない。てか無理。むりむりむりむりかたつむり

ていうかもうぶっちゃけ根本的な事を言えば、そもそも子育てなんかしたくない。面倒くさい。

他人の子供はそこそこ可愛いと思うし姪っ子の世話くらいはするけど、それらが楽しいのは、単に一日だけ預かったりというレベルだからだ。毎日会ったらきっと疲れるだろうし、子供に対して暢気に「可愛い」とかいう感想だけを抱いてはおれないだろうと思う。

自分の遺伝子を残したいとも特に思わないし、残せない事に特に何も思わない。

また更に根本的な事を言うと男性と付き合うという事に特に興味が無い。結婚もしかり。別に男性が嫌いなわけでもないけど、かといって好きなわけでもない。異性関係というのに興味が無い。いや、興味が無いというのは嘘かもしれない。萌えることはするし。性欲ないわけじゃないし。ていうかあるし。

興味が無いというより異性と付き合って、何をするの?ってのが一番素直な所かもしれない。遊園地映画館喫茶店カラオケ?…一人で楽しんだほうが楽しそうだ。数少ない趣味も、適当ドライブしがてらPAめぐりをするのとか本屋で本を探るとかそんな一人でやれそうなもの、というより一人でやるべき物の方が多い。とすると結局恋人同士ならではのことってキスとかセックスくらいしかないけど、別にやりたかない。二次元絵でも探ってオナってる方が正直よい。(よいっつってもしたことないんだけど)

そうすると老後寂しくなる&厳しいかもしれないとしても、淡々と一人で仕事しながら生きていく選択肢の方がなんぼかマシかな、という気になりもする。というよりも、消去法でそれしかないといったほうが近いのかもしれない。まあ……人生におけるロマンス部分はこう漫画とかゲームで補わせていただくとして。サプリのごとく。

しかし……こういう事を考えていくと、「何で生きてるんだろう?」っていうところにどうしても思考が行き着いてしまう。ずっと一人でさ。食っていくために仕事してさ。病気に怯えつつ細々と暮らしてさ。……何になるのさ?なんで生きてるの?って感じはする。もしかして人はその疑問、不安を補う為、子を育てているのかな。

私はなぜ生きているのか、といわれたら、とりあえず、死にたくないし、くらいしか答えが無い。あとは今連載中の漫画が終わるまではとりあえず死ねないとか、やっぱ死んだら親悲しむし、まだ親孝行とかしてへんし、とか、死ぬ勇気(これを勇気といっていいのかどうかわからないけど)がそもそもない……リスカなんて痛そうでとてもできん!毒も怖い!飛び降り!?むりむりむり!!死ぬの怖いよー。漠然と長生きしたいけど、でも長生きしてどうなる?っていわれるとどうしようもない。ただこの世の中というのは、どうなっているのか、この世界の仕組みというか、そういうものにはずっと、興味がある。科学的なアプローチでも哲学的なアプローチでも。なぜ、そもそも、私が存在するのか、私はどこに存在しているのか、なぜ生まれたのか、その前は?私というヒトの個体が生まれた理由は単に、私の親が繁殖活動を行ったから、で終わりなのだが、そうじゃなくてなぜ地球が生まれたか、つーか宇宙が生まれたか、そういうことや、哲学系の本でよくある「そもそもほら3秒前に世界が出来たのかもしれないよ?え?そんなはずない?だって証明できる?できないでしょ?」とかそういう話が大好きなのだ。でもそれは、そういう「未知」の部分に私が逃げているだけなのかもしれない。宇宙やら意識やらという大それた話の、未知なる部分というもので、無味乾燥でどちらかというと辛いだけっぽい人生ロマンス分を補っているのかもしれない。無意識の補填活動なのかもしれない。どこかで「全てが嘘でした」みたいな、そういう根本からひっくり返してくれる何かを少しだけ期待している気がする。今生きているのが滅茶苦茶辛い、一刻も早く死にたい、というわけではないが、結婚も子も完全に期待していないのを前提に、ただ己が食っていく為働き、疲れ、それを繰り返す、その先にいつかは死が待っている、その人生を送るよりかは、たとえ悪い方向だとしても大きな変化を求めているのかもしれない。根底では。でも多分だけれど実際に大きな変動があったら以前の変化しなかった日常を愛しく思うのだろうな。心のどこかで「全てが嘘でした」「(なんでもいいが)大災害で全部地球ぶっこわれました」というのを望んでいるけれどそれが叶ったら多分後悔する。複雑な気持ちだ。

平凡な結論だけれど、やっぱり、何のために生きているのかもなにもない、なんていっても、人間だって結局は単なる動物の一つに過ぎなくて、私という個体はそのなかでも現在だけでも何十億といる同じヒトの中の一匹に過ぎないわけで……私がいなくなろうが世界は(少しばかりの人がひっそりと悲しんでくれるだろうけど)当然ながら動いていくし、いるからといって特に影響があるわけでもない。色んな人がいる、酷い人や、ムカつく人や、優しい人、色々いる、というより、一人の人間において、優しい面もあれば、酷い面もある、いや、というより、優しいと私が感じるような行為を相手が行うこともあれば、酷いという行動を相手が行うこともある。昔は、いや今もその気があるけど、一つ一つのいわば反正義的な行為が許せなくていちいち憤慨していたが……今ではある意味仕方が無いのだとある程度思うようになった。世の中、理不尽で不平等なのだ。そういう世の中なんだ、ってことじゃなくて、そもそも人間価値観からすれば根本的に理不尽で不平等な「もの」なんじゃないかなと。理不尽というけれど世にはただ原因と結果があるだけで、個々に対して理不尽とか正しいとか平等とかそういうものはない。それに人間独自の感覚で味付けを施しているだけなんちゃうかな。それでも人間は自らルールを決めなるべく快適に生きられるようにと色々な工夫をしている。だからおそらくはまだマシな方なのだろう、理不尽さが「ある」から酷い、のではなく、寧ろ基本的に存在するはずなのにこれだけ消えていることに驚くべきことなのではないだろうかと思う。それでもやはり怒るものは怒るし許せないと感じるものは依然として許せないと感じる。しかし理不尽が当たり前だからと言ってそういう感情が私から発することとはまた別なのだろうと思う。納得してある程度消すことも可能だけれどそれはその方がいいのかどうかは分からない。結局……まあ、あれだ。無意味だとかなんとかいっても、そう、そもそも意味なんかないんだよな。別に。ないんだけど、うん、ないんだから、いいのかねえ?「あ、あなたの生きる意味、これですから」って使命書手渡されても、それはそれで、困るし。合致していたらいいけどね、嫌なことだったらそれはもう単純に苦しみだよ。しかしこの場合の「無意味」というのは、「だから自分で作るんだ!」という類の「無意味」とも違う気がする、なんというかもっと根本的な無意味、自分で自分の人生意味を作ったとしてもそれは砂上の楼閣であり、やはり無意味な事に変わりなし、といったレベルでの無意味さなような気がする。うまくいえないが。

だからどうする?わからない。とりあえず、苦痛を避けたい。結局それか。やはり何か人生レベル目標があったほうがいいのかもしれないけど「この命を賭しても……!」といえるくらいの目標がまだ作れない。プチ目標ならあるが、「この命と引き換えにでも」とか言い出すとやはりそこまでではない。何かもっと、「エベレストに登れるならば、この命、登った途端に消えうせても本望じゃ!」みたいな、確固たる目標があると多分生きやすいんだろうな。うん。そう言う意味ではやはり、「あなたの生きる意味これですよ。ハイ」と手渡された方が、思考停止できて、楽なのかもしれない。でも、無い。色々試すには、時間も無い。帯に短し、たすきに長し。漠然と生きるには長すぎる。でも何か本気で探すには、短すぎる。人生ってやつぁ……犬生や猫生より、頭でっかちな分、厄介だなあ。

2008-04-15

http://anond.hatelabo.jp/20080415020101

それは例示として不適切というか特殊な例だな。

例えば高校物理微積分を使って説明することが文科省によって禁止されているけど、物理学微積分の関係を考えたら組み合わせて教えてもらえれば無味乾燥にもならず、何倍も理解の効率はいいと思う。

それは逆で、高校物理微積を隠蔽してる(事実上は使っているが)のは、指導要領の形式のためにわざわざ内容と本質が切り離されてるんだよ。古典力学微積分はニュートンによって同時に創始されたもので本来は不可分のものだ。

むしろ、乏しい知識で「応用が効くように」小細工をした結果が今のダメ教科書というべき。

2008-04-05

一人称について

会話での一人称が常に「僕」なんだが、かっこ悪いとよく言われる。

「『僕』って子供っぽく見られるから、やめたほうがいいよ」とか。

「僕」からすれば、立場関係や状況に応じて一人称を使い分けられるのってすごいと思う。

目上の人と話す場合・・・僕

友達や異性と話す場合・・・俺

そんな器用な真似、とてもできない。

「お前、公的な場でも『僕』なのかよ」と言われそうだが、そういう場合はさすがに「私」。

ただし「わたし」じゃなくて「わたくし」だけど。

「く」を一文字挟むだけで、物事を慎重に・かつ論理的に話そうとする気が生まれるから不思議だ。

女性の場合も、注意深く聞いてると「わたし」「あたし」の2種類がいるね。

でも状況に応じて使い分けというよりは、自身のパーソナリティの捉え方で決まる気がする。

自我を主張したがる子・・・あたし

自我の主張が控えめな子・・・わたし

「"w"の子音が聞こえないだけじゃないの」と思うかもしれないが、

「わたし」と「あたし」じゃ明らかに唇の動き方が違うので、(例え無意識であれ)女性の側で区別は行われている。

鏡に向かって「わたし」「あたし」を発音してもらえれば、その違いは分かるはず。

英語じゃみんな同じ、無味乾燥な"I"なのにね。

日本語って面白い。

2008-01-14

http://anond.hatelabo.jp/20080114185525

自己啓発に限らないのだけど、その手の話がまったく他人の世界に聞こえて困っている。

例えば誰々がどきどきするような恋愛をしてとても幸せだとか

すごく辛かった病気が治ったとか

そういうの聞くと、ああ、ほんと、よかったねえーー、とその人のためにはすごくうれしく思えるのだけど、

自分も頑張ろう、に全然つながらないのが困っている。いや困らなくてもいいのかもしれないが。

いい話じゃのう、と思っている自分と、その横ですーすー寝てる自分と。

安定剤飲むとフラットな気分になるからそのせいかもしれないけども

自己啓発とかライフハックがまったく作用しなくなってしまった。(信じられない、ではなく淡々と人事のように読んでしまう)

選定が悪いのだろうか。逆に無味乾燥な文書はよく頭に入るのだが。

健康だけどちとよわよわになっている人とか、回復期にある人なら効くのかもしれないね。

2007-10-21

http://anond.hatelabo.jp/20071021182233

賢い人は黙っている。

男女平等に扱えなんて言わない。女ってばかとも言わない。ばかと言われて反論したりもしない。男も同様にばかなんて決して言わない。

たぶん性差よりも個人差の方が大きいから、性差なんてどうでもいいと思ってるんじゃ。だって賢いってことは、結構偏ったポジションにいるってことだからさ。もしくは、感情や価値判断向きで、無味乾燥に性差について語りたい、うっかりその辺の人と話すとノイズばっかで語れないとか思ってるかも。

2007-10-19

http://anond.hatelabo.jp/20071019130753

文体とかはそのイメージ化の際に影響してる、と思う。小説に関しては文字を追うほうが世界に入り込めなくて楽しめない。技術書とかになると文字を追わざるを得ないんだけど。というかやっぱり読みにくい文章と読み易い文章とか、テンポその他は小説の面白さに関係してるし、この読み方だからといってそこらへんの要素を切り捨ててるわけではない、と思う。

私の読み方はおかしいのかな、と思ったきっかけが、友人がやたら読書中に漢字の読み方を聞いてくるので、「別に読み方分らなくても回りの文脈から意味分るやん。飛ばしいや」と言ったら、「読み方分からんかったら読めんやん」と言われたことだった。衝撃的だった。彼女脳内で音読するタイプだったので、漢字の読みが分からなかったらどうしても止まってしまうらしい。一応自分読みみたいのをでっちあげて対処する時もある、とは言ってたのだけれど。

多分、【読むんじゃない!感じるんだ!】みたいな感じ。速読=内容理解するためだけの無味乾燥な読み方、というわけでもないと思うんだ。むしろ文章と直結したイメージ世界に耽溺する感じ。読書中は周りが一切見えなくなるし、呼吸数も減る気がする。息詰めて潜水するみたいに。

2007-08-03

フルキャスト事業停止記念マスダ

こんにちは! 今日は記念すべき日だ。フルキャスト(FC)への業務停止命令が決定したんだ。FCといえば、グッドウィル(グッド)と並んで日雇い派遣の大手だからね。といっても、僕はFCやグッドを責めるつもりはない(嫌いなのは確かだけど)。責められるべきは、この“派遣漬け”の日本社会だ。「フルキャストなんて会社、知らないよ」という人は、ぜひ知ってほしいんだ。あなたの現代的な生活が派遣労働によって支えられているということを。

物流業界は、おそらくFC/グッド依存度が最も高い業種だ。現代の物流では、海外から輸入されたり、工場生産された商品は全て倉庫に集約され、そこから全国へ配送される。この倉庫というのは、映画に出てくるような、赤煉瓦と三角屋根古典的な倉庫とはだいぶ趣が違って、「物流センター」とも呼ばれる近代的なものだ。これらは大体、4-5階建てぐらいの、「箱」という形容が相応しい無味乾燥建築物で、お台場あたりから浦安市川あたりの東京湾沿いに集積している。

倉庫では、ピッキングと発送という2つの仕事をひたすら行う。ピッキングってのは針金で鍵を開けるアレじゃなくて、注文に従って棚から商品を選び出す仕事のことだ。たとえば、「うまい棒」を大袋で5袋、「とんがりコーン」を2箱、「プリングルス」を3箱、という指示が来たら、倉庫の中を歩き回って、それらが置いてある棚を見つけて、台車とかコンベアを使って発送係のところへ送る。ピッキング係の仕事はここまでだ。

 発送係は、ピッキング係から送られてきた商品が注文通りかどうかチェック(これを検品という)して、発送用の段ボール箱に詰める。このとき、中で荷物が暴れないように緩衝材を詰めるのが一番大事な仕事だ。詰め終わったらテープで箱を閉じて、パレットの上に乗せる。パレットってのは、フォークリフトのツメを入れるための台だ。パレットの上に乗せ終わったら、サランラップのお化けみたいなやつで荷物をグルグル巻きにする。これで荷崩れを防ぐわけだ。ラップ巻きが終わったらここから先はフォークのおっちゃんがトラックのところまで運んでくれるから、発送係の仕事は終わり。また検品に戻るわけだ。

 ピッキング係と発送係は分業になっていることが多い。つまり、ピッキング係は一日中ピッキングをして、発送係は一日中発送をする。これは恐ろしく退屈な仕事だ。だから正社員はこんな仕事はしない。小遣い稼ぎの学生が主戦力で、すこし年上の氷河期世代チーフとなって指示を出す。もちろん、どっちも派遣だ。

 考えてもみてほしい。あなたは今日、どこで何を買ったか? いや、ここでは「何を」はどうでもいい。「どこで」が重要だ。工場に直接買い付けに行ったりはしていない筈だ。あなたが買った物はすべて、時給700円のワープアによってあなたの元に届けられているんだ。皮肉なことに、ワープア達もこの消費社会の一員なんだけどね。それにしても、この事実からは目をそらしたくなる。我々の生活はワープアによって支えられているんだ。介護事業どころの話じゃない、老若男女みんながワープアありきの構造の中で暮らしているんだ。まったく、何回「絶望した!」と叫んでも足りないよ。

さて、キャンドゥで100円のジュースでも買ってくるか。

2007-04-21

http://anond.hatelabo.jp/20070421181435

だからさ、社会を回すための機能としてコミュニケーションが必要なら、徹底的にそれに特化した無味乾燥なものにしてしまえばいい。

社会を回すために絶対必要だと考えられている能力の習得に困難を感じる人がいるような今の状況は、社会システムとして非合理的。

完全にコミュニケーションマニュアル化して、それから逸脱するものは全部禁止。

これでOK。

でも非コミュに悩んでいる人ほど、何故か負担が大きいコミュニケーションをやりたがるんだよな。

ちゃんとした全人格的なおつきあいとか。

機能的でマニュアル化した関係のほうが圧倒的に非コミュ向きだよー。

2007-02-09

実はスキルアップによる給与上昇と体感幸福度は反比例する?

これはとりあえず派遣とか請負とかのごく狭い人だけの話なのかもしれないけども

時給1200円とかのIT系サポセン要員からスタートして、本読んだり資格試験

対策したりしてスキルアップをして、別の派遣会社に移って時給1600円くらいの

ちょっとテクニカル寄りのサポート業務をやったりして、その後CCNA/CCNPだとかの

ネットワーク寄りの資格とったりして今はネットワーク関連の請負とかって

結構あるパターンだと思うんだけど

時給単価が2000円越したあたりではたと気付くのが

周りに女の子がいなくなっている事。そして職場無味乾燥で灰色な職場だったりする事。

あれー。コネも学歴も無いけど勉強してスキルアップしてITの世界でバリバリ稼いだる

とか思ってたのになぜにこんな事に?

周りが割のいいバイトって感覚で仕事してるのを横目にがんばってきたのに結局コレ?

実は時給1800円以下までのサポセン業務の方が金は無くとも和気あいあいとして女子も沢山いて

楽しかったんじゃね?今じゃ時給単価3000円超えてるけど白髪も増えてて実は不幸せじゃね?

とか思う。

幸せって尺度の問題だと思うけど時給1000円の差でコレってどうなんだろ。

今日もインターネッツにはスキルアップして給料アップして幸せな俺って言う感じの広告がいっぱい。

2007-02-08

オタク」について前から思うこと

この言葉がついただけでなぜ無趣味人間から蔑視されなければならないのだろう。

ぶっちゃけた話(何をぶっちゃけてるのか知らんが)、

なんじゃないのかと。

そう考えると「オタク」って言葉は何かしら趣味や夢中になれることに

邁進できている人ならば、全て当てはまる言葉なのではないかと思う。

ということは「趣味が何も無いんじゃ??」と息巻いている無味乾燥人達が、

オタク」を蔑視するってのは間違いだと思うんだ。単に羨んでるだけ。

寧ろお前も何か趣味とか邁進できることを早く見つけて「オタク」になれよと言いたい。

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