文脈上(アブスト云々が出てきて以降で、僕がどれを書いたかは以前示した)、元増田が書評をしたかは争点でないから、その自分なりの読み方は外れる。
次に、君は書評を書いた人の属性を挙げて「どれが信用に足りるか」とかいってるけど、それは的をはずしてる。私が言ったのはそんなことじゃなくて「知識」の問題。
信用足りえるには、その人の「知識」レベルがあるかの判断が先行するのだから、その程度のことは内包されている。
そのレベルで素人目にも明らかな間違いを多くしでかしてるらしい。そんな本が学術的な意味で信用できると思う?んなわけないでしょ。
ということはブログで書いて批判すればいいんではなかろうか。「らしい」ではなくて元増田の解釈で。「らしい」から抜け出して自ら判断するには同等の判断能力がないといけないだろう。
もうひとつひっかかるのは、「学術的な意味で信用できると思う?」の部分。信用するものじゃないし、それは鑑定人によるのかな。そういう監視の目が行き届いていればいいけど。
今のところ元増田が言っているのは、「学術レベルの能力があると見なされる人がある間違いを指摘している」ことに根拠なく同意しているだけである。現段階では。
ちなみに、
「トンデモ」と呼ばれたくないのなら「エッセイ」なり「フィクション」なりと名乗って満足すべきってのはわかるよね。そういうこと。
僕も読んでいないので言うのもなんだが、もう少し前に書いたけどローマ人と同じくエッセイレベルだと、なんとなく、思っているので、ガチの学術レベルでの論争なぞ望んでいないのではないかとは思うし、そうすることは無粋なのかもしれない。無味乾燥な世界史の教科書とローマ人を比べても。
「らしい」と言っているだけでは、例の学術レベルの人に追随する「ビリーバー」との区別がつかない。そこを聞いているんだけど。何度もね。
僕は元増田に「学術レベルの人のことを、学術レベルで理解できて、批判できるか」かどうかについて聞いているのであって、今のところ「学術レベルの人の言うことを、学術レベルでは、完全かどうかは不明だが、理解はできないにもかかわらず、何故か正しいと信じている」の段階で留まっている。ただ真の学術レベルの能力を持たなくてもなんとなくわかる、ということに関しては少しは同意はするのだが、それに見合った「知識」を元増田が持っているようには見えないもので。あるならあるで自分のブログで書いてくださいな。
とりあえずそのインテリ気取りの気持ち悪い文章なんとかならんか。 信用足りえるには、その人の「知識」レベルがあるかの判断が先行するのだから、その程度のことは内包されている...