高級食パン店の「銀座に志かわ」が気に入らない。気に入らないのは食パンやお店のサービスなどではない。店名の表記だ。なぜ「志」だけ漢字なのか。
このうち、現代でふつうに使われるひらがなには「あ~ん」の46字とそれらに濁点/半濁点をつけたもの、促音や拗音を表す小文字がある。
現代仮名遣いではあまり使われないが、ワ行の「ゐ」「ゑ」もひらがなとして認知されているだろう。
「現代でふつうに使われるひらがな」などと持って回った言い方をするのには理由がある。「変体仮名」という種類のひらがながあるからだ。
実は明治時代以前にはひらがなは約50字+それらのバリエーションなんてものではなく、とてもたくさん種類があった。
ひらがなが漢字を崩したものからできたということは国語の授業で教わった記憶があるかもしれない。
現在使われる「あ」は「安」を、「い」は「以」を崩してできている。
明治時代以前には「ア」のバリエーションとして「安」を崩したものの他に「愛」や「阿」などを崩したものも使われていた。
「こんなにたくさんひらがなの種類があると学校で教えるのが大変だし、ひらがなの種類をたくさん教えるよりはもっと他のことを教えるべきだ」ということで、1900年に小学校令という法令の施行規則を改正し、ひらがなを現在の1音1字に整理した。
これ以降、学校教育ではひらがなが現在の約50字+αに制限され、整理されてしまったその他大勢のひらがなたちはだんだんと忘れられていってしまった。
そば屋ののれんで「生そば」とよくわからない筆文字で書いてあるなと思ったことがあるかもしれない。これは「そ」と「ば」がそれぞれ変体仮名で書かれている。
現行の「そ」は「曽」を、「は」は「波」を崩したものだが、よく見かけるそば屋ののれんは「楚」を崩した「ソ」と「者」を崩した「ハ」を使っている。
「者」を崩したというのはやや分かりにくい気もするが、「楚」を崩したというのは「言われてみれば『楚』かな」というくらいに原形をとどめていると思う。
長々と講釈を垂れてきたが、いよいよ「銀座に志かわ」の話に入る。
ここまでの説明でうすうす気がついたかもしれないが、「銀座に志かわ」の「志」は漢字の「志」ではなく、変体仮名の「シ」だと思うのだ。
現行の「し」は「之」を崩したものだが、変体仮名の「シ」には「志」を崩したものも含めてやはりバリエーションがある。
そば屋ののれんを文字に起こすとしても「生そば」とは書いても「生楚者゛」とか「生楚ば」とはしないだろう。
「楚」も「者」も特に意味があるわけではなく、単に音を表している記号だからだ。
漢字は一字一字に意味がある表意文字だが、ひらがなは単に音を表す表音文字だ。
要は「銀座に志かわ」には「銀座にしかわ」と表記してほしいのだ。
「銀座に志かわ」の店名の由来は社長の名前が髙橋仁志(ひとし)で、名前の「仁志」を「にし」と読ませて、水にこだわっているから「川」をひらがなでつけた、ということらしい。
https://www.ginza-nishikawa.co.jp/company)
そしたらせめて「銀座仁志かわ」にしてほしかった。ちなみにひらがなの「に」は「仁」を崩したものだ。
店名のロゴをデザイナーか書道家に依頼したら、上の由来を含めて「シ」を「志」の変体仮名で書いてきたけど、志の崩し方が漢字の原形をとどめているので「ふーん、志だけ漢字にしたんだ」という感じで「銀座に志かわ」の表記になったのではないか。
パン屋としての「志」を込めて、というよりは近代の国語教育の敗北のような気がするのだ。
余談だが、同じ高級食パン店に「乃が美」という店もある。こちらも「変体仮名を知らずに漢字にしたのか」と気に入らなかったのだが(「の」は「乃」を、「み」は「美」を崩したひらがなだが、「乃が美」のロゴは漢字の原形をとどめた崩し方になっている)
「乃」~それは、「すなわち、まさしく」という意味。
「美」~それは、「姿、色が美しい、感動、美味い」という意味。
その揺るぎない信念を、『乃が美』の社名に込めております。
という由来があるらしい。
https://nogaminopan.com/about/
こちらには「乃」と「美」を漢字で表記する意味があるのかもしれないと思って納得した。
ちなみに乃が美は2013年、銀座に志かわは2018年の創業だ。
変体仮名はその経緯もあって、いわゆる老舗の屋号によく見られる。
高級食パン店が変体仮名(と思われる)表記を使いがちなのは、なんとなく高級感を演出する道具として変体仮名の筆文字を使っているからなんじゃないかと思っている。
日本語の表記には寛容でありたいと常々思っているのだが、どうも変体仮名を中途半端に漢字で書くのは気持ちが悪いと思ってしまう。
「銀座に志かわ」そのものが嫌いということではまったくないし、おいしいパンをどんどん売ってほしいと思っている。
こんな釣りみたいなタイトルの記事にして申し訳ない気持ちもあるが、ずっとむずむずしていたのだ。許してほしい。
変体仮名については国立国語研究所のYouTubeがわかりやすい解説動画を公開している。3年前の動画なので、パソコンでの文字入力についての内容はやや古くて、現在はもう少し話が進んでいる。
独立行政法人情報処理推進機構と国立国語研究所がパソコンで変体仮名を入力するために整備した事業の成果も公開されていて、変体仮名の一覧が見られたり検索できたりする。
https://cid.ninjal.ac.jp/kana/home
初学者向けの変体仮名学習アプリもここ数年でいくつか登場した。早稲田大学とカリフォルニア大学ロサンゼルス校が開発したもの(https://www.waseda.jp/top/news/34162)は洗練されていてかっこいいし、大阪大学が中心になって開発したもの(https://kula.honkoku.org)は練習問題など機能が充実している。
変体仮名に慣れるとお店の看板だけでなく、美術館や博物館の展示などでも読める範囲が広がる。某大佐ではないが「読める!読めるぞ!!」となるのはとても楽しいので気が向いた方はぜひ挑戦してみてください。
アメ人が「C」を「K」に替えて書くようなもん、かっこええやん?(反語
老舗と呼ばれるような店に多いから真似してるんだろうね。 でもルール分からず雰囲気で真似てるからチグハグになっちゃうっていう