2021-11-16

自己肯定ができない人は、どうすれば幸せに生きていけるのだろう

※はじめに※

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逃げ口上申し訳ないですが、性格が良いわけでも、論理的なわけでもない私が、甘ったれた考えを述べている記事です。

炎上したら傷つくだろうけど、もしかしたら参考になるコメントがきて、病状改善に繋がるかもしれないと、

一縷の望みをかけてネットに公開しています。どうぞお手柔らかにお願いします...

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私は、精神疾患休職中だ。

現在休職してしばらく経ち、目立った病状はなく、日々を過ごしてはいる。

とはいえ回復のため、意図的に傷つくことを避けているだけで、

ふとしたきっかけで、辛い気持ちや考えに向き合うと、胸が重苦しくなり、涙が止まらなくなる。

前に進むために、傷つきを頭の隅に追いやり行動していくこと、自分自身を認めて幸せにしようと努めることが大切だと、重々承知している。

しかし、今は、些細なことにすら傷ついてしまうので、立ち止まることしか出来ないと思ってしまう。

そして、そんな自分自身を、正しいと思うことができないのだ。

「都合の良い選択ができるよう、思考を捻じ曲げているのではないか」とも思うし、

「少なくとも、幸せに生きるために必要なことをしているのだ」と、自分肯定することもできない。



幸い、贅沢はできないが、しばらくは金銭的困窮には陥らないし、家族や友人の愛情を感じながら過ごしている。

前よりも熱中できなくなってはいるが、気分転換になるような趣味もある。

本当に恵まれ環境だと思う。

それでも、生きていたいと思えない。

社会適応できない苦しみを重ねながら生きていくぐらいなら、今すぐ死んでしまいたい。

今すぐに死なないと耐えられないわけじゃない。でも、生きていたくない。だから死ねるなら死にたい

甘えだということは、重々承知している。

しかし、甘えだという自覚が、死にたいと思う気持ちを止めてくれはしない。

自殺を止めてほしい、誰かに優しくされたい、というかまってちゃんに思われるだろうか。

信じられないかもしれないが、私はかまってほしいがために自己主張をするタイプではない。

自己主張をすることで批判を受けることの方がよっぽど怖いし、

読み手が私の構ってほしいという意図を感じて、耳ざわりの良い言葉を投げかけてくれているのではないかと疑ってしまうので、

承認目的としたかまちょ欲求はあまりない。

かまってもらいたいという欲求を満たすために行動することも、

向けられた言葉や行動を深く疑わず自分安心につなげることも、私はできないのだ。

かまちょは一長一短ではあるが、私に関しては、かまちょになれない、こういった疑い深さが、精神健康を害する一因なのだろうな。



ここ数日、薄暗い考えがぐるぐる頭の中を巡って、どうしようもなく苦しくなり、落ち着いていた病状も少し悪化してきてしまった。

誰かから思いがけない意見を貰えないだろうか、と思い、行き詰っている気持ちの発散も兼ねて、文章を書き連ねてみた。

最近病気の本の療法解説や、小説映画ストーリーで、

傷ついた人は、人との関わりの中で、救われるのだというメッセージが込められているものが多いことに気づいた。

私も、人との関わりを避けるのは安全だが、病状改善を目指すためには、人とのコミュニケーションをとっていくことが重要だと思う。

実際、自己啓発本病気の本を読んで、慰めを得たり、論理的解決策を学ぶよりも、

人とのコミュニケーションをとる中で、気分が満たされたり、自分に自信を持ったり、考えが変わることの方が、影響が大きかった。

から、この記事でも、あわよくばコメントを貰って、病状改善きっかけにしたい、という淡い期待を抱いている。



昨今の、自分らしく生きよう、自分肯定して、自分自分幸せにしよう、という世の風潮は、大変素晴らしいと思う。

自分が深く傷ついたからこそ、自分を責めずに、無理をせずに、最大限幸せに生きることを目指す大切さは、普通の人よりも身に染みている自負すらある。

そういった考えを発信する著名人が増え、若い世代を中心に浸透していっているのも、本当に喜ばしいことだ。

この風潮がもっともっと広まって、世界中の人が傷つきから解放され、幸せだと思いながら生きていければ良いなと、心の底から願っている。

その一方で、私は、いつまでも自分肯定できないでいる。

賛同することと、自分ができるかどうかは別問題なのだ

こんなにも、自己肯定重要性を感じているのに、どうして私は自分肯定できないのだろう。

自分肯定しないことで、傷つきを盾に、現実と向き合うことを避けているのだろうか。

そうだったとして、それはどうすればやめられるのだろうか。



特に根拠のない考えなのだが、個人尊重する、優しい世界が構築されていく中で、

家族にのびのびと育てられ、友人とも大きないさかいがないまま成長していった結果、

傷つくことにも、それを乗り越えていくことにも慣れていない人が増えているのではないだろうか。

しかしたら、今後私のような悩みを抱える人が出てくるかもしれない。

その人たちが、この記事に対するコメントなどで、解決策を得られたらとても嬉しいし、

そうでなかったとしても、同じような人がいるよ、ということだけでも、伝えられたら良いのだが...

例え、自己肯定ができる人が多数派の世の中になったとしても、

自己肯定が上手くできない人々が、経験や考えを共有しながら、解決策を見つけていく事で、

少しでも多くの人が、生きていることを楽しめるようになってほしい。

私はまだ、自分幸せにする方法が見つけられていないけれど、

どなたかからコメントか、天啓的な閃きか、ささやか気づきか、何か解決への糸口が見つけられたら、またブログを書いてみようと思う。

  • 自己肯定する必要なくない? 〇〇しなければならない、という思想自体が幸福ではないよね そもそも幸福でなければならないというのも思い込みだけど

  • ご病気されていて休職中とのこと。心労お察しします。 そんな中、少し変わった意見で心苦しいですが、私の経験を書きたいと思います。 私も、自分を大切したり肯定することが大...

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