2021-06-15

履修するようになった私たち

歴却不思議 待多千億仏 発大清浄願

 

という言葉が、観音経にあるらしい。あいにく、私は読んだことがなく、ネット知識であるので間違いがあったら許して欲しい。

 

意味としては、

長い時間をかけて何かをやり続けても結果が出ないことがある。

それでも、そのことについて悩んだりすべきでは無い。

結果として、何も成せなかったとしてもだ。

的なことらしい。

 

要するに、何者かになろうとするのは良い。

でも、何者かになれなかったとしてもそれを悔やんではならないよということだ。

 

なかなか、耳が痛い言葉である。でも、観世音菩薩が言うのだからそうなのだろう。

そして、何者かになりたいと言うのは、どうやら古来から続く普遍的な悩みらしい。

 

こんなことを思ったのは、あるネット記事を見たかである

 

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/83898

 

オタクになりたい若者たち

という表題で書かれたそのネット記事は、痛烈に私達を射抜いているような気がした。

 

オタク蔑称から個性に移り変わるにつれ、オタクは結果から手段へと変遷した。

オタクという個性を得ることによって、何らかの個性を得たいと言うのが根元にあるのだと記事では分析している。

 

そこで、ふと、思ったことがある。

 

私も、意図せずして使っていたのだが、コンテンツに対して「履修する」という文言を使うようになった。

別に、個々人の趣味なのだから、視聴するとか見るとか、そういう言葉でいいはずなのであるが、いつからか、履修するようになってしまった。

 

「履修」とは、決められた科目などを修めるという事である

何らかの用意されたコンテンツを、カリキュラム的に消費するというニュアンスが、意図しないでも含まれることになる。

 

そして、当然だが科目を履修すれば単位が出て、規定単位を収めれば学位を得ることができる。では、この学位とは何を意味するのか。

 

 

それが「オタク」という称号なのではないか

 

 

そして何より、単位を取得し、学位を得たという事実は、消えることはないのである

私はそのコンテンツ単位を持っています、と対外的に主張できるのだ。

それは、オタクになりたい人たちにとってみればとても都合の良いものであるように思える。

 

オタクという象徴概念ではなく、何か具体性が欲しい。

それが、何者かになりたい人たちが、コンテンツを「履修」するようになった一因かもしれない。

 

私は、特段オタクというものに興味もなりたいとも思ってはいなかったのだが、「履修」という言葉には、私のそこまでの潜在的意味意識が込められていたのかもしれないなと、ふと思ったのである

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