言い換えれば自分の無才能を悟った、それをやっと自覚できたっていうのかな。
原因は無趣味さにあると思う。
それは広範囲に興味があるために特定の趣味が無いという意味ではなく、何にも興味を持てない無味乾燥さを持っていること。
例えるなら、生まれついての「不感症」。それらしいインパクトやカタルシス、エクスタシーを感じたことが無い、無感動な人間。
子供の頃からそうだった。漫画、映画、音楽などに特別好きと言えるものはない(絶対数も少ないし、見ようとも思わない)し、
文章を書くということはよくしたけど、自分自身のみを色んな言葉で表現して、自分に対して何か他人から反応されるのが好きなだけ。
生まれてから今まで、そのときその瞬間をあつらえの遊びによって暇潰しをするために生きていた、という感触。
アニメを有意義前向きに消費していくオタクの「好き」さに無意識に憧れて、アニメを見ていた時期があったけど、
アニメ自体がそう面白いものでもなく、『らきすた』を楽しむオタクとの温度差を感じて「違う」と気づいたときあっさりと決別できた。
一時期見ていた『タモリ倶楽部』などとは宇宙を隔てて遠くにいる人間だと自覚する。
こんなことでは、感性の土壌を耕すのはおろか、夢を持てず動機など作れなくて当然だと今振り返る。
それが自分の限界だったと今、素直に受け止められた。自分は何にも影響できない代わりに、何にも影響されないのだ。
元々は、一般人と一線を画した、特別な感性を持ちたいという願望があったのだけど、
それが芸術家肌とか、クリエイティブさみたいないい意味じゃなくて、奇形的な特異さを持った、悪い意味で達成されることになった気がして、嬉しくもあり悲しくもあり。
そんな自分は、元々何の気なしに持っていた願望とは程遠い、人間として最低限動く部分だけを生かした、機械的な社会の歯車としてこれからも生きることになるのだろうけど、
そんな自分は、何のために生きるのだろうか。存在を保っておく必要など、他の人が散々考えてきたように、無い。
まあ、凡庸と呼ばれる人の性質が自分と似た者同士ばかりだったらまた自分は埋もれて悶々とした人生を送るようになるのだけど。
「脳の活性化」という言葉が脳トレだとかアハ体験という類じゃなくて、
自分の中の「好き」といった感覚を人並みかそれ以上に呼び覚ます技術を指さない限り、自分が人間らしい人間として暮らせる日は遠い気がする。