はてなキーワード: アフリカとは
いや、あの絵で普通にいいと思って採用してるんだろ。描いてる人もそんな尖った気分ではやってないと思う。絵本とかでは割とある絵柄だから。社会的には子供に見せても問題が無い絵ってことだな。
もうちょっといろんな絵を見てみたほうがいいな。例えばアフリカンアートとか。それはともかく。
「差別がほんまになくなったら一番困るのはアイツらやねん。だから反対やけど、無くなってほしくないねん」っていう友達の言葉に納得した。
そういう手合いも確かにいるだろうけど、そういう手合いをそういう風に評して蔑視していくことで差別が温存される、共犯関係なんだろうなあ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%96%8E%E8%97%A4%E6%B0%8F
斎藤氏が沼津という土地に移り住んだことには、ローマが東へと貿易を求めてきたことにルーツがあるので、学術的にみても、天皇家側との婚姻関係もあり、沼津の商家が本家であるので掲載の必要があり、関連がないと間違われることのないようにお願い致します。とくに、大衆に知らせる必要性があり、「ビートルズ」や他アーティストとの関連性があるためです。 --斎藤ローマよしあ 2008年6月19日 (木) 01:59 (UTC)
えーと・・・斎藤ローマよしあさんに色々と聞きたい点があるのですが・・・。
- 「ローマから貿易と日本国の建設のために渡来した」とする論拠の史料は何ですか?
- 「斎藤」の姓を使用するのに何(あるいは誰)の許可が要るのでしょうか? 斎藤氏の始まりは、藤原利仁の子・叙用が斎宮頭に任じられたことがきっかけで、「斎宮頭の藤原」、すなわち「斎藤」になったとされているようですが([1]、[2])・・・。
- 斎藤家とスキピオ家を関連付ける論拠となる史料は何ですか?
- 「天皇家側との婚姻関係」とありますが、具体的に誰が、天皇家の誰と婚姻したのですか?
- 「ビートルズや他アーティスト」とどういう関連性があるのですか?
- Wikipediaの方針文書はお読みされたのでしょうか? 「大衆に知らせる必要性があり」とありますが、ウィキペディアは宣伝をする場所ではありませんし、信頼できる情報源により検証可能であることが求められますし、世間に未発表の「独自研究」を載せてはならないという方針がありますが・・・。
以上の点、お答え下さい。--松茸 2008年6月19日 (木) 04:44 (UTC)
第一の重要な発言の証拠としては、私は、沼津の本家の斎藤の娘です。 1.現在の史料文献は今だにございませんが、斎藤家は、イタリア語で「SAIO」「ITO」という言葉がありますように、イタリアが当時使用していた言葉が名前です。とくに、世界史のローマに関する史料をみていただければ、すぐに発見できます。現在、イタリアにもSAITOという言葉を名前に取り入れられている方々が数多くみられるようです。 これは、藤原氏の言語が「WA」という言葉にみられますように、イタリアでは、外来語である「W」が使用されているだけではなく、「FU」という日本語がラテン語にないことでも簡単に判別できます。それは、フランス語やドイツ語、ロシア語、中国語、韓国語、英語における人名などにおける解釈において、単純にラテン語で完全に構成されている違いからも明らかです。それは、日本語の「あいうえお」の母音式教育にみることができます。 2.なぜ、藤原氏が「斎宮」に任じられたのでしょうか?「宮」という言葉は、中国語で「宮殿」の意味で、藤原氏は中国系ではないはずなので、どちらかといえば、漢字教育を広めた天皇家、つまり藤原氏の敵軍にあたるわけで、藤原氏の「まつりごと」ではありえないはずです。 3.単純に当時のイタリアで権力や海外への影響力が大きかった家で、文化的に判断しても、他の家では考えられないということで判別できます。 4.婚姻に関する資料につきましては詳しくはわかりません。 5.答える必要はありません。 --斎藤ローマよしあ 2008年7月1日 (火) 05:34 (UTC)
その質問にお答えします。 斎藤家の人間ではないものが、文献にあるからと、偽った史料により出自を強制的に変更させることはできません。斎藤家の本家の娘が発言しているのに、それが、史料ではないと話すような人はこの世の中で生きていけるのでしょうか?マスコミの出版物などにおいても、斎藤家本人の発言は証拠であり、誰かのインタビューが文献になかったからといって、ウィキペディアでの「藤原氏」などと偽り、当の藤原氏に迷惑をかけるような行為は許されないものです。斎藤の姓を名乗ることに許可がいるかというのは、ラテン語であり、それは、斎宮が仕事の名前で、神宮の仕事の職の名前を姓にするという行為は歴史上考えられないためです。しかも、斎藤実盛は軍人ですし、軍人が輩出されているということは、歴史上、斎宮職の人間ではないと、常識的に判断できます。もし、その斎藤家の娘の言葉に理屈を述べたいという方がいらっしゃるなら、かなり、精神的におかしい状況になっているので、精神科医にみてもらってください。
何度も申しましたように、末裔でございます。事実、私の家には、曾おじい様は、沼津市三園町自治会館にもかざってある写真がありますように、貴族院時代には、市長のような仕事をしておりました。静岡県の斎藤家の項目にも載ってある資料がありますが、そちらの寺院等には少し訂正すべき点がありましたが、この祖祖父が何よりの証拠となるでしょう。ちなみに、沼津市で有名な人物に、水野家、桜井組などがあります。銀行関連や、音楽関連やテレビなどで目にしたりされたのではないかと思われます。かつての御用邸もそばにあります。おそらく、日本と一切関係ないお方が、勝手に記述を変えてしまっているというような印象ですね。この国の教育制度で、そのことが理解できないとなりますと、大変に問題ですね。 漢字の「斎」の文字の使用に関してですが、この文字は、中国の文献資料にもでておりますように、ローマ・システム関連の文字であることが何よりの証拠でしょう。 斎宮歴史博物館には、きちんと事前にメールして記述が間違っていると伝えてあります。根拠は、以前の記録を参照してください。東京大学にも連絡いたしました。イタリア大使館にはすでに連絡済です。出版を考えていましたが、学術雑誌などには、今後、検討いたします。そのもの出身の言葉による歴史は、学術員の研究より優れているものです。それは、どこの国でもおなじです。それにまだ、異論ああるというのは、インディアンや果てアフリカ人、アボリジニ、ローマ人の歴史を否定するようなものです。逆に、あなたは、どちらの何様なのでしょうか?警察にも連絡してありますよ。
まあ、どのくらいの数のちょいケルオタがそういう彼女をゲットできるかは別にして、
「オタではまったくないんだが、しかしちょいケルの童貞臭さを肯定的に黙認してくれて、
その上で全く知らないちょいケルの世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」
ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、アニメのことを紹介するために
見せるべき10本を選んでみたいのだけれど。
(要は「the most relaxing feel」「iamge」の正反対版だな。彼女にアニメを布教するのではなく
相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、時間的に過大な負担を伴うイベント、「芸能山城組ケチャまつり」「Sound Horizon Live Tour - 領土拡大遠征」などの参加は避けたい。
あと、いくらちょいケル的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。
ちょいケル好きが『JVC WORLD SOUNDS』もちょいケルだ!と言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じ。
彼女の設定は
ちょいケル知識はいわゆる「テレビまんがから流れてくる劇伴」を除けば、菅野よう子程度は聞いている
サブカル度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「Enya以前」を濃縮しきっていて、「Enya以後」を決定づけたという点では
ただ、ここで「Enyaの姉がClannadというアイリッシュ・トラッドグループに参加して……」と言ってしまうと、「エロゲーオタ超キモイ!」と彼女との関係が崩れるかも。
この多重録音過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の癒しポイントを彼女に
伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力(ニューエイジ臭くなりがちなちょいケル暗黒部をできるだけスルーするという意味合いにおいて)」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうなヒーリングミュージック(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「ちょいケルオタとしてはこの二つは“音楽”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種のちょいケルオタが持ってる自然への憧憬と、エリック・ムーケとミシェル・サンチェーズのオタ的なサンプリングへのこだわりを
彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにもDeep Forestな
の二要素をはじめとして、オタ好きのする要素を音楽にちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼女は「Hallucinogenだよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
この系譜の作品がその後続いていないこと、このアルバムに収録されていた「Divine Moments Of Truth」がFlash作品となって大人気になったこと、
アメリカなら亜流が大量に発生して、それが日本に輸入されてもおかしくはなさそうなのに、
ちょいケル界隈でこういうのがつくられないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱりちょいケルはアニメによく収録されているよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「地球少女アルジュナ」
でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この作品にかける原の思いが好きだから。
ガムラン使いてーと言ってAKIRAで先につかわれくそー!と思ってもアルバムに収録されている「逃走」で使っちゃうっていう所が、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、
その「捨てる」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。
クゥの長さを俺自身は冗長とは思わないし、もう削れないだろうとは思うけれど、一方でこれが
宮崎アニメの久石譲だったらきっちり自分の音楽の枠内にしあげてしまうだろうとも思う。
なのに、若草恵に頭下げて東南アジアの楽器を取り入れた劇伴を作らせてしまう、というあたり、どうしても
「自分の物語を形作ってきたものが捨てられないオタク」としては、たとえ原がそういうキャラでなかったとしても、
親近感を禁じ得ない。作品自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
今のちょいケル若年層で生のそのままのブルガリアン・ヴォイスを見たことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
菅野よう子よりも前の段階で、ちょいケルの哲学とか女性ヴォイス技法とかはこの作品で頂点に達していたとも言えて、
こういうクオリティの作品が民俗音楽として大昔にかかっていたんだよ、というのは、
別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなくちょいケル好きとしては不思議に誇らしいし、
いわゆる「Zone of the Enders Beyond the Bounds - Theme from Anubis」でしかブルガリアン・ヴォイスを知らない彼女には見せてあげたいなと思う。
KOKIAの「声」あるいは「歌詞づくり」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「終わらない祭を毎日生きる」的な感覚がちょいケルオタには共通してあるのかなということを感じていて、
だからこそテイルズ オブ イノセンスの主題歌はKOKIAや姫神以外ではあり得なかったとも思う。
「祝祭化した日常を生きる」というちょいケルオタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「ちょいケルオタの気分」の
源はKOKIAなどの女性ヴォイスにあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、
単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。彼女がカネダーテツオーと騒ぎ出すか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういうむき出しのエスニックミュージックをこういうかたちでアニメ劇伴音楽化して、それが非オタに受け入れられるか
ナカマーハシルーを誘発するか、というのを見てみたい。
サンホラとかルルティアくせーハルヒのキャラソンとかあればゲラゲラ笑いながら聞きてーなぁ。
「駄目だこの増田は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。
http://anond.hatelabo.jp/20080723030022
を書いた増田です。
ちょっと今度は内輪向けの話かも。
早速だけど本題▼
素朴な質問なんですが是非知りたいので元エホバの証人や古本屋の方は教えて下さい
他宗教で本沢山もってた方でも構いません
本当は人力検索使いたいんですが捨てアカウントとりたくないしまだ現役でなるべく匿名でいたいので
エホバの証人になると、「ものみの塔」や「目覚めよ」という雑誌を毎月もらうし「洞察」とか「聖書」とか重たくて場所をとる本が大量にたまりますよね?
エホバの証人を辞める時、みんなは本をどうしたの?
親や現役信者に渡した?
それとも忌々しいからと捨てたの?
昔聞いた噂(エホバの証人同士の噂)ではエホバの証人の本は資料的価値があり、例えば「洞察」というエホバの証人専用の百科事典などは10万の買取り値がついたため、それを売ろうとしていた゛奥さんが信者で反対してた旦那゛はビビってエホバの証人の教育の高さに感心して後に信者になったとかどうとか。
ちなみに一般の方に事情説明しますがエホバの証人の書籍って普通の印刷会社を通さずに全部自分達で印刷してます。勿論、生産者も信者。給料はありません。住み込みでやってるそうです。
ちなみに、確か二年ぐらい前に日本の印刷施設は日本だけじゃなくアフリカ圏やアジア圏の印刷も担当するようになるため設備強化のために何億か忘れたけど大型のドイツ製の最新印刷機を購入したはず。
まあそんなわけで普通の流通経路使わないからISBNとかついてないしAmazonなどでも売ってない。
そもそも信者の寄付で賄われていて本自体は無償でもらえる(もし良かったらあなたがふさわしいと思う額だけ寄付して下さいねと言われる)から本には値段が書かれてない。
著者は教団名だけで個人名はない。初版発行日や第何版だとか改訂日などの履歴もない。
そんな本ばかりなんだけどこんな本を古本屋さんは買い取ってくれるんでしょうか?
いい加減、この宗教を辞めようと思うのですが大量の(ユニークな)本の処分に地味に困ってます。
信者にあげるのも気持悪くて顔合わせたくないし(考え直せとか言うし辞める人間と接触を禁ずる教義だし)、捨てるにも地域住民に「現役の」エホバの証人と誤解されて眉を潜められるのが嫌です。業者に来てもらって捨ててもらうにもお金かかるし…
いいアイデアや古本屋さんの見解や経験談(他宗教の元信者さんでもOK)を教えてもらえると嬉しいです。
よろしくお願いします。
夏休みになると学校に行っている人たちが、そこらじゅうにあふれ出す。インターネットも、その例外ではない。そして夏になると、「夏厨うぜぇ」とか「ゆとり氏ね」などの罵詈雑言も飛び交う。私はこう言う発言を見るたびに、何でもっと仲良くできないのか、何とかしたいと思っていた。
だが結果からいえば、仲良くなんておそらく無理なのだ。彼らは夏にしか現れない。だとすれば、彼らが使う言葉はどうしてもライターのそれではなく、日常で使う言葉や断片的に覚えた言葉になってしまう。たとえば、日頃から「うんち」の面白さに目覚めて、「うんち」ばかりしゃべっている子供がいたら、ネットでも「うんち」を連呼するはずだ。決して、「要は勇気がないんでしょ」などとはいわない。
閑話休題。つまり、彼らにはアイロニーやユーモア、パロディーなどの、つっこむ技術がない。自分が罵られても、そこから笑いを生み出せない。だから、若くて元気が余っていることも相乗して、「氏ね」「←お前が氏ね」「←お前ら議論は外でやれ」みたいな直情的なやりとりになってしまうのだろう。私はそんな君らを見たくない。そこで、むかつくあいつだけが嫌な思いをする方法を知って欲しい。
はい!というわけで、夏休みに面白い奴になりたい奴は、カフカの審判や太宰治の人間失格、ドストエフスキーの地下室の手記などを読み、言葉でどうつっこめばクールなのか知っちゃいましょう!そして、つまんないコメントを夜空に打ち上げ、爆発と同時に「きたねぇ、花火だ」と罵ればパーフェクト!未来のかっこいい君たちが待ってるぞ!明日は図書館へGO!
おまけ:
良識のない大人の方へ。お前だよ、お前。大人が子供のことを厨房だとかゆとりだとか言って、見下しているだけのお前だよ。アフリカ人だって子供を利用しているってのに、お前は罵るだけなんて本当にいい奴だな。だが、残念なことにいい奴は地獄行きだ。天国は満杯なんでな。あはははははは。まぁとにかく、いらっときたら罵るだけじゃだめだ。そんなんじゃ、いつまで経ってもいい奴だ。もっと自分のことばを磨け。磨いた言葉で、憎い相手をぶった切れ。血が飛び散るようじゃだめだ。相手の心臓だけを狙うようなことばを、自分の武器として持っておくんだ。相手に、にこやかに近づけ。そして、一瞬で息の根を止めろ。そうすれば、地獄にいっても大丈夫だ。さぁ、今すぐ劇薬小説を読め!
アフリカを搾取してるから日本が豊かってのは間違いじゃね?日本との貿易や援助でアフリカがメリット受けてる部分もあるわけだし、そもそも日本はアフリカとの経済関係自体強くない。
なんかおばさんって歳取るごとにちょっと意地悪で冷たい感じになるよね?
俺「今頭が痛いので静かにしてほしいっす」
おばさん「日頃の行いが悪い、こめかみに米でも貼っときなさい」
これって恋愛における男女の考え方の相違による喧嘩と似てるんじゃないか。
女「アフリカの子供たちの飢餓ってとってもかわいそうよね、私に何かできるかしら」
男「じゃあ僕らも節食しようよ。毎日スイーツを食べるのを辞めよう。(アフリカを搾取しているから僕らは豊かなのであって)」
女「...あなたってほんとに心がないわね!」
男「( ゜д゜)ポカーン」
男は身近な解決策を提案することで、相手の不安を解決してあげようとするわけだけど、女子は解決策よりまず共感を求めるっていうどこかで聞いたことある理論ね。
もしこの傾向がほんとなら、おばさんって歳とるごとに考え方も男に近づいてるってことじゃないのかね?
おばさんの提案って実際にはほとんどなんの解決策にもなってないし、なんか冷たく感じる。
今日叔母さんに対してそんなことを思って、ってことは俺もまわりの女子に対してこういう感情を与えているのかもって反省したんだ。
「ええと……どこか世界の涯(はて)の海岸みたいなところをとぼとぼ歩いてたんだ。そしたら、手紙の入った空ビンが流れついて……」
灰色の砂が積った浜辺で、僕は独りで暮らしていた。
灰色なのは浜辺の砂だけではない。海も空も灰色に濁っていた。白と黒の濃淡以外の色彩を持つものはその光景においては皆無だった。もしかするとこの僕自身も例外ではなかったのかもしれない。その時はそんなことは考えなかったけど、もし自分を海の水を鏡に見立てて映し出すことが出来れば、そこに僕はひとりの老成した少年(そう、その頃僕は紛れもなく「少年」だった!)の姿を見出すことが出来ただろう。髪の毛は黒くぱさついて、肌はやたらと白くぶよぶよ膨らみ、白目の中に輝きを失った瞳が黒く点となって存在しているような、そんな少年の姿を。
海辺には常に何かが流れ着いていた。例えば古いレコード。水を吸って死体みたいに重くなった猫のぬいぐるみ。壁に掛けるような大きな時計。判読不可能なくらいに文字がぐじゃぐじゃに滲んでしまった日記(それが日記であるというのも結局は表紙にそう掘り込まれているというくらいの根拠で判断したから、もしかしたら違うかもしれない)。それは全て僕に宛てて流されたものであるようにさえ思われた。でもそんな酔狂なことをやる人間はいない。死んだ人間や、或いは生きている人間が戯れに流したものが自分のところにまで届いた。それくらいの意味しか持たないのだということを、色々考えても結論として自分に納得させざるを得なかった。
僕の方から浜辺の外へ向けて何かを送信することを試みたこともある。壜の中にたった一言、「お前なんか大嫌いだ」と書いて海へ流したことがある。もしかすると――あのポリスの曲みたいに――誰もが結局は「お前なんか嫌いだ」というメッセージを流していて、或る日海はそうした宛てもなく心情を吐き出したメッセージで溢れかえってしまう日が来るのかもしれない...あの海のことを考えると、そういうことを考えることもある。
僕も本当なら自分を理解する人間に向けてメッセージを送りたかった。だけど自分の周囲には僕のメッセージの伝わる人間はいなかった。それどころが、僕がメッセージなるものをもっているということ自体が奇異なことのように思われているようだった。僕以外の人間から僕に宛てられて届くメッセージは痛いほど僕に対して伝わってきた――「お前なんか大嫌いだ」と。だから僕はそうした場所から旅立ち、浜辺へと辿り着いた。郵便の届く保証のない家でじっとしているより、浜辺で永遠に打ち寄せる波とそれに合わせて崩れていく砂を見ている方が好きだったからだ。
そんなわけで、僕はその時期をラジオと猫だけを傍らに過ごしていた。チューナーの狂ったラジオからは色々な電波が流れてきた。帰る星を見失った、 1000光年離れた場所に存在する宇宙飛行士の嘆きと叫びや――そんなものがどうして「その時」届いたのか考えると奇妙な気持ちになる。1000年という時を越えてたったひとりの受信者である僕のところへ届いたということなのだろうか――或いは遠い国の様々なニュースだった。
ラジオが壊れてからは、海岸に時々落ちている貝殻をラジオ代わりに耳にあてて、耳をすましてそこで呟かれている言葉を聞き取ろうとした。遠い国で建設された塔が太陽よりも高みに達したというニュース。人類が或る日滅亡したというニュース。失われた大統領の心臓が発見されたというニュース。月齢が4.7に達した日に彼方へと旅立つ船が航行するというニュース。僕の前世は「アフリカ」という場所で茂っていた一本の葦だったというニュース。その更に前世はドイツの三文詩人が綴り、そして破棄してしまった言葉のひとかけらだったというニュース。そういったニュースを僕は楽しく聴いていた。流れている内容が本当なのか、それとも嘘とデタラメなのかはどうでもよかった。ただ誰かの言葉が聞こえるということ、それだけが僕にとって重要だった。
海辺で戯れに魚を吊り上げたことがある。釣れたのは全身を鱗に覆われた、さながらトカゲのような緑色で固い皮膚を持ち四本の足と二つの乳房と三つの翼を持つ魚だった。頚動脈を切断するべく包丁を突き立てようとしてその魚と目が合った。その目は悲しそうに潤んでいた。魚ではなく、人間の眼のように見えた。「わたしはせっかくあなたの孤独を癒してあげられるのに」とその眼は語っているように見えた。結局その魚は足を切断して三枚に下ろして皮をむいて食べてしまったのだけど、えぐみの残る後味を噛み締めながらその瞳の持つ意味についてしばらく考えてみたことがあった――もっとも一晩眠った次の日になると忘れてしまったのだけど。
その頃の儀式めいた習慣のひとつとして、眠りにつく前に僕はピストルを右のこめかみに当てた。そして冷たい金属が肌に触れる感触を確かめながら、今度こそこめかみを打ち抜こうとした。サリンジャーの短編に登場する青年が最後にやったように。しかし出来なかった。何故だったのかは分からない。死ぬに値するほどの何かを信じることが僕には出来ていなかったからなのかもしれない。それが僕にはひどく辛いことのように感じられた。
「暗い心を持つものは暗い夢しか見ない。もっと暗い心は夢さえも見ない。」死んだ祖母はいつもそう言っていた。
それは1991年のことだった。
http://anond.hatelabo.jp/20080710001202
2兆円?少なくない?
俺はみんなにくばる。60億人に平等に配る。350円位?世界中のみんなが吉牛食べられるよ!
それか、会った人に毎日配る。俺に挨拶しにきたら千円、一日一回限定、みたいな。
でもたぶん日本だけだと地元のテレビに取り上げられて終わりだろうな。
だからもちろん、世界を廻るよ。
成田出発してインドに降り立ったらナマステーの大合唱。おれもナマステーナマステー言いながら歩くうちに秘書がどんどん千円入りの封筒を配る。空港からホテルに着くまでに2000人は下らないだろうな。
翌日から用意してた自転車で各地を廻るの。うわさを聞いた群集がどんどん俺についてくるの。俺のちゃりんこの後に何万のインド人がドドドドドって砂埃上げながらついてくるの。レグールの黒い砂埃が俺のうしろで舞うわけ。それで、行く村々でみんなが首を長くして待ってるのな。村人の好意で寝床も用意してくれるんだけど、夜中の0時をまわった直後に挨拶に来る連中が列を作ってるからおれなかなか寝れないのな。またかよっ、とか眠くて機嫌悪くなってるけど、そもそも言い出しっぺ俺な。
その頃にはロイターが世界中にこのニュース配信してて話題騒然なわけ。で、南インドまで行ったらおもむろに言うの。「陸路でアフリカ行こーかな」ってさ。
インド人動揺するの。やっぱりインド人はびっくりするの。もっとびっくりしてるのがパキスタンとかの人たち。まじで?やべーよ、まじであの変なヤパン人くるわけ?おとーさん頑張っちゃうぞーみたいな。
で、俺はそのまま自転車でパキスタンに入国するの。国境にインド人が集まってるのな、インドだから半端ない人数で、80万人くらい。でパキスタン側にも5万人くらい集まってるの、国境が混乱して
やばい、時間だ。途中だけど、そろそろ逝かないと。夢語るうちに終わることもあるよ。
キリシタンが日本の娘を50万人も海外に奴隷として売った事 - 株式日記と経済展望
『行く先々で日本女性がどこまでいっても沢山目につく。ヨーロッパ各地で50万という。肌白くみめよき日本の娘たちが秘所まるだしにつながれ、もてあそばれ、奴隷らの国にまで転売されていくのを正視できない。鉄の伽をはめられ、同国人をかかる遠い地に売り払う徒への憤りも、もともとなれど、白人文明でありながら、何故同じ人間を奴隷にいたす。ポルトガル人の教会や師父が硝石(火薬の原料)と交換し、インドやアフリカまで売っている』と。
16世紀、キリシタン大名が、日本の若い女性を奴隷として南アジア、アメリカなどに大量に売り渡したといいますが、こうした日本人による日本人奴隷取引について詳しくわかる.. - 人力検索はてな
「キリシタンが日本の娘を奴隷として50万人も買った」という既知外テキストを信じている人がまさかいようとは - 愛・蔵太のもう少し調べて書きたい日記
つづきです。「殺虫剤入り蚊帳」の配布に反対しているNGOの話です。
アフリカでの「殺虫剤入り蚊帳」の普及に反対しているNGOが多くて(協力関係にあるの?)絶望した。
http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/tsuushin/tsuushin_08/pico_118.html#118-3
http://www.npo-supa.com/active/noyaku.html
彼らの主張によれば、使用されているペルメトリンは有害であって、蚊帳には本来、殺虫剤は必要でなく、殺虫剤を使用しない普通の蚊帳にすれば3倍以上の蚊帳を配布できるとしている。
しかし、彼らの主張はどれも根拠の無いものばかり。
ペルメトリンは、現在も日本で認可され、広く使用されてはいるが、アメリカ科学アカデミーが1987年に公表した発がん性リスクの一覧表の中で、「C」(ヒトに対する発がんの可能性がある物質。動物実験で一定程度発がん性が認められているが、
アメリカ科学アカデミーが何かは知らないが、この分野ではもっとも権威のあるIARC(国際がん研究機関)も、またACGIH(米国産業衛生専門家会議)も発がん性の可能性があるとは分類していないし、EHC(環境保健クライテリア)の評価でも発がん性については否定的な評価です。アメリカ科学アカデミーとやらの評価や、発がん性の可能性があるというデータは私は見つけられませんでした。
http://www.inchem.org/documents/iarc/vol53/08-permethrin.html IARCの評価ではGroup3(分類できない)です。2A(可能性がある)よりも下になります。
http://www.inchem.org/documents/ehc/ehc/ehc94.htm EHC。発がん性に関しては否定的。
これらの蚊帳の利用者は無償で受け取ることになっており、蚊帳の生産から利用者に届くまでの諸経費の大半はODA資金で賄われる。他に国連関連団体のWHO、ユニセフ等で配布支援を行っている。1張のコストは、蚊帳のサイズ及び、為替レートにより異なるも2005年10月時点で約700円とされている。
(中略)
サパは、ギニア産蚊帳を農民中心に配布しているが、1張り当たりのコストは約200円前後である。農薬蚊帳1張りに対し3倍以上の数量配布ができることになる。マラリアの予防に蚊帳は有効であるが、利用者の健康を阻害し、コストの嵩む農薬蚊帳は不要で且つ、税金の無駄使いと言わざるを得ない。
マラリアの予防に蚊帳が有効で、かつ3倍以上の数量配布が出来たらとても素晴らしいと私も思います。でもそれはこの変なNGOの妄想であって、現実ではありません。マラリアの予防に「蚊帳」が有効なんて、証明されてません。一方、「殺虫剤処理した蚊帳」がマラリア予防に有効であることは証明されています。医学分野ではもっとも信頼できるエビデンス、コクランライブラリーによる系統的レビューによって。
http://rbm.who.int/partnership/wg/wg_itn/docs/Cochrane_reviewITNs2004.pdf
これによると、マラリアの罹患数は約半分に、子どもの死亡率は17%削減(アフリカに普及させることができれば年間37万人が助かる)することができます。さらに、同レビューから、「殺虫剤処理しない蚊帳」の効果がほとんどないことも明らかなんです。つまり、殺虫剤処理しない蚊帳なんて、意味がない。ほとんどの効果の無いものを、3倍以上配布できたって、やっぱり意味ないですよね。
・・でも彼らは、
また、農薬蚊帳を使うことによって、マラリア罹患率が劇的に下げることができた発表されていますが、それは、単に蚊帳を使用していなかったからです。農薬のついていない普通蚊帳を使用した時、農薬蚊帳を使用した時、という状況下での比較データーはありません。
なんてことを言ってたりします(サパの掲示板 http://6408.teacup.com/supa/bbsより)。比較データはあるんですよ。よほど彼らの調査能力が皆無なのか、それとも意図的に嘘をついているかのどちらかです。
私、これ調べるのに、疑問に思ってから資料集めてざっくり読むまで一時間くらいしかかかってません。
なんていうかね、ここまで来るともうリスクの比較とかそういうレベルじゃないと思うんだ。NGOに難癖つけられてるに等しい。
http://d.hatena.ne.jp/tondora/20080530#p3 彼らはプロ市民だっていう指摘があった。
疑似科学も有害だけど、こういうNGOも本当有害だと思うんだよね。
http://d.hatena.ne.jp/Limnology/20080627/p1 なんか宣伝してまわってる先生もいるし・・。大学の先生なんて専門外ではトンデモになっちゃう例も多いですよね。私も、この件は別に専門じゃないので、批判はありがたいです。
殺虫剤無しの蚊帳なんて配布したら、本当いい笑い物になります。国際的に。
二点だけ。
(1)「空気嫁」と"politically correct"
そういう問題がないとは言わないが、"politically correct" っていう言葉が英語にもあるように、程度の差こそあれそういう話はどの社会にも存在する。それは言語の問題じゃなくて文化の問題。
こちらの誤解だったら申し訳ないけど、まずここで言う「politically correct」とはその場のpoliticsに対する配慮からより適当と考えられる(correctな)言葉遣いを選ぶ、という意味で使っているわけだよね? 場のpoliticsへの配慮というのは、たとえば英語圏にも(程度の差はあれ)存在する、と。けど、そこで言うpoliticsというのはその場にいる人間間の力学に依存するのか、それとも純粋に場に対するそれをも含むのか、よく分からない。たとえば秘境の聖地とされる場所に一人で訪れて、その場の空気と一体化する…というのは(それが自分にとって損か得かという問題とは無縁に)politicsと呼べるのだろうか。ちょっと説明が欲しい。
(2)「議論をしない言語」について
議論をしない言語なんてあり得ないよ。
「忘れられた日本人」宮本常一(http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/33/X/3316410.html)読んでみてくれ。かつての日本の田舎で普通に行われていた「寄り合い」では、「議論」は行われていないのに参加者が全体で「空気」を作り上げることで「決定」がされていた、という話が書かれている。現代の職場の「会議」と称するそれと比較してみるのはなかなか面白い。
また別の話であるが、アフリカのある部族ではもめ事が起こると双方が節に合わせて自分の主張に沿って歌うという解決法を取るという。最初は双方の主張が全然違うから双方の歌声は唱和しないのだが、お互いが歌いながら相手の歌に合わせようと努力し合って、最終的には双方の歌が唱和したところで問題解決、というやり方をするそうだ。これも「議論」とは呼べないと思うがどうだろう。
要は「議論をしない言語(文化)というのはあり得る」ということなんだけれど。
ここ数年一緒に仕事をしてるアメリカのコンサル屋から3人来日。
皆日本は慣れてるけど、これまではいつも移動は車だった。
( ゜Д゜) これから電車に乗ります。ラッシュアワーだけど8分だから我慢して
エッ!?かの有名なトーキョーのラッシュアワー!?
喜んで!!.+゜(・∀・ ) (・∀・ ) (・∀・ )゜+.゜
やたらwktkする3人。
ちなみに白人1、アフリカ系1、アジア系1、全員40から50代のオッサンだ。
しかし彼らを連れて電車に乗り込むと、3人ともきょろきょろしながら不満そうな顔に
そんな混んでないネー(・ω・` )
たいしたことないネー(・ω・` )
噂で聞いてたのと違うヨー(・ω・` )
( ゜Д゜) ……実は私たちが乗ったのは東京のシティーから離れていく電車なんだよ。
この意味がわかるかい?
? (・ω・` ) ? (・ω・` ) ?(・ω・` )
( ゜Д゜) ほら、逆向きの電車を見てごらん
フオオォォォォオオウ!!!!ΣΣ(゜Д゜;) ΣΣ(゜Д゜;) ΣΣ(゜Д゜;)
彼らの視界に入ったのは、まさにラッシュアワーの東京駅行き快速電車。
( ゜Д゜) ニホンではああいう状態を“スシ詰め”と言う。毎朝のことだよ。
あ、あれがスシ!?じゃなくてあれが毎朝!?((((゜д゜lll) (゜д゜lll) (゜д゜lll)))ガクガクブルブル
( ゜∀゜) やっぱり乗ってみたい?
仕方ないな、少しなら時間があるから1駅くらいなら……
Nooooooooooooooooooo!!!!!! ((((゜Д゜;) (゜Д゜;) (゜Д゜;))))
電車からおりた後、ワーオワーオ言いながらその満員電車をバックに記念撮影
こっちは迷惑じゃないかとはらはらぺこぺこしていたが、
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うろ覚えなんだけどこんな感じ。間違ってたら指摘してくれ。
感染経路はセックス、注射の回し打ちなどの血液感染、母子感染の3つ。
(最近医療器具の使い回しが次々発覚してるけど、あれでHIVが広がってないことを願う。)
HIVは発見当初はゲイの感染者が多くて、ゲイ差別とHIV差別がごっちゃになってた。ゲイがうつりやすいのは避妊を考える必要がなくて生でやっちゃうことと、肛門性交は裂傷ができやすくてそこから感染しやすいから。
日本だとセックスでうつるってだけで差別されてる感じがするね。元カノの元カレがHIV持ってれば感染するので、差別を受けるようないわれはない。(処女信仰とか童貞信仰(あるのかな)の議論はここでは勘弁ね。)
芸能人が「HIV検査を受けました」なんて言わなきゃいけない状況が、いまだに差別があることをあらわしてるよね。ほんとは普通の健康診断で検査やってもいいくらいだと思う。
潜伏期間は5年??10年。その間に細胞の中の免疫を作る機能が破壊されていく。
潜伏期間が過ぎると、日和見感染症と呼ばれる、通常ならかからない感染力の弱い病気に次々とかかる。
多いのはカリニ肺炎とカポジ肉腫。つか連続してこの病気にかかった人が発見されたことが、HIVウイルスの発見につながったらしい。
こういった日和見感染症にかかった時点で、AIDSが発症したことになる。
最終的には脳炎や癌にかかって亡くなる。
HIVと共存し、免疫機能が減らないまま生きながらえる人が数%いるらしい。
治療は意外と進んでて、免疫機能を減らさない(HIVを減らす)薬が開発されてるので、毎日決まった時間にそれを飲んでいればAIDS発症は避けられる。普通の生活も送れる。
帝王切開すれば母子感染を防ぐことができる場合がほとんどで、出産も望める。
当然のことながら、免疫機能が破壊される期間が短ければ短いほどいいので、発見は早いほうがいい。
アフリカでは、「処女とセックスすればAIDSは治る」という誤った言い伝えがあるんだと。赤ん坊をレイプする人もいるらしい...。
後は宗教上コンドームをつけない地域でも蔓延してる。これは中南米のカトリック圏に多い。
日本の場合も、女性がコンドームをつけてと言えないこと、男性が生でしたがることが蔓延を助長してる。
ということで、「気をつけていれば感染しないと言うことと、差別される理由のない病気であると言うことが分かりました」という今まで散々世間で言われていることを再認識しただけで終わってしまったw日和見感染症っていうのは初めて聞いたけど。
アフリカとか中東近辺の地域での紛争・闘争(あと戦争?)は、「アラビアのロレンス」よろしくナポレオンの遠征時代から脈々と続く、イギリス・フランスの領土(植民地)拡大の被害がいまだに続いているってやつだよね。
ペルシア半島やアフリカの国々の国境がなぜ直線か、パキスタンとバングラディッシュという国が出来た理由、そこいらを踏まえてみれば、(近代的な意味での)戦争というのは一部の国が自国の利益のためにやりだした経済活動なのではないかと考えがよぎるんだよね。
だから、戦争なんて、実は人類に対して一般的に当てはめてよい性質のものではないという思いもあるんだ。
世界は断片的には切り取れない。
ある局面が劇的に変わるってのは滅多に訪れない。それが起きる時ってのは、(良くも悪くも)英雄的人物が何かしている時だと思うんだ。
国連だけではなく、近隣国や経済的な大国(アメリカ・ロシア・中国・EU)が積極的に干渉してくるしね。それこそ、19??20世紀前半の帝国国家時代では、自国の領土拡大が自国を守ることにつながるという共通認識があったために、ちょっとでも互いの領土拡大行動が干渉しあえば即戦争状態という状況だったわけだが。
現在では、戦争をしても誰も得をしないということがわかってしまっているので、戦争は無いよね。湾岸戦争とかいうのがあったけど、あれは戦争というよりは暴力的イジメだし。アフリカでの内紛は、イジメに耐えられなくなった弱者がキレて暴力沙汰になってしまった感じだし。
それよか、「芸術が人類の至宝」って考えのほうが気になるんだけどね。
何を指して芸術って言っているのかな?
誰か偉い人が「これはスゴイ!」って言ったものを指して芸術って言っているの?
作品を作った本人が、芸術だと言った物を指しているの?
ねぇ、なんなの?
映画館で映画を見てるときに急に煙たくなって外に逃げ出すと、白昼の路上で軍隊が学生グループを棒で殴りつけている。
このシーン、ホラー映画でゾンビ軍団が人間を襲撃するシーンのようなパニック感がある。また時期が時期だけに秋葉原通り魔事件も想起してしまった。
その後、市民軍が組織され、軍隊を撤退させて政府施設を占拠してしまうというのも別の角度から驚いた。
民主化していなかったとはいえ、政情不安なアフリカや南米の途上国ではなく、それなりに都市消費文化を享受していた韓国でこんな事件が実際に起こっていたのだ。1980年の話だ。ほんの最近だ。
自分も韓国人とは付き合いがあり、仲良くしているが、こういう歴史を経てきた国の人たちとはどこかで感性が違うのかもしれない。