2016-03-03

母親人生をぶっ壊された話。

母親人生をぶっ壊された話

創作だろ、と思うくらいで読んでくれれば幸いです)

幼い頃から一緒に暮らしていなかった母親は、

私のことを愛していると言った。

母親と会うのは、月に一度。

住んでいる場所は遠くはなかったが、なぜ一緒に暮らしていないのか、幼いながらにタブーだと知っていたのか、きちんと確認したことはなかった。

それでも母親わたしを愛していたらしかった。

小学四年生の頃の運動会では、全身を私のチームの色のジャージ手作りポンポンや旗を振り揃え、クラスメイト保護者たちの失笑を買っていた。

半年に一回の授業参観でも、私が発表するたびに「私の子です!」と周りに伝え、悪目立ちしていた。

クラスの子からも「変わったお母さんだよね」と言われていた。

私を愛していると言っていたお母さんは、私が高学年になったあたりから回数が極端に減った。

月に一度が、長期休みの間に一度と、年3.4回へと減っていた。

小学六年生の冬、丁度この頃に母親から電話があった。

「お母さんね、整形したの。」

突然の告白に動揺を隠せず、「なんで?」と聞いた声は震えていたと思う。

自分の顔が、嫌いだから。」

その日の電話は、とても長かった。

まり内容をハッキリ覚えていないけど、「お母さんがそうしたくて、そうしたのならいいと思う。お母さんが幸せになるならいいよ。」と返したと思う。

本心かどうか分からなかったが、唯一の肉親だった母親に嫌われたくないための、建前の方が強かったと思う。

母親が返した言葉は覚えている。

あなたのためよ。私じゃなくて、あなたのため。」

ところが、私の人生は一転する。

ある日、登校すると同級生の様子がおかしかった。

から距離を開けて、ひそひそと話している。

瞬時に「やばい。」と感じた。

少女漫画で見たことのある、いじめの始まりのシーンが自分の身に起きていた。

それまでの私は生徒会の一員で、友達も決して少なくない方だった。

そもそも、一学年1クラスしかないような小さな学校だったが、男女ともに仲が良く、学校生活は充実していた。

原因がわからず、一番の親友だった女の子に話しかけると「わからないの?!」と言われた。

怪訝に思っていると、担任に呼ばれた。

担任から聞かされたのは、自分の身に起きたとは思えない、現実味のない言葉だった。

あなたのお母さんがテレビに出て、クラス中で騒ぎになっている。」

その日は早退した。

帰って保護者だった人に担任から聞かされた内容を話した。

担任から電話があったらしく、私よりも詳しく事を把握していた。

当時放送された整形番組母親が出演したらしい。

番組では、母親がどれだけ容姿コンプレックスを持っていて、その容姿によってどんなに不幸な人生を歩んできたか

そして、番組内で整形手術をし、ダイエットをし、美しくなった。

後日、別の学校だった親友に録画してあった番組を見せてもらった時、母親が誰か分からなかった。

番組内では、母親がメインとして扱われ、美しくなり、大物タレントに「幸せになってね!」と励まされ、スタジオ号泣の美ストーリーだった。

自分の身内でなければ、第三者だったら、感動で泣いていたと思う。

でもその日から陰湿イジメを受けた。

番組内のVTRで流れた母親が受けた不幸エピソードを準えるようなものが主流で、傍観している生徒もクスクスと笑う。

小学校はその後すぐ卒業したが、中学校でもすぐに噂は広まり上級生がわざわざ私を尋ねて顔を見に来ては囃し立てるくらいだった。

しかけてくる子はみんな、二言目には母親のことを聞いてきた。

中には、母親のことを聞くことを罰ゲームとして、好奇の対象になった。

初対面で会う人が、みんな大嫌いになった。

初対面で会う人と、うまく話せなくなった。

自分の育った環境が特異的で、どうしても逃げられなかった。

部活動禁止携帯電話禁止、終業後はすぐに帰宅

友達を作ることもできず、何か別のことに打ち込むこともできず、転校もできなかった。

私のためだ、私を愛してるからだと言っていた母親も、住みにくくなり、すぐに遠くに逃げた。

東京で夜の仕事を始めたところまでは把握していたが、その後連絡を取ることを禁じられた。

怒る対象を失い、頼る友達を失い、安らぐ場所を見つけられず、中学時代孤独だった。

高校に入り、流石にいじめはほぼ無くなり友達もできたが、一緒に笑っている友達が、心の中では私のことをバカにしているのではないか、陰で笑い者にしているのではないか、好奇で一緒にいるだけではないかとずっと怖かった。

結局高校時代友達には、私の母親のことを知っているかなどハッキリ聞けないままだったが、心の中で抱いていた疑心を気にしなくなるくらい仲良くなれた友達もいた。

高校卒業し、就職した。

保護者だった人が、念のためと母親に私の連絡先を伝えたと言った。

「もう幸せ暮らして、私のことを子どもだとも思っていないんじゃない」などと冗談めいて言ったが、心の中ではそうに違いないと思っていた。

結果的に言うと母親幸せになどなっていなかった。

美しくなったはずの顔は、数年で元に戻ったらしく、段々と失われる美貌や居場所が原因で、重い心の病気になって入院していた。

母親から掛かってくる電話で「幸せ?」と聞いた時に「全然幸せになれなかった」と言われた時に、初めて明確な憎悪自覚した。

せめて幸せになっていてくれれば、母親を怒鳴り罵り、私がどれだけ嫌な思いをしたか伝えられた。

でも「幸せになれなかった」とハッキリ言う母親を、責めることなんてできなかった。

「そっか、私もだよ。」と伝え、その後母親から電話に出なくなった。

未だに、小学校時代人生が転落したあの日のことを夢に見る。

未だに、目の前にいるこの人は母親のことを知っていて、心の中では嗤っているんじゃないかと思う。

未だに、初対面の人とうまく話せない。

この先、結婚するような相手が出来たら、必ず母親のことは負荷になる。

母親が生きている限り、隠すこともできないだろうと思う。

事の顛末を聞いて、手のひらを返すような人はこちらとしてもお断りだが、結婚相手は受け入れても相手家族がどう思うかわからない。

出来れば、私の過去から消し去りたい。

「どれだけ親と仲が悪くても、産んでくれたんだから感謝しやきゃいけない」

という言葉を聞くたびに、虫酸が走る。

今では母親が近くに住んでいなくてよかったと思う。

近くに住んでいたら、危うく殺しかねない。

でも母親には幸せになって欲しいと思う。

私が一番楽しい青春時代を奪われた分、幸せになってくれなければ割に合わない。

美しくて、幸せに楽しく生きる母親に、自分をぶつけ転落させたい。

なぜ今これを書こうと思ったのかはわからない。

ちょうど10年が経ち、自分の中で一つのケリをつけたかったのかもしれない。

当時の知り合い以外に、自分からこの話をしたことがなかったから、他人見解を聞きたいのかもしれない。

私の考え方は間違っている、私の不幸の原因は母親ではなく私自身にあるのだと叱って欲しいのかもしれない。

つらかったね、頑張ったねと慰めて欲しいのかもしれない。

こうすればよかったのに、こうすればいいのにとアドバイスが欲しいのかもしれない。

お前より不幸な人間は他に五万といる、と鼻で笑って欲しいのかもしれない。

所詮自己満足である

私の人生は、私が身動きを取れない間に、唯一の肉親に壊されてしまった。

こう言って私は、この先もずっと母親を恨んで、母親に全ての責任転嫁し続けると思う。

お母さんへ、私のために幸せになってください。

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