はてなキーワード: 観音経とは
という言葉が、観音経にあるらしい。あいにく、私は読んだことがなく、ネット知識であるので間違いがあったら許して欲しい。
意味としては、
長い時間をかけて何かをやり続けても結果が出ないことがある。
それでも、そのことについて悩んだりすべきでは無い。
結果として、何も成せなかったとしてもだ。
的なことらしい。
要するに、何者かになろうとするのは良い。
でも、何者かになれなかったとしてもそれを悔やんではならないよということだ。
なかなか、耳が痛い言葉である。でも、観世音菩薩が言うのだからそうなのだろう。
そして、何者かになりたいと言うのは、どうやら古来から続く普遍的な悩みらしい。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83898
という表題で書かれたそのネット記事は、痛烈に私達を射抜いているような気がした。
オタクが蔑称から個性に移り変わるにつれ、オタクは結果から手段へと変遷した。
オタクという個性を得ることによって、何らかの個性を得たいと言うのが根元にあるのだと記事では分析している。
そこで、ふと、思ったことがある。
私も、意図せずして使っていたのだが、コンテンツに対して「履修する」という文言を使うようになった。
別に、個々人の趣味なのだから、視聴するとか見るとか、そういう言葉でいいはずなのであるが、いつからか、履修するようになってしまった。
「履修」とは、決められた科目などを修めるという事である。
何らかの用意されたコンテンツを、カリキュラム的に消費するというニュアンスが、意図しないでも含まれることになる。
そして、当然だが科目を履修すれば単位が出て、規定の単位を収めれば学位を得ることができる。では、この学位とは何を意味するのか。
そして何より、単位を取得し、学位を得たという事実は、消えることはないのである。
私はそのコンテンツの単位を持っています、と対外的に主張できるのだ。
それは、オタクになりたい人たちにとってみればとても都合の良いものであるように思える。
それが、何者かになりたい人たちが、コンテンツを「履修」するようになった一因かもしれない。
私は、特段オタクというものに興味もなりたいとも思ってはいなかったのだが、「履修」という言葉には、私のそこまでの潜在的な意味や意識が込められていたのかもしれないなと、ふと思ったのである。
http://anond.hatelabo.jp/20081220125045
これ、すごくよく分かる。もちろん、大事な人が亡くなってしまったショックを受け入れるための儀式として、葬式に意味がないとは言わない、むしろ大いにある。でも。
うちは毎月お坊さんがきて、お経を上げてってやってるから、オヤジの葬式では、まあ、つーつーだった。で、ビジネスなんだなってのもよく分かった。
だいたい戒名ってのが気に食わない。ちょっとの違いでお布施の額が雲泥の差。たまに仏壇で個人的にお経をあげることがあるが、戒名なんて僕は使わん。オヤジはオヤジ、じいさんはじいさん。普通に名前で呼ぶ。
それに葬式ってのも豪華にすればいくらでも豪華にできて、これも目の玉が飛び出る。年収分くらい普通に飛ぶ。バカバカしくてやってられない。やってる中身は実質的に一緒なんだもん。
お葬式のあと、坊さんのところに行ってお布施を出したら、いいやがったねえ。これで飲んで遊ぶお坊さんもいらっしゃいますが、私はそういうことはいたしませんから、ええ、ええ、だって。ウソつけよと心で笑った(この坊さん、昔から知ってるからね)。で、四十九日の法事で、大勢の人のまえで、般若心経読みながらゲップするw。ああ、昨日も飲んだんだなあって。
あ、このお坊さんは気はいい坊さんだし、話しやすいから好きなんですよ。だから、こんなことでいちいち怒らない。むしろ笑った。
まあ、そんなこんなで、葬式って地元の坊さんにとってはたしかに大事なビジネスではあるよなあと感心した。うまくできてる。
個人的には、もうこんな儀式はいらないと思う。意味がない。個人個人が好きなように般若心経なり観音経なりをあげるのが一番の供養。こっちのほうがすっきりして気持ちがいいよ。
ま、とはいっても、地元や家庭の都合があったり、お年寄りにとっては葬式がまだまだ必要だから。そんなすっぱり割り切れないけどね。