はてなキーワード: 真理とは
つまり、あげるより貰う側がいいってことですな。そりゃまあ自然か。
「与える覚悟もないやつが好きだとか言ってんなゴルァ」だと思う。
「僕は君が素敵だなって思う。君は僕をどう思う?」
「君が好きだからなにかしてさせてください。
君がその気になるかどうかは後でゆっくり考えてくれていいから」★
もちろん、自分が好きになってアプローチかける立場のときは
相手が「好きなってくれる人が好き」タイプだったら大ラッキーだし
★な感じで愛を乞うてますよ?
ってきちんと書いてあるよ
あー、受験生さんか。すまん。卒論生や大学院生以降の人を対象にコメントしてたよ。
そういうことなら、さっきの話はもうちょっと先に行きすぎてたので忘れて欲しい。「研究したいことがあるのに必要な知識を身につけるためにはどうしたらいいか」というようなつもりで書いてたんだ。
オールオアナッシング思考が若干あるみたいで、一度計画倒れするとほんと俺ダメなんだホント弱い。
やってるときは結構集中してんだけど…
いや、それ、結構真理に近いところを突いてると思うよ。勉強することの本当の目的は、知識を身につけることではなく、自分を含めた物事を客観的に見定めるための手がかりを得ることだからね。
早い話、オールオアナッシング思考って、よく考えたら余り合理的じゃないよね。何か迷信じみた思いこみだよね。で、どうして迷信じみた思いこみに陥るかというと、現実が見えてなくて怖いからだよね。おおざっぱに言って、科学が発展すると呪術が廃れるのはだいたいわかるでしょ。
知識を増やすということは、「本当のこと」を知るということだ。ある学問分野を知るということは、新しいものの考え方に触れるということだ。そして、「本当のこと」を出発点にして、自分の頭でいろんな方法を使って考えていくと、自分が当たり前だと思っていたことのかなり多くは根拠のない「思いこみ」だということに気づくはず。その思いこみを自ら捨て去る勇気を持つことこそが、勉強の最大の効能なんじゃないかな。俺はそう思ってるよ。
で、勉強法だけど。
受験勉強ってのは、「勉強すること自体」が目的になってるからもう少し違う。これを勉強することによって「勉強」の中身自体から何が得られるか、という行き先が曖昧だからね。必然的にモチベーションは保ちにくい。
だからここは、本当にゲームだと思ってしまった方がいいね。RPGでいうなら、やり込みをするんでなく、効率よくラスボスを倒す方法を考えてしまった方がいい。まずは自分の現時点での能力を把握して、攻略本を読んで必要なアイテムやレベルを逆算して、それを効率よく収集する方法を考えるんだね。
逆説的だけど、意地でも長い時間机に向かおうと考えるより、勉強を効率よく終わらせて、余った時間で何をするかを考えた方がかえって有益かもしれないね。
ま、さしあたりは目の前にある課題を片付けることだね。ある程度のノルマをこなせばボーナスとして遊んでよいという風に決めてはどうかな。そうやって少しずつやっていけば、そのうち道は開けてるよ。
所詮大学入試なんて、どこの大学であっても高校の教科書がまともに理解できてれば(他人に何も見ずに説明できるくらい)余裕だからね。逆に言えば、その程度のことが実は結構難しいのだということを実感できれば十分だ。
夏休みは暑さもあってしんどい時期だろうから、地道に少しずつがんばりたまえ。
##追記;
##当ブログの後半に、自分なりのまとめも書いておきましたので、良かったらどうぞ。
##昨日書きたかったけど眠たくて落ちてしまい、書けなかったことを書いたので。。。
##これを読む人達に、一番伝えたいコトだったんで。
を書いた増田だけど。
ブクマが沢山ついてびっくりした。
でも、良く考えれば、エホバの証人って自分を語る人は少ないはず。だって、自分が書いたように、宗教討論なんて避けるからね。
「あなたの信条を聞きたい」って人には喜んで話すけど、「俺の信条を聞いてよ、君はどう思う?」って言ってくる異教徒には警戒モード、防衛モードに入り、あわよくばその場で心の中で「神よ、試練に耐える力を私に下さい」と祈り始める(※本当です。二世なら解るよな?な?)人達なので。
それを、変とも思わないし、当然って思ってる。そういう概念なんだから、しょうがない。
だから、おいらみたいに、ドロップアウトしようとしてる人、もしくはした人しか、こうした場で話すことはないだろうと思う。
もし、現役でこうした場で話す人がいるとしたら、かなりの幹部とか、そういうバリバリの人で、あなたの家の近所にいるかも知れない身近な人は出てこないよ。
特に女性は公の場で語るのは非とされとるんで、女性なら尚更。まず聞けないだろう。
まぁ、それはさておき、ブクマコメントに自分なりにちょっとコメント返ししてみたい。
コメ返し対象のブクマコメントは下記の二つに寄せられたコメント
討論ではなく説得(証言と言う。証言?なぜ?それは、エホバの証人=エホバの証言ってこと)はOKというスタンスなので、言い方によっては結果的に討論に応じるってことはあると思う。
例えば、「あなたが何を信じているか聞きたい」と言えばきっと証言にやってきます。
で、一通り話を聞いた後に「自分はこう思うんだけど・・・どうかな?」と言えば答えると思う。
ただ、その場合でもエホバの証人は「回答できない時は、調べてきますので今は答えれないと言って沈黙せよ」と教えられてるので、やっぱり突っ込んだ話はできないかもだけどね。
目的が「エホバの証人の話を聞く」ではなく「エホバの証人と議論したい」と判断されれば、来なくなっちゃうし。
追記:公開後に読み直しで修正している中、たまたまついているのを見つけたので、ついでにお返事書かせて頂きましたw
JWって結構明確に、リーダー(幹部)系と一般信者に分けられた扱いがある。
で、自分は幹部系で一時期はエリートか?みたいな勢いがあった。
自分みたいに若いうちから幹部系に持って行かれそうなタイプは、自分みたいに考える人も結構いるようです。
ただ、そう考えながらも慣れたら苦痛じゃないしって淡々と宗教やめない人も多いです。
自分の場合、好きな子がおかしくなったとか、そういうのなければやはり淡々とやっていたかもとは思います。
10年もやってりゃ、何でも習慣化して無意識にできちゃいますからね(家々に訪問する奉仕活動=布教活動とか)
ただ、習慣化するってのもある意味、自我が死んでると自分は考え始め、そう思った時から急激に多大な精神的苦痛を感じるようになりましたけど(自分と同じ経験は時々聞きます)
神の組織である以上、減るはずがない。減るとしたらサタンによる試練がはじまったという証拠である。つまり、聖書にある終わりの日が近いという予言が成就しようとしている!って解釈するんで、どう転んでも良い教理になっとる。
二世で脱退ではなく残るが側を選ぶ人は、一般人より組織に友達が多いってのが大きな理由の人も実際いる。ただ、そうなればそうなるほど、友達のために宗教辞めたくても続けないとあかん。
一旦信者になった後、辞めますと脱退届け(断絶と言う)を出すと、宇宙論争を知らないゆえに悪魔の側にいる一般の人より、宇宙論争を知りながら悪魔の側を自らの意思で選んだ一番最悪な奴、という解釈に基づき、徹底的な排他を受けます。
それがどれぐらい厳しいかっていうと、断絶した人と、信者は一緒にご飯を食べに行くというのも許されない。それが発覚すればその信者も警告もしくは追い出される。
で、これは親子の場合でも、可能な限り、断絶した子とは接触を避けるようにといった教理なので、二世の社会人でもない子供は恐ろしくて脱退など絶対にできないのです。
社会人になっても、幼い頃から仲良くしてた人、みんなが自分をシカトするかと思うと恐ろしいという、人間関係の恐怖心から残っている人も結構います(ソースは自分調べ)
ちなみに、組織のほうからクビにされることを排斥といいます。
行われる制裁は全く同じです。つまり、みんなで一斉にシカト攻撃。
断絶や排斥者は数年すると、「戻ってこない?私が悪かったですと認めれば復帰認めるよ」と、声をかけにいく仕組みも設けられています。
元信者だけど心はJWという人は結構多いです。あと、優しい性格の人が多いのでみんなからの一斉に拒絶されることに本気で参る人もいます。
元信者だけど心はJWという人は、何かにつけて不安定になっています。毎日毎日が罪悪感。
普段は意識してないけど、911のテロ事件をハルマゲドンの到来だと確信して、慌てて、神の側につくので助けて下さい!みたいな問い合わせが組織本部にあった・・・というのも有名な話。
ちなみに、排斥になるよーな人は3割ぐらいは、この宗教は嫌いだけど、宗教の中にいる人達はみんないい人なんだよなーって浮ついた心で居る時に、出来心で・・・とか、
うっかりミス☆(いや真意は知らんが)みたいなので、いきなり翌日に排斥措置とられて真っ青って人もいます。
そういう半端者は排斥システムで本当に参るので、以後は真面目に・・・ってこともなく、二回目する人も結構居る。
多分、不倫するようなタイプの人は何度もやっちゃうと思う。知らんけど。ごめん、この行はテキトーに書いた。
いや、その理解はちょっと誤解がある。これは自分の書き方がまずかった。面白く読ますためにちょっと歪曲してた。
「がんばってこの試練を乗り越えれば」ってのは結果であって、目的ではないんです。
詳しくは、http://anond.hatelabo.jp/20080723230708 の 回答03を参照してください。
最も、それでも結局はそゆことだろ?って言われたら、そうだねぇとしか言いようないけどさ。
現役でも目的と結果を勘違いして、マゾになる変態がいるのも一言付け加えときます。あれは見ていて最悪だった。
苦しいのは当然だ!アハハ!ってのはさすがにJWでもいかれた奴にしかいないよ。
残念ながらJWの教理上、増えることはないです。カミングアウトしはじめてる時点でそいつはもはやJWではない。形だけの奴ですよ。よってこれも、読書感想文みたいなもので、リアルタイムではないということを付け加えておきます。
そう、それをテーマにしたかったんだけど、歴史とかがテーマじゃないけど比率的に多くなってしまって・・・こうした考察を得てもらったのは当初の目的だったので嬉しい限り。結局、自分自身、その一人と言えますしね。
知らない方が幸せという言葉もあるので、プラスであるとも言えるのではないかと。実際、脱退したために一般社会の厳しさ、複雑さ、面倒さについていけず、エホバの証人にも一般の社会人にもなれない元二世も結構いる。ああ、こう書くとやっぱりマイナス面ばかりかなあ。
でも、どうして今の世は不条理なんだろうって鬱な人が希望を持つのが宗教の役割の一つではあると思うので、こういう仕組みは(宗教という性質上)しょうがないようには思います。
デメリット、問題点は同意だけど、プラスマイナスだけで簡単に片付けれない所が宗教にはあると思う。
他の具体例が、当ブログの上記で述べてる「断絶」というシステムです。
脱退自体は自由にできるようになってるんだけど、その場合の心理的制裁が半端ない。自由意志は尊重してますよ、責任は求めますがという側面は一番二世を悩ませてる性質です。自分もこれにはほんとうに克服するのに苦労した。
合わせてお読みあれ。
今度、見かけたら優しい言葉をかけてあげてください。
補足というか寝ぼけて中途半端に書きました。「リベラリズム」自体は初期より歪んだ形で持ってます。詳細は 当ブログの「断絶」の話とか、http://anond.hatelabo.jp/20080723230708 の 回答03とか。
具体的に言うと、以前より開放的に見えるけど、一方でますます抜けたくても抜けれない二世が増えているというほうが正確だったのかも、です。詳細は上記の通り。
現世救済主義は一時的に信者を増やすのには有効ですが、質の悪い信者ばかり集まります。
それで、今の世に救いはないと明言し、天国に希望持てと言ってしまう宗教もあるのかなと。個人的感想ですが。
自分の親友だった学会員も二世ですた。JWとは違う形で葛藤しとったのは印象的でした。そっちはそっちでいろいろおありのようで。
そうやね!「リング」に出てくる呪いのビデオって例えはいいね。書いたのは全体的な傾向とか、自分なりの考察や感想なんで、全てのJWがそうだとは言いませんよ→宗教論争。
ナチの件は自分はどうでもいいので検証してません。事実であるかどうかも興味ない。テキトーですんません。
そしてそれを自分の精神基盤としている人間には当然、理論で話し合うのは難しいのです。
相手の話を聞いて、相手の価値観(もはや異国の異文化同士の交流と同じ)を理解しないと、話が全く噛み合ないと思う。
あと、別に宗教やってる人間が、サイボーグな訳じゃないっすよw
人間誰だって中身は同じです。欲望を自己否定したり抑圧する人と認める人、その行為を平気な人と苦しむ人、そのあたりの個人差じゃないかな。
表情だけならいい、感情(罪悪感、恐怖心、不安感、多幸感)までプログラミングされるのは経験してほしくはないけど、経験した者にとっては本当、恐ろしい体験です。二度と味わいたくない。
彼女は結果として得た世界の一つであって、役割ってもんではないかも。勿論、新しい世界は見せてもらってるけど。
自分の場合は、医者に薬もらって休職するぐらいまで自分の精神構造を一回バラバラにした。一ヶ月寝たきりになった中で自分の精神を再構築して、客観的に見れるようになった。
役割という言葉を与えるべきなら、その時、自分が壊れそうになっても自分と向き合った、あの時の自分だと認識してるよ。
最も、二度とあんな精神崩壊寸前の経験なんてしたくないけどね。
小さい頃から、この生き方が「真理」ですと言われた場合、そうではないと考えると今迄の自分は何?という自我崩壊になる。
と言われて悪魔主義になる奴なんてのは、なかなかいない。普通に生活して幸せに生きたいって思う人間ならね。
でも、そもそも、神か悪魔か?っていう概念、何よりも二択しかない?二択?何の?この世界って何?
そのレベルまで自分の人格を分解しない限り、幼少から育てられたエホバの証人の子供は、無意味な罪悪感から脱却できない。
増田でトラバくれた、元二世のお二人(http://anond.hatelabo.jp/20080723123951 と http://anond.hatelabo.jp/20080723111359)はどちらかというと軽症だっただけと言える。
ただ、http://anond.hatelabo.jp/20080723123951 は、役に立ったと思ったり(いや、本当に役立ってるのでしょう。良かった良かった)
オフ会開いて共有してみたいと思うあたり、まだ完全には脱却できていないと推察します。
何かのきっかけで、完全復帰はしなくとも、気持ちが囚われることはあるはず。
あと、http://anond.hatelabo.jp/20080723123951が文中で書かれた「高校でグレちゃった子」の話。
こういう子は、しばらくすると懺悔して復帰する可能性が高いです。
行動すればするほど、心に埋め込まれた精神の規定を成す概念が自分自身を締め上げていくはずだから。
遅かれ早かれ、何らかの行動起こすんじゃないかな。
それか、それを否定したくてもっと自虐に走るかも。
ちなみに、俺はJWの中で好きな子つうか、仲良くお互いにしてた子もいたよ。
男でも本当にいい友達とかおった。
でも、自分の育つ時代が一番、最悪なあのスパルタ時期でさ、みんなおかしくなっちまった。
頭良くて学校でも成績優秀な子が、どうしていきなり停学になるような不良行為を起こすんだい?
俺は、俺の好きだった子や、可愛がってた子、遊んでくれた年上のお兄さん達、が否定したいけど否定もできず、
そして自分を責めるという行動にしか走れずに混乱していく様を何度も見たよ。
自分の場合は、あまりに親が厳しくしたせいか、叱られる時に、叱られる自分と、叱られる自分を見つめる自分を作るようになった。
教理にも納得する自分と、納得できない自分、色んな所で自分が体の中に二人いるそんな精神構造になった。
これ、二世ではけっこう「自分もー」って言う人、いるんだけどね。
ただ、大抵の人は、客観的な自分を肯定しないんだよね。
それを何とか殺そうと努めて、結局、自己否定になり(そりゃそうだ、その精神だって自分だもお)おかしくなったり
それは私が不完全で救いを必要する人間だからなんだわとかいう変な自己解釈(俺の両親とかキモいから解らんがきっとそうだと思う)しちゃったり。
自分の場合は、その二つなっている自分は結局、どちらも自分であり認めなければならない。
おかしいのは俺か?違うんじゃないか?と、考え始め、しかし二人の自分を一緒にしようとすると、この考えは教理に違反している!という罪悪感と、俺はこう思っているんだ!と叫ぶ自分が脳内で騒ぎ立て、まともにまっすぐ歩けなくなるぐらい苦しんだりもした。
もっとも、学校卒業しなきゃ負け、と思い、10日でノコノコ返ったけど。そんなヘタレさ、どうせ。
自分はおかしくない、俺が思うことを俺がその通りに行動するのはおかしくない。これが人間。
それをいちいち、正しいか、正しくないか?と考えて誰も見ていないのに、勝手にビクビクしたり、これは聖書ではNOとあることだ・・・と脂汗が出るのは、俺が信じているからではなく、そのように作られてるからだ。
そうやって、自分で自分にカウンセリング?リハビリして、死ね!クソ宗教!とようやく言えるレベルにまでなった。長い苦労だったよ。
だからって、必死になって幸せになりたいと思わない。
俺の仲良しだった良い奴ら、同じ宗教というきっかけで知り合えたいい奴らは、本当、みんな社会的にドロップアウトしたり、「僕も信じてないけどさ・・・行く所ないじゃん」とかいいながら、今日も宗教活動してる。
俺をこんな目に合わせたのは・・・誰だ?
とか、思って叫んだ日もあったよ。親を蹴り上げて、会衆を燃やしてしまえとか本気で考えた時もある。
でも、そんなことをしたって、何か変わるか?変わらない。
失われた時間、失われた人間関係、無くした友達、好きだった子はもう目の前にはいないんだ。
俺はもうこんな歳だ。社会的にも働き盛りであるべき年齢。
俺がここで止まっても、世界は崩壊しないし、誰も困らない。
明日は淡々とやってくる。
だから、俺はだだっ子のようにぐちぐち言わず、自分で考えて自分で行動して、自分で生きていきたい。
だが、俺は一生、親の愛情としてあなたにああいう教育したのよと言う両親を、憎む事も否定することもできず、振り上げた拳をどこにも持っていけないまま、生きていかなければならない。
俺は、ここでみんなに知って欲しい、知って欲しかったんだ。
あの家にピンポンしてくる変な宗教団体の陰で、俺みたいな奴が一人、世界中に何百万人もいる教団のたった一人の小さな存在だけど.
こうやって、静かに戦ってた奴がいたんだぜ?ってことをさ。。。
ただ、すごく疲れる人生だった。
正式に脱退できたら、彼女と祝いたい。
そして、しばらくゆっくりしたい。。。
俺は、彼女がどういう選択するかも兼ねて、彼女にも教理を他の信者を通して学んでみてもらったんだよ。
彼女は「納得できる部分というか精神的に高い志をもとうしてるのはいいんだけど、自分の望まない話になるとシャットアウトするね」とさらっと言ってくれた。
それで、俺の心の最後のつっかえはとれた。
彼女が入信していれば俺はまた苦悩してただろう。
賭けには勝った。もう俺は大丈夫だ。そうさ、俺だってね俺は一人じゃない、俺を認めてくれる人は欲しかったんだよ。
でも、JWの複雑で独特な背景を好奇心で見てはくれても、俺自身を見て、俺の背負ってきた人生の一部がどんなもんか?みたいな視点から見てくれる奴は、彼女だけだった。
貴重なかけがえのない存在なんで大事にしたい。
俺はこの決断、こういう道を葛藤なしですんなり選べるようになるまで本当に苦労したんだ。
その自分の中に埋め込まれた変な宗教の精神構造のせいで、それを取り除くのが精一杯で、友達を作るのも途中で辞めていた。
恋愛するぐらい余裕ができたのもほんの数年前だ。それまで、自分は生きてるのか死んでるのか、俺は何?俺は誰?俺の本当の気持ちはどこ?って自問自答してたよ。
宗教は否定しない。
でも、誰もそれを強要してはいかん。
何より、子供に必要なのは自分で考え人生を選んで行くための能力と機会を与えるべきだ。
籠の中に突っ込んでも死ぬだけだ。
まぁ、そんな感じ。
言いたい事言えてすっきりした。
これが多くの人の目にとまると思うとすっきりする。
いい時代になったよ。
ネットなければこんな声、絶対に残せなかったから。
上記二つを書いた増田です。
質問とかあれば、と書いていたら本当に質問あったので回答してみようと思う。
#追記
#上記二つのエントリの続編というか、まとめ(このブログで言いたかったコト)書きました: http://anond.hatelabo.jp/20080724004506
ただし、そもそも説得しようとか布教活動するつもりは毛頭なく、はてな村的な「事実の淡々としたレポート」感覚で回答したいなと。
なので、こういう感じだよっていうニュアンスで書きます。
実際には(私はそもそも愛想つかしてるので擁護しませんが)、箇条書きする要点の間には、もっと沢山の補完教理があります。
だから、「こんなもんか」って早合点するより、概ねそんな感じらしいって感覚で見るといいかも。
具体的に知りたいことは家にきたエホバの証人に突っ込むほうがよいです。
教理のアップデートが結構頻繁なので時代により若干、教理が異なってきてるのでこの内容そのものが若干古いとも思うしね。(ここ1、2年はまともに話きいてないので)
ちなみに昨日は寝ぼけてグダグダで書いたんだけど、それが良かったのかすごいブクマついててびびったよ。。。
質問者:http://anond.hatelabo.jp/20080723144603
次の質問で詳しく回答しますが、「禁欲的であるかどうか」が重要ではないんです。
結果として禁欲主義になっている、と捉えるほうが理解しやすいかも知れません。
重要なのは「聖書が何と述べているか」つまり「エホバ神は何と言われてるか?」と、
「神の命令に自分は従っているか?」が重要な基準なんですね。
禁欲的なのは神がそのように生活せよと命じられている(と、エホバの証人は解釈している)から。
神の命令に従わなければ宇宙戦争の世界では、悪魔の側となるという解釈なんですね。
ゆえに、聖書がNGとしている(とエホバの証人が解釈している)戒律を守り、禁欲的な生活を送っているのです。
禁欲は結果としてそうなっているだけであって、それが目的ではないんですよ。
真の目的は、神の側に自分はいるかどうか、なのです。
質問者:http://anond.hatelabo.jp/20080723144603
これは、そもそも「命」の考え方がエホバの証人は一般人と異なります。
エホバの証人は、今の肉体は不完全であると考えています。
不完全だから老衰し病気になり誘惑に負ける弱い生き物になったと考えています。
不完全になったのは、神ではなく悪魔の側につくと最初の人間である、アダムとイブ(JWはエバと呼ぶ)が選択したから。
しかし、悪魔の側を選んだ場合、代償として死ぬはずの無い人間が死ぬことになるという決まりになっていた。
(どうして死なないといかんの?というのは究極的な結論は神がそう決めていたから、というのが最終回答)
で、エホバの証人は、生きるか死ぬかよりも、神の是認(認められるか)を優先すべきであると教えられています。
結論から言うと、輸血だけではなく、神か神以外か?と二択を迫られると神を選ぶ!とどんな状況であれ選ぶ人が
真のエホバの証人であるという教理を持っています。
そもそも、この教団の呼び名である、エホバの「証人」というのも、この思想に基づいています。
つまり、絶対に神が正しい、神に勝る存在はなく、何よりも最高権威者は神であるという考え方です。
例えば、聖書は殺人を非としていますが、神が是認した人の死は容認しています。
聖書の中では非信者である人間が、エホバに使える者に神の名によって殺されるシーンが様々なところで出てきます。
その場合、これは、神に反逆した者の報いであるといった解釈をします。(もうちょっと言い方ありますが解りやすさ重視なので)
逆に、神を非とした勢力に殺された信者の話も出てきます。
これに関しては、この忠実な証人は、楽園の時復活するのです。私たちは再会を楽しみにしましょう。と教えれます。
そろそろ話が見えてきたと思いますが、エホバの証人にとって、死ぬことより神に非とされることのほうが重大な問題なのです。
命を大事にせよと確かに教えられていますが、何より神を第一とせよと教えられてもいます。
この神を第一とする考えは絶対です。神より上位のものはエホバの証人の概念には存在しません。
従って輸血を避けよと神が命じているなら、神の是認を得るために死をいとわないと考えます。
しかし第二優先事項として、命を可能な限り守ろうと、「輸血以外ならありとあらゆる方法で」命を守ろうと考えます。
ちなみに話がすこし逸れますが、脳死状態(回復する見込みの無い状態)に関しては聖書は明確な指針を示していません。
脳死の場合、延命を希望するかしないかは個人の良心の問題(聖書の行間の間にある余白から出ているメッセージを自分がどう解釈するか?)になるのです。
この個人の選択に関して、他の信者が介入したり批判することは非とされています。ただし、いわゆる二世の家庭では親が子に自分の解釈を強要するケースは珍しくないのも事実です。
つまり、命より、神の命令を守ることが、一番重要であるという価値観なんです。
ちなみに、これをカルトと言うか価値観ととらえるかは、宗教の文化が薄い日本では難しいというのは書いている自分は重々承知しています。
>宇宙主権の正当性を立証し、復権し、人間が人間を支配してもうまくいかんから
>人間の支配権は神に戻し、神が支配する世界で人類繁栄しよーぜっていうことになっている。
この辺もだけど、神の復権ありきで議論が進んでるように感じる。人間が支配する、ってのは絶望的なのかな。
そもそも宗教に入るひとは、社会に対して何らかの不満がある人が入るから、「人間が支配しちゃだめだ!そうか神の復権だ!」って考えるのかな。
質問者:http://anond.hatelabo.jp/20080723144603
宗教という枠で見ると話が壮大になり、それは宗教学者と議論された方が充実すると思います。
なので、自分の守備範囲であるJWという狭い枠の中において回答します。
結論から言うと、復権ありきで議論が進んでいる、と言うより、神の復権がそもそものテーマです。
こればっかりは、そうなってるんですよ、としか自分も言いようがありません。
ただ、「人間が支配する、ってのは絶望的なのかな。」という感想ですが、そこにはYesとは言えない部分も。
どういうことかと言うと、「神は選択の自由を認めている」というのも教理の一つなのですよ。
ただ、それに責任が求められるわけで。
つまり、「絶望せずにやってもいいんじゃね?」とも言えます。
あまり、この点をエホバの証人は言いたがりませんが、エホバの証人も神は選択の自由を認めており行動に責任は求められますが選択の自由を保障しています。
まぁ、時々、頭の弱いエホバの証人は、神に見倣い保証すべき自由を否定し、子供に選択を「強要」しちゃってますが。。。
別にこの「自由」という権利は、エホバの証人の中で新しい教理ではなく、発足当時からあるものなんですが、あまり注目されていないという事実もあります。
特に日本は地域変種の信者が非常に多く、日本支部ですらNGと唱えてるのに「服装の明確な規定」まで設けようとした頭の弱い信者もいます。(大抵、そんな困った人は、やがて指導受けますが)
だから、「神の側しかないの!?」ではなく「選んだらいいよ」ってのがある意味、神のメッセージとも言えます。
もちろん、「選ばないと滅びるよ」とは言ってますが、「本人の意思で自由に」と。
実はこの教理がある意味、二世を苦しめる教理の一つで、「私たちは強要してないのよ。神も自由は認めてるのよ」と言いつつ、聖書にはこうあるわよねと言われて育てられます。
前回は正直おもしろおかしく読ませることも若干意識して、一部のケースばかり書いたという側面もありますが、こういう言い方をする親も少なくないようで・・・
そういった家庭で育つ二世は、面と向かって宗教を強要されてはいないんだと、認識(錯覚?)してしまうため、強く否定できません。
上から押さえつけられればあれこれ抵抗できるでしょうが、誰だって横からの攻撃は弱いもの。
結局、こう苦しく感じるのは自分がおかしいからなんだ、と考えて鬱病になる人もいます。
いますつうか、俺の友人の一人は確実にそういう感じでおかしくなったし、実を言うと自分もそれで精神病になるかなーってやばかった時期あります。
それから、「社会に不満だから宗教に入る」、確かにそれは一つの側面ですが、「全ての人がそう」ではありません。
それから、"社会に対して何らかの不満がある人が入るから"に関して。
「宗教」は日本にはもともと無い概念だそうです。日本の宗教という語は、的確な表現ではないという指摘もWikipediaにありますが自分もその通りだなと感じています。
宗教を捉える時に、「信条」とか「儀式」とかそういった形にしやすいものをどうしても日本人は中心に考えるんですが、それって、ショートケーキの上にのっけたイチゴみたいな概念ですよね?
でも、人それぞれですが、真剣に宗教をやる人にとって、宗教というのはむしろ、ショートケーキのパンケーキ部分そのものなんですよ。
もっと言うとケーキを載せてる皿かも知れない。
はてな的に言うと、一般的な日本人の言う宗教ってアプリケーションです。
だから、社会に不満があるから、入信ってのは一部の人でしかないです。
で、そういう人はエホバの証人の中にも確かにいますが、長くは持ちません。
ちょっと嫌なことがあるとすぐに辞めちゃいます。
そもそも、ハルマゲドン到来の予言がはずれたり、子供がエホバの証人なんてもう嫌だ!このせいで不幸になった!と叫んでも、脱退しない人は大勢います。
なんでかっつうと、その人にとって、これがOSなので取り外せないんですよ。
そんなの洗脳されとる!と思って忌諱するかはまぁ、これ読んでる方の捉え方なのでどうにもなりませんが。
身近な例で概念を理解してもらうための話をしてみます。
結構思いつきなんでアレですが。
あなたが犬を飼っていたとします。
その犬に名前をつけ、とってもとっても大事に思います。
今日は仕事で疲れたなぁと思っても、その犬とふれあうことで心が癒される。
で、ある日、その犬を連れて外国に行きます。
仮の話なんので極端な例ですが・・・その国では犬は、ゴキブリや蚊、ハエと同じ害虫で
最悪の生き物と見なされている国だとします。
きっとその国の人はあなたにこう言います。
「なぜあなたは、このような生き物を大切にしているのですか?
柱に近づけば尿をまき散らし、餌を与えれば下品にガツガツと食べます。
夜になればうるさく吠え、また人を襲います。全く私にはあなたが理解できない」
宗教ってのは熱心な宗教家にとって、宗教なんでやるの?って言われるのは
まさにこういう感覚(実際にはお前何で生きてるの?と言われるに等しい)です。
単純に、現世からの解放という側面だけで宗教を見るとどうしても見えない部分が沢山あります。
そのあたりは、経験するかもっとじっくり身近な宗教家と話さないと理解できないかも知れません。
とりあえず、家にエホバの証人が来たら、じっくり聞いてみると解るかもW
質問者:http://anond.hatelabo.jp/20080723103847
聖書の理解(というかエホバの証人の聖書の解釈)によると、今の世そのものが神の愛によるものなのです。
どういうことか?というと、要点は下記の通り。
で、神は人類としては神から離れてうまくいくはずがないので失敗は必然だけども、神の側を選んでいる人間個人には、今の世の中でほどほどに喜びを味わって欲しいと考えている、とも解釈されています。
そもそも、信者は信仰の対象である神の特質(の一つである、愛という特質。その例とされるのが上記の通り)に見習うことが良いとされています。
つまり、人類は神に背を向けたために苦しみを味わうことになった。
それは先祖のアダムとエバのせい(罪は遺伝するという解釈。それを修復したのがイエス。で、まだ完全修復は実施されてない。長くなるので省略)
だけど、とは言え、神は、人類という大きな枠組みでは放置されてるけど、神の側につこうとする人間レベルでは見放されてない。
その一例が、聖書という指針書。今の世の全てが解るし、これからどうすればいいかも書いてある。
これが人類に与えられてることも、神の愛だよね。
つまり、人間は、そもそも滅ぼされてもおかしくない存在なのに生かされてる。
そんでもって自分たちの主張した意義を証明するための試験期間すら与えてもらってる。
そして、既に人間だめだこりゃ、神の側につきますって人には、聖書を通して神からの真実が教えられている。
で、神の側につく人は、神の特質を自分自身も表していくようにともあると解釈しています。
だから、神の側につく=神の特質を反映する=神の特質である愛を表明する=つまり優しさとかそういうの=それを表明するのは神の側!
回りくどいけど、大体はそういう解釈です。
大量の失業者がいる状態は(゜д゜)ウマー なぜならそんだけ安く労働者が買い叩けるから。
文句あるなら数値化してから言いなさい(笑)
効率の最適化、合理主義、コストの最小化とメリットの最大化…それが真理
その世界では誰もが「経済的な最適行動」を取るはずだと信じられてる。
つぶれかけた町工場がある。人生を金型作りにかけてきたお父ちゃんがいる。
寂れた田舎町がある。ご先祖さまから受け継いだ田んぼを丁寧に耕してきたおっちゃんがいる。
傾きかけた産業がある。現場は必死にかけずりまわって新しい企画を…新しい顧客を……。でもTOPはどこに売り払うか相談中。
それに反することは悪、だってさ。
「シホンシュギ」は
人生を金型作りにかけてきたお父ちゃんに、明日からライン工やるのが当然でしょう、その方が費用対効果が高いんだから
昨日まで田んぼを耕してきたおっちゃんに、明日から田んぼ売って投資で生活しなさい、その方が費用対効果が高いんだから
傾きかけた産業で働くサラリーマンに、さっさと転職なさい、愛社精神(笑)とかマジで経済効率の敵だから
…という。
いや、マジで何様なの?あんた。
と最近思う。
そんだけ。
弟に坂口安吾の「日本文化私観」や「堕落論」「続堕落論」を読んで、感想を聞きたい。
角川か新潮文庫の「堕落論」にも収録されてるけど、青空文庫に収録されてる。
「日本文化私観」
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42625_21289.html
「堕落論」
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42620_21407.html
「続堕落論」
http://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42619_21409.html
必要は発明の母という。その必要をもとめる精神を、日本ではナマクラの精神などと云い、耐乏を美徳と称す。一里二里は歩けという。五階六階はエレベータアなどとはナマクラ千万の根性だという。機械に頼って勤労精神を忘れるのは亡国のもとだという。すべてがあべこべなのだ。真理は偽らぬものである。即ち真理によって復讐せられ、肉体の勤労にたより、耐乏の精神にたよって今日亡国の悲運をまねいたではないか。
――続堕落論
日本人が現代に於いて産み出すものが日本の文化なわけで、弟の伝統への固執も、姉の新しいコミュニティへ行けってのも、
どっちもあってるとは思う。
自分の頭で考えろよ。真理は言われていないとこらへんにある。
最近ちょこちょこ見かける「専門家の著書を読み込まないバカは発言するな」という罵倒に呼び起こされた俺の妄想だ。だからもちろんソースは出せない。問い合わせられてもなにも答えられない。
故小渕氏が半紙を持って記者会見に臨んだ時期の前後数年間、俺はとある非営利法人に勤務していた。まだNPO法人制度が整備される以前のことで、それ自体は自治体の認可と出資を受けた社団法人だ。行政からは初期出資以外の補助金も主に人件費名目でかなり支出されており、俺も名目は非常勤の自治体職員としてその法人に出向していることになっていた(はずだ)。当時は今ほど公務員叩きも行われず、時間外手当こそ出ないものの、業績も成果も無関係にそれなりの月給が社会保障込みで保証され、しかも仕事内容は「バイトでもできる」レベル、有り体に行っておいしい仕事ではあった。(当該自治体が今日破綻の危機にあるのが、俺のせいかどうかは知らね。)
しかしこの社団法人、実態はとある市民団体の外郭団体というか数あるダミーのひとつというか、むしろその市民団体の下僕ってのがもっともふさわしい表現だろう。そんなところへ俺みたいな性格と趣味性向の持ち主がなんで雇われることになったのかについては割愛する。というか迂闊なことを書くと正体を特定されそうだ。
正体を特定されると何がまずいかって、なにしろその市民団体がこれまでやってきた行いが尋常じゃない。なにしろ彼らの意に染まぬ発言をし謝罪と妥協を拒否したとある御仁にいたっては、自宅の周囲を街宣車で数週間にわたって取り囲まれ大音量で彼らの主張を繰り返され、ご子息は彼らの意を受けた教師らにより学校で吊し上げられたそうだ。家族や近隣住民を巻き込んでの実力行使をしでかす連中相手に立ち向かう根性は俺にはない。
ちなみに彼らはその行為を現在に至っても反省していない。法廷で有罪を喰らったこと自体は反省してるようだが、「もっと上手くやれば良かった」という戦術級の反省でしかない。そういや部下の発言を根に持っていびり自殺に追い込んだ上司も、一人や二人じゃ済まなかったっけ。
あと、一番多かったのは、こじつけで組織責任を問うパターンだな。中でも印象に残ってるのは、駅のトイレの落書きを根拠に鉄道会社の人権に関する姿勢を糾弾した事件。(そろそろ何という団体か分かってきた人もいると思うが、もちろんこれは俺の妄想だ。)不特定多数の乗客が利用するトイレの落書きを鉄道会社の責任に帰して、社内研修の予算を確保させやがった。もちろん形式的にはそれが直接市民団体に流れるわけじゃないんだが、そこで生きてくるのが俺が勤めてた法人。研修会の主催も使用テキストの発行元も派遣する講師の所属もその法人で、研修予算のほとんどが法人に入ってくる。そして法人は毎年上納金を市民団体に納めるってからくりだ。
それなりの大手の企業/団体の社員/職員研修となると年間数百万なんですぐだし、そういう成果が数百は存在する。もちろん窓口となるダミー団体も複数あって、結局年間数十??数百億が無税で(おっと、テキスト代の消費税は払ってたっけ。)市民団体に流れ込む。
手口は微妙に異なっても、右翼団体や総会屋のやってることと本質的に大きな違いはない。俺たちノンポリの下っ端は、「えせ○○じゃなく本○○だな、俺たち」とか自嘲してたもんだ。もちろん以下に述べるような構成人員の資質や組織のあり方も、右も左も保守も革新も反動も進歩も、そんなに大きくは変わりはせんだろうと思う。ベクトルの方向は違ってても、その先でやってることは五十歩百歩なんじゃねえの、とは思う。
さてまぁ脱線した。その市民団体の主たる主張はある種の人権擁護なんだが、他の様々な正義と平和と人道を標榜する団体と友好関係にあり、互いにしばしば主催する集会等への動員要請が行われていた。で、そういう要請は基本的には下っ端にしわ寄せが来るようになっている。8月6日のヒロシマを筆頭に、ずいぶんといろんなところの員数合わせに駆り出されたものだ。(従軍慰安婦とか南京事件とか○○の人権を求める市民集会とか××を糾弾する市民の会とか、アベレージで年に5??6件は出席した。もちろん俺の所属する法人orその上部団体が直接主催するもの以外でだ。)業務の一環として出張扱いになった上で交通費も現地行動費も出してくれるんだから、断る理由も特にない。
もちろんこれをもって「沖縄の11万人」がどうこうとか言い出す気はない。俺という異分子が1人紛れ込んだ集会がかつて存在した、というだけのことでしかない。がまぁ必ずしも俺一人が際だって異質だったってわけでもなかった。ある時は集会で眠気をこらえある時はデモで熱射病に用心してるうちに、似たタイプの人と親しくなったりするんだ。熱意なんぞ欠片もないがしがらみと人間関係とその他もろもろに絡め取られて動員されてる人たちと、同病相憐れみ、互いに愚痴りながら、所属団体に関して話し合ったりもする。
で、結局愚痴の行き着くところはいつも似たようなもんで、「人だねぇ」。どこでも運動のトップとか指導者は似たタイプだし、運動に理論的正当性を与えてる学者や研究者ってのもまたどのジャンルでも似たり寄ったり、もちろん下っ端で熱狂してるのも、はたまた利害づくで参加してる人たちも、これまた似たようなもんだ。利害づくってのは一番分かりやすい。運動から甘い汁(主に行政からの個人給付……おっと。)を吸えるなら参加するし、吸えなくなれば離れる。別に一般の勤め人とメンタリティが異なるわけじゃない。俺たち「最初は純粋だが今は冷めちゃった」連中より多少は熱意のあるふりが上手いだけだ。
真面目な下っ端ってのはほとんどが主観的に純粋な正義への熱意に基づいてるだけで、なんということはない。言ってしまえばカルト信者と異なるところはない。頭を叩きつぶすか、個別に一本釣りして脱洗脳を施すか、運良く何かの偶然で組織から離れるか、だ。ちなみに俺は三つ目の「運良く偶然組織を離れ得た」口だが、これまた詳細は秘密。
トップにも二パターンあって、ひとつは純粋な下っ端がそのままのし上がった口。もっともこういうのは大概、「敬して遠ざけられる口」ではある。なにしろ清濁併せ呑むことができないから。で、もちろんそういうのは少数派。残りはもちろん下衆野郎。893の頭目やら汚職議員がゾロゾロ。(特に西日本……)
俺の勤め先だと、理事長は前者のタイプかな。お飾りでお神輿なとっちゃん坊やにして便利な宣伝灯。一番勢力の大きい部門の部長は後者、分かりやすい俗物。昼間は数千人を前に人権尊重を講演し夜はセクハラ大王、セクハラとパワハラの合わせ技を連発しつつ部下の若い女性を片っ端から喰いまくるエロ親父。で、一番タチが悪いのが事務局長かな。表では大学講師の肩書きを背に正義と平和と人道を説きつつ、事務所に戻れば部下を交換可能使い捨て消耗パーツとしていびりぬくことに楽しみを見いだしてるとしか思えん。いやいや、こいつの直属でなかった俺は幸せでしたよ。5年間で3人が潰された。
さて、また話がそれた。ようやく本題に近づいてきたな。残る学者や研究者だが、もちろん運動に正当性やお墨付きを与えてくれる先生方だけが、こういう連中と独立に存在してるわけもない。
俺は上記のような講演・研修のテキストとしての必要もあって、年間二桁単位でISBNナンバー付きの本を作ってきた。もっともほとんどが予算化している企業/団体への割り当てと組織内部の学習用で捌けてしまうんで、一般の書店にはそれほど出回っちゃいなかったが。俺の主たる任務もその一部の校閲・編集だった。
で、そういう出版物の著者が、市民団体と仲の良い学者・研究者の先生方だ。もちろん彼/彼女らの動機は俺は知らん。崇高な真理への欲求に基づく純粋なものかもしれんし、市民団体に利をもたらしそのおこぼれをもらうためかもしれん。書いて出版される内容は学術的に妥当なのかもしれんしデマゴーグなのかもしれん。読んだらためになるのかもしれんし洗脳されるのかもしれん。
ただしその校閲・編集をわずかなりとも担当した個人の感想として、「こんなもん出版して金取っていいのかよ」といいたくなる代物がそれなりの割合で含まれてたことは確かだ。上記のような市民団体幹部との対談をテープ起こしして「てにおは」を整えただけとか、(整えたのも俺だ。)出典とか引用元とかの調査を全部編集担当の俺に丸投げされて、インターネットの普及してないあの当時に泣きながら縮刷版とか復刻資料集(もちろん、本物の原典にあたるスキルは担当者たる俺にはない。そのことは学者先生も承知の上だ。)をひっくり返しまくり、どうしても見つからないものは必死で出典に対するツッコミが入らないように原稿を書き換えたとか。もちろん「こんなんやっちゃっていいんですか」と上司にお伺いをたて、OKをもらった上で印刷所に渡し、ゲラは学者先生のチェックも受けましたがね。
要は俺の脳内妄想レベル+αの代物が、ISBNナンバーがついて書店でもわずかながら売られて運動内部では「正典」扱いされる「歴史書」になっちまった。しかも対立団体からですら、その団体との分裂の前後以前の記述については特に誤りとまではされてないし、発行側と対立団体側の双方ともに大枠を認めてる代物を批判する学者さんも、少なくとも俺の目には入ったことはなかった。つまり外形的には「専門家間でもほぼコンセンサスのとれてる通説」になっちゃったんだ。
うっかりそんなものを世に出す手助けをしちまったショックが強すぎてな、今更「正義と平和と人道に関する歴史の通説」なんてもんを読む気にゃならんのだわ。いまだに書評やらその団体の内部評価を見ると、俺のでっち上げた代物が参考資料扱いされててな、正直、おぞましくてかなわんのだよ。とまあ、これが「俺はいかにして『まず学者先生の御本を読め』という言説にアレルギーを抱くようになったか」という妄想なわけだ。
芸術家云々と書いたものですが、
「芸術家」かどうか関係なく、プログラマーはまずは人間ですから、質や程度の差こそあれ、自己表現欲求や生きる葛藤みたいなのを抱えると思います。
いや、あれはあなたに対する意見ではないので無視していただいて結構です。
私が言いたかったのは、「プログラマーはプログラマーであるだけで生産的で創造的なのだ」というような自家撞着に陥っている視野の狭い人たちへのあてこすりです。単なる愚痴ですし、私の前の記事ぐらいからすでにあなたの話と無関係なところに行っているので無視していただいて構いません。敢えて言えば、あなたのような問題意識の(経験したことが)ない人を批判しているとは言えるかもしれません。
そこらへんの思いと自分のプログラミングが結びつけている人がいるなら、どう結び付けてるのか、結びつけないのならどう結び付けていないのか聞きたいです。
別にプログラミングに限らないんですよ。私は学生時代数学科にいましたし、純粋数学やってる人間ってのはプログラマー以上に「純粋数学こそが真理だ、役に立つか立たないかなんてクソ食らえ」っていう意識が高いわけですね。そういう意味では純粋数学者ってのはギークなんかよりよっぽど芸術家気取りでしょう。しかし、その巨大な自負に見合うだけの能力(運や努力やめぐり合わせも含め)を持っている人というのは僅かしかいない。その辺に疑問を持つような人は純粋数学から応用数学に転向して技術者として就職したりするわけです。
で、その上で言うのであれば「数学的思考法」というのは非常に役に立つと思います。プログラミングも、ギークレベルならともかくリテラシーレベルならば簡単に身に付けられるし。と言いますか、コンピュータ・サイエンスっての数学の分派なので、「プログラミングを学べば人生に役立つ」とか言ってる人にはかなり微妙なものを感じるんですよ。「それなら数学を学んだ方がよっぽどいいんでないの」と。
いや、数学に限らないんですよ。抽象的な思考を操りこなせるようになれば視野が広がるのは当たり前なんです。ただしそれは、分野特有のものじゃない。だから正直「プログラミングを学べば人生に役立つ」とか言ってる奴には「まだその段階か」と思わざるを得ないんです。ある程度以上の段階に至れば後は今まで学んだ思考法の繰り返しになって、勉強自体が人生を切り開いてくれるってことはなくなる。
そこから先をどう考えるか、です。