はてなキーワード: 少女マンガとは
とりあえず貼っておこうか。
平成15年の離婚件数は28万3906組で、前年の28万9836組より5930組減少した。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/jinkou/geppo/nengai03/divo.html
「離婚」という結果よりも、離婚の原因自体を考えた方がいいんじゃないだろうか。
「愛さなくなる」可能性よりも、「一生暴力をふるわない」可能性の方が、限りなくゼロに近いのでは?
そういう意味で、単純な反論なんだけど、
けれど、一生愛し続けると宣言することはできない。
いつか愛さなくなるかもしれない、その可能性を0にすることは不可能だ。
だから、結婚をする気はない。
いつまでも愛し続けられるかもしれないし、愛さなくなる可能性を0にすることも不可能だ。
だから、結婚してもいんじゃね?
てか、子供の問題は出てないのね。
社会的に考えて、今の日本だと結婚してなきゃ子供育てるのいろいろ不利なんじゃね?
少女マンガ的解決方法としては
・「だったら一生あなたを私の虜にしてみせるわ!」
小二病的解決方法としては
ブックオフで100円になってたエロ漫画を大量購入して色々気づいたことがあるので書く、その2である。
エロ漫画を古本屋で適当につかんで買っていると、その中に男性向けでないエロ漫画が入っていることがある。それによって気づいたことがあるので書く。
もちろん男の子が男の子にちんちんすられていっちゃうようなのもアナルセックスもあるんだが、それもいわゆるBLとしてイメージされるようなリーマン眼鏡と青年、みたいなものばかりでもない。中には、中性的な格好をした男性向けで萌えヒロインとして充分主役を張れる容姿の男の子が、男性向けで男役をやれるような男と、男性向けと同じページの比率で切ない恋愛をしてから結ばれる、なんて作品もある。正直、ヒロインがちんこすられてるシーンまで女性向けと気づかなかった。ふたなりかと思って読み直してしまったぐらいだ。いやこれゲイ向けなのかな。わかんないけど。作家の名前は女性風だった。
また、ちゃんと男女もののエロ漫画もある。少女マンガの恋愛をして毎回最後にセックスして終わる。男性向けとフォーマットは同じだ。
ただ、女性向けと男性向けを比べてしまうと割とはっきり区別可能である。男性向けが極めて強く必要とするあるシーンを、女性向けは必ずしも含んでいるわけではないのだ。
フィニッシュである。
男性向けでは、必ずどこかにはっきりと盛り上がるシーンが無くてはならない。それは男性キャラクタの射精であったり、女性キャラクタのオルガスムスであったり、ひどい目にあったキャラクタの絶望や絶叫であったり、プロポーズの瞬間であったりするが、作家がそこに向けて明確に絵のテンションを上げていくのは変わらない。そのシーンの後に落ち着くためのカットが入ることも多い。
ところが、女性向けではこれらは別に入れなくても良いのである。つまり日常描写からキスへ進みセックスに進行しているにもかかわらず、テンションはキスの段階からはさほど上がっていかない場合がある。セックスシーンでも強調されるのは「安心」である。ゼロ距離にいて受け入れられている、求められている、ここにいても良いんだ、といった安心を書くのが主題になってしまい、えっちな絵が描かれていても「ああすごいところみせちゃってるなあわたし」「でもみせてもよいんだもん」で男性向けのテンションとは明らかに違う次元となっていることがある。複数のこういった女性向けエロを読んで「やおい」ってのを女性が書き出した理由がちょっとわかった気がした。すごく盛り上がってどんと落ちるようなヤマとかオチとか意味とかは、男性が特に好む要素であって、女性の中にはそれが無くても楽しめちゃう人達がいるわけだ。
男としては、どうしても射精とそれに伴う快感が与える影響を考えてしまいますね。女性は性感がピークを迎えようが迎えまいが頓着してないのかなーとか。
今度はちょっと記事が短いから蛇足もつけとく。
少女マンガの利用法+顔射。というか眼鏡射。やべえ1行で終わった。
いかんあんまし覚えてない
前の奴にめちゃくちゃブクマついててびっくりしたわ。ありがとみんな。
男女関係を「ペット」みたいな形で描いている少女マンガがドラマ化した時は、こんなん需要あるんかい、とびっくりしたものだ。もしかしたら最近は、そういう願望って結構あるんだろうか。女性の方は「乙男」とか「草食系男子」のような「友情」程度の関係を希望して、そのあとは「ペット化」をご希望ですか。そんなに男が怖いんだろうか。
「きみはペット」についてなんか誤解しているようなので書いておく。
「私って男が怖いから去勢された男を飼いたい☆恋愛関係なんて嫌!」みたいな話ではない。
多くの男と付き合ってきて恋愛における男女の騙し合いに疲れているが、だからといって男に素を見せる勇気なんて全くない高スペック女(高学歴・高収入・高身長・高戦闘力)の前に、初めて自分の素を見せられる男が現れる(…ただしペット扱いだけど)という話だ。
ちなみに原作では最終的にペット扱いだった男と恋愛関係になり、結婚して終わる。素を見せられる人との恋愛っていいよね!なお話。
http://anond.hatelabo.jp/20081212153904 を見て。
元増田です。私ももっと違う路線にw
確かに「男性アイドル」(ジャニーズ)は女子のあらぬ妄想の対象になりえますね。
上手くいえないのですが、男性と比べて女性はオーガズムを感じるのはそう頻繁ではありませんし、容易でもないと思います。
つまり、性処理というのは相対的にニーズが低く、もっと妄想・精神面の充足を求める傾向があると思います。
性産業に関しては、ネットや同人誌の発達によって女性はまったく別の進化を遂げているように感じます。
おそらくイケメンが主体のAVがでたとして、女性が手に取る確率は低いと思います。
確かに「男性アイドル」=「ジャニーズ」のような図式ですと、なぜか男性ファンは少ないように思われますが、
しかし、中田英寿・イチロー・矢沢永吉・B'zなど「男性(にとっての)アイドル(=偶像)」は存在すると思います。
少女マンガでは「満月を探して」などが芸能人を目指すようなものだと思いますが、
そもそもセーラームーンなどの少女マンガの主人公全般は「アイドル」としての役割を担っていると思います。
彼女たちはシンデレラストーリーをたどり、最終的には憧れの男の子を得るという、女の子の「憧れ」を一心に引き受けてるのでしょうね。
http://twitter.g.hatena.ne.jp/ka-na-ta/20081130/p1
http://twitter.g.hatena.ne.jp/ka-na-ta/20081130/p2
ちょっと待って!皆そんなに二次元は「それはそれー」なのか?
私はガチに好きになってしまうんだけど。
でもこの反応が女性の大半の反応だとするなら、女性同人界での「同人や二次元だけに熱いれすぎてる人は痛い。ワタシはリアルでもちゃんと充実してますよ」的反応が多いのも納得がいくなと思った。あとガチで二次元キャラ好きな人に対する女性同人界の視線は痛い。「俺の嫁」の女バージョンってないんだよね。女性同人界では、誰と誰がどうこうっていうあくまで二次元界での話は盛り上がるけど、「キャラと私」みたいな話はほとんど盛り上がらない。ていうか、「痛いよ…」って嫌悪される。オタ界ですら。「リアルである自分とキャラとって……大体、図々しくない?自分だったらとてもそんなキャラとはつりあえないと思うから、実際仮にキャラがリアルに出てこられてもちょっと」的意見を見たんだよなついこの間。
ドリーム小説っていうまさしくキャラと自分、ギャルゲーの女バージョンみたいなのがあるけど、あれも女性同人界じゃ一番位が低いんだよね…まあ一番最近に出来上がったジャンルってのもあるだろうけど。男同士だろうが男と女だろうが二次元中のカップルに萌えるのが基本なんだよな。それって「自分(リアル)とキャラなんて全然有り得ない」ってことに起因するのかもしれない。
二次元キャラにマジで恋したことあるやつ集合みたいなスレがあるんだけどほとんどが男性(まあ正確にはどうだか勿論わからないけど)。女性オタ間では、「キャラに恋するなんてせいぜい中学生までだよねー!キャハハ」て雰囲気がある。
それがずっと解せなかった。なんでよ!?じゃあ「どう」キャラを好きになってるの?!っていう。
そもそも、ファンタジーとリアルの区別をつけるっていうのはそういう事なのか?
ファンタジーとリアルの区別をつけられていない、というのは、たとえば二次元であるキャラを現実にも存在するとマジで思いこむといったようなことであって、空想上のキャラクターに恋をする、というのは区別をつけてないわけじゃないと思うんだけども。
恋をしたけど二次元キャラは存在しないことを当然ながら知っているよ。区別ってそういうことではないのかな。存在しないし会えない事を知ってるけどそれを承知の上で尚ほれているだけだよ。
恋をしないことが区別していることではないと思う、ていうか、区別してないといわれても恋なんてしてしまうものだから、いくら「リアルとファンタジーは別」とか分かっていても恋してしまうときにはしてしまうってだけではないか?
寧ろこの文に共感する。
いや、もしかしたら、この人と解釈は違うのかもしれないけど。
私も、別にそもそも、二次元だろうが三次元だろうが、変わらないと思うんだよね。想いを向ける相手としては。そういう対象にするという意味では。だから、寧ろ三次元で恋ができる人が、なぜ「二次元でなぜできるのかわからない」と言うのかが、わからない。
と上の文の前に別の人が言っているのだが、この言葉がそもそも私は理解ができない。「二次元に恋をするってどういうこと?」って、何故そこで「二次元に」と分けるのか意味が分からない。どういうこともなにも三次元と同じなんですよ。恋をしているその主体は二次元に恋をしようが三次元に恋をしようが変化はないわけですよ。恋をするってのはあくまである人間がそういった感情を抱くことであって、別にその相手が何であろうが、それはたいした問題ではないのではないかと。何故次元で分ける必要があるのか、むしろそこが理解できない。「A君に恋をするのは分かるけど、B君に恋をするってどういうこと?」と言われているような違和感。(A君は恋をするほど立派だから分かるけどB君てどこがいいの?的な意味でなくねw)どういうこともなにも恋をしているその人自身はその人自身なわけで、SさんならSさんなわけで、Sさんの恋愛感情が誰に向かっていようが現象としては、それは同じ事でしょう。なぜ次元が違っただけで分からなくなるのかが分からない。そういう人は、その考え方だと、同性愛者にも「同性に恋をするってどういうこと?」って思っているのでは?異性だろうが同性だろうが次元が異なろうが関係ないんですよ、ある人が恋愛感情を誰かに向けているという現象においては。些細な問題でしかない。仮に、「二次元に恋をするってどういうこと?」と言ってる人が、「いや、同性愛者にそんなことは言わないけど」というんだったら、余計に不思議。それなら二次元だって理解できると思うんだけども。自分が恋愛感情を抱かない相手に抱くということを理解できるわけなんだから。
で、というか、だから、というべきか、これもちょっと理解しがたい。
少女マンガ読んでキュンキュンするほうが近いよね?? だってあんなことリアルな男に言われたら、「ハァ!?うっせ!」っつって、ぶんなぐりたいもん★
ああいうことをほんとの彼氏が言ったら、やっぱ、ひく、っていうのおおいよねっ あ、言って欲しい単語集は個人的にあるけど!
確かになんかいきなりキスしてきて「いいからついてこいよ……」とかいう少女漫画は「ハァ!?氏ねよ!」と思うんだけど、それはリアルな男がやったらとかじゃなくて、そもそも漫画読んでる時点でそのキャラに引いてる。私の場合。二次元だから萌えるとかじゃなくて。
リアルな男に言われたらウザイ台詞・行動は二次元でもやはりウザイ。
好きなキャラが言ってる台詞は、仮にそのキャラがリアルで吐いたとしてもやはりときめく。(といっても実際にやったわけではないのであくまで思考実験上の話だけど)
だから「二次元だからいいけどリアルじゃね」って気持ちが分からない。
本当に女性の多数がそうなのかはわからないけど、なんかなあ、逆に私は、なんでわざわざ分けちゃうんだろうと思ってしまう。好きなら好きでいいのではないの?それをわざわざ「二次元は違うよー」ってする意味も必要性もわからない。
ただもともとの話の出発点は
http://d.hatena.ne.jp/takerunba/20081127/p3
に対する違和感であって、それは私も分かる。
ウェブカレやってる最中にリアルの男とコミュニケーションして彼氏作りとか全く意味が分からないよ、っていうそれは分かる。
ただそれは「別に彼氏作りたいからやってるんじゃなくて、癒しを求めてるからやってるだけ」という切り口ではなく「そもそもそのウェブカレが好きなのに、なんでその恋愛真っ最中に他の男とアレコレする意味があるんだ」という意味で、であって、反論の内容は違うんだけども。
ウェブカレをリアルカレ・カノジョ作りの窓口にする意味は確かに全然分からない。それは「彼氏が欲しいけどいないから代わりにウェブカレで…」って人がいること前提だけどそんな人いるか?そもそも彼氏が欲しいという漠然とした欲求がわからないけど(誰かを好きになるんであって彼氏が欲しいってなんか本末転倒じゃね)
二次元にマジ恋してる人ほどウェブカレを窓口にリアルカレ作り、は共感できないよ、寧ろ。だから「男は私達と違ってリアルとファンタジーがつながってるのかな」的なことをいってるけど、仮に男オタがそうだとするなら男オタこそウェブカレの展開妄想は理解できないと思う。「いや俺は長門自身が好きなんであって、リアルでカノジョがいないから長門を代わりにあてがってるわけじゃないよ!」って。「仮にそうだとしたら」だけど。
てか、だから「別に彼氏とかそういうのとは別腹で楽しんでるだけ」って人ほど、寧ろまだ上記ウェブカレの展開についていけるんじゃないかと思う。「二次元は二次元、リアルはリアル」って思っているんだから、寧ろ「ウェブカレでキャッキャしつつ、リアルカレを探す」なんてことができるのはそういう人たちの方ではないのだろうか。
二次元にガチ惚れだからこそそういうことは出来ないよ。ある人に恋をしていたら、「そいつはちょうどいい!」と別の人を紹介されて「この人に惚れろよ」とか言われたようなわけ分からん気分。
>女性って男性がかんがえるほど「性」に強い興味ないんだよね。
人それぞれだと思うぞ。
というか、少女マンガにでてきそうな「性」に関してあまり興味がない・楽しいと思わない女って希少種なんじゃないか?
だいたい、男にしても女にしても性的な部分で比べられるのは嫌なのは共通している。
男はあまりしないけど、女って世間話レベルで「今の彼氏は前の彼氏よりこういうところが下手だったり」的な話をしてる。
こういうところを見ると余計に男は「経験少ない女」がいいと思う。
女にしたって、男が胸を比べたり好みの話で比べられてるのは嫌だからあれほど反応するんだろうし。
童貞だから嬉しい!というのがあまりないのはある程度年齢が高くなってくるとそうなるんじゃないかなと。
中学生や高校生でカップルになってセックスしようとしたとき慣れた手つきでされると女は結構ショックだったりするらしいじゃん?
しかし社会人2??3年目になるともうそういうことには抵抗が低くなってたり。
男の場合、前述した「比べられる恐怖」ってのがあるから30歳だろうがなるべく彼氏が10人いただろうが未開発のほうがいいんだよ、と個人的には思っている。
本好きなら人に聞く前に、自分でいろいろ読んでみればいいのにと思う女ラノベ読み。
女性向けラノベなら、コバルトとCノベルスが豊富なのでチェックしてみたらどうだろう。
増田に多分ヒットするのが
・多崎礼の全冊
・デルフィニア戦記(→スカーレットウィザード→クラッシュ・ブレイズ)
他、非萌なら
・マルタ・サギーは探偵ですか? (野梨原花南)←すごく女性向けラノベ。自分は好き
・図書館戦争(有村浩) 「海の底」→「くじらの彼」からでもいいかも
・BACCANO! -バッカーノ(成田良悟)
・文学少女シリーズ(野村美月) ←主人公がちょっとうじうじしてるので微妙?
・されど罪人は竜と踊る(浅井ラボ) ←グロ注意報だがおもしろい。女性読者率高い
・プリンセス・ダイアリー(メグ・キャボット) ←児童文学寄り
微妙かもしれないあたり
・ROOM NO.1301(新井輝)←エロと見せかけた青春もの
・とある魔術の禁書目録(鎌池和馬)←超能力バトルもの 一方通行か主人公かに燃えられる
・伝説の勇者の伝説(鏡貴也) ←読んだことないがロードスっぽい
例に挙がってた川上稔は全部読んでるが、増田には合わないと思う。あれは結局キャラ萌、世界萌だから。
あと、意外に合いそうかもしれないのがドラゴンブック。
フォーチュンクエスト読んでれば問題ないと思われる。
・新ソード・ワールドRPGリプレイ集(秋田みやび)
これ以外は無理そうだけど。お好きなのドーゾ
皆さんは「ダンギリ」って何かご存知ですか?
一言で言えば、「壁に手を付け指先に力を込める」こと、
つまり、切羽詰った思いを表すための高等表現手法であり、
その際に出る音、つまり「ダンッ!」「ギリ…」より、「ダンギリ」という名称が付けられました。
もちろん、2次元においても少女マンガ、乙女ゲーからBLまで、幅広く活用できるとても便利な行為です。
この行為は太古の昔から女性の夢として存在し続けてきましたが、
近年になって、謎の集団・映像美術部によって名称が付けられたのであります。
名前が付いたことで、それまで概念的だった行為が一気に具体性と活用性を帯び、
ひとつの立派な萌えジャンルとして確立しつつあるのが現在の状況です。
今後、もっとも注目していくべき学問のひとつであると言えるでしょう。
ただし、ダンギリと一言で言っても、実はシチュエーションや関係性によって多様なものが存在するのです。
今回は、そんな奥深いダンギリについて、皆さんと一緒に楽しく学んでいきたいとおもいます。
※若干、個人の感性が分析に影響を与えてる点についてはご了承ください。
まず、ダンギリは大きく5つのタイプに分類することが出来ると言えるでしょう。
1人で行うものが1種類、2人で行うものが4種類存在することが今日の学会では判明しています。
<1.後悔ダンギリ> 萌え度☆☆☆☆
いわゆる、ダンギリの代表格です。また、唯一の1人ダンギリ(1人で行うダンギリ)でもあります。
後悔や切なさ、苦しさ、恨みなどを表現するのにもってこいなのがこちら。
「あんなことするべきじゃなかった」「こうすればよかった」などといった時に使用するのが良いですね。
普段は口数少ないキャラクターが、秘めた思いを煮えたぎらせることもできる秘密兵器です。
そうそう、スポーツマンが負け試合の後に控え室で行ってるのなどはよく見かけることが出来ますね。
満員電車で押されて…、なにかの拍子でベッドに倒れこみ…などといった、
ドキドキ急接近イベントにはこれ。
さりげなく自分をかばってくれていることに気付くなど、
お互いを異性として意識しはじめるキッカケとしても利用価値があります。
実に少女漫画的なダンギリと言えるでしょう。
また、ハプニングダンギリには、??押し倒されダンギリ と ??押し倒しちゃったダンギリ が存在します。
男性(および男性役)と女性(および女性役)の、どちらが押し倒したかで決まるかは言わずもがなですね。
<3.告白ダンギリ> 萌え度☆☆☆☆☆
告白やキスに挑まんとする果敢なダンギリです。
ダンギリの最終ゴール地点でもあります。
こちらも大きく2種に分かれます。(??強気ダンギリ ??へたれダンギリ)
??強気ダンギリは、かなり自信のある男性(および男性役)が使用します。
そして、砂を吐くほどにロマンティックで甘い台詞が付き物です。
??へたれダンギリでは、「好き」がなかなか言えずません。「俺はお前が、す、す、す…っ」と口ごもりましょう。
そして、結局はなんらかの邪魔が入り、告白やキスは出来ない、というのがデフォルトです。
<4.問い詰めダンギリ> 萌え度☆☆☆
こちらはだいぶシリアスなダンギリです。
隠し事(大きな病気、不倫など)を問い詰めるときに使用します。
略称は「オラギリ」です。
主に不良生徒がもやしメガネ君をカツアゲ時に使用するのがこちらですね。
オラギリは例外的に複数人でのダンギリ(別称・リンチ)となることもあるので要注意です。
萌え度も若干低めとなっています。
ただし、もやしメガネ君がメガネを外すと美形だった場合、萌えに昇華することも可能です。
(不良生徒「こいつ…こんなに可愛い顔してたのか…」)
また、これは全てのダンギリに共通することですが、
片手ダンギリと両手ダンギリでは表現できるものが異なってくるので、
使用上は十分に気をつけなくてはなりません。
やはり両手ダンギリの方が本気度が高いようですね。
いずれにしろ、乙女をときめかせるのに絶大な威力を放つのがこの「ダンギリ」なのです。
以上が私の研究成果です。
もしこれら以外にダンギリの新種などを発見された方がいたら、
今後の研究のためにも是非ともお知らせ願います。
これからも共にダンギリの未来を築いてゆきましょう。
《参考資料》
・有川譲 『遥かなる時空の中で3』 告白ダンギリの代表
・四ノ宮稜平 『ダカーポGirlsSymphony』
「俺がいるとお前が怯えるから、好きだけど諦める」といった苦汁の選択ダンギリ
・古城孝明 『ダカーポGirlsSymphony』
血は繋がらないが兄であり一線を踏み切れない「お前は妹だから…!」ダンギリ
ダメだ。好きって気づいたら垂直落下。
ゴトンという音と一緒に私がそこに転がってた。ああ、好きだ。私はこの人のことが好きで好きで好きで好きでしょうがないんだ。
なにこの少女マンガ。自分が気持ち悪い。
本当に何も身動きできない。こんなに好きなのに。
彼氏のことは嫌いになった訳じゃない。たぶん私の心の土台にはずっと今の彼氏がいるんだろうなと思う。
でもその土台から芽を出してしまった。だれも入っちゃ行けないところに彼はすっと入ってきた。私に水をくれた。
ああ、好きだ。でも私の根は抜けない。
こんなに好きって実感したのは久しぶりだ。
ああ、好きだ。
好きすぎてどうしよう。彼氏いるのに。でも彼が大好きな自分がいるんだ。好きで好きで仕方がない。
今の彼氏に対してこういう風には到底思えない。
それを相談したら、「倦怠期でしょ」「1ヶ月様子見て」って言われた。
それって、1ヶ月たったら、あなたのところに行ってもいいの?あなたは私を受け入れてくれるの?
大馬鹿ものが。
あれだけ蓋を開けてはいけないと言ったのに。お前は死んでしまうよ。
最近、小学校で同級だった男の子の夢を見る。毎晩のように見る。
父が転勤族だったわたしは4年のときにその小学校に転入して、卒業と同時にまた遠くに引っ越した。
同窓会に参加したこともないし、中学から今に至るまではまったく接点はなかったんだけど、夢に出てくるものだからいろいろ思い出してしまって、こういうもやもやをどこに吐露すればいいものかわからないので今回初めて増田になってみた。叩かれるのはこわいので、誰にも見られずひっそりと落ちていってくれればいいと思う。
それはさておき、そいつはお金持ちの家の長男で、将来は父親の会社を継ぐことになっているといううわさだった。
毎年クラス替えのある小学校だったんだけど、そいつとは4年から6年までずっと同じクラスだった。
どこかひねたところのある子どもだった。
女の子同士の
「ねえ、今好きな人いる?」
という会話の遡上に上ることはなかったけど、頭が良く、スポーツも得意で、親譲りのものなのか人を惹きつけるオーラのようなものがあった。オーラって言うか、とにかく大物の風格を子どもなりに持っていたやつだったと思う。
5年のクラスで席が隣同士だった時期、内容は忘れたけど半分口げんかのような感じでいろんなことを言い合っていて、ふと
「なんだかこいつとは、夫婦みたいに何でもしゃべれるな」
と思ったのが強烈な記憶として残っている。
なぜ「夫婦」という単語がそこで出てきたのかはわからんけど、そいつと自分の間に、自分の両親が話しているときの雰囲気と似たものを感じ取ったからなのかもしれない。歯に衣着せぬ物言いで続く、間断のないことばのキャッチボール。劣勢になっても、他のやつみたいに「せんせーい、隣の人がうるさいです!」とかかっこ悪いことはしなかった。互いに相手と真正面から向かい合い、相手のことばを受け止めながら対話を続けていた。それに伴う緊迫感を、今思えばわたしはとても楽しんでいた。「手応えがある」って言ったらなんか偉そうだけど、そういう感触をぼんやりとそいつに抱いていたんだと思う。
はっきりとそいつを異性として意識したのは、小6のときだった。
国語の授業で「注目の的」という慣用句を習った。「班ごとに話し合って、これを使った短い文を作りなさい」と担任の先生に指示された。わたしたちは机をくっつけて「注目の的」を使ったうまい文を作るべく話し合った。そいつとは同じ班だった。
「的って言うとなんだか痛くて大変そうだね」とかアホなことをわたしが言っていたら、そいつがぼそっと小さな声でわたしに
「お前、クラスの注目の的じゃん。」
と言った。(わたしたちは「お前」「あんた」と呼び合っていた)
最初は意味がわからず、そいつがいつもとは違う様子でそっけなく言うものだから、わたしがクラス中に冷ややかな目で見られているような痛い子だと言いたいのだろうか、とか思って、信頼していたのはわたしだけだったのかなぁ、って気がして、なんだかさびしくなって黙り込んでしまった。
他の子が
「え?どういうこと?」
と聞き返すと
「注目の的って、魅力があって皆がいつも見てる、っていう意味なんでしょ。
お前じゃん。」
と言って、あとは黙ってノートを取りはじめた。
班全体がしーんとした。
横の男子が
「おおぅ…素敵ねぇ…」
とか、軽く冷やかすような声をあげた。
しかしそれでも空気は軽くならなかった。
わたしはそいつの真意を図ろうと、ちらちらとそいつの顔を盗み見た。
でもそいつはとうとうそれから一度も顔を上げず、班としての発表は他の子が考えた案で無難にまとまって終わった。
そもそも、わたしは別にクラス中の注目の的なんかではなかったと思う。
勉強ができて運動もできてリーダーシップもあって、っていう目立つ子は他にいたし、そういう子に比べたらわたしは平凡なほうだった。
でもわたしはそのとき、ものすごく「どきっ」とした。
それが自分でも意外で、どうしてわたしはこんなにどきどきしてるんだろう、とだいぶ考えた。
そして、たぶん、わたしはそいつに何かそういうのを期待してるんだ、というようなことが、うっすらと自覚できた。
でも相変わらず、女子同士の
「ねえ、好きな人いる?」
という会話の場で、わたしがそいつの名を挙げることはなかった。
何か、そういうところで軽々しくそいつの名前を出すことがいやだったのだ。
別に「好き」とか、そういうのとは違う、と思っていた。
「好き」っていうのは少女マンガみたく背景にお花を背負った感じでキラキラしていて、ロマンチックで、そんなのが「好き」だと思っていた。
あいつは、そういうんじゃないもん、と思っていた。
でも、他の女の子の口からそいつの名前が挙がらないかどうかを、いつもすごく気にしていた。
子供心に、あいつのいいところを知っているのはわたしだけだ、と思っていた。
皆あいつのことを、金持ちの高慢ちきのいやなやつ、と思っているかもしれないけど、わたしだけは知ってるもん、わたしだけは、あいつのこと、わかってるもん、と思っていた。
幸い(?)わたしが知っている範囲では、そいつのことが好きだと言う女子はいなかった。
2学期後半から3学期にかけて、中学受験をする子たちの身辺が慌しくなり始めた。
わたしは父の転勤がほぼ確定していたため、転勤先の市立中学校に通うことになるだろう、と前もって親から聞かされていた。
そいつは受験組だった。進学塾にも通い始め、受験組どうしでどんどん仲良くなっていっているのが傍目にもよくわかった。
受験組の子がうらやましかった。
その中には前述の、本当の「注目の的」の女の子もいた。
やっぱり、わたしより、同じ目的を持った友達のほうが話も合うし、わかり合えるよなあ、そうだよなあ、と、思った。
あいつのことをわかってるのは、わたしだけだもん、そう思っていたのは、錯覚だったんだなあ、と思った。
そいつとまた前みたいに仲良くできるかもしれない、というそれだけの理由で中学受験を親に申し出てみたりもしたが却下された。
今考えると、めっちゃ好きやったんやん、と思う。
「サイン帳」を配るシーズンになった。
女の子がクラス替えとか卒業の前に友達に配り、プロフィールとともに趣味とかメッセージとかいろいろ書いてもらったものを綴じておく、あれだ。
わたしもクラスの人たちに一通り配った。
女子はもちろんのこと、男子も結構律儀に書いてくれてありがたいことだ、と思っていた。
もちろんそいつにも渡したのだが、そしたらなぜかそいつは半切れで
「書いてもいいけど、絶対に他のやつに見せるなよ!」
と言ってきた。
あまりの剣幕にビビッて
「う、うん、わかった…。」
と答えると再度
「本当に見せるなよ!約束だからな!絶対に見せるなよ!」
と念を押してきた。
何か知らないがその気迫にただならぬものを感じ、絶対に誰にも見せない、と約束すると、そいつは仏頂面のまま紙をランドセルに突っ込んで持って帰っていった。
それがそいつとの記憶の終わり。
結局、渡してくれなかったのだ。
別にそいつはわたしのことを何とも思っていなかったのかもしれないけど、わたしのほうは、たぶん、そいつのことが大好きでした。
子どもにしてはしゃがれた声も、ひねたとこも、自分では嫌だといっていた長めのまつげも、女の子みたいな丸っこい文字も、テレビの趣味が同じだったところも、たぶんすごく好きだったんだよ。
http://d.hatena.ne.jp/n_euler666/20080823/1219510473
やおいとかコミケを知ったのは1980年代の同人バブル真っ盛りのころ。
少なくとも女性向けでは当時はあまり「買い専」とか「買い手と売り手」という住み分けはなく
ほぼ書(描)き手(サークル)=読み手(購入者)だったと思う。
自分のサークルでやられたら迷惑な事は良識のある人はやらないし、サークル=購入者ということは狭いジャンルまたは
大手だと顔バレしてるしみっともない。
男性向けはどうか知らないが、女性向けはもともと閉鎖的で、痛い行為すると悪目立ちしやすい環境もあって値切る人って
ほとんどいなかったんではないかと思う。
演劇部の友人に薄くてキラキラ表紙に男キャラがくっつきあってる本を読むサバドに
そのころはオフィシャルがうるさいジャンルがなかったが、少女マンガに乳首を描いたら大騒ぎになるご時世だったので
それを知っている仲間というのは世間一般の目(特に親・学校)に対しては秘匿されていた。
自分のきっかけは演劇部だったが、当時の腐女子は漫研や美術部経由で同人知った人が多かったんじゃないかと思う。
サークル活動も先輩の原稿を手伝ったり、イベントに連れてってイベントでの設営や印刷所の事とか教わった。
「この前面白いって言ってた本この人が書いたのよっ」て先輩にさらに年上の書き手紹介してもらったりして
自分にとっての同人って常に上の人の目があったので、
イベントではお行儀よく、周りの人がやってないことをするのはマナー違反だと思っていた。
イベント会場で迷惑行為やほかの人がやっていない事(カートを机の上に置くとか)をしていた人についてはイベント後のお茶会wで
誰が注意の手紙を出すかと相談していた。
(当時は奥付に住所を書くのが当たり前だったし、イベントごとにどのサークルも通販用の住所が掲載されたインフォメペーパーを作っていたので住所はすぐわかってしまう)
今思うと先輩とそのお知り合いは自治厨っぽいが、イベントで問題を起こさないようにという自浄作用でもあったような気がする。
何で値切っちゃいけないかうまく言えないが、当時の先輩も、周りの人も値切っている人は一人もいなかったんで、
値切るという行為はちょっとみっともなく感じる。
今はコミケに行ったことない(たぶん同人誌即売会という名のつくものには行ったことないと思われる)書き手でも読み手でもない人が
同人誌購入について発信できる時代になった事に年を感じた。
大手のたしなみって言葉が懐かしい。
アニオタが非オタの彼女にアニメ世界を軽く紹介するための10本より
まあ、どのくらいの数の白泉男子がそういう彼女をゲットできるかは別にして、
「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、
その上で全く知らない少女マンガの世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってる」
ような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼女に、花とゆめコミックスのことを紹介するために
見せるべき10本を選んでみたいのだけれど。
(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼女に少女マンガを布教するのではなく
相互のコミュニケーションの入口として)
あくまで「入口」なので、時間的に過大な負担を伴う40巻、80巻越えのマンガは避けたい。
できれば文庫版10巻、長くても単行本20巻にとどめたい。
あと、いくら白泉社的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。
24年組好きが『綿の国星』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。
そういう感じ。
彼女の設定は
少女マンガ知識はいわゆる「児童向けまんが」的なものを除けば、ちびまる子ちゃん程度は見ている
サブカル度も低いが、頭はけっこう良い
という条件で。
まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「ぼく地球以前」を濃縮しきっていて、「ぼく地球以後」を決定づけたという点では
外せないんだよなあ。長さも21巻だし。
ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼女との関係が崩れるかも。
この情報過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限の情報を彼女に
伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」の試験としてはいいタスクだろうと思う。
アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうな少女マンガ(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの
という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼女にぶつけて確かめてみるには
一番よさそうな素材なんじゃないのかな。
「白泉男子としてはこの二つは“マンガ”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。
ある種の歴史マンガオタが持ってる平安への憧憬と、氷室冴子原作のオタ的な考証へのこだわりを
彼女に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにも氷室冴子な
「童貞的なださカッコよさ」を体現する高彬
の二人をはじめとして、オタ好きのするキャラを世界にちりばめているのが、紹介してみたい理由。
たぶんこれを見た彼女は「あ〜るだよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。
この系譜の作品がその後続いていないこと、これが文化系サークルでは大人気になったこと、
サンデーならOVAになって、それが飯田線を舞台にしてもおかしくはなさそうなのに、
白泉社内でこういうのがつくられないこと、なんかを非オタ彼女と話してみたいかな、という妄想的願望。
「やっぱり少女マンガは乙女のためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「桜蘭高校ホスト部」
でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この作品にかける高屋奈月の思いが好きだから。
断腸の思いで削りに削ってそれでも23巻、っていう尺が、どうしても俺の心をつかんでしまうのは、
その「捨てる」ということへの諦めきれなさがいかにもオタ的だなあと思えてしまうから。
フルバの長さを俺自身は冗長とは思わないし、もう削れないだろうとは思うけれど、一方でこれが
日高万里や武藤啓だったらきっちり13巻にしてしまうだろうとも思う。
なのに、各所に頭下げて迷惑かけて23巻を作ってしまう、というあたり、どうしても
「自分の物語を形作ってきたものが捨てられないオタク」としては、たとえ高屋奈月がそういうキャラでなかったとしても、
親近感を禁じ得ない。作品自体の高評価と合わせて、そんなことを彼女に話してみたい。
今の若年層で銀ロマ見たことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。
笑う大天使よりも前の段階で、カーラ教授の哲学とかマンガ技法とかはこの作品で頂点に達していたとも言えて、
こういうクオリティの作品が隔週誌でこの時代に載っていたんだよ、というのは、
別に俺自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなく少女マンガ好きとしては不思議に誇らしいし、
いわゆる黒歴史実写映画でしかカーラ教授を知らない彼女には見せてあげたいなと思う。
那州雪絵の「目」あるいは「絵づくり」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。
「終わらない寮生活を毎日生きる」的な感覚がオタには共通してあるのかなということを感じていて、
だからこそアニメ版『赤ちゃんと僕』最終話は修学旅行以外ではあり得なかったとも思う。
「祝祭化した日常を生きる」というオタの感覚が今日さらに強まっているとするなら、その「オタクの気分」の
源はグリーンウッドにあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、
単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。
これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。
こういうコスプレ風味の恋愛をこういうかたちでマンガ化して、それが非オタに受け入れられるか
気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。
9本まではあっさり決まったんだけど10本目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にハルヒを選んだ。
ぼく地球から始まってハルヒで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、打ち切り以降の黒歴史時代の先駆けと
なった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。
というわけで、俺のこういう意図にそって、もっといい10本目はこんなのどうよ、というのがあったら
教えてください。
「駄目だこの白泉男子は。俺がちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。
こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。
元増田ー。丁寧な回答thanx。
きっちり書くと長くなるため大雑把にしましたが、いろいろ書いていただいたのはありがたいです。
どっちかといえば、二次創作を見過ごしている版元ではなく、
そういう対応をしているネットのほうに疑問を抱いて書いてみました。
線引きの基準として、アマチュアだから許されるという意見が出ると思ったため、書いた次第です。
話は変わりますが、何も対策をすることもなく、ただ単純に現状維持を続ける同人市場に対して、
どうやってでもMADを世間的に認めようとふんばっているニコニコは大人だなぁと思う今日この頃。
基準も決めずただその作品が好きか、嫌いかだけで叩くか、叩かないかを決めているようにみえるネットはどうなんでしょうか。
ま、いちおう現状では写真ならOK、イラストはダメとなってますが、それも個人的には疑問です。どういう違いがあるのか。
紙の上で展開される構図でいえば、写真もイラスト(漫画)も同じですし、
写真をイラストにトレスによって変えるところでオリジナリティがあるというなら、
ある人のイラストをトレスで自分のイラストに変えるのだって、オリジナリティが必要です。
まぁ、同じキャラクタだとか、同じテイストのイラストだと別の話になりますが、それはトレスというより贋作ですし。
そうならば盗むところは構図とかしかなくなって、
昔、末次由紀さんの件で話題になりましたが、
これがもし冨樫さんや荒木飛呂彦さん、井上雄彦さんならばあそこまでの騒ぎになったかなぁというのはちょっと疑問。
要するに末次さんを完璧に叩き潰すまでにやったのは、
末次さんの作品どころか、少女マンガをまったく読まないような人だったんじゃないでしょうか。
つまり、もし上にあげたような人気作家さんが同じことをしていたとしても、そこまで騒がれてなかったのではないか。
別に読んでいない漫画家さんが消えたところで被害はないけど、
好きな漫画家さんだったらものすごく抵抗しようと思いますよね。
割と井上雄彦さんあたりの有名かつ人気のある漫画家がやっていたことからOKと流れになっただけで
明確な基準はないんじゃないでしょうか(あったらすいません。
ただ、紙の上にうつすのはダメなのに、あれだけやっても作品を模倣するのはOKなの?というのも疑問だったりします。
稼ぐ稼がないの話をしましたが、所得税法違反で有罪判決を受けた品川かおるこさんは3年で2億の所得があったらしいです。
それを漫画単行本で単純計算すると((一冊500円、印税率10%として計算))、400万部以上売り捌けなければ稼げない金額ですよ。
そこまで稼いでいる漫画家が果たしてどれだけいるのか。
相手の技術や作品に影響を与えるという点でもトレスも模倣も同じ。
なのにどうして、トレスはあれだけ叩かれて、模倣は放置なのか。
もう一回聞いてみよう。教えて、エロい人!
参考:ニコニコは大人の件→http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0807/15/news110_2.html
品川かおるこ所得税法違反の件→http://news22.2ch.net/test/read.cgi/moeplus/1175069123/-100
※友人がオタクについて語った文章が面白かったので、許可を得て増田へ転載。
以下、友人の弁。
オタクが現実の問題について考えるとき・語るときに陥らないよう注意すべき点として、オタクのなかに強く見られる論理と心理の問題を以下に例示する。
これはべつにオタクじゃなくても当てはまるだろうという指摘があるとすればそれはその通りだが、ここで対象をオタクに限定したのは、筆者自身がいわゆるオタクであり、オタクのなかに見られる論理と心理について、ほかの集団のそれについてよりもよく見知っているという理由による。したがってここで例示したものは、あくまでそれがオタクにおいて比較的傾向的に強く見られるという筆者の観察に基づいている。
カッコイイズム
「カッコイイ」ものに対する素朴なあこがれと肯定の心理。ここで言う「カッコイイ」ものとは、たとえば、強さ、正義、純粋さなど、ヒーローものやロボットアニメなどに典型的に表されている価値観。こうした「カッコイイ」という観念は、具体的な作品を通して、実体的なものと結びついている場合が少なくない。典型的には武器・兵器との結びつき。強さへのあこがれと肯定が武器・兵器へのあこがれと肯定になって表れる。とくに男性オタクの場合、幼少期の経験によって、こうした素朴な心理がほとんど所与のものとなっている場合が多い。
こうした心理が現実の問題に適用された場合、非妥協的で一方的な強硬論の主張として表現されることになる(ヒーローはその純粋さと強さでもって有無を言わさず正義を実現する!)。たとえば、オタクが対北朝鮮問題について一方的な強硬論を唱えたり、日本の安全保障について軍拡論(さらには核武装論)を唱えたりする場合、その中には素朴なカッコイイズムの心理(しかも軍事力と結びついた軍事カッコイイズム)が混入していることが少なくない。もっと穏やかな形では、「あんなヤツやっつけちゃえよ」といった言説。自分だけの単純・素朴な心理(しかもしばしば暴力と結びついている)だけでもって複雑な現実を捉え解決しようとする点で非常に問題。
善悪二元論……敵の悪魔化と味方の無謬化
正義と悪の戦いというものの見方。典型的なヒーローものの論理。
敵=悪玉の論理。相手が何か一つでも悪事をはたらけば、事の大小も問わず、責任の限界も取り払って、相手を邪知暴虐な悪の枢軸にしてしまう。相手のすべての行動が邪悪な行動とされ、相手は邪悪なことなら何でも企みうるし、なし得るとされる。敵の悪魔化・万能化。行動が悪なのは人格が悪だからという論理、悪の人格からは悪の行動しか出てこないという論理。さらには、その悪に関係する人、組織、集団や、悪を擁護するものも一律に悪とされる。悪の肥大化。
これと対照的な形で善玉の論理が出てくる。上記のような巨悪を批判・非難する側はつねに正義であり、悪を殲滅するまで徹底的に攻撃を加えるべきだとする論理。結果として、邪知暴虐な悪との対決にはあらゆる手段が用いられ、往々にして敵よりも残酷で非道な手段を用いることも少なくないが、そうした手段は目的の「正しさ」によって正当化される。敵が悪魔化されたのとは対照的に、味方は無謬化される。宗教戦争に典型的に見られる正戦論の論理。
こうした論理が現実に適用されている例は枚挙にいとまがない。犯罪者バッシング、不祥事バッシングのほとんどがこうした論理によって展開されている。
現実はもっと複雑であり、善悪二元論で割り切れるものではないということ。善からは善のみが、悪からは悪のみが生まれるわけではなく、しばしばその逆であるということ。仮に犯罪や不祥事があったとしても、その事実をありのままに観察して論じること。特定の人格、集団、組織にすべての悪を引き受けさせるのは現実的なものの見方ではない。悪をなした側には悪をなした側なりの論理や心理がありうる(一応、オタク文化にもそうした側面に配慮した例外的な作品はある。『逆シャア』など)。単に人格的なレヴェルの問題だけでなく、構造的なレヴェルでの問題を見ること。そうした現実の複雑さに耐えきれず、問題を最初からすべて善悪二元論の鋳型に流し込んでしまうのは、宗教家かデマゴーグの方法。
問題の人格化
肯定・否定問わず、あらゆる対象を大小さまざまに人格化・キャラ化する論理。
これが現実に適用されると、典型的には民族や国家を人格化するようなことが起こる。さいきんでは『ヘタリア』の例。人格化された対象はある一定の本質を持っているように描かれ、ステレオタイプが促進される。
さらに、人格化された対象が実在の特定人格と結びつく傾向もある。たとえば、日韓関係が小泉vs盧武鉉のような形で著しく人格化されて語られた。これを歴史観に反映すると特定の人物に歴史を仮託した英雄史観になり、現実政治に適用された場合には指導者待望論につながる。
感情移入と過度の思い入れ
対象へ感情的・感傷的に没入する。対象と一体化した共感・同情。惚れた状態。マイナス面が見えなくなる。あばたもえくぼ。
現実に適用された例としては、拉致被害者家族会に対する感情移入。「被害者家族はこんなにかわいそうなのに、どうして北朝鮮に譲歩するのだ」という主張。共感・同情・思い入れが唯一の原理になる。没入対象が民族や国家などの場合は排外的ナショナリズムになる。
主観主義・心情主義
主観的心情と客観的現実とを同一視。あるいは、客観的現実を無視。
典型的な形態としては精神論。あきらめず努力すれば必ず夢は叶うという心情(ジャンプ的な少年マンガにも、少女マンガにも共通した心理)。
観念的空想
観念的な空想をもとに話をしてしまう傾向。「あれは??に違いない」「これは??なのではないか」という、根拠の薄い空想や概念操作を前提として議論を展開する。
オタク的な想像力の源泉とも言えるが、現実の問題に適用された場合、「どうせ??だろう」といった非現実的な憶測・陰謀論や、「もしかしたら??かもしれない」といった希望的観測にしかならない。
拗ね者意識、ルサンチマン
オタクがなお社会的弱者であるという現実から引き起こされる心理。潜在的にせよ顕在的にせよ、自分が疎外されているという意識。
こうした疎外感や拗ね者意識はオタク文化が閉鎖的土壌のもとで独自に発展する要因ともなったが、関心が外の現実に向けられた場合、マジョリティ・メインストリーム・既得権益、さらにはほかの社会的弱者に対する引きずり降ろしの心理がはたらく。
また、社会的弱者であることを一種の免罪符としてあらゆる粗暴が肯定され(被抑圧状態の復讐)、ひとしきり気分よく暴れることで欲求不満を一時的に解消しようとする。
「正しさ」信仰による偏向
どこまでも「正しい事実」を追求する態度。オタク文化の創作物のなかには「正しい公式設定」が存在しうるし、作品解釈をめぐってはそうした(しばしば枝葉末節に渡るほどの)「正しさ」が重要な論点となる場合がある。オタクのパラノイア的側面。
しかし、現実世界においては「正しい公式設定」は存在しない。正しい見方、正しい歴史、正しい勢力は存在しない。あらゆることが論争の対象。「正しさ」だけをもって現実を語ることはできない。政府の「公式見解」が時として「正しい事実」に反することには異議を唱えなければならないが、一方でそれが時として「事実上」(de facto)通用するという現実の意味も認めなければならない。現実の複雑で多様な側面に目を配る必要。一方だけの「正しい」主張しか知らないのはいかにも中途半端で偏向している。
中道、無関心への逃避
積極的な主張をするのではなく、むしろ中道や無関心を言うことで、現実の多様性とそこから要請される態度決定を忌避しようとする心理。「人それぞれ」という底なしの相対主義もこの系列。
しかし中道や無関心も歴然とした1つの立場である。これを認識することが肝要。むしろこうした無自覚な中道派や無関心派は、普段から積極的に態度決定する訓練をしていないだけに、イザというとき冷静な判断ができないおそれがある。
議論ずらしと無責任
「ネタ」「ベタ」「メタ」という形で議論のレヴェルをずらす傾向。オタクのスキゾ的側面。
空想や観念の世界に思いをめぐらす議論ならともかく、現実について考える・論じるときにこれをやると、とんでもない無責任な方言、責任回避になる。
とくにネットのような場所では、万人が非常に気軽に意見表明できると同時に、その影響範囲はきわめて広範囲に及ぶ可能性があり、責任は思いのほか重大。他者に責任を転嫁したり、「ネタだから」などとごまかすくらいならば、意見表明などしないほうがよい。
※投稿者としてはこの主張全てに同意するわけではないのだけど(例えば、一口に「オタク」と言っても、北朝鮮への一方的な強硬論や核武装を訴えるような軍オタにはそうそうお目に掛かれない)、こういう傾向は確かにあるかもしれないと感じる。これを見ているオタクの増田諸兄はどう思われるでしょうか。