2008-05-12

自分の考え整理のためのチラシの裏

なんか不思議だなと思う。

周りを見ていても、少子化だの晩婚化だのなんだの言っていても、なんだかんだいって皆(ちなみに私は大学生で周りもおのずとそのくらいの年齢だが)、結婚願望、子を持ちたいという願望は備えている。し、実際そうしようとしている。なんだかんだいってまあ最終的にはやっぱり結婚するしやっぱり子供持つよね、みたいな流れ。男女とも。

その当たり前のような流れが凄く不思議

昔の人ならまだ分かるけども、今のご時勢でなんでそんなことを思えるのかって。いや、彼彼女らが、「今の少子化日本を救うために、我々が立ち上がらなければ」と考えているなら凄いけど、まあ、そういうわけじゃないんだろう。

少なくとも私的には絶対ナシ、ナシというか、もう「無理」な感じ。

結婚したら、なんだかんだで共働きでも妻がほとんど家事やってる家がほとんどなのが現状。

子供なんか産んだら仕事していられないだろうし。そしたら退職するんだろうけど元に戻るなんて今の日本じゃ建前上可能でも実際には無理っぽい。よほどいい所でもないと。子供が育ってきて、公立は色々と危ないから私立にいれるなんていったら、金かかりまくり。そしたら子育てしつつパートとか?夫も残業まくりでへとへとで二人になってへとへとで?たとえばそうやって子育てしている間に、夫が実はとんでもない人だと分かっても、今更離婚なんてできない訳じゃん。今の世でシングルマザーなんて考えただけでぞっとする。そもそも子を産んだら、その時点で夫に依存せざるを得なくなる。その状態が正直恐ろしい。夫がとてもすばらしい男性でありその状態が永遠に変わらないという前提があれば問題ないが、そんな前提は当然ながら現実的ではない。実際、そういうことで苦労している女性のなんと多い事か。ああいうのを見ていると結婚なんてなぜするのか、そのメリットが恐ろしいほど一つも見出せない。苦労して育てた子供も自分の面倒見るかどうかなんてわからないし、そんなことを強いさせるわけにもいかない。

とにかく赤の他人に生活を依存せざるをえなくなるというシステムが私にはまず怖い。しかし、子供を産めば今の日本では女性はよっぽど仕事面で有能な高給取りでもなければ一時的どころかその先ずっと夫に頼らざるを得ない。それが非常に恐ろしい。夫がどんなに酷い人間であってもあるいはなっても、逃げることができない、あるいは、逃げても悲惨な道しか待っていない。そんな可能性が割りと多分にあり頻繁に起きているこの世で結婚をしたいという人が信じられない。

結婚前によく相手を見極めればいい」なんて現実離れした話。そんな事は所詮絵空事で実際に可能とは思えない。出来ているつもりの人も多々いるけど、それはたまたま、今まで関わってきた人が裏切らなかっただけの話で、どんなに人を見極めるのが得意のつもりの人でも、いつ騙されるかなんて分かった物じゃない。そもそも人間は変化する。その時点で結婚前に見極めても無意味だ。

まあ実際に私が万一結婚するということになったとしたなら、私は家事を一手には絶対に引き受ける気は無いので、その時点で私と結婚したい男性などほぼ皆無になるのだろうけど。したくないというよりそういう意味では無理だ。その上子供欲しくないなんていったらますます私と結婚したい男性などいなくなるだろう。別段、私には人より優れた魅力があるわけでもなし。

そういうわけで、結構最初から結婚は諦めている。したくもないし、したいとしても相手がいないので無理、ってことで二重に無理。高望みなのかもしれないが、高望みもなにもその条件がダメなら私には結婚に対してデメリットしか生まれてこないので、結婚自体する意味がなくなるというだけの話。

メリットデメリットなんていうなんて変、結婚は愛があってするものだ、とか、子供夫婦が愛し合った結果云々とか、そういうロマンス的な事を語ってくる人もいる。別にそういうのを否定するわけじゃない。わけじゃないが、それだけじゃ生活は成り立ってゆかないのも事実現実的生活を直視した際に、そういったロマンス的な要素は味付けにこそなってもメインの土台には到底なりはしない。愛がいくらあっても食べていけなきゃどうしようもない。ロマンス的な理由だけで結婚子供を作ることが可能なのはよほどの富裕層の話で、私のようなおそらく下流人には既に結婚等にそんなロマンスを楽しんでいる余裕など無いと思うのだ。悲しいけど。

大体情熱的な愛とやらの勢いで結婚した所でそれはいつまで持つのだろう。子供ってなんか可愛いし、子育てしてみたーいなんていう子も周りには多いけど、子供がそんな愛くるしいのって幼児までなんじゃないのか、中学生くらいになって「うっせえよババア!」とか「ていうかお母さんホントウザいんだけど。キモい。アンタに似て生まれてきて私可哀想」とか言われてきてもそんな悠長な事言ってられるのだろうか。いや、多分大多数の母親はそれでも子供が好きなんだろうけど(偉いなホント)、でもそれは「子育てしてみたーい。可愛いし子供」なんてノリでは到底務まるものじゃないんじゃないのか。私にはそんな事が出来る自信はない。一人の人間を育てる自信も責任を負う自信もない。そう言う意味で母と父は凄いと思うけど。結構今のご時勢、子連れの母には「つーか子供つれてくんなウザい」という視線も強いしなあ。そんな社会空気のなか厳しい子育てなんて出来る自信はからっきしない。てか無理。むりむりむりむりかたつむり

ていうかもうぶっちゃけ根本的な事を言えば、そもそも子育てなんかしたくない。面倒くさい。

他人の子供はそこそこ可愛いと思うし姪っ子の世話くらいはするけど、それらが楽しいのは、単に一日だけ預かったりというレベルだからだ。毎日会ったらきっと疲れるだろうし、子供に対して暢気に「可愛い」とかいう感想だけを抱いてはおれないだろうと思う。

自分の遺伝子を残したいとも特に思わないし、残せない事に特に何も思わない。

また更に根本的な事を言うと男性と付き合うという事に特に興味が無い。結婚もしかり。別に男性が嫌いなわけでもないけど、かといって好きなわけでもない。異性関係というのに興味が無い。いや、興味が無いというのは嘘かもしれない。萌えることはするし。性欲ないわけじゃないし。ていうかあるし。

興味が無いというより異性と付き合って、何をするの?ってのが一番素直な所かもしれない。遊園地映画館喫茶店カラオケ?…一人で楽しんだほうが楽しそうだ。数少ない趣味も、適当ドライブしがてらPAめぐりをするのとか本屋で本を探るとかそんな一人でやれそうなもの、というより一人でやるべき物の方が多い。とすると結局恋人同士ならではのことってキスとかセックスくらいしかないけど、別にやりたかない。二次元絵でも探ってオナってる方が正直よい。(よいっつってもしたことないんだけど)

そうすると老後寂しくなる&厳しいかもしれないとしても、淡々と一人で仕事しながら生きていく選択肢の方がなんぼかマシかな、という気になりもする。というよりも、消去法でそれしかないといったほうが近いのかもしれない。まあ……人生におけるロマンス部分はこう漫画とかゲームで補わせていただくとして。サプリのごとく。

しかし……こういう事を考えていくと、「何で生きてるんだろう?」っていうところにどうしても思考が行き着いてしまう。ずっと一人でさ。食っていくために仕事してさ。病気に怯えつつ細々と暮らしてさ。……何になるのさ?なんで生きてるの?って感じはする。もしかして人はその疑問、不安を補う為、子を育てているのかな。

私はなぜ生きているのか、といわれたら、とりあえず、死にたくないし、くらいしか答えが無い。あとは今連載中の漫画が終わるまではとりあえず死ねないとか、やっぱ死んだら親悲しむし、まだ親孝行とかしてへんし、とか、死ぬ勇気(これを勇気といっていいのかどうかわからないけど)がそもそもない……リスカなんて痛そうでとてもできん!毒も怖い!飛び降り!?むりむりむり!!死ぬの怖いよー。漠然と長生きしたいけど、でも長生きしてどうなる?っていわれるとどうしようもない。ただこの世の中というのは、どうなっているのか、この世界の仕組みというか、そういうものにはずっと、興味がある。科学的なアプローチでも哲学的なアプローチでも。なぜ、そもそも、私が存在するのか、私はどこに存在しているのか、なぜ生まれたのか、その前は?私というヒトの個体が生まれた理由は単に、私の親が繁殖活動を行ったから、で終わりなのだが、そうじゃなくてなぜ地球が生まれたか、つーか宇宙が生まれたか、そういうことや、哲学系の本でよくある「そもそもほら3秒前に世界が出来たのかもしれないよ?え?そんなはずない?だって証明できる?できないでしょ?」とかそういう話が大好きなのだ。でもそれは、そういう「未知」の部分に私が逃げているだけなのかもしれない。宇宙やら意識やらという大それた話の、未知なる部分というもので、無味乾燥でどちらかというと辛いだけっぽい人生ロマンス分を補っているのかもしれない。無意識の補填活動なのかもしれない。どこかで「全てが嘘でした」みたいな、そういう根本からひっくり返してくれる何かを少しだけ期待している気がする。今生きているのが滅茶苦茶辛い、一刻も早く死にたい、というわけではないが、結婚も子も完全に期待していないのを前提に、ただ己が食っていく為働き、疲れ、それを繰り返す、その先にいつかは死が待っている、その人生を送るよりかは、たとえ悪い方向だとしても大きな変化を求めているのかもしれない。根底では。でも多分だけれど実際に大きな変動があったら以前の変化しなかった日常を愛しく思うのだろうな。心のどこかで「全てが嘘でした」「(なんでもいいが)大災害で全部地球ぶっこわれました」というのを望んでいるけれどそれが叶ったら多分後悔する。複雑な気持ちだ。

平凡な結論だけれど、やっぱり、何のために生きているのかもなにもない、なんていっても、人間だって結局は単なる動物の一つに過ぎなくて、私という個体はそのなかでも現在だけでも何十億といる同じヒトの中の一匹に過ぎないわけで……私がいなくなろうが世界は(少しばかりの人がひっそりと悲しんでくれるだろうけど)当然ながら動いていくし、いるからといって特に影響があるわけでもない。色んな人がいる、酷い人や、ムカつく人や、優しい人、色々いる、というより、一人の人間において、優しい面もあれば、酷い面もある、いや、というより、優しいと私が感じるような行為を相手が行うこともあれば、酷いという行動を相手が行うこともある。昔は、いや今もその気があるけど、一つ一つのいわば反正義的な行為が許せなくていちいち憤慨していたが……今ではある意味仕方が無いのだとある程度思うようになった。世の中、理不尽で不平等なのだ。そういう世の中なんだ、ってことじゃなくて、そもそも人間価値観からすれば根本的に理不尽で不平等な「もの」なんじゃないかなと。理不尽というけれど世にはただ原因と結果があるだけで、個々に対して理不尽とか正しいとか平等とかそういうものはない。それに人間独自の感覚で味付けを施しているだけなんちゃうかな。それでも人間は自らルールを決めなるべく快適に生きられるようにと色々な工夫をしている。だからおそらくはまだマシな方なのだろう、理不尽さが「ある」から酷い、のではなく、寧ろ基本的に存在するはずなのにこれだけ消えていることに驚くべきことなのではないだろうかと思う。それでもやはり怒るものは怒るし許せないと感じるものは依然として許せないと感じる。しかし理不尽が当たり前だからと言ってそういう感情が私から発することとはまた別なのだろうと思う。納得してある程度消すことも可能だけれどそれはその方がいいのかどうかは分からない。結局……まあ、あれだ。無意味だとかなんとかいっても、そう、そもそも意味なんかないんだよな。別に。ないんだけど、うん、ないんだから、いいのかねえ?「あ、あなたの生きる意味、これですから」って使命書手渡されても、それはそれで、困るし。合致していたらいいけどね、嫌なことだったらそれはもう単純に苦しみだよ。しかしこの場合の「無意味」というのは、「だから自分で作るんだ!」という類の「無意味」とも違う気がする、なんというかもっと根本的な無意味、自分で自分の人生意味を作ったとしてもそれは砂上の楼閣であり、やはり無意味な事に変わりなし、といったレベルでの無意味さなような気がする。うまくいえないが。

だからどうする?わからない。とりあえず、苦痛を避けたい。結局それか。やはり何か人生レベル目標があったほうがいいのかもしれないけど「この命を賭しても……!」といえるくらいの目標がまだ作れない。プチ目標ならあるが、「この命と引き換えにでも」とか言い出すとやはりそこまでではない。何かもっと、「エベレストに登れるならば、この命、登った途端に消えうせても本望じゃ!」みたいな、確固たる目標があると多分生きやすいんだろうな。うん。そう言う意味ではやはり、「あなたの生きる意味これですよ。ハイ」と手渡された方が、思考停止できて、楽なのかもしれない。でも、無い。色々試すには、時間も無い。帯に短し、たすきに長し。漠然と生きるには長すぎる。でも何か本気で探すには、短すぎる。人生ってやつぁ……犬生や猫生より、頭でっかちな分、厄介だなあ。

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