とか書くとその手の人がボロックソに叩きに来るだろうなぁと思いつつ。
ぜひそういう方も最後まで読んでほしい。……多分無理だろうなぁ。
平等という考え方には大きく2種類あると思っていて、「スタートラインの平等」と「ゴールラインの平等」の二つがそれだと思う。
スタートラインの平等というのは機会均等の考え方で(どちらかというと欧米的な思想)、ゴールラインの平等というのは結果平等の考え方。
日本で「平等」というとどちらかというと後者の結果平等を指すことが多くて、そのうえで男女平等を考えるとおかしなことになる。
どういうことかというと、「女性だから」という理由で何らかのアクションをする機会すら奪うのはよくない、男性と同じようにチャンスくらいはくれ、という考え方である。
具体的な例でいえば、「女性だから」という理由で高等教育機関への入学を断られるとか、選挙権が制限されるといったようなことだ。
これはおそらくほぼすべての資本主義国家においてはクリアされている……と思われる(ちゃんと調べてないので確定的なことは言えない)
しかし、ここで日本的な「結果平等」で男女平等を考えるとおかしなことになる。
(そもそも「結果平等」がなんで日本的な平等観なのかという説明はここでは省略する)
男性と女性にはそもそもの生物学的な「性差」が存在して、それを乗り越えるのは一般的には不可能である。すごくざっくばらんに言うのであれば、男性は子を成せないし、母乳は出ない。
逆に女性は男性のような強靭な肉体は特別なトレーニングを行わない限り基本的に得られない。
さらにえぐい話をするのであれば、本能的に男性は女性の身体で興奮するようにできており、そうでないと子孫はつないでいけない。もちろん人間には「理性」というものがあるので時と場所を選ぶことができ、そして時と場所を選ぶ必要がある。他の生物を見ても、基本的に雄が雌に求愛行為をする生物が多いだろう。そういうことである。
つまり、平等という秤に乗せる二つのものがもともとそれぞれ欠けたものがあって、結果平等にしようとするとどちらかに引いてもらうしかないのだ。
例えば、男性は子を成せないし、子供を産んだ後の育児に女性は不可欠であるから、必然的に出産から育児の過程では女性の方がそちらにリソースを割くことになるだろう。
この時、「男女平等!男性も育児をしろ!」となるとどうなるかというと働く人がいなくなる。二人で子育てをしようとしたところで男から母乳が出るわけではない。
そういう意味では「男は仕事、女は家庭」というのは、なるほど、生物の仕組みに沿った考え方だと思う。
もちろん、これを基にして「だから女が仕事をするとは何事だ」という文脈にとるのは間違っている。女性だって仕事をしたって良い。そういう機会は与えられるべきだ。
そもそも、女性にも結婚をせず自分ひとりで生きて、そのために仕事をする、という選択肢は保証されるべきで、そういう意味では先ほどのフレーズは女性を縛る悪魔の言葉であるというのも理解はする。
さて、機会平等と結果平等について簡単にお話をしたが、どうも日本において各所で見られる「女性の権利」を謳う方々の意見は結果平等の方の男女平等を求めているように見える。
だがそれは無理だ。そもそも形の違うものを平等にするためには、ハンデを持っている方に合わせる必要があり、それは機会平等を奪う。
つまり、機会平等の観点からみると逆差別が発生するだけなのである。実際にそういったことが現在進行形で進められ、さぞかしそれが正しいことのように進んでいる。
しかし、ちょっと待ってほしい。それは結果としてまた別のひずみを生むだけなのである。
タイトルで私は「男女同権・男女平等は日本には無理」と述べたが、日本でもちゃんと「機会平等」という考えが浸透し、結果平等と違うんだということが分かってもらえれば可能性があるだろう。
しかしながら、声の大きい方々の多くは結果平等しか見えてない気がしてならない。もしくは機会平等と結果平等を意図的もしくは理解せずに混同している。
そういった現状で、「機会平等としての」男女平等や男女同権が実現されるのは、日本においてははるか未来になるだろう。
……それこそ、日本において「機会平等」という意味での男女平等が戦後になるまでまともに行われなかったように。
そんなことを、いろいろなニュースや、話を聞きながら思うのであった。
正直周回遅れ。 男女平等というより、現在の日本は「一億総活躍しないと日本はつぶれてしまうぜ」社会になりつつあるんで、男女共に仕事してくれないと持たない社会になりつつ...