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2009-02-13

書評: 中村彰彦・山内昌之黒船以降 政治家官僚の条件』(中公文庫

 あまりに面白いので休日に半日を費やして読了した。

単に幕末維新の歴史の知識だけなら、百科事典講釈師のような物知りも沢山いるが、この対談は人物評が現代的で、政治家として官僚としての力量を問う通信簿的な作業でもあり、ことごとくがリアリスティックなのである。

 しかも幕末維新を、本筋を外さないで不思議な逸話で溢れさせ、しかし歴史観の骨髄をしっかり守っている。

 経済視野から薩長会津を比較してみると、京都守護職を越前松平春嶽から押しつけられた会津松平容保は、財政的艱難辛苦に耐えなければならず、藩士1000名の京と駐留経費の捻出は並大抵ではなかった。京都島原遊郭で遊ぶカネがなく、だから会津武士京都人から嫌われ、薩長はすかれた。

なぜか。長州竹島経由で、薩摩沖縄を梃子に「密輸」をやっていて資金が潤沢、最新鋭の軍艦鉄砲も買えた。中村彰彦によれば加賀前田藩も日本海の北と密貿易を展開した銭屋五兵衛を黙認した形跡があるという。

密輸で設けた諸藩の志士らは、経費をちょろまかして島原で遊興もできた。

 本書で両人からコテンパンな酷評を受ける一つは御三家のなかでもイデオロギーの強い水戸藩、天下の副将軍勝手に僭称した水戸光圀は、伝説では「名君」だが、じつはとんでもない御仁だった。

水戸学が、やがて水戸藩を分裂させ、悲惨な内訌が天狗党の悲劇を生んだが、じつはその後も明治三年まで復讐劇が続き、難を逃れて群馬栃木あたりに逃げ、その末裔現在もいるという後日談も、なんだか、西南戦争に負けた西郷軍のうちの1500名ほどが台湾へ逃れ、現地民に同化したという歴史の裏面の話に通じる。

結局、水戸藩の“正義”の史観徳川幕府を毀した。

 

本書は、薩摩長州歴史意識政治構造科学天文学への心構え、軍事思想など似ているようで全く異なることを、これまた目から鱗のように別の視点からえぐり出している。

たとえば坂本龍馬が斡旋した薩長同盟の基軸の発想は公武合体の実現だった。

山内教授は「オーストリアハンガリー二重帝国」の例があるように、天皇を頂き、徳川薩長が二分するアイディア存在を告げる。

イギリスオールコックなどの歴史観世界の情勢から、倒幕に踏み切っていくプロセス西郷大久保坂本邪魔になったという闇の部分にも光を当てる。これは中村がまだ直木賞受賞前にかいた『龍馬伝説を追う』(世界文化社)にも詳しい。

また榎本武陽の「蝦夷共和国」構想も、じつはハプスブルグ家の「オーストリアハンガリー二重帝国」が発想にあった、と示唆する。

 脱線ながら、評者(宮崎)が鹿児島指宿の「伝承館」でみたパリ万博記録展示の或る部分に驚いた。パリ万博薩摩徳川幕府が出展した。薩摩焼など、パリジャンの度肝を抜いた。ともにそれぞれの勲章をつくった。

 薩摩は「薩摩琉球国」として勲章をだした。つまり独立国として、国際社会にアピールしていたわけである。

 もう一人、こっぴどく批判されているのは福沢諭吉だ。

福沢が欧米派遣のおりに経費を誤魔化して図書を買いあげたが、それは小学生程度の英語の本が多く、小栗上野介は「あの男の選択眼は節穴、語学能力はその程度だ」と評した逸話は有名だろう。

福沢は本来なら切腹ものだが、ばれて詮議にかかろうとしたとき徳川幕府が瓦解した。

他方では講釈やら近年の小説の裁き方や世評はともかくも、食えなくなった旧幕臣らの面倒をよくみた勝海舟と榎本武陽への評価が高い。

 

 さて表題も示唆する「黒船来航以後」の話であるが、アメリカロシア日本にとって最初の接触だったのは、幕末の混乱期における日本にとって僥倖であり、もし英仏のような『ならず者国家』が日本に先に乗り込んできたらどうなっていたか。

 シナにしかけたアヘン戦争のような略奪と、国内分裂は防げなかったのではないか。幕府フランス薩摩英国に頼ったが、本気で内戦にのめり込んでいったら、日本は良いように利用されたあげくに英仏の植民地化されていた恐れがあった。

 しかし幕末徳川幕府をさしおいて薩長が最新鋭の武器を大量に買えたのも、その先見性や薩英戦争、馬関戦争敗北の体験から軍事知識と実践があり、おりしも南北戦争が終わって大量の武器をもてあましたアメリカから大量に買い付ける。

 市場開拓を狙うドイツ人武器商人だったスネル兄弟は河井継之助長岡藩にガットリング銃を売りつけたが、会津に強力にテコ入れし、最後は榎本軍に従って函館戦争をともに戦った。

 ドイツはむろん、英仏米露の隙間を狙って日本での武器外交が主眼だった。

 しかし幕府敗戦により、スネルは代金を回収できず、兄はやがて会津武士団の食い詰め組を率いてカリフォルニアに移住したり、弟は御維新後、浅草落語を聞いていたとか。脱線する逸話もまた本質に付随した、人間の描写なのである。

 それにしても幕末維新を縦横に語る中村彰彦は歴史作家だから回天の内幕に詳しいのは当然にしても、なぜイスラム中世専門家である山内昌之が、ときに中村を唸らせるほど幕末日本精通しているのだろう。

 もう一つ不思議に思ってきたことがある。山内昌之教授は、『世界』と『諸君』の両方に論文を書く器用な論客でもあり、保守なのか旧左翼なのか、いまもよく分からないところがある。

 山内がいみじくも「後書き」に書いている。

国際会議で、オスマントルコ帝国解体過程やイスラム政治歴史と、日本近世近代との比較をよく問われる。国際的要請でもある。まして日本史を知らずして世界史を語れる筈があろうか、と。

 最後節あたりの日露戦争から大東亜戦争に至る山内の歴史講釈には、ちょっと首肯できない史観部分があるが、山内教授主観だから、その部分は聞かないことにする。

2009-01-10

 「きのうの世界」を読んでれば「直木賞本命恩田陸」と書けないと思う。バカミス直木賞取れるわけない。

2008-12-24

http://anond.hatelabo.jp/20081224155722

いや,男向けのエロがある本=異性間恋愛の本。

小説だとエロがないのを見つける方が難しくないかなぁ。

そもそも直木賞なんてエロがなきゃ受賞できないんでしょ。

2008-11-29

Re: anond:20081129093133 または伝言ゲーム

http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html

なぜか元の元が消えているのでgoogleキャッシュ

http://72.14.235.132/search?q=cache:http://keiesworks.blog122.fc2.com/blog-entry-255.html&hl=ja

以下、わかりやすく翻訳しても長くて読みにくいのは変わらないので自分の読み取った結論を3行で書くと。

  • モノが違うんだから、原作アニメは違っていて当たり前。売るために同じにしたいみたいだけど。
  • 何を語るか、ではなく、どう語るか、で見るべき。それが今の時代だろうが。
  • 富野村上は全然違う。新房山本はまだ違っているけどやりにくい時代のなか先に進んでいる。見ている側、追いついてるか?

まあ、2ちゃんねるアニメ板界隈ではそれほど新しい主張ではないな、と翻訳しおわってから思ったけど。

では。

原作至上主義」のふたつの定義

  1. 作る側が原作に忠実であろうとすること。
  2. 見る側が原作に忠実であることを期待すること。

問題の提起

まあ、原作至上主義って言ってもいろいろ視点はあるよね。

  1. 原作(マンガとか)とアニメは見た目が違うよ
  2. 見た目が違うのに、原作をそのままアニメコピーなんてできないよ
  3. 見た目が違うのに「同じ作品だよ」と言って商売することが求められているよ
  4. 作る側も「同じ作品にしたいよ」「俺の作品にしたいよ」と言う人がいるよ(他にもいるかも)
  5. 見る側も「作品から生まれた発想を見たいよ」「なるべく忠実に再現してほしいよ」という人がいるよ(他にもいるかも)。

原作至上主義」って、これらの問題が混ざり合って出来てるよね。一応仕事だからこんな話があるのは知っていたけど、正直気にしだしたのは、noir_kかくかたりき改めnoir_kはこう言ったエントリに煽られたから。日だまりスケッチ×365とかかんなぎとかに関して「原作アニメのあいだ」とも呼ぶべきものが問題にされていて興味深かった。世の中わかった気がした偉い人が「統計学的な分析」とか「メディアが違うことを無視した分析」してるけど、この人は誰だかわからない、ってことは別にしてとても興味深いよ。

自分なりにまとめると、id:noir_kが「原作至上主義」について言ってることは、

ていうことだよ。

なので、この人の言いたいことはともかくとして、自分もその流れで「原作至上主義」について考えてみるよ。

批評」が利用する原作アニメの「間(あいだ)」という「ギミック

批評」って、見る側がするものだと思われがちだけど、作る側もするんだよね。作る側の批評というのは、過去アニメ作品とかアニメ以外の作品について、「批判」することなんだけどね。ガンダムエヴァンゲリオンはもちろん、アニメ以外のテレビ番組とか、ネットとか映画作品とかゲームとかコミックとか小説新聞美術作品とか、そのへんを「批判」するってこと。

みんなわかるとおり、今アニメを作る側の「批評」ってこんな感じだよね。

また、この辺が「新房昭之」「山本寛」あたりから始まる、ってのもみんなわかると思う。

まあこのへん「批評的な営み」って言うのかな、これ、

  1. 原作アニメがもの(メディア)として違う
  2. だから、表現としても原作アニメは違ってくる
  3. だから、アニメ原作を忠実に再現することなんか不可能
  4. でも今は原作アニメは同じものとして扱いたい(「横断可能性」)
  5. だから、表現として違うとか再現不可能とかそんな話は忘れる。

という流れを「忠実に反映」してると思うよ。

ちなみに、引用のうち、実写映画の技法、特に画面の構図とか物語の構成とか色合いとか撮り方編集の仕方に関する演出とか、に関するものは、それ出来るところが先にやったもん勝ち、っていう実情があるよ。

今はメディアミックスの時代だから、アニメ作る側も、原作アニメを同じものとして作ることが求められている。でも原作アニメって、片方は印刷したもの、片方は画面で音がついて動くものとして別のものなんだから違うものとして考えようよ、ってid:noir_kが「原作至上主義」に対して言ってることってなかなか良い意見だと思うんだ。

これらは仕掛けとして考えれば同じもので、見る側作る側はこの仕掛けを通じて共犯関係になる。そして「原作アニメが同じものとして作られるものだという空気」が、これらが、なにかを考えて作られたものだな、とみんなに思わせる目印になっている。この目印を越えて、今のアニメの演出が進むことで、アニメを作る側も見る側も、新しい批評が出来るとわたしは思うよ。

物語構造分析(未満)

こう書くと、ストーリーって重要な要素を忘れているのではないか、と言う人もいると思う。ただ、ストーリーって編集という演出の産物なんだよね。で、ストーリーは「ある内容」を「どう語るか」にあるわけだけだけど、「ある内容」ってもともと5から20個くらいのパターンしかないから、そこを評価しても仕方がない。「どう語るか」は批評対象になるかも知れない。ニューヨーク9.11テロを題材にした物語は無数にあるけど、それをどの視点からどのように語るかということが重要だということ。うっとうしく社会学で語ると、これが「批評空間」世代と「東浩紀宇野常寛ゼロ年」世代の差異だということ。後者はおもいきり戦略的に「物語論」へと反動的に回帰しているように思われるし。言い換えると、「表現論」派と「物語論」派がいるよね、ということ。

世代が新しくなってるから、「表現論」派の肩身がきわめて狭くなるのは当たり前だよね。現に、自分は「コードギアス 反逆のルルーシュ」が「表現論」的な演出を自粛した作品だと思っているし、そのあらわれとして「物語論」派から支持を集めることに成功してるし。そして、このアニメ2008年を代表しうるアニメだからね。

アニメーション歴史の忘却

アニメって、他のジャンルと比べても忘れられる度合いが例外的なほどに高いように思う。半年前のアニメさえ鮮明に思い出せないことの方が多い。これは何故だと思う?

それは、異常なまでに「物語」と「登場人物」(声優とか声優演技のしかたも含めて)が似ていて、なんか同じものの繰り返しになっているから。

アニメ以外の、コミックとかゲームはよく知らないんだけど、コミックを例に取ってみようか。まあコミックも簡単なパターンで作られているようにみえる。でも、「美術小説に関して明らかに規範的なテクニックを持っているのにもかかわらず、下手くそな画で馬鹿げた物語を語っている」漫画家が確かに存在しているのね。おまけに、存在しているのみならず人数も多い。

けれども今の時代、経済構造の都合でアニメ業界はそれができない。「原作のないオリジナル作品が作れない」っていう意味ではなく、「オリジナルなものが抑圧される」という意味で。俗っぽい例えだけど、「優れた直木賞」は受け入れられても「中途半端芥川賞」は抑圧されるということなんだよね。だから、ほとんどの作品が忘れられていくのは当然の事態なの。(より正確に言うのなら、「直木賞」と「芥川賞」の差もなくなっているし、アニメ歴史の問題というより、今アニメを作る人が信念を持って「特化」しようとすると、淘汰されるということかな。でも「特化」なんて言えるようになったのが90年代に入ってからのことなので、奇妙なねじれがあるようにみえるんだよね。この「ねじれ」を作家主義が引き受けたこと、そしてインターネット社会が同時的に誕生したこと、これが、「アニメーション歴史におけるヌーヴェルヴァーグ」〈山本寛の談〉と呼ばれる事態なのかな、とわたしは考えるよ。)

原作至上主義」は正しいのか、間違っているのか。

現代のメディアミックス時代における、アニメ作る側の「原作至上主義」、インターネット社会におけるアニメ見る側の「原作至上主義」。

相対主義を標榜するほどナイーブでもないので私見を述べると、どっちも間違ってる。

アニメ作る側がいくら「原作」を「模倣」しようが、メタフィクションパロディ引用自己言及、そして実写の早い者勝ち引用ゲームからは抜けられない。アニメ見る側がいくら「原作アニメはこんなに似てる」と言おうが、根本的にそれは異なるものだから。根本的に違うものなので、いくら似てると言っても意味がない。それとも、類似点を言っていればヘーゲルの時代に戻れるとでも思っているのかしら。

ヘーゲル小説のことを「市民社会ブルジョワ的な叙事詩」と定義した。要するにアニメの場合、「表現論」派に対して、世界の全体像の提示を旨とする「物語」派が復権するということは、奇しくもヘーゲルへの回帰をも意味するということ。言い換えればこれが「市民社会」論・「公共性」論・「安定的な社会秩序」を懐かしむことにつながると言うこと。でも、懐かしがって出来た物語は「秩序の混乱・解体→回復」という説話の構造でしかないし、その物語は「売れる=消費される」社会の現状維持的な肯定。果たして、それでよいの?

富野由悠季村上隆

ひっそりと深夜に放送されるアニメを作るのも見るのもまっぴらごめん、と言う態度は適切だし、ましていい大人、常識的な社会人が、という話なら正しい振る舞いでもある。

ただ、昔の人が反語的に言うような、アニメステータスシンボル(「オタクのしるし」とか)以上の存在価値を持ち得ないという議論は、あまりにも不毛で、杜撰で、素人じみている。富野由悠季まで戦略なしに不意に言うのを聞くと、断固として反論する必要があると最近思っている。そして逆に、圧倒的な「アニメコミック」表現に関する戦略性(プレゼンテーション歴史的な文脈づくり)で欧米諸国を震撼させた村上隆のような現代美術家に対しても、最近では諸手を挙げて肯定することは出来なくなっている。

富野ペシミズムと、ペシミズムの盗用により現代美術世界で名だたる作家となった村上隆

新房昭之山本寛

なんにせよ、この2人が、行き詰まっている現状でぎりぎりの戦略をとっていることは胸を打つ。この固有名詞が、アニメにやってくる。決して2人とも現状を抜け出すことには成功していない。2人ともテクニックはあるけれど、状況を突破するほどの何かを示してはいない。

でも、新房はテーマとの暴力的な遭遇(西尾威信小説アニメ化)によって現状を何とかしようとしており、山本アニメ作りと同時に言論活動を展開することで、自己弁明しながらも新しさを模索しているようかのようにみえる。

そして、まちがってもそれらは、『ef -a tale of melodies.』(※監督大沼心、監修:新房昭之)や『かんなぎ』のような作品で実現されているとは思えない。両者で見るべき点は、妥協および「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽ること」以外にないのではないか。

それから

けれども、「過度な演出によるスペクタルで視聴者の恐怖心を煽る」というとき、その恐怖心こそが、富野村上には見いだせないものであって。

くだらないテーマの指摘とか、原作アニメが違うだとか、ありふれた技法を指摘するだとか、歴史的にあれと似ているとか、そんな指摘は新房や山本が恥じらいながらも表現しようとしているものにまるで追いついていないのよ。

2008-07-24

BLオタが非オタ彼氏にBL世界を軽く紹介するための10作

アニオタが非オタの彼女にアニメ世界を軽く紹介するための10本より改変

まあ、どのくらいの数のBLオタがそういう彼氏をゲットできるかは別にして、

「オタではまったくないんだが、しかし自分のオタ趣味を肯定的に黙認してくれて、

その上で全く知らないBLの世界とはなんなのか、ちょっとだけ好奇心持ってるウホッ

のような、ヲタの都合のいい妄想の中に出てきそうな彼氏に、BLのことを紹介するために

見せるべき10本を選んでみたいのだけれど。

(要は「脱オタクファッションガイド」の正反対版だな。彼氏にBLを布教するのではなく

 相互のコミュニケーションの入口として)

あくまで「入口」なので、時間的に過大な負担を伴う大長編のBLは避けたい。

できれば短編BL、長くても三部作にとどめたい。

あと、いくらBL的に基礎といっても古びを感じすぎるものは避けたい。

古典好きが『モーリス』は外せないと言っても、それはちょっとさすがになあ、と思う。

そういう感じ。

彼氏の設定は

BL知識はいわゆる「少年漫画ゲストゲイキャラ」的なものを除けば、ヤマジュン程度は見ている

サブカル度も低いが、頭はけっこう良い

という条件で。

まずはわたし的に。出した順番は実質的には意味がない。

魚住くんシリーズ榎田尤利)(n)

まあ、いきなりここかよとも思うけれど、「JUNE以前」を濃縮しきっていて、「JUNE以後」を決定づけたという点では

外せないんだよなあ。長さも全5冊だし。

ただ、ここでオタトーク全開にしてしまうと、彼氏との関係が崩れるかも。

この不幸過多な作品について、どれだけさらりと、嫌味にならず濃すぎず、それでいて必要最小限のトキメキ彼氏

伝えられるかということは、オタ側の「真のコミュニケーション能力」試験としてはいいタスクだろうと思う。

箱の中、檻の外(木原音瀬)(n)

アレって典型的な「オタクが考える一般人に受け入れられそうなBL

(そうオタクが思い込んでいるだけ。実際は全然受け入れられない)」そのもの

という意見には半分賛成・半分反対なのだけれど、それを彼氏にぶつけて確かめてみるには

一番よさそうな素材なんじゃないのかな。

「BLオタとしてはこの二つは“小説”としていいと思うんだけど、率直に言ってどう?」って。

三千世界の鴉を殺し津守時生)(n)

ある種のSFBLオタが持ってる宇宙への憧憬と、オタ的な考証へのこだわりを

彼氏に紹介するという意味ではいいなと思うのと、それに加えていかにも津守時生

処女的なださカッコよさ」を体現するルシファー

処女的に好みな女」を体現するライラ

の二人をはじめとして、オタ好きのするキャラ世界にちりばめているのが、紹介してみたい理由。

DEADLOCK(英田サキ)(n)

たぶんこれを見た彼氏は「プリズンブレイクだよね」と言ってくれるかもしれないが、そこが狙いといえば狙い。

この系譜の作品がその後続いていないこと、これが一部では大人気になったこと、

アメリカでの実写テレビドラマにこういうロマンスが挿入されて、それが日本

輸入されてもおかしくはなさそうなのに、日本国内でこういうのがつくられないこと、

なんかを非オタ彼氏と話してみたいかな、という妄想的願望。

タクミくんシリーズ(ごとうしのぶ)(n)

「やっぱりBLは子供のためのものだよね」という話になったときに、そこで選ぶのは「バッテリー」

でもいいのだけれど、そこでこっちを選んだのは、この作品にかけるごとうの思いが好きだから。

発行ペースが落ちに落ちて、15年以上20冊超えっていうスパンが、

どうしてもわたしの心をつかんでしまうのは、その「続ける」ということへの諦めきれなさが

いかにもオタ的だなあと思えてしまうから。

タクミくんの長さをわたし自身は冗長とは思わないし、もう終わらないだろうとは思うけれど、一方でこれが

木原音瀬榎田尤利だったらきっちり1-2冊にしてしまうだろうとも思う。

なのに、初期の2年生のままという設定を捨ててまで15年以上を続けてしまう、というあたり、どうしても

「自分の物語を形作ってきたものが捨てられないオタク」としては、たとえごとうがそういうキャラでなかったとしても、

親近感を禁じ得ない。作品自体の高評価と合わせて、そんなことを彼氏に話してみたい。

嫌な奴(木原音瀬)(n)

今の若年層で嫌な奴読んだことのある人はそんなにいないと思うのだけれど、だから紹介してみたい。

箱・檻よりも前の段階で、木原音瀬哲学とかBL技法とかはこの作品で頂点に達していたとも言えて、

こういうクオリティの作品が新人の作品としてこの時代に流通していたんだよ、というのは、

別にわたし自身がなんらそこに貢献してなくとも、なんとなくBL好きとしては不思議に誇らしいし、

いわゆるダ・ヴィンチBL直木賞でしか木原音瀬を知らない彼氏には見せてあげたいなと思う。

第二ボタン下さい (門地かおり)(c)

門地の「ネタ」あるいは「絵づくり」をオタとして教えたい、というお節介焼きから見せる、ということではなくて。

「終わらない男子高校生を毎日愛でる」的な感覚がオタには共通してあるのかなということを感じていて、

だからこそ『生徒会長忠告!』のスピンオフ第二ボタン下さい以外ではあり得なかったとも思う。

男子学生若さを愛でる」というオタの感覚今日さらに強まっているとするなら、その「オタクの気分」

の源は制服にあったんじゃないか、という、そんな理屈はかけらも口にせずに、

単純に楽しんでもらえるかどうかを見てみたい。

春を抱いていた(新田祐克)(c)

これは地雷だよなあ。地雷が火を噴くか否か、そこのスリルを味わってみたいなあ。

こういう劇画調メロドラマ風味の恋愛をこういうかたちでBL化して、それが非オタに受け入れられるか

気持ち悪さを誘発するか、というのを見てみたい。

純情ロマンチカ中村春菊)(c)

9作まではあっさり決まったんだけど10作目は空白でもいいかな、などと思いつつ、便宜的にロマンチカを選んだ。

魚住から始まってロマンチカで終わるのもそれなりに収まりはいいだろうし、YouTube以降のBL時代の先駆けと

なった作品でもあるし、紹介する価値はあるのだろうけど、もっと他にいい作品がありそうな気もする。

というわけで、わたしのこういう意図にそって、もっといい10作目はこんなのどうよ、というのがあったら

教えてください。

「駄目だこの増田は。わたしがちゃんとしたリストを作ってやる」というのは大歓迎。

こういう試みそのものに関する意見も聞けたら嬉しい。

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オタ女彼氏版が全然ないというので無理して作ってみた。

けど難しい。全然読んだことないのも入っていますので作家さん・作品・ファンに失礼にがあったらどうしようと不安。小説漫画をごちゃ混ぜにしたのでc/nで区別がつくようにしました(参考にする方はいないとは思いますが念のため)。

木原音瀬が2作入っているのは私が好きだからですw サーセン

2008-07-17

風物詩

今年もやって来ましたよ

直木賞芥川賞権威を感じない俺カッコイイ季節

あの人たちはいつだって自己紹介をしたくてたまらないんだなあ

しかも他人のふんどし

2008-07-16

初恋の人は実らない?人気新人作家月島雫が結婚詐欺被害】

何かと世間を騒がせている直木賞受賞の新人作家月島雫が結婚詐欺被害に

あっていることがわかった。19日発売の週刊女性自身に記事がのる。


記事によると、月島雫の中学時代の同級生で自称バイオリン職人(26)が

海外バイオリン制作事業が軌道に乗る。そうしたら結婚したいが、今資金が足りない」

などと、言葉巧みにせまり500万円を騙し取ったという。

その後、連絡を取っても音信不通月島雫自ら海外に足を運び、ようやく詐欺被害に

あったことに気づいたとのこと。


現在警視庁で、詐欺事件として捜査中だが自称バイオリン職人海外に逃亡したと

見られている。


月島雫は

中学高の卒業時にお互い結婚の約束をした。お互いの夢に向かって励まし合ったりもした。

お互いの夢を叶えるために援助を惜しまないつもりだったのに・・・・」

コメント。10年来の初恋が終止符を迎えたようだ。

2008-07-15

芥川賞直木賞って、女性ばっかなイメージだなあ

男が物を書く時代は終わったのかな

2008-06-24

だから「文学」という概念の捉え方が違うのだぜ

なんか色々同情するな。

星新一宮沢賢治教科書に載っているからOKだったかなw

SFにハマった季節が来たときはそんな空想本ばっかり読んでいないで現実の本を読めと怒られた。

文学は空想だろw

増田の言う通りだよ。文学は空想だ。だからSFも当然文学だ。別に、たとえば”SF界の抒情詩人ブラッドベリや、”哲学者フィリップ・K・ディックだけが文学だと言うんじゃなくて、ハインラインだってアシモフだってJPホーガンだって、あるいはオレが中学時代少しエロい興味で読みふけってたバロウズだって(笑)文学だ。ちなみにオレも小学校のときは推理小説が好きだったし、純文学的なものは高校に入るまでほとんど読んだことが無かったな。高校時代には教師のすすめるままに読み狂った。まあ半分も分からなかったが。

…まあ、気の毒に思うのでもう少しサービスする。

今でも人を疑うのは好きではないが、そんなものは実戦経験で嫌でも身につく

「簡単に信用しない」といったのは「批判的(critial)にとらえて理解する」ということだ。「信用しない(distrust)」だけなら子供でもできるだろ。

と言うかその「高校国語」とやらははむしろ歴史部活の役割であって文学とは関係がないのではないか?

歴史」を学ぶことに文学を学ぶことと同じような効果がありうることは理解するが、それは歴史学本来の目的とは違って、単に歴史を「文学を読むように」読んだ結果ではないのか? また、部活動のような合目的的なある程度等質な人間集団で、真に「異質な他者・異文化との出会い」や「自分を遥かに超える思想体系との出会い」が得られるかどうかは難しいな。音楽系の部活動でなら、たとえば過去の偉大な音楽との出会いなどでいくらかそれに近い体験は可能かもしれないが、誰もが使っている「ことば」を媒介にすれば全体に対して正課の授業時間内でそれができるわけだろう。部活(のそういう効果)に意味があるのなら、より低コストにかつ誰にでも体験可能な形で、国語の授業時間内でそれを行うことにはもっと大きな意義があるんじゃないのか。

それに人を楽しませる文章は文学なのか?

時代小説ラノベ歴史書SFファンタジー推理小説は好きだが文学

少なくとも純文学とは言わないだろう

「純」文学というのは、文学の中のものすごく狭い(それも日本限定の特殊な)ジャンルに過ぎないので、その変な教師に教え込まれた変な定義正直忘れた方がいい。実は、増田の受けた教育の中でもっとも有害なのがその頑なな思いこみだと思う。俗に、教え込まれた「内容」よりも自然と学び取る「根本姿勢」こそ教育本質的価値だというが、増田の場合、まさにその「根本姿勢」の部分でバッチリその変な教師の影響を受けている(だから気の毒に感じるのだが)。

再度言うが、上で書いたとおりSFは当然文学だしラノベだって文学に決まってる(疑うなら、どこの大学文学部文学科の適当研究室電話して、気の済むまで聞いてみても良い、以下の内容も含めて)。大体「純文学」などというジャンル分け自体が、過去歴史上のある特殊な「考え方」に過ぎないというのが、現在の一般の評価。純文学新人賞という主旨のはずの芥川賞にしてからが、最近は(大衆文学新人賞という主旨の)直木賞と見分けがつかん、というより正直受賞作は逆じゃねえのか、と言われるようになって久しい今日この頃。だから、生徒に「純文学こそ文学!」とかそういう価値観押しつけてブンガクばかり論じたがる古い文学青年崩れの困った教師に教わった不幸には同情するが、とりあえずそれは忘れて、現代の「文学」観に目を向けるべき。たとえば、今や現代思想をまともに語れないようでは高等学校現代文教師というのはやってられないのだぜ。

その証拠に、昨今の大学入試の「現代文」というのがどういうものを取り扱っているか。小説(それも純文)なんてほとんど出ない。出るのは大抵現代思想関係で、ざっとキーワードを例示してみると「記号・身体・空間・言語論・メディア情報・文化論・芸術論・経済教育日本論・近代主義・心理学倫理学宗教歴史学国民国家テロ文明の衝突ポスコロ」……etcだ。大抵の国語教科書は、これらのテーマに可能な限り触れるようにしてるし、これ以外のマイナーテーマ(たとえば少数民族問題・沖縄差別風景論・都市論・スポーツ時間論・労働高齢化社会etc)を取り扱ってそれをウリにしようとしてる(さらに言えば、気の利いた会社なら、中学校教科書から生徒が自然とこれらのテーマに触れるように仕組んでいたりする)。教師はそれを意識して、生徒の理解力と相談しつつ、何をどのくらいどういうシステムで学ばせるか考えてる。このへん詳しく知りたければ「教養としての大学受験国語」(石原千秋)でも読んでくれ。さらに、小説の読解についても、「この小説テーマはなんでしょう?」なんて寝言を言って漫然と黒板の前でむにゃむにゃと自説を垂れ流してるようでは商売あがったりで、一行一言に込められた含蓄をあの手この手でどのくらい掘り起こせるか、読む作業の中にセンスオブワンダーを感じさせることができるか、たとえばわずか一つの比喩にどのくらいの意味と力が籠もっているかを解き明かせるか……それだけの文学理論の裏付けと力量が必要になる。これ全部「高校国語現代文)」の仕事なのだな。

それに、「学校国語」で扱える領域なんて、実際に大人が出会う「国語文学」の領域全体の広さに比べれば、庭の池みたいなもんだ。雑誌編集後記だってエロ小説だって新聞記事だって漫画だって、「ことば」の介在するコミュニケーションの領域は全てが「文学フィールドだ。その意味での「文学教育というのは、メディアリテラシー教育であり、社会学であり哲学教育であり、知的好奇心の喚起であり、ひいては大学以降のあらゆる高等教育の基礎を為す重要資質(少なくとも読み書きという点だけを取っても)の育成なわけで、これから「知の大海」に漕ぎ出す生徒にとって国語が必修科目であるのは当然すぎるほど当然なことなのだ。

まあそんなわけで、困った「国語教師」との出会いには重々同情するが、「国語」という教科の意義を疑うなら、これらが全部無意味だということを示してくれるか、あるいはそれを全て外の教科で代替する(たとえば論理的思考力の育成なら英語科の授業内で全て行う、とか、ギリシャ哲学に始まり構造主義と記号論に至るまで全て倫理で教えるとか、メディアリテラシー情報で、日本文化論は日本史の教師が、芸術論は芸術の教師が教える、とかしてくれると、かなり楽だが、多分嫌がられるだろう。なぜなら、これらを教えるための大前提としてあらためて『膨大な本を読まなくてはならない』から。だから結局、これらは国語の教師がやれということになってるのではないかと推測する。そんなわけでこれらの提案は余り現実的ではない。やれやれ。)現実的な対案を示して頂く必要があろうと思う。

どうだろう。増田の言ってるような狭い意味での「ブンガク」授業に価値がないということを否定しているのではない。むしろそこに関しては積極的に同意だ。こちらが言ってるのは、あくまで「国語」というのがもっと広い領域を扱っているということ、だからこそ「国語」を否定するのは間違いで、実際にそれは必要とされているのだ、ということなんだよ。

http://anond.hatelabo.jp/20080624192723

2008-06-06

http://anond.hatelabo.jp/20080606002013

おおう、桜庭一樹ファンかあ!

自分もですが、桜庭一樹直木賞取ってほしくなかったので…買わない。

「私の男」で取ったのがいやなんだよう!

砂糖菓子とか別ので取ってほしかった…。

GOSHIC完結するのかなあ…。

2008-05-25

桜庭一樹3部作荒野の恋シリーズが完結するらしいんだが

直木賞受賞後第一作の『荒野(こうや)』は、以前ファミ通文庫で刊行された『荒野の恋第一部』『荒野の恋第二部』の二冊に、第三部を新たに書きおろして、一冊の本にまとめられました。

インタビュースペシャル桜庭一樹『荒野』特設サイト文藝春秋 http://www.bunshun.co.jp/kouya/special/interview.html

ファンとしては無事完結させてくれたというのはありがたい。

でも同時に、ラノベ作家から一般作家へというのが鮮明になり寂しいとも感じる。

で話は変わるのですが、この本はラノベなんですかね?それとも一般書になるんですかね。

以前どなたかがレーベルラノベを判断しているとのことでしたので

一般書になると、内蔵される1部2部はどうなるんでしょう。

私は面白ければラノベであろうがなかろうがどちらもいいです。楽しい本が読めればそれで。

2008-05-19

http://anond.hatelabo.jp/20080519145807

コバルト文庫出身の唯川恵直木賞とったみたいに、

エロゲ作家直木賞をとる日も来るんだろうか。


10年後くらいに。

2008-04-09

http://anond.hatelabo.jp/20080408213747

桜庭一樹GOSICK (富士見ミステリー文庫)なんてどうだろうか。

1巻だけだと微妙なのでとりあえず4巻まで読むのがオススメ。sがついた短編集もあるが、本編含めて発売順に読むほうがよい。

Why done it型だと思う。探偵役の萌え度は相当高い。

うっかり作者が直木賞を取ってしまったばかりに完結しなさそうなのが不安だが。

2007-07-03

北國新聞 2007年7月2日号より転載

北風抄 - ”文学賞批判”を批判する

 『文学賞メッタ斬り! 受賞作はありません編』(大森望豊崎由美著、パルコ出版)は、書名どおり芥川賞直木賞や主要文学賞選考のあり方を”メッタ斬り”する対談であり、ことに、選考委員のお歴々が実はまったく小説を読めていない、批評能力に乏しい─と軽い調子で鼻で笑って斬るところがミソであるようだ。

 そのあたりはまあ読み流すとしても、白山市制定の島清恋愛文学賞にまで鉾先が向けられるとなると、ちょっと黙過しにくくなる。

 「島田清次郎は二十歳のときに書いた『地上』という小説ベストセラーになったばかりに人生を誤ったんですね」との認識も粗雑に過ぎるが、「最後は早発性痴呆現在統合失調症)と診断されて精神病院に収容され、肺結核にかかって三十一歳で死んじゃった。こういう人を記念して恋愛文学賞を創設した白山市はたいへんな勇気があるなと思いました」との発言には大いにひっかかるものがある。

 この「たいへんな勇気」が肯定的な意味で使われているのではないことはもちろんだ。この筆法でゆけば、三島由紀夫賞も、”市ヶ谷自衛隊駐屯地突入日本刀で総監に斬りつけ、割腹して果てた人物を記念して文学賞を創設した”出版社はもっと「たいへんな勇気」があったことになる。

 『メッタ斬り』の対談者は石川県人が島田に寄せる微妙な心情に全く気付いていない。「島田清次郎の悲劇は何がしか石川県人の心を揺さぶるものを秘めている」(水洞幸夫氏)のであり、夢や理想や栄光を求めて東京へ出たものの、空しく挫折した無数の石川県人と島田が重なり、郷関に残った者ともどもシンパシーを呼び起こされるのかもしれない。私などは、この賞の創設を、痛ましい限りの生を余儀なくされた島田の鎮魂として意義深い、と勝手に解釈している。

 『メッタ斬り』の島清恋愛文学賞への批判はそれだけではない。批判の大半は、選考委員のひとりへのかなり激しい誹謗で占められている。名前を秘すのはかえって失礼だから挙げておくが渡辺淳一氏のこと。近代文学の名作をも”メッタ斬り”にした『百年の誤読』でも、豊崎氏は渡辺氏のベストセラー失楽園』をこっぴどくやっつけた。『メッタ斬り』では、同じくベストセラーになった『愛の流刑地』に罵詈讒謗の集中砲火を浴びせている。

 豊崎氏らが『愛の流刑地』を読めないのは勝手だが、だからといって渡辺氏の選考委員としての資質まであげつらうのは行き過ぎも甚だしいと言うべきではないか。失礼千万ではないか。私個人としては、第九回の岩井志麻子氏(『自由戀愛』)、第十回の谷村志穂氏(『海猫』)の受賞など、わが意を得たりとひそかに喜んでいただけに、見当違いの選考委員攻撃には不快を禁じえない。

 『メッタ斬り』が巻末で小説群を百点満点で点数評価しているのも賛成できない。文学作品はこんな評価方法にはなじまないはずだ。文学批評なるものは、褒めようと貶そうと、読者にひとつ読んでみようと思わせるのが”芸”であり、点数評価では”芸”も何もあったものではない。『メッタ斬り』が全編真摯な態度に欠け、先に述べたように当世流行の軽い”ノリ”で批評して見せるのも不快。蟷螂の斧に過ぎない地方からの発言だが、とにかく書いておきたい。

────青山克彌(泉鏡花記念館館長)

2007-04-25

ヲタのための表紙買い入門

いかにもヲタ向けなキャラ造形が苦手なのかな。

キャラよりも、世界観を全面に押し出した展開をしてる作品を読むとハズレが少ないと思う。人気のあるキャラは高い割合で強度ヲタ向けの造形だからライトヲタにはきつい。

表紙買いするなら、『ゼロの使い魔』『ハルヒ』のようなタッチの絵は避けた方が安全。『イリヤ』や『半分の月』のようなタッチイラストが表紙の作品の方が多少無難。あと、キャラクターしか見えない=背景とかがない場合、危険。

判断基準としては心もとないけど、絵師は作品傾向を反映して選定されるのが普通だから、無から選ぶよりはマシ。

ついでにお薦め布教活動なので読み飛ばし可。

甘酸っぱい恋愛が好きなようなので、村山由佳の「おいしいコーヒーのいれ方シリーズ(『キスまでの距離』etc.)とかが合うかも。直木賞作家かなんかだけど、この人も元々はラノベ畑。乙一と同じ。ああ、乙一の『失踪HOLIDAY』『きみにしか聞こえない』辺りも、恋愛は無いけど雰囲気は近い。この辺は一般書とジュブナイルライトノベルの境界線。あとはセカイ系に興味があるなら『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』とかの滝本作品か。

SFな人らしいけどSF好みが分からないので、とりあえず高評価の秋山瑞人から『E.G.コンバット』『鉄コミュニケイション』をお勧め

あとはマイナーでもなんでもないけど、本読みでラノベ初心者って人にお薦めな定番、『キノの旅』か。最近なら『狼と香辛料』もこのライン。

http://anond.hatelabo.jp/20070424222549

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